344、最終決戦⑦
「っ――パパ――!」
わっと声を上げて泣き出す泣き方は、魔王が良く知るアリアネルだった。
行動は縛れても、感情は操ることが出来ない。正天使の”寵愛”の制約を、アリアネルの感情が上回った証拠だ。
「やだ――もうやだよ――!ゼルと、パパと、みんなでおうちに帰りたい――!」
武器をその場に取り落とし、幼子のように泣きじゃくりながら、アリアネルは心根をそのまま魔王にぶつける。
記憶が戻り、感情が行動を凌駕して発露するようになれば、”寵愛”による命令は通りにくくなる。この状態であれば、封天使の魔法で身体を拘束しても、己の身体の状態も顧みずに盲目に敵へと突進する狂戦士は生まれないだろう。
「すぐに日常を取り戻してやる。しばらく窮屈な思いをさせるが、大人しく――」
魔王がしゃくりあげるアリアネルの額の上へと手をかざし、魔法を展開しようとした、その時だった。
「っ――魔王様!」
遠くから、ゼルカヴィアの焦った声が鳴り響く。
尋常ではない焦燥を含んだ声音に、魔王は考えるより先に、目の前の少女を真横へと突き飛ばした。
少女の影が視界の右端へと消えた瞬間、ドンッ――と身体にわずかな衝撃が走る。
「一万年前とは真逆だね――身体の真ん中を貫かれる気持ちは、どうだい?魔王!」
アリアネルを突き飛ばした影から、迷いなく突進してきた正天使は、躊躇なく白刃を魔王の身体へと突き立てていた。
「正天使――貴様――!」
奥歯を噛みしめ、積年の恨みが込めて呻くと同時、喉の奥から嫌な音を立てて血がせり上がってくる。
襲い掛かる”制約”による激痛に、無様に血を吐きながらも、魔王の瞳は憎しみに燃えて力を失ってはいない。
「俺が突き飛ばさなければ――アリアネルごと、突き刺すつもりだったな――!」
「ハハッ。怒るポイントは、そこなんだ?そりゃそうだよ。だって、”駒”だもん。――虫の息でも、殺してなければ、禁忌には触れないんだから」
ぐっとさらに刃を押し込みながら卑劣に笑う天使の言葉に更なる怒りが湧き上がる。
(押さえろ――冷静になれ――状況を整理しろ――)
正天使がここへ飛び込んできたということは、ゼルカヴィアから逃れたということだ。
愛する女の忘れ形見である息子の安否を確認したい気持ちと、最悪の状況を思い描いてしまう脳を、”制約”に抗いながら無理やり理性で抑え込む。
(ゼルの声が聞こえた……ゼルは、生きている。警告を発することが出来る程度には、動ける。思考もクリアだということだ。瀕死の重傷というわけではない――はずだ)
ガボッ……と音を立てて血を吐きながら、ぐっと腹に突き立てられた刃を握り込む。
掌に走る痛みで少しでも冷静さを取り戻せればと思っての行動だったが、そんな小さな痛みなど感じないほどに、全身の内臓が強烈な痛みを発していた。
(この卑劣な男が採る手を考えろ……今、俺が、一番されたくないと思う行動は――)
閃くと同時に、魔王は剣から手を離し、右手を真横へと突き出し、吼えた。
「拘束!」
「アリアネル!魔王を攻撃しろ!」
正天使の命令に、泣きべそをかいたアリアネルがびくりと震える。
記憶がない状態であれば、シームレスに遂行されたであろう命令は、感情が行動を凌駕している今は思い通りに通らない。
少女の感情が命令へと抵抗する意思を見せたその隙をついて、魔王が放った魔法の漆黒の鎖が顕現し、アリアネルと、回復し立ち上がろうとしていたシグルトを一緒に縛り付けた。
「勇者!俺に切った啖呵が本気なら、アリアネルをそこで守り抜け!傷一つ付けることは許さん!」
「な――」
魔王の檄を受け困惑するシグルトに、正天使は舌打ちする。
正天使にとって、有用な”駒”はアリアネルのみであり、シグルトはせいぜい効率よく聖気を製造させるための装置でしかなかったため、戦力としては勘定にいれていなかった。
だが、言われてみれば確かに、シグルトにも寵愛を与えているのだ。先ほども、シグルトとアリアネル二人に行動を強制させる命令を発していれば、魔王を害したくないアリアネルとは違い、シグルトは即座に地を蹴って魔王に突撃させられたかもしれない。
だが、魔王はそれすらも読んでいたらしい。伸びていった漆黒の鎖は、最初からシグルトとアリアネルの両方を拘束する目的だった。
戦場における頭脳の回転も、視野の広さも、魔王の方が一段上手だという証明に、苛立ちが募る。
同じ位階を与えられようと、戦を司る力を与えられようと――造られし命は、命の創造主には、逆立ちしても敵わないのだ。
「パパ――パパ――!やだ……!やだ、死なないで――!」
魔法も動きも拘束する鎖で無力化されてもなお、正天使の命令に従おうと意思に反して拘束から逃れようと抵抗する身体をどうにもできないまま、アリアネルは滂沱と涙を流す。
少女の記憶の中、魔王という存在は絶対的な強者として君臨するものだった。
天使に身体を貫かれ、口から夥しい血を吐く魔王の姿など、いったいどうして想像することが出来ただろうか。
大好きな家族が窮地に陥っているにもかかわらず、助けに入るどころか、自分自身が家族を害しかねない現状に、無垢な少女の心は悲鳴を上げていた。
「キャンキャンと五月蠅いね、君の”家族”とやらは。――昔、君が愛した女を殺した時も、そうだった」
「――!」
魔王が怒りに己の剣を振り抜くより先に、正天使は魔王の腹を蹴って貫いた刃を抜き去りがてら距離を空ける。
魔王の逆鱗を積極的に触れに行くのは、”制約”を発動させるためだ。
能力では決して敵わない命の創造主に勝つためには、”制約”によるハンデをこれ以上なく発生させる必要がある。
相手の思惑など百も承知だが、感情を操る術は造物主の力だ。魔王は、己の意志で憎しみを抱くことを止めるわけにもいかず、堪え切れず無様に血を吐いた。
(封天使の力は、まだ俺へと戻ってきていない……ヴァイゼルと戦闘になれば、さほど長引くことはないだろうと踏んでいたが、こうなることを見越して、容易に見つけられぬ場所にでも隠したか。そうなれば――魔法戦で決着はつかない)
魔王は正天使の言葉を聞かぬように、戦闘について考えを巡らせ、少しでも”制約”を押さえようと努力する。
封天使の魔力呪は強力で、どんな魔法も強制的に無効化する。
その展開速度も練度も、封天使の名を使って命じることが出来る二人であれば、差は出ない。封天使が命を落とさない限り、魔法戦になったとて、魔力呪の打ち合いになるだけだろう。
ぐっと手にした剣を握り直し、魔王は決意を固める。
ヴァイゼルが封天使を見つけ出して仕留めるまでは、この激痛に苛まれる身体で、戦を司る天使を相手取る必要があった。
「あの女の最期は痛快だったな。子供だけは、子供だけはと五月蠅く泣いていたよ。きっと、どれだけ叫んでもいつまでも助けに来ない男に絶望して――」
「――――お前は」
魔王の神経を逆なでする言葉をまき散らす正天使を遮り、魔王は静かに口を開いた。
「俺を斃した後に、何を望む」
「何――?」
今にも飛び掛かろうとしていた正天使は、虚を突かれたように聞き返す。
質問の意味が、分からなかった。
口元を汚す鮮血を雑に拭い、魔王は重ねて尋ねた。
「お前が、俺を殺したいと思っていることは理解している。だが、その後は」
「何を――」
「俺を殺したその先で、お前が成し遂げたいことは何なのか、と問うている」
今、魔王を襲っている激痛は、正気を失うほどの痛みのはずだ。
ついに気でも触れたのか、と正天使は鼻で嗤って、吐き捨てるように告げる。
「何も、ないさ。――僕はお前を殺すことが目的で、それだけが、至上の命題。僕は、それを成すために生まれたといっても過言ではない!」
「……そう、か。薄々、そんな気はしていた」
魔王は、憤ることも呆れることもなく、淡々と正天使の言葉を受け入れる。
「やはりこれは、俺の不始末だったようだ。――来い、正天使。かつて命を生み出した者の責務として、この手でお前の命を終わらせるとしよう」
「ハッ――笑わせる!満身創痍の身体で、強がりだけは一丁前だな!」
天使は翼を畳むように動かし、風の抵抗を最小限に抑えると同時、地を蹴った。
青天を思わせる瞳がギラリと凄絶な光を放ち、かつて造り出した命を迎え撃たんと剣を構えた瞬間――
カッ――
世界に閃光が奔り、視界が真っ白に飲み込まれた。




