342、最終決戦⑤
シグルトがアリアネルに追いついたのは、ゼルカヴィアが正天使と交戦を始めた直後のことだった。
ゼルカヴィアが周囲一帯に展開した重力倍増の魔法のせいで、正天使はがくんと高度を落とす。
「っ、ぐ――くそがぁっ!封天使!」
正天使が援護を要請するように鋭く叫ぶも、優秀な第三位階の天使は応えない。
命令に反しているわけではない。――既に後方で、いち早く封天使の姿を見つけたヴァイゼルが魔王の命令通りにしっかりと足止めをしているだけだ。
「雷天使!光天使!誰か、いないか!」
高度を落とした先を狙い撃つように魔剣で斬り込んできたゼルカヴィアを、重力でいつも通りの速度で振り抜けぬ剣技で凌ぐため、能力向上の魔法を展開し筋力を最大限に押し上げることで対処する。
襲撃を凌ぎながら必死に張り上げた声に応える同胞は、いなかった。
「無駄ですよ――魔王様に、高位天使を相手にすることを前提に造られた命は、伊達じゃない。他者の援護に回る余裕など、ありません」
「くそっ――!」
魔力が展開する気配を察知し、咄嗟に飛び退るも、重力が邪魔して予想よりも距離が開かない。舞い散った羽がジュッ……と音を立てて塵になったのを見て、それが人間が恐れる腐敗の魔族の魔法だと推察し、焦りが募った。
最後に見た新月の夜の、脆弱なゼルカヴィアなど見る影もないほど、多彩で的確な攻撃。踏み込みの速さも、剣の一振り一振りの重さも、攻撃に特化した魔法の豊富さも、上級魔族の魔法すら無詠唱で次々と繰り出せる速さも。
一万年の時を、人間界に流す情報を恣意的に捻じ曲げ、魔王を斃すことだけを考えて生きて来たせいで、本来の『役割』の一つである戦を司る役割をおろそかにした正天使は、初代正天使に比べ、実戦経験に乏しい。
能力は初代と変わらないものを付与されていようとも、一万年、正天使への恨みをただ一人忘れることなく研鑽を積み続けたゼルカヴィアとは、経験の差は天と地ほどの開きがある。
正天使は、思い描いた展開と異なる現実に、冷静になることも出来ず歯噛みしながら防戦に回る一方だった。
(あれは、ゼルカヴィアさん――!たしか、アリアネルの執事で、子供のころからのお世話係だったっていう――)
視界の端に捕えた見覚えのある黒ずくめの長身に、シグルトは背筋をゾッとさせる。
第一位階の正天使と互角に戦えるなど、ゼルカヴィアが人間ではあり得ないというこれ以上ない証明だ。いつも、丁寧な所作をしているくせにどこか人を寄せ付けない空気を纏っていた美青年が魔族だったなど、考えたこともなかった。
当たり前のような顔をして、人類の敵と恐れられる上級魔族が平穏な日常に紛れ込んでいた恐怖と共に、アリアネルが魔王の元で育てられてきたのだという正天使の言葉は真実だったのだと実感する。
だが、今のシグルトが成すべきは、正天使の援護ではない。
人外同士が火花を散らす激しい戦闘に巻き込まれないよう注意しながら、シグルトは道の真ん中に無防備に膝を付いて苦しむアリアネルへと全力で駆けよった。
「アリアネル!大丈夫か!」
「ぅ――ぅ、ぅうっ……ぁああっ……!」
頭が割れるように痛むのか、苦悶の声を漏らしながら兜を脱ぎ去り、ここが戦場であることも忘れて蹲るアリアネルは、とても”大丈夫”とは思えない。理性を凌駕する正天使の”命令”を遂行出来ないほどに、前後不覚の状態になっているということだ。
「一度、撤退しよう!頭が痛いのか?とりあえず、すぐ、マナリーアの元に――!?」
脇の下に腕を入れて、負傷兵を担ぐように少女の身体を起こそうとして、シグルトは息を飲む。
ぞわり、と背中が泡立つような、強烈な不快感。
命の危機を否応なく知らしめる、本能が発する危険信号。
「っ――!」
シグルトは本能に逆らうことなく、即座に剣を抜き放ちながら、アリアネルを背に庇うようにして立ち上がり、振り返る。
「……ほぅ。いつぞや見えたときも伝えたが――俺の纏う威圧を前にして、剣を構えられるその気概だけは認めてやろう」
まるで、周囲の空気が一瞬で薄くなったような錯覚――上がっていく脈拍と浅くなっていく呼吸と比例して、頭の中が真っ白になっていく。
涼しい顔をして現れた男の顔には、見覚えがあった。
アリアネルの誕生パーティーの夜、少女を『俺の娘』と言い放ち、迎えに来た美丈夫。
太陽の祝福を受けているかのような鮮やかな黄金の髪を持ち、神が丹精込めて丁寧に造り出した芸術の粋を煮詰めたように整った顔立ちは、翼さえあれば、高位天使だと言われても信じてしまっただろう。
それはいつか、アリアネルとマナリーアと共に、聖なる乙女の塔の屋上で見た、石造りの天使像を彷彿とさせる容貌。
世の中を見下すような鮮やかな蒼い瞳は、どこまでも醒めきっていて、感情の揺らぎは見られない。
世界を統べる王者と言われても頷いてしまいそうなほど、今すぐここに膝を付いてしまいたくなる威圧を纏う、この美丈夫の正体は――
「――魔、王――!!」
血の気が引いた蒼い唇から絶望的な声で紡がれた言葉に、目の前の美丈夫は、つまらないモノでも見るようにして、フン、と軽く鼻を鳴らした。
「――いかにも、そうだが」
”勇者”という存在が生み出されてから、はや一万年――
それは、有史以来初めての、”勇者”と”魔王”が戦闘を前提に直接対峙した瞬間だった。




