332、決戦前夜④
暁の薄明かりが東の空に染み出し、世界を覆っていた闇が薄らいでいく頃、シグルトは天使降臨の間と呼ばれる部屋の扉を開ける。
天井の見事なフレスコ画にも目をくれず、磨き抜かれた大理石の床をまっすぐに進んだ。
勇者が向かう先――がらんとした室内に、まるで、芸術作品の一つであるかのようにして、簡素な寝台に横たえられた女が一人。
床に流れ落ちる象牙色の豊かな髪。透き通る真っ白な肌。固く閉ざされた長い睫毛の裏には、大きく美しい竜胆の瞳があることを知っている。
暖炉の一つもない部屋の中は、時間帯も相まって冷え込む。
シグルトは白い息を吐きながら、安置された寝台へとそっと歩み寄った。
「アリアネル――」
シグルトが女にそっと呼びかけると、微かに睫毛が震える。
反応があったことにほっと息を吐いた途端、魔力の波動を感じて咄嗟に腰の剣に手を伸ばした。
ガキィンッ――
無詠唱で懐に忍ばせた魔晶石から身の丈もある斧を召喚し斬りかかってきたアリアネルの刃を、寸でのところで受け止める。
「っ、く――アリィ!落ち着け、俺だ!シグルトだ!」
「――――……」
必死に訴えるが、どこか虚ろな竜胆の瞳は、動揺する様子もない。
「どうしちまったんだよ――!何日もずっと眠ってたと思ったら、急に――」
バサッ―ー
焦燥を募らせるシグルトの言葉を遮るように、屋内で響くはずのない力強い羽音が、反響した。
「やれやれ。どんな鼠が入り込んだのかと思えば、勇者サマじゃないか。駄目だよ。その娘には、眠っている時に近づいてきた男には、問答無用で切りかかれと命じてある。万が一にも、眷属の資格を失うようなことにはなってほしくないからね」
声と共に、頭上から白く輝く羽がひらひらと落ちてくる。シグルトは視線をやる余裕もなく、切り結んだまま硬直していると、頭上の天使の声が再び響いた。
「構えを解いていいよ、アリアネル」
天使の命令を受けた途端、問答無用で命を取ろうと切りかかって来たはずの少女は、先ほどまでの命のやり取りが嘘であるかのように、スッと構えを解いた。
目の前にいる少女は、外見こそシグルトが良く知っている学友アリアネルだが、こうして相対すれば、よく似た他人の空似だと言われても信じてしまうかもしれない。
シグルトが知っている、くるくると変わる感情豊かな愛くるしい表情は見る影もなく、今や焦点が合っていない虚ろな瞳で、天使の声に忠実に反応するだけの操り人形となり果てていた。
「アリィに何をした!?」
「失礼だな。”寵愛”を与えただけだよ。それ以外は、特に何もしていない。ここ数日、眠りっぱなしだったのは単に、忌々しい記憶の魔族が、余計なことをしてくれたせいだ。僕のせいじゃない」
キッと天使を睨み上げるシグルトに、呆れたような声を返しながら、正天使はゆっくりとアリアネルの傍へと降り立つ。
「今みたいに名前で行動を縛って、知っている魔族の名前を書かせようとしても、何も書こうとしなかった。きっと、ゼルカヴィアのせいで、記憶を消されているんだろう。元々、治天使の眷属にさせるつもりだったみたいだから、同じように天界で僕に情報が漏れないように、って考えたんだろうね。全く……おかげで、予想よりも戦力増強にはならなくて、参った」
魔王城で暮らしていたアリアネルは、魔界の主戦力となる魔族の名前をよく知っているはずであり、それを書物に記すことが出来れば、魔族の魔法を使える人間たちは、魔族との戦いで優位に立つことが出来るようになっただろう。
今のアリアネルには、それを拒否することは出来ないはずだった。
造物主が固く禁じたせいで、人間の感情を操ることは出来ないが、”寵愛”を与えれば、天使は人間の行動は操れる。
元々それは、異常を絶対に生まないようにという命天使の考えの元、生まれた規則だった。
愚かな元人間である眷属は、異常の種になりやすい。故に、格上の存在から真の名で命じられれば拒否が出来ない、という造られし命に特有の規則を、”寵愛”を与えられ、天界に迎えられようになる段階――まだ人間として生きている命にも適用する、というもの。
その規則に、意思の強さだけで抗うのは容易ではない。まして、魔界で生きてきた記憶を失い、天使を敵だと認識することが出来ないアリアネルには、抵抗する余地などないだろう。
「封天使に命じて、魔王に掛けたのと同じ解呪の魔法で無理やり記憶をこじ開けても良いんだけど、どうやら、記憶の操作っていうのはかなり身体に負担を強いるらしいからね。あの頑丈な魔王ですら絶叫して気絶したらしいから、脆弱な人間の身体に連続してかけるのは、やめておいてあげたんだ。身体が耐えきれず死んでしまったら、眷属になってしまうから、人間にしか使えない魔族の魔法は使えなくなってしまうし」
肩を竦めながら言う正天使に、悪びれる様子はない。
シグルトはぐっと拳を握り締めてから剣を納め、天使へと向き直る。
「ゼルカヴィアさんが、魔族だって……?アリィが魔王に育てられた、なんて信じられない――!」
「君が信じようが信じまいが、真実は変わらないよ。赤子の段階で目を付けていたこの子供を、魔王が横から掻っ攫って、手駒として育てていたんだ。学園とやらに潜入していたのも、君たちの寝首を掻かせるためだったんじゃない?」
責め立てるシグルトには取り合わず、クスクスと笑う正天使は、正義を司る天使とは思えぬほど卑劣な顔を晒す。
ギリリとシグルトは歯を食いしばって、爆発しそうになる感情を抑え込んだ。
正天使が神殿に顕現し、”神託”を授けたという知らせが入ってきたのは、アリアネルの誕生日の翌日だった。
”神託”は、魔王が近々人間界に攻め入ってくる可能性があるから、戦力を王都に集中させろというものだった。俄かには信じがたいその知らせを受けて、学園の生徒たちも、十三歳以上の希望者は皆、王都に集結した。
向かった先で、学園の最高学年の生徒だけは、天使降臨の間で少し早い儀式を受けることになり、室内に響く天使の声を聴いた者だけが集められた。当然その中には、シグルトとマナリーアもいた。
十五の少年少女らの中でも、特に魂が清らかな者たちの前に、悠然と正義の天使が顕現し、魔王との戦いに備えて”寵愛”を与えると言い出した。少年少女らは素直に額を差し出し、口付けを受けて、やがて始まる正義の戦いに心を燃やした。
全員に"寵愛"を与えた後、正義の天使は子供たちにも”神託”の詳細を伝えた。
やがて、魔王が人間界に魔族を率いてやってくるだろうということ。来たる決戦に備えて、全国から物資が続々と届いていること。いつでも命を懸けて戦えるように覚悟をしておくこと。
そして――人間側には、魔界勢力を出し抜く、”切り札”があること。
”切り札”として子供らに紹介されたのは、魔王の弱点であり、魔界の秘密を多く握った人間――死んだように昏々と眠り続ける、アリアネルだった。
見慣れた学友の姿に、生徒らは当然動揺を隠せなかったが、正義の天使が嘘を吐くとも思えない。そもそも、既に”寵愛”を受けた者たちは名前を縛られ、正天使に逆らうことなど出来ないのだ。
「君が望むなら、君もこの人間みたいに、全ての行動を名前で縛ってやってもいいんだよ?反抗心を持たれると、心と体がちぐはぐになって命令が通りにくくなるから、戦闘で後れを取られても厄介だし、敢えてそのままにしているけれど――初めて出逢ったときの”約束”を違えるというなら、こちらにも考えがある。思い通りにならない”駒”ほど、面倒な物はないからね」
「っ……」
コルレアの絶望から救い出されたときの条件に、正天使に絶対の忠誠を捧げる、という項目があったことは事実だ。
シグルトは歯噛みして呪いの言葉を飲み込む。
「アリィは――無事、なんだろうな?」
「ぅん?……あぁ、命に別状はないよ。眠っていた時間が長かったから、身体能力に影響がないか心配だったけれど、先ほどの動きを見る限り、問題はなさそうだね。魔族の魔法の展開速度は、今までよりは遅くなるかもしれないけれど、瘴気が少ない王都を戦場にするなら、あまり関係はないだろう。記憶が無くなっているようだけど、もしも魔族と相対したとき、無意識化で感情が動かされて予期せぬ行動をとられても困るから、行動の全てを僕の支配下に置いただけだよ」
あっけらかんと言ってのける正天使の言葉に、シグルトは心の底に溜まっていく義憤を必死になだめる。
どうやら正天使は、徹頭徹尾、アリアネルを駒としか思っていないようだ。”寵愛”を与えた、と己で口にしておいて、滑稽にも程がある。
「俺は子供の頃に、アンタに助けてもらった恩がある。だから、命令には従うさ。元々、魔王と戦うことは覚悟してきた。今更どうこう言うつもりはない。……本当に、お前の言う通り、今までアリィが魔王に洗脳されていたというなら、救い出すことに異議はない」
パパ、と嬉しそうな顔で慕っていた少女の姿を思い出すと、複雑な気持ちになるが、正天使の言葉を信じるならば、あれも騙されていたということなのだろうか。
誕生パーティーに現れた異次元の美丈夫が魔王だったと知れば、底知れぬ魔力量に震えた理由も頷けた。
だが、どうしても――あの日、人目を憚ることもなく「大好き」と全身で訴えるアリアネルを『俺の娘』と言い切り、少女が嬉しそうに抱き付いて頬に口付けを落とすのを、いつものことだとでも言いたげな自然体で受け入れていた男が、無垢な少女を騙し、洗脳していたとは、俄には信じられなかった。
「魔王が攻めてきたら、いつも通り全力を尽くして戦うさ。だが――アリィを人質や駒のように扱い、危険な目に遭わせるなら、黙っていない。覚えておけ」
低い声で脅すように言い切り、踵を返す。正天使は呆れたように鼻で嗤って、その背を見送った。
シグルトが重い扉を開いて外に出ると、見知った人影が視界に入る。
「……マナ」
「ぁ……シグルト……」
どうやら、マナリーアも同じくアリアネルが心配で様子を見に来たらしい。
気まずそうに視線を外す様子から察するに、正天使との会話を聞いていたのだろう。
「……大丈夫だ。アリィも、マナも、全員、俺が守る。――俺は、勇者だから」
ニカッと心配させないようにカラッとしたさわやかな笑みを向け、ぽん、と幼馴染の頭に手を置く。
昔は同じくらいの背丈だったはずなのに、いつの間にかシグルトの方が頭一つ分以上、高くなってしまっていたようだ。
「……うん。私も、守る。アリィも、シグルトも、皆――守ってみせる」
庇護の対象として見られていることが悔しくて、マナリーアは力強い瞳で、シグルトを見上げたのだった。




