347、最終決戦⑩
魔王の脳裏に、これまでの悠久にも似た記憶が流れる。
楽園と呼ぶに相応しい天界――まだ、自分以外の天使が存在しなかった昔、造物主と二人で箱庭を眺め、他愛のない会話を繰り広げた日々。
狂気に捉われ始めた造物主の、背筋が寒くなる”愛”に反発した日々。
唯一自分を理解する無二の親友と暮らした日々と――その命を己の手で奪った日。
目が眩むような魂を持つ少女との、彩溢れる穏やかな日々。
血を分けた息子と、愛する女と、”家族”として過ごした幸せな日々。
愛する者を失い、もう一人の家族まで失うことは出来ないと、父の身を案じる息子に背を向けて、世界を敵に全てに抗った日々。
記憶を失い、再び訪れた白黒の日々と――ある日突然現れた、魔界の太陽。
長い長い時の中、愛と呼ばれる感情を向けられたことも、愛と呼べる感情を向けたこともある。
だが、そのどれもが――
「造物主から向けられる愛と、リアから向けられる愛とは違う。リアに抱いた愛と、ゼルやアリィに向ける愛は、異なる。同じものは、何一つとしてない。正天使と違い、俺は、自分の経験則から、これこそが真の”愛”だと導き出すことが出来ない」
一万年前、リアに抱いた感情も、子供たちに抱く感情も――受け入れることは出来なかった、かつての造物主からの”愛”も。
それらを紛い物だと断じることは、誰にも出来ない。
「愛に形はない。正解もない。造物主がかつて俺に向けた愛も、今、正天使が口にした愛も、本人が”愛”だというなら、そうなのだろう。正解がない以上、それは間違っていると否定することは、俺には出来ない」
《……それが、答えか?もしもそれがお前が出した答えだとしたら、正直、失望したと言わざるを得ないな。詭弁を弄して、答えを避けているようにしか思えない》
「答えを避けようとしているわけではない。……ただ、お前たちが口にするそれを、頭ごなしに否定したくはない、と伝えたかっただけだ」
魔王は性急な造物主を嗜めるように口にして、頭を巡らせる。
全てが”愛”だと認める前提に立った時、性質の違うそれらを、造物主の問いへの答えとしてどのように表現すべきか―ー明確な言葉を持たない魔王は、ゆっくりと過去を振り返りながら、それらの共通点を見出すために考えた。
「何か、共通点があるとすれば――相手の幸せを、願う気持ち、だろうか」
《幸せ……?》
「そうだ。実際に、相手を幸せに出来るかできないかは、関係ない。ただ、根底に相手の幸せを願う気持ちがあれば、それは、愛と言って良いのではないかと、思う」
造物主も、正天使も。
歪で、理解がしがたい狂気をはらむその感情は、それでも最後、相手を想う気持ちがあった。
「ただ、俺が大切にしたいと思う”愛”は――そこに、自己犠牲の精神は孕まない。愛する相手の”幸せ”は、きっと、自分もまた幸せになってこそ、叶えられるものだからだ」
正天使が口にした、自分の全てを擲ち捧げる愛――己を犠牲にしてまで相手に尽くす愛は、一見高尚に思える。
だがそれは、遺された者のことを考えぬ、身勝手な愛だと、魔王は考えていた。
《ほう。だが、命天使――いや、魔王よ。”無償の愛”とは、見返りを求めぬ愛のことを指す。お前が愛したかつての女も、今、そこで涙を流しお前の身を案じる娘も、お前への”愛”を口にするとき、見返りを何一つ求めなかった。まさに、無償の愛だ。それは、自己犠牲を伴う愛と、何が違う?》
造物主の反証に、魔王は静かに瞳を閉じ、遠くなった過去に思いを馳せる。
確かに、二人の”アリアネル”という名を持つ少女は、魔王への愛を語る時、その見返りを求めることはなかった。
魔王が誰を愛そうと、愛していなかろうと、構わない。魔王が、彼女らに、彼女ら自身のことを好きになってほしい、などと求められたことはない。
「確かにあの二人は、俺からの愛を見返りとして求めることはなかった。だが――己の幸せすらどうでもよいと擲つ、という自己犠牲の発想は、無かったはずだ。彼女らにとっての”幸せ”は――『家族』と慕う存在と、己の命が尽きるその日まで、共にあり続けることだったのだから」
かつて、アリアネルを試すように、記憶を消して追放すると告げたときのことを思い出す。
アリアネルは、似合わない涙をいっぱいに湛えた瞳で、必死に言葉を紡いだ。
『私にとって、世界で一番大事なのは、”家族”だよ。パパと、ゼルと、お兄ちゃんなの。世界一大好きな”家族”と一緒にいられるなら、私は、他のものは何もいらないの』
ゼルカヴィアの服を縋るように握りながら、彼女の”幸せ”と望みを説いていた姿は、今も昨日のことのように思い出せる。
『人間の私が、パパやゼルと一緒にいられるのは、限られた時間だってわかってる。だから――せめて最期まで、ずっと、長く、永く、一番傍に居たいんだよ』
そう――二人のアリアネルが、魔王の愛情を見返りとして求めなかった理由の一つは――
「二人とも、俺と違う時を生きることを、受け入れていた。先に命尽きるのは自分だと理解し、そのわずかな時間で出来ることの限界を、知っていた。愛する相手と共にいられる時間が有限であるからこそ、少しでも長く傍にいたいと願った。それこそが、彼女らの”幸せ”であり――それを手放すことを、必死に拒んだ」
純潔を失ったリアは、永遠を生きられぬと知ってなお、魔王と共に魔界で暮らすことを望んだ。人間界で暮らす道をあっさりと自分で捨て去り、陽の差さない陰鬱な、心を和ませる自然も動物もいない殺風景な世界を選んだ。
大好きな自然よりも、動物よりも――魔王と共に生きることが、彼女にとっては、失い難い”幸せ”の要素だったからだ。
「擲つことなどしない。二人とも、自分たちの”幸せ”には貪欲だった。――ただ、その”幸せ”には、愛情を注ぐ”家族”の”幸せ”も含まれていただけだ」
耳の奥で蘇るのは、かつて愛した女が溢した本音。
『ちゃんと、残してあげたいのよ。いつの日か、必ずいなくなってしまう私の代わりに――あの人が心から愛せる、愛しい存在を』
リアが、ゼルカヴィアを生みたいと思ったのは、己のためではなく、魔王のためだった。
魔王の時間軸からすれば刹那の時しか傍にいられない自分の代わりに――自分が死んだ後も、ずっと彼に寄り添い、彼の”幸せ”の一助となってくれるだろう存在を残したかったのだ。
リアが死ねば、魔王は再び彩が亡くなった世界で、心を凍てつかせて生きていくことは想像に難くなかった。
そんな未来が愛しい相手に訪れることは、リアにとって、”幸せ”ではなかった。
だから、望んだのだ。
――自分の死後、最愛の男を”幸せ”に導いてくれる存在を。
「自分も、相手も、幸せになる道を模索しようとする――そんな”愛”を、俺は大切にしたいと思う。だから俺は、今、愛する子供たちを残して死ぬわけにはいかない」
そっと瞼を開いた魔王の声は、揺るがない強さを持っていた。
その瞳にはもう、怒りも、恨みも、存在しない。
ただ、来るべき未来を見据えて、覚悟を決めた男がいるだけだった。
「俺の幸せは、子供たちの幸せ無しでは成り立たない。だが今俺が死に、正天使が生き残れば、子供たちに危害が及ぶだろう。俺は、俺の死後も子供たちが安心して笑って暮らせる世界であると確信できるまで、死ぬわけにはいかない」
「ハッ……じゃあ、約束してあげるよ。君が死ねば、子供たちには手を出さない。――どうだい?これなら、心置きなく死ねるだろう?」
目の前の正天使が茶々を入れるが、魔王は首を振ってそれを拒否した。
「仮に二人の命が助かるとしても、俺が死ねば、子供たちは悲しみに暮れるだろう。天使への怒りと恨みを募らせる。太陽の下が似合う子供が、涙と哀しみに沈み、魂を陰らせて誰かを恨むのは見たくない。何より、ゼルには――二度も、目の前で肉親を殺される光景を見せるわけにはいかない」
リアが死んでから一万年――孤独に耐え続けてきたゼルカヴィアを、これ以上苦しませたくはない。
「それが俺のエゴだというなら、そうかもしれない。俺は、他の誰のためでもない。――俺自身のために、俺の子供らを不幸にしたくはない。子供らの不幸は、俺の不幸だ。――己の死後まで俺の幸せを願ってくれたものたちの愛に応えるためにも、俺は、簡単に己を擲つわけにはいかない」
魔王は言葉を発することなくただ黙って聞いている錫杖の光を見上げ、強い口調で言い切った。
「”愛”とは何か――万物に共通するような、普遍的な答えを、俺は持っていない。だが、俺個人が抱く愛とは、こういうものだ。これが、数万年の時を生きて出した答えだ」
しばらく、沈黙が続く。
永遠にも感じられるほどの長考で二人の問答を反芻した後、カッと錫杖が再び光を放った。
《答えを出そう。今後の未来を託すべき存在は――――魔王。お前だ》




