334、決戦前夜⑥
ふいに響いた言葉に、その場にいた全員が、慌てて声の方を振り返る。
「「正天使様――!」」
ザッと神官たちが真っ先に膝を付き、慌てて従うようにして聖騎士団と勇者パーティーが膝を付く。
唯一膝を付かなかったのは、シグルトだけだった。
高位天使の威圧にも負けず、勇者は反論する。
「何を言って――このままでは、トスウェサスの住民が全滅しかねない!」
「大丈夫だよ。魔族は人間を殺すことを何とも思っていないのは事実だけど、全滅なんて意味のないことはしない」
「な――ど、どこにそんな保証が――!」
「馬鹿だなぁ。冷静に考えなよ。どうしてこのタイミングで、王都に近い大都市で、こんな騒ぎが起きたのか。――どう考えても、魔王が攻め込むのに備えて、王都では調達が難しい瘴気を、王都の近隣で大規模に発生させるためだろう」
「!」
天使に詰め寄りかけていたシグルトは、思わず足を止める。
正天使は鼻で嗤って、呆れたように続けた。
「人間は、死んでしまったらただの肉塊になる。聖気も瘴気も発生させられないんだよ?」
「な……」
「勿論、より多くに恐怖や絶望といった負の感情を抱かせるために、最初のうちはある程度、殺すかもね。だけど、全滅なんてさせてしまったら、それ以上の瘴気を調達できないじゃないか。住民を恐怖と混乱に陥れるのに十分な、最低限だけ殺したら、あとはただひたすらに、命を取らない程度に残虐な行為が待っているだけだよ。だから、腐敗と色欲の魔族なんだろう。住民を殺したり、街を壊滅させるのが目的なら、面している海を使って、水の魔族に巨大な津波でも起こさせれば良いんだから」
仮にも第一位階に君臨する天使は、人の生き死になどどうでもいい、と言わんばかりに、どこか小馬鹿にしたように語る。
「だから、放置しておいたところで、都市の住民が皆殺しにされることはない。人間たちがため込んでいる資源や設備なんて、魔族たちは毛ほども問題視しないから、街が更地にされるなんてこともないだろう。……ま、死んだ方がマシだと思うような状況だろうから、自害する人間が続出することはあるかもしれないけれど」
それでも全滅はしないよね、と嘯く正天使に、シグルトはギリリと奥歯を噛みしめる。
本当に、この天使は、人の命を、生を、営みを、何だと思っているのか。
「こんな近くで、こんな騒動を、このタイミングで起こすんだ。どう考えても、魔王の指示だろう。ここ最近の、理性的な魔王とは思えない――明らかに、世界のバランスを度外視した行為だ。魔界勢力による武力侵攻は、近いとも言える」
「何を――!」
「だから、君たちがこの場を離れることは許さない。他でもない魔王は、それを狙っているんだろうからね。負ける戦はしちゃいけないよ」
正天使がすぅっと燃える瞳を薄めて、威圧を強めると、気が弱い神官たちの一部が、泡を吹いて床に倒れ込む。
思わずふらつきそうになる足を叱咤し、シグルトはキッと気丈に天使を睨み返した。
「まして、色欲の魔族がいるって言うんだ。もしも向かって、純潔を奪われたら、眷属にもなれないんだよ?勝手をされちゃ困る」
「そんなのは、お前たち天使の言い分だ――!」
「そう怒らないでほしいな。――じゃあ聞くけれど、君はその、ナントカっていう二番目に大きい都市のために、王国で一番大きなここ、王都の住民を見殺しにするの?」
「――!?」
シグルトの顔に動揺が走る。正天使は、愚かな人間の頭脳に呆れたように、わかりやすく説明した。
「言っておくけれど、既に被害地域は魔界並みの瘴気の濃さだと思うよ。聖騎士団って、なんだかんだ言っても、天使の魔法が得意なんだろう?聖気が薄い地域では不利を強いられる。そんな中で、上級魔族二人――もしかしたら、人間界で観測されていないだけの、他の上級魔族も来ているかもしれない――を相手にして、勝てるとは思えない。本気で挑むなら、現在人間界の勢力が持ちうる最も強いメンバー構成で臨まざるを得ないだろう」
「でも、そうしないと住民が――!」
「だから、放置しても住民は死なないって言っている。もし君たちが救出に向かえば、空間を捻じ曲げる結界のせいで、外には出られなくなる。その間に、魔王が王都へ攻めてきたとして――最精鋭のメンバーがごっそりいなくなった軍だけで、史上最強の魔王を相手に戦え、と?勇者様は無茶を言う」
クックッと喉の奥で馬鹿にしたように笑われ、シグルトはぐっと口を閉ざす。
「言っておくけれど、魔王は強いよ。――戦を司るこの僕でさえ、たとえ王都という地理的な有利があったとしても、真正面から戦えば勝てない」
「!」
「魔王は、天使の魔法も使うからね。瘴気や聖気の量なんて、彼にとっては正直、あまり関係ないんだよ」
「な――」
真実の歴史を知らない人間たちは、さらりと明かされた魔王の能力の秘密に、驚いて顔を上げる。
「地理的な有利、というなら、この王都に張り巡らされた、天使以外の人ならざるモノの侵入の一切を阻む結界だ。当然、既に天使ではない魔王は、これを突破できない。力任せに破ることになるだろう。ありったけの攻撃魔法を針の孔を通すように一点に集中して叩きこむんだろうけれど、古より、竜を始め様々な脅威から王都を守ってきた結界は、伊達じゃない。さすがの魔王でも、力任せに破るのは容易じゃないはずだ」
「そこを狙う、と……?」
「まぁね。だけど勇者サマの重要な役目は、戦うことよりも、魔王が結界を破ろうとしている時に動揺する人間たちの鼓舞だよ。恐怖で瘴気を増やされちゃたまったもんじゃない。この地には勇者も天使もいるから希望を持って戦えと、民を奮い立たせてくれよ」
ごくり、とシグルトは唾を飲み込む。王都にむけて魔王がやってくると”神託”を下したくせに、天使が王都の一般市民を避難させなかった理由がわかったからだ。
(俺たちは所詮、『聖気製造機』くらいにしか思われていない――ってことか――!)
トスウェサスと、原理は同じだ。
王都から人がいなくなってしまっては、聖気を生む存在がいなくなる。――天使の魔法を使うには、聖気をなるべく多く生ませなければいけない。
だから、住人達の前に敢えて正天使本人が降臨して見せ、この戦いを”正義の戦い”と印象付け、”切り札”もある自分たちが負けるはずがないと大仰に喧伝したのだろう。
「だから、そのナントカって都市に君たちが行くことは認められない。当然、王都の住民に無用の心配をさせて、瘴気を生む種にすることも却下だ。情報はここで閉じて、他に漏らすことは許さない」
その瞬間、”寵愛”を授けられたメンバーが、全員ぐっと口を引き結ばれる感覚を感じる。
この件を決して口外しない、という命令を受けた結果だろう。
「確かに、都市の住人たちは可哀そうだけれど、命を取られることはないと思って、戦が終わるまで耐え忍んでもらうしかないね」
「あっ――ま、待て!」
ひらひらと手を後ろ手に振って、もはや用はないと言わんばかりにさっさと踵を返した正天使を追いかけ、シグルトは廊下へ出る。
そのまま、看過できない質問をぶつけた。
「アリィは――アリアネルは、どうするつもりだ!」
「……ぅん?」
くるり、と正天使は片頬で振り返る。シグルトはその背に追いつき、部屋に残っているメンバーに聞かれぬよう、声を落とし噛みつくように問いかける。
「お前が、俺たちを聖気を効率よく発生させるための駒だとしか思っていないことはわかっている――!どうせ、戦力としてもカウントしていないんだろう……!?」
「ハハッ!そういうところは賢いんだ?偉い偉い」
愉快そうに揶揄する正天使に取り合わず、シグルトはギッと力を入れて天使を見据えた。
「だが、アリアネルは――お前は昨日、確かにアリアネルのことを、『戦力増強』の目的で攫ってきたと口にした――!アリィだけは、戦力としてカウントするってことだろう!魔族と相対したときに備えて行動を縛るということはつまり――お前は最初から、アリィだけは、前線に立たせて、魔王軍と戦わせるつもりだったことになる!」
正天使の眉が面白いものを見たとでも言いたげにピクリと持ち上がる。当代の勇者は、意外と耳ざとい上に、人間にしては賢いらしい。
小馬鹿にしたような天使に苛立ち、ガッとその肩を掴んでシグルトは唾を飛ばした。
「どうして、アリィだけを危険な目に遭わせる!?どんなにアリィが強くても、魔王と戦って勝てるはずが――」
「そりゃ、実力で勝つことは無理だろうね。――だけど、隙を作ることは出来る」
「!」
「知ってるかい?魔王は昔、己を造った造物主に啖呵を切ったそうだよ。――たとえこの先何があろうと、己の手で自分の子供を殺すことだけは出来ない、と」
正天使は、馬鹿馬鹿しい、とでも言うように鼻で嗤いながら、煩わしそうに掴まれたシグルトの手を振り払う。
「あの女は、魔王のことを”パパ”と呼んでいた。魔王自身もそれを当然のように受け入れていた。君たちの前でも、アレが自分の娘だと明言していたらしいじゃないか」
「それは――……」
「わかるだろう?あれは、対魔王戦における、唯一無二の最強の切り札だよ。……本当は、一万年前に、息子の方を手に入れるはずだったんだけど、色々あってしくじったからね。今や魔王の右腕にまでのし上がった息子をもう一度奪うのは難しそうだったから、助かった。上級魔族とも対等に切り結べる身体能力を持った、人間にしては驚異的な個体だ。利用しない手はないだろう?」
その言葉の真意はつまり――
「アリィを――”盾”に、するつもりか――!」
「フッ……人聞きが悪い。幸いにも、本人には相手が父親だという認識はなくなったんだ。忠実に、僕の言うことを聞いて、魔王を害してくれる、優秀な”駒”の一つ――それだけだよ」
ひらりと手を振ると、正天使はこれ以上の問答は面倒だとでも言いたげに窓を開け放ち、空へと飛び立つ。
力強い羽音を響かせて遠のく天使を見ながら、シグルトは己の無力を噛みしめ、立ち尽くすのだった。




