349、エピローグ②
眩い光がはじけると、世界に時間が戻って来る。
「パパ!!!」「魔王様!!!」
時が戻った途端に飛んだ叫びは、魔王の子供らのものだった。
しかし、瞬き一瞬の間に、激変した目の前の世界に二人は言葉を失う。
魔王と今にも剣を交える寸前だった憎い正天使は、物言わぬ肉塊となって地面に崩れ落ちており、瞬きをする直前まではどこにもいなかったはずの治天使が、長い錫杖を持ったまま今にもどこかに飛び立とうとしていたからだ。
そして――
「パパ――どこ!?」
アリアネルはシグルトともに鎖に拘束されて地面に転がされた体制のまま、必死にきょろきょろと周囲を見回す。
這いつくばった視界の中に、魔王の姿はどこにもない。地面に転がっているため、あの長身を見つけるのは難儀だが、ファザコンを拗らせているアリアネルは、靴の先だけでも見つけられれば、それが父かどうかわかる自信があった。
正天使がなぜか死亡しているからには、魔王は無事――だと、信じたい。だが、治天使がやって来て魔王に害をなした可能性もある。
無事な姿を確認するまで安心は出来ず、アリアネルは涙に濡れた声で必死に呼びかける。
「パパ――パパ!!!」
「あ、アリィ……」
アリアネルの上に乗るような形で一緒に縛られているシグルトが、戸惑うような声を出す。
声が震えているのは、魔王に吹き飛ばされた際の身体の痛みではない理由だった。
「ごめん、ちょっと、俺……今、頭が、ついていってないんだけど……」
「え!?ごめんシグルト、今それどころじゃな――」
「――――フン」
呆れたように鼻を鳴らす聞きなれた声が耳に届き、ぱぁっとアリアネルの顔が輝く。
それは、大好きな父親の癖。
視界に足は見えないが、きっと、死角にいるのだろう。
「小童の癖に、近すぎる。――離れろ」
酷く不愉快そうな声が頭上から降って来た――と思った途端、魔力の波動が身体を包み、シグルトとアリアネルを拘束していた漆黒の鎖が一瞬で霧散する。
「パパ――!」
重い鎧をもろともせず、アリアネルは上にいたシグルトを跳ね除けるようにして即座に身体を起こし、声の方を振り仰ぎ――
「――――へ――……」
言葉もなく、固まった。
造物主の魔法は解けたというのに、石像のように固まったアリアネルの耳に、バサッ……とどこか優雅さを感じる羽音が響く。
アリアネルが振り仰いだ先、宙に浮かんでいたのは――見たことがない天使だった。
――いや、違う。
見覚えは、ある。
(――え……?ナニコレ、夢……?パパが大好きすぎて、何億回も妄想したせいで、夢と現実が区別付かなくなった……?)
シグルトが困惑した声を上げていたのは、この天使のせいだろう。
ぽかん、と口を間抜けに開いたまま、思わず、頬をつねってしまう。
――――痛い。
「何を呆けた顔をしている。さっさと立ち上がれ」
「ゎっ――」
天使に躊躇することなく腕を引っ張られ、アリアネルはつんのめるようにしながら立ち上がった。
「怪我はないか」
「う、うん……って、いうか、え……っと……」
ぐるぐると思考がまとまらない頭で、目の前に現れた暴力的なまでの美貌を晒す天使を凝視し、思ったことをそのまま口にする。
「ぱ……パパ……なの……?」
「いかにも、そうだが」
何を当たり前のことを、とでも言いたそうな顔で、美貌の天使は呆れたように返す。
聞き覚えしかないうっとりする美声に、ぽかん……とアリアネルはこれ以上ない阿呆面を晒した。
「え……え……???だって……えぇ???ぱ、パパ……は、羽、あるよ?」
「そうだな」
「服も……真っ白で、天使みたいで……露出すごい……」
「元の服では、構造的に翼が出せない。造物主が気を利かせたのだろう」
『聖なる乙女の塔』の屋上に据えられた彫像を思い出させるような外見の天使は、つまらなさそうに鼻を鳴らす。
その仕草は、まぎれもなく、アリアネルが世界で一番大好きなパパのものだった。
(造物主が気を利かせた……って……造物主が何かして、パパが、また天使になったってこと……?)
詳しい事情はわからない。だが、それでも、アリアネルにとって重要なのは、そんなことではなかった。
「っ~~~~!パパ!!!!」
感極まったアリアネルは、全力でいつものごとく、体当たりするように長身の父に抱き付く。
魔王は危なげなくいつも通りにその身体を支えた。
大好きな父が、五体満足で、目の前にいてくれる――それだけが、アリアネルにとっては、何よりも大切な事だった。
「パパ!大好き!!!」
「フン……お前はいつもそれだな。他に言うことはないのか」
「世界で一番大好き!あと――天使姿のパパも、すっごい、すっごい、格好いい!!大好き!」
言いながら、いつものように魔王の頬に口付ける。
相変わらずの娘の様子に、魔王は嘆息しながらも、優しく身体を抱きしめたままぽんぽん、と頭を撫でてやった。
「ま……魔王、様……?」
弱々しい声が、戸惑うように響く。
「あっ!ゼル!!」
「無事か」
平常運転の二人を前に、ゼルカヴィアは負傷しているらしい片腕を庇いながら、何とも言えない微妙な顔を向けた。
「怪我を見せろ。治療する」
「いや、あの」
「ゼル、無理しちゃだめだよ。パパにしっかり治してもらって」
「いえあの……アリアネル………流石にもう少し、動揺したり警戒したりしてください……」
平然と状況を受け止めているアリアネルの危機感の無さに呆れながら、ゼルカヴィアはまじまじと腕を魔法で治癒する父の顔を見た。
「本当に、魔王様、なのですか……?」
「翼が生えて服が変わっただけで、一万年見続けた父親の顔もわからなくなったか」
「いや、”だけ”ってことはないでしょう……えっと……状況説明を求めたいのですが……とりあえず、貴方を魔王様と呼び続けても良いのですか?」
「お前に限っては父と呼べと言った」
「いやそういう話じゃなく……!」
いつもよりも数段気安いやり取りを交わす二人を交互に見て、アリアネルは混乱する。
彼女が知っている情報とは全く異なる話が飛び交っているのは気のせいだろうか。
「え?え??……ぇえ???ど、どういうこと??」
「あぁ……貴女には、魔界に帰ってから説明しますよ」
ゼルカヴィアと魔王が血のつながった親子であることを、アリアネルは知らない。魔界に帰ってから、さぞ驚かれ、質問攻めにあうだろうと覚悟しながら、ゼルカヴィアはそれよりももっと明らかにしたい事実に向き合うことにした。
「天使、に戻られたのですか?」
「戻った、というより、造物主によって天使の役割も付与された、というのが正しい。魔王としての責務を剥奪されたわけではない。どちらもこなせと、無茶ぶりをされた」
「ですが、その外見は……身体の組成が天使になった、ということですか?では、魔界の瘴気は猛毒なのでは――」
「いや。そうではないらしい。もし瘴気を毒と感じる組成なら、これだけ負の感情が渦巻く王都で、息苦しさを感じずにはいられないだろう。魔王のころと変わらず呼吸が出来ているということは、環境に合わせて身体は上手く順応すると思われる。魔界に帰っても、いつも通りだろう」
「は、はぁ……」
魔王の生涯を振り返れば、魔界で暮らした時間よりも、命天使として過ごした時間の方が長い。彼にとっては、翼があることも、天使らしい薄着の装いも、久しぶりではあっても慣れ親しんだ物だろうが、ゼルカヴィアは生まれて初めて見る姿だ。
何となく状況は理解したが、外見だけなら、ついさっきまで憎き仇敵として対峙していた天使としか思えない男を、魔王として戴けと言われても、感情が追いつかない。
「天使として顕現するには一定の聖気が必要だ。魔界では、翼は消えるだろう」
「本当ですか?」
「おそらく、な。魔界の城は、翼がある状態での生活を想定して造られていない。消えないと困る」
「は、はぁ……」
どうやら、天界の住居事情と魔界の住居事情は違うようだ。確かに、こんなに大きな翼をもっていては、生活のしやすさが全く違うはずだ。
「酷く懐かしい感覚だが、違和感はない。不都合があるとすれば――少々眩しい、ことくらいか」
「……?――あぁ、なるほど」
「え?何、何?私が、どうかした?」
ふいっとアリアネルの方に視線を投げて眼を眇める魔王に、ゼルカヴィアは一瞬眉根を寄せたあと、すぐに納得する。
天使としての能力が戻っているならば、魂の輝きを光として見ることが出来るのだろう。
天界にいても見つけられると言われたアリアネルの魂の輝きは、それはそれは鮮烈な光を放っているに違いない。
「リアと出逢ったころを思い出すな。あのときも、慣れるまでは直視するのも難しい眩しさだった」
ぎゅっと眉間に皺を寄せて目頭をこする。本当に眩しいらしい。
「えっと……いろいろ、わかんないこと、いっぱいあるけど――とにかく、パパは魔界に帰って、また一緒に暮らせるってことで、いい?」
「あぁ」
「そっか。じゃあ、難しい話とかは魔界に着いてから聞くとして――早く、帰ろう!」
アリアネルが嬉しそうにぱぁっと笑うと、輝きが増して、思わず魔王は光源から視線を逸らす。
アリアネルと共に過ごすには、天使としての身体は不便と言わざるを得なかった。
「パパもゼルも、無事でよかった。皆、大好きだよ!」
正天使の”寵愛”で行動が制限されていたのが嘘のように、いつも通りのアリアネルの笑顔に毒気が抜かれる。
ゼルカヴィアは周囲の魔族に伝言を飛ばし、退却指示をしているらしい。
魔王は、魔界へと続く転移門を開こうとして、ふと思いとどまった。
「……寵愛――……」
「ん?パパ、何か言った?」
竜胆の瞳が、天使姿の父を見上げる。
何かを考えていたらしい魔王は、すっとアリアネルへと手を伸ばした。
そのまま、躊躇うことなく少女の額にかかる前髪を持ち上げる。
「何?どうし――」
アリアネルは驚き、言葉を途中で途切れさせる。
魔王は涼しい顔で、露出させた少女の小さな額に、そっと唇を寄せた。
「――!!!?????」
アリアネルは、いきなりの出来事に目を白黒させ、顔を茹で蛸よりも赤く染め上げた。
「パッ――ぱぱぱパパ!!?ちゅっ……ちゅー、した!!?ちゅー、した!!?」
大好きな人に『大好き』を伝える手段だと教わったそれを、父が自分にしてくれることが信じられなくて、アリアネルは混乱しながら問いかける。
戦闘中にしてくれたキスは、てっきり、自分を正気に戻すため――記憶を引っ張り出させるためのことだと思っていたのに。
「――”寵愛”だ」
「へっ……!?」
魔王は、間抜けな顔を晒している娘に、ふっと笑って告げる。
それは、酷く穏やかな――魔王が”家族”にだけ見せる、優しい笑顔。
初めて見る魔王の表情に、ドキン、とアリアネルの心臓が大きく飛び跳ねた。
「正天使の死と共に、お前に掛けられていた寵愛の効力は消えた。元の効力が消えれば、加護や寵愛は上書きが出来る。そして、今の俺は天使の力を持っている。……『ずっと、ずっと、一緒にいたい』んだろう?」
「ぇ――ぁ――――!!!」
苦笑するように言われた言葉の意味を理解し、アリアネルはゆっくりと頬を紅潮させていく。
いつか、戯れに、魔王に尋ねたことがあった。
『私が十五歳を過ぎて――もし、パパにキスしてもらったら、私、パパの眷属になれる?』
人間であるアリアネルは、どんなに頑張っても、魔王やゼルカヴィアと同じ時間を生きることが出来ない。
思い付きと共に質問をしたときは、天使の能力を失ってしまった魔王には叶えられないとあっさり言われてしまったが――
「っ……パパぁ……!」
「また泣くのか。今日のお前は、泣いてばかりだな」
「ひっく……パパ、大好き……!ずっと、ずっと、ずぅーーーーっと、一緒にいるからね!」
再び抱き付いてきたアリアネルを優しい眼差しで支えて、魔王は瞬き一つで転移門を開くと、紫色の魔方陣の中へと消えていく。
「な……何、が……どう、なって……んだ……?」
最後の最後まで、全く状況を理解することが出来ず、威圧に圧倒されたまま立ち上がることも出来なかったシグルトは、ぽかん……と虚空に消えた魔方陣の跡を眺めるしかできなかったのだった。
この後、おまけの後日談があります。




