343、最終決戦⑥
度を過ぎた恐怖を感じると、まるで全身が爪の先まで凍り付いたように身動きが出来なくなる。どれほど訓練を積み、実戦の最中で何度も死線を潜り抜けてきたシグルトであっても、それは同じだ。
「どうした。剣を構える気概は持てても、恐怖で竦んで足を動かすことは叶わんか」
「っ――」
「平時であれば、虫けらにしては過ぎた気概に敬意を表し、多少戯れてやっても良いが――生憎、今は悠長に遊んでいる暇はない」
ザッと魔王が一歩足を踏み出すと、気圧されるようにシグルトも一歩退く。
意識したわけではない。ただ、無意識に――恐怖に圧されるようにして、足が勝手に、下がっただけだ。
それを見て、魔王はつまらなさそうな視線を向けた。
所詮は人間。魔王の興味を引くに足る存在ではなかったということだろう。
誰の目にも明らかな失望の表情を見て取り、シグルトもぐっと唾を飲む。
シグルトとて、本意ではない。己の肩にかかっているのは、人類の未来と希望だ。それを背負って立つと心に決めた日から、死を覚悟して生きて来た。
だが、それでも――
(――次元が、違う――)
今すぐ膝を折らないように足を叱咤するだけで精一杯だ。少しでも距離を詰めれば、瞬きの瞬間に絶命させられるであろうと、ありありと予測出来てしまうほどに、恐怖が満ち満ちていた。
魔王がもう一歩踏み出す。
シグルトもまた、一歩退き――
「ぁ、ぅぅ……」
「――!」
コツン、と踵が堅い鎧に触れる感覚があった。
背に庇っている少女は蹲り、今なお頭を抱えて苦しんでいる。
「実力差を正しく理解できることは、恥ではない。優秀とも言える。ゼルと戦闘中の正天使を含め、ここには誰か目撃者がいるわけでもない。本陣へ帰り、仲間を引き連れ再び戦場に舞い戻るならば、それは戦略的撤退だ。誰も責めはしないだろう」
魔王は嘆息した後、つまらなさそうに淡々と言いながら距離を詰める。シグルトが尻尾を巻いて逃げる余地を残してやるように。
己の為すべきを成すため、容赦なく近づいてくる魔王に、シグルトは――
――もう、一歩も退かなかった。
「っ、ぁ――ぅぁあああああああっ!」
腹の底から、己を奮い立たせるために、勇者は剣を構えたまま全力の咆哮を轟かせた。
意外なものを見たかのように、魔王はぱちりと一つ瞬きをして、足を止める。
「俺がっ――俺が、勇者になったのは、俺が大切だと思う人たちの、平和な日常を守るためだっ!正天使のために剣を取ったことなんか、今までも、これからも、一度もない!」
ダンッと恐怖に戦慄く足を踏みしめ、強引に震えを止めながら、勇者は魔王に向かって啖呵を切る。
敵うはずのない絶対的強者に立ち向かうための武器は、ただ一つ――折れない心、それだけだ。
それを持っているからこそ、シグルトは、”勇者”でいられる。
「俺は、”勇者”だ!っ――惚れた女の子一人守れなくて、”勇者”なんて、名乗れるかよ!」
シグルトは心を奮い立たせる言葉を吼え、恐怖をねじ伏せ、全力で踏み込む。
己の全てを賭けた一撃を、無心で目の前の男へと叩きつけた。
ガキィンッ――
「……ふむ。その意気やよし。歴代勇者の中で、お前は最もその称号に相応しい男だったと認めよう」
渾身の一撃を放った勇者に敬意を表すように、魔王は涼しい顔で白刃を受け止める。
全身全霊を正面からぶつけたにもかかわらず、体幹の一つも揺らがせられなかった事実に、再び恐怖が腹の底から湧き上がりそうになるが、シグルトは二度と退くつもりはない。
彼の背中には、世界で一番守りたい少女がいる。
彼女の太陽のような笑顔を守るため――シグルトは、”勇者”になったのだ。
「――だが」
ひやり、と氷のように冷たい言葉が、使命に燃えるシグルトの背を滑り落ちる。
ハッと息を飲んで見上げると、神が作り上げた最高傑作とも言える美貌が、不愉快そうに歪んでいた。
「俺は、貴様のような脆弱な男に、娘をやるつもりはない。――せめて娘よりも強くなってから吼えろ、小童」
「っ!?」
これ以上は危険だ――と本能が告げるよりも早く。
シグルトが剣を引くより先に、魔王は不機嫌を露わにしたまま、勇者の身体ごと薙ぎ払うようにして切り結んだ剣を右へと一閃した。
暴力的なまでの圧倒的な力の差を前に、シグルトの身体は成すすべなく真横へ吹き飛んでいく。
そのまま、地震によって倒壊した建物の瓦礫に、粉塵を巻き上げながら身体ごと突っ込んだ。
「っ、がぁ――!」
叩きつけられた衝撃に苦悶の声を漏らし、血の混じった唾を吐く。受け身を取ることも出来ない速度で叩きつけられたせいで、骨や内臓に、笑い事では済まないレベルの痛手を負ったようだ。
立ち上がることも出来ない勇者を睥睨した魔王は、ふと間近で空気が動いた気配に、視界を戻すより先に危なげなく剣の切っ先を上げた。
ガィンッ――
「……ほぅ。ヴァイゼルはしっかりと稽古をつけていたようだ。先ほどの勇者よりも重く、速く、容赦なく急所を狙う――良い一撃だ」
涼しい顔で受け止めた先には、花の模様が彫り込まれた凶悪な分厚い大斧の刃。
痛みに滲んだ脂汗を拭うこともせず、逆らえぬ命令に魔王の命を取るため武器を振り下ろした、美しい少女がいた。
「ま……お、ぅ……」
「ふむ。お前にそう呼ばれるのは新鮮だが――ゼルもお前も、お前たちにだけ許した呼び名を頑なに呼ばないのは何故なのか」
操り人形のように意思を感じさせない声音で呟かれた単語に、魔王は眉根を寄せて不機嫌を露わにする。
「お前が幼い時分、魔法の訓練には付き合ってやったが――思い返せば、こうして刃を交えてやったことはないな。ヴァイゼルやオゥゾがどれくらい真剣に鍛えたか、日ごろの仕事ぶりを図ってやってもいいが――」
魔王がチラリと少女の背後へと視線を遣れば、ゼルカヴィアは正天使を相手に善戦しているようだった。とにかくアリアネルと魔王から距離を離そうと、奥へ、奥へと天使を追い込んでは追い縋り、苛烈に攻め立てている。
今は拮抗している戦況も、どこで綻びが出るかわからない。経験の差で拮抗しているといっても、元々持っている能力で考えれば、ゼルカヴィアは正天使に敵うはずがないのだ。アリアネルを正気に戻し、なるべく早くゼルカヴィアの援助に駆けつけた方が良いのは事実だろう。
「っ、ふっ、っはぁあっ!」
アリアネルは振り下ろした刃を引き、呼気と共に慣性の法則を上手く使いながら連撃を繰り出すが、魔王は涼しい顔で重い刃を全て受け止めてしまう。
(ゼルが記憶を可能な限り戻しておくと言っていたが――さて。どれくらい戻っているのか)
じぃっと何かを探ろうとするように、冷静に瞳を覗き込まれれば、アリアネルはすぐに限界を迎えた。
「ふむ。戦闘技能はまずまずといったところだが――上級魔族たちは、戦いの心得は教えなかったか」
「っ――っ、ぅ……」
どこまでも澄んだ空のような混じり気のない深い蒼の瞳が、呆れたように軽く緩む。
「泣きべそをかきながら、敵と戦う奴があるか」
「ぅ――ぅぅうう――!」
行動を操られ、虚な光しか宿さない竜胆の瞳からボロボロと透明な珠が零れ落ちる。
感情までは縛ることが出来ない、”寵愛”の歪な行動制限のせいだった。
「泣くな。――言っただろう。『魔界の太陽』は、沈まない」
「ぅ、ひっく……ぅぅ――!」
それは、どれほど陰鬱な気が漂う魔界にあっても、眩く、美しく、力強く、常に輝きを失わぬ存在。
いつか消えてしまうような、物理的な明るさとは一線を画す、永久の輝き――それが、魔界の太陽のあるべき姿。
魔王がいつか、少女に語った『魔界の太陽』とは、そういう存在だった。
「お前がいないと、魔界は酷く寒々しく、つまらない。俺はもう二度と、”彩”が消えた世界を生きるのは御免だ」
魔王は軽く剣を振って目の前の斧を退けると、そっと少女の顔に手を伸ばす。
優しく伸ばされた手を払いのけることも、再び刃を構えることも出来ず、少女はただ涙を流して目の前の男を見上げた。
「いつもいつも、お前は一方的に約束を取り付けていただろう。何一つ果たさぬままにしておくつもりか」
冷酷非道と呼ばれる魔王とは思えぬほど優しい手つきで、少女の涙を拭うと、魔王はふっと諦めたように口の端に笑みを浮かべた。
「少し遅くなったが、まずは一つ、約束を果たそう」
それは、ゼルカヴィアですらほとんど見たことの無い、笑顔――
――一万年の記憶の彼方、魔王が”家族”と共に過ごした時間を知る者だけが見たことがある、奇跡のような微笑み。
「アリアネル。――アリィ。十五歳の誕生日、おめでとう」
慈しみを込めて囁かれた言葉と共に、唇が落とされる。
『もしも、いつか、パパがアリィのことを好きになってくれたら――アリィの名前を呼んで、優しくキスをしてね』
元天使である魔王にとっては、口付けも、名前を呼ぶことも、どちらも特別な意味を持つ行為だ。
だから、それを望むのがどんなにありえないことなのか、誰より一番アリアネルがわかっていた。
叶うはずがないとわかっていながら、それでも、と奇跡を望んだ。
なぜなら――アリアネルにとって魔王は、世界で一番、”大好き”な存在だったから、
「――ぱ……」
ポロポロと零れ落ちる涙を拭うことも出来ぬまま、少女の唇から感情を伴う単語が零れ落ちる。
「っ――パパ――!」




