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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第二章

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37、お兄ちゃん③

 ヴン……と鈍い重低音を響かせて、虚空に紫色の魔方陣が浮かび上がる。


「さて、アリアネル。私はもう行きますが――大人しくしているのですよ」

「うん。ゼルのことを誰かが訪ねて来ても、返事しないよ。ドアも絶対に開けない。窓も、カーテンを閉めて、外からは何も見えないようにする!」

「素晴らしい。必ず守ってくださいね。……部屋の中で、危ないこともしてはいけませんよ?”影”は満足に魔法すら使えません。不測の事態にはとことん弱いのです。大人しく、言うことを聞いて、今日は早くベッドに入るのです」

「はぁい」


 よしよし、と頭を撫でられ、アリアネルは聞き分け良く返事をする。魔王への報告にまでついてきたことで、少しは満足したのかもしれない。


「では、日が暮れるまで待っていてください。……行ってきます」

「行ってらっしゃい!」


 にこっと天使の笑顔で送り出してくれるアリアネルに、口の端に笑みを浮かべながら、ゼルカヴィアは魔方陣の中に消えていく。

 ゼルカヴィアを飲み込んだ後、フッ……と音もなく、あっさりと魔方陣は掻き消えてしまった。


「……はぁ……」


 日がとっぷりと暮れるまで、数刻――その間、アリアネルは一人で過ごすことになる。

 備え付けられているベッドに腰を下ろし、ぼすっと身体を投げ出すように横たえてから、震える吐息を放つ。


「ゼル……ちゃんと、朝には戻ってきてくれるよね……」


 ぎゅっと胸のあたりの衣服を掴んで絞り出すようにつぶやく。

 いつも、毎月訪れるこの時間が大嫌いだ。

 特に、アリアネルが人間であり、魔族とは異なる存在だと知らされてからずっと。

 いつか――いつか、アリアネルを見限って、独りぼっちにされるのではないかという不安が拭えなくて――


「早く帰って来て……」


 我儘を言って困らせたくはない。

 アリアネルが『役に立つ』と思えないと、ゼルカヴィアも魔王も、彼女を傍においてはくれないだろう。


「天界にも、人間界にも……行きたくないよ……」


 ほろり、と我慢していたはずの涙が一粒、目尻からこぼれた。

 今日の、魔王の刺すような視線を思い出す。

 まだ、魔王には『役に立つ』と思ってもらえていないことを痛感した瞬間だった。

 きっと、今はまだ、失っても何の痛みもない、どうでもいい路傍の石。その程度の認識なのだ。


「パパも、ゼルも……大好き、なのに……」


 自分が心から慕い、慕われたいと願う相手に、同じだけの熱量で愛してもらえないことが、どれほど不安で辛いことか――アリアネルは、その小さな胸を痛めてほろほろと涙を流す。


 すると、コンコンと控えめに扉がノックされる音が響いた。


「ゼルカヴィア様。ロォヌです。夕食の準備が整いました」

「ぁっ……う、うん!すぐに行く!」


 ササッと涙を拭ってから、アリアネルは小走りで扉へと駆けていく。


「……おや。アリアネル一人ですか?ゼルカヴィア様は――」

「お仕事だって言って、出かけちゃった。お留守番、してて、って」


 ドキドキしながら、嘘ではない言葉を返す。ゼルカヴィアにも、嘘は下手くそだから無理に吐こうとするなと言われたことがあった。


「そうでしたか。……食事は、こちらにお持ちしますか?」

「う、ううん!独りで食べるの、寂しいから……今日は、ロォヌの調理場で食べてもいい?一緒に、おしゃべりしながら食べてほしいな」

「まぁ……!勿論、良いですよ」


 にこり、と爬虫類特有の瞬きをしながら目尻を蕩けさせるロォヌもまた、アリアネルの天使のような愛らしさに絆された魔族の一人だ。

 まるきり疑われていない様子に、ほっとアリアネルは隠れて安堵する。

 部屋で独りで食事をとってもいいが、いつ、”影”が送り返されてくるか、わからない。運悪く食器を下げに来たロォヌと"影"が鉢合わせては厄介だ。

 いつも、ゼルカヴィアが出かけてからたっぷり数刻は帰ってこないため、食事の時間くらいは大丈夫だと思うが、危ない橋を渡る必要はない。今日、魔王にしっかりと釘を刺されたこともあり、アリアネルは用心に用心を重ねることにした。


 そして何より――今日はなんだか、あまり独りでいたくない。


「今日のご飯は、なに?」

「今日は、入ったばかりのパンム茸を使った肉料理です。足が早い食材なのですが、旬の時期はとても美味しいんですよ」

「そうなんだ!」

「野菜も入っていますが、細かく刻んだので、苦いものでも気にならないと思います」

「えへへ……いつもありがとう、ロォヌ!」

「いえ。私は、アリアネルのために作られた、アリアネルのための魔族ですから」


 礼を言いながら、するっと自然に手を繋いでくる幼子に、蕩ける笑みを返す。

 すると、廊下の奥から見慣れた赤髪の魔族が現れた。


「ぉ?アリィ、どうした?風呂にはまだ早いぞ」

「あ、オゥゾ。今からアリィ、ご飯なの。今日は、ロォヌと一緒に食べるんだ」

「なにぃ!?」


 ロォヌと繋いでいるのとは別の手を振りながら赤髪の男に笑顔で答えると、青年は足を止め、目を剥いて驚く。


「それ、魔族でも食べられるのか!?」

「え……う、うん。ロォヌは、いつも食べてるよ」


 威圧感の強い上級魔族に声を大きくされて、中級魔族のロォヌは恐怖したのだろうか。ひっ……と息を飲む音が聞こえたので、慌ててアリアネルが答える。


「味見とか……アリィが一緒に食べよ、って言ったときとか。あれ、これってロォヌだけの特別なのかな……?」

「さ、さぁ……私も、食べられはしますが、人間のようにエネルギーになることはありません。ですが、どういう仕組みなのかはわかりかねますが、瘴気と同じく体内で分解されます」

「そうなんだ」


 言われて納得する。

 アリアネルが来る前から、城には厠があったのだ。魔族も、瘴気を食べれば体内で分解する器官があるということだろう。

 それと同じ器官で分解されているのかまではわからないが、ロォヌの体内では問題がないらしい。


「俺も食べてみたい!いいか!?」

「えっ、えぇ……!?」


 上級魔族からの予期せぬ申し出に、ロォヌはオロオロと戸惑い、何度も縦に瞼を閉じる。


「アリィが何食ったらこんないい匂いになるのか、ずっと気になってたんだ。いいだろ!?」

「オゥゾ……お腹痛くなっても知らないよ?」

「アリィのためなら、それくらい全然平気だ!」


 ビシッと力強く親指を立てる姿は、頼もしいが呆れる。


「ロォヌ……いい?」

「も、もちろん……」


 額に汗をかいているところを見ると、普段の冷酷で威圧的なオゥゾの印象が強いのだろう。

 少女の前でしか見せないオゥゾの一面を知って混乱しているに違いないが、その分、恐怖から拒絶されることはなかったことにアリアネルはホッとする。


「じゃあ、一緒に行こう、オゥゾ」

「おう!」


 ニカッと白い歯を見せて人懐っこく笑う青年は、とても上機嫌だ。


「今日、ゼルカヴィアさんはいないのか?」

「う、うん。お仕事で、しばらく外に行くって。アリィはお留守番なの」

「そっか。――じゃあ、抱っこし放題、匂い嗅ぎ放題ってことだな!」

「え?――ひゃぁ!?」


 言うが早いが、ひょいっとアリアネルを片手で抱き上げると、首筋に顔をうずめてクンクンと臭いを嗅ぐ。


「あ~~~!昼間のちょっと汗かいた匂いも堪らなかったし、風呂上がりの石鹸の匂いのも最高だけど、この匂いも滾るな……!」

「たぎっ――!?あ、ああああああアリアネル、大丈夫ですか!?」


 ざぁっと一瞬で顔を青ざめさせたロォヌは、少女の身に危険が迫っているのではと狼狽する。


「あははっ!いつものことだから大丈夫だよ!オゥゾは、アリィの匂いが大好きなの」

「そう。大好きなんだ」

「そっ……そそそそれは、いつものこと、で流してしまって良いのでしょうか……!?」


 真顔でキリッと言い放つ変態に、自分より位が上の魔族とはいえ、本当に大丈夫かと疑いたくなる。

 立ち向かったところで、指先一つで消し炭にされることはわかっているが、いざとなったらゼルカヴィアが不在の今、少女を護れるのは自分しかいない――と、ロォヌは身を呈して少女を守ることを覚悟したのだった。


 ◆◆◆


「うん!うまいな、これ!腹が膨れる感覚はねぇけど、瘴気を喰ったときとはまた違った感覚だ!」


 アリアネルを膝に座らせて、少女から肉料理を分けてもらったオゥゾは感心したように言う。


(な、なんでしょう……魔族の概念に、子供と大人という概念はないはずなのに――何故か、倫理に悖る絵面な気がします……!)


 腹が減っているわけではないオゥゾの食事の目的は、いうなれば味見だ。普段アリアネルがどんなものを食しているのかを興味本位で知りたい、というだけだろう。

 だから、量を食べる必要はない。――これは、理解できる。

 一口食べられれば十分。――これも、理解できる。

 故に、アリアネルの皿から一口分けてもらうだけでいい。――これもまぁ、なんとか理解できる。


 だが――幼女を膝に座らせて、フォークから「あーん」をしてもらって食べて喜ぶ、という図は、ロォヌの本能的な警鐘を鳴らさせた。


「こっちはデザートだよ」

「でざーと?」

「ご飯の後に食べる、お菓子じゃない甘いもの。フルーツが多いよ」

「ほぉん……じゃ、それはアリィが全部食べろ」

「いいの?」


 食べさせようとフォークに突き刺した果物を手に振り返ろうとしていたアリアネルは目を瞬く。


「勿論。お前の甘い匂いは甘い食べ物で出来てるんだろ。んじゃ、甘いもんはいっぱい食べろ」


 ぎゅっと後ろから小さな体を抱きしめて、くんくん、と頭皮の匂いを堪能しながら言うオゥゾに、ロォヌは意を決して口を開いた。


「あ、あの……オゥゾ様。アリアネルも、デザートはゆっくりと食べたいと思うので――」

「おぅ。俺はもう十分だから、思う存分、たんと食え~」


 ロォヌの控えめな進言を気に留めることなく、ニカッと笑いながらぐりぐりと頭を撫でて言うオゥゾは、アリアネルを膝から降ろすという発想はないようだった。ふんふんとアイボリーの艶やかな髪に鼻をうずめながら上機嫌に臭いを嗅いでいる。

 当のアリアネルも、緊張感はなく、くすぐったそうに笑いながら食事に戻ろうとするから、ロォヌはハラハラしっぱなしだ。


(な、なんでしょう……!理由はわかりませんが、とにかく、ゼルカヴィア様がこの光景を見たら、とんでもなく怒り狂いそうな予感だけがあります……!)


 ロォヌとて、命は惜しい。

 今ここで、オゥゾに食って掛かって変に機嫌を損ねれば、一瞬で消し炭コースだ。

 だが――ここで見て見ぬふりをして、万が一後からゼルカヴィアにことが露見すれば――それはそれで、自分の処断がどうなるのか、予想もつかなくて怖い。


「あ、ああああああの、ですね――!」


 なけなしの勇気を振り絞って、上級魔族に意見しようとしたところで――


「……こんな時間に喧しい。何の騒ぎだ」

「「――――っっ!!!?」」


 瞬間、ピシャッ――と部屋に雷が落ちたかのように、魔族二人の背筋が震え、顔が青ざめる。

 顔を顰めて、不愉快そうな声を上げながら部屋の扉を開けたのは――この魔界における、最高権力者だった。



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