329、決戦前夜①
しん……と窓から底冷えする魔界特有の空気が染み入ってくる。
「……ゼルカヴィア殿。せめて、暖炉に火を入れてください。貴方も、魔王様も、凍えてしまいます」
明け方――まだ人間界では日も登っていない時間帯だろうに、既に起きていたのか、気遣わし気に声をかけるのは、ミュルソスだ。
ゼルカヴィアは、魔王の寝台の傍らに座ったまま、主の寝顔に注いでいた視線を上げる。
「ミュルソス……」
「大規模な記憶操作は、意識を失い昏睡する――今は、昏睡しているだけなのでしょう?夢見で苦しまれているのか、決して穏やかとは言い難いですが、魔王様の命に別条があるわけではさそうです。アリアネル嬢の誕生日の夜から、もう、一週間になります。ゼルカヴィア殿も、少しは休まれないと――」
「――――いつから、ですか?」
紳士的なミュルソスらしいいつもの穏やかな口調を遮り、固い声でゼルカヴィアは問いかける。
ミュルソスは、一瞬言葉に詰まった後、困ったように眉を下げた。
「何が、でしょうか」
「とぼけないでください。――私の魔法は、完璧だったはずです。魔王様に記憶操作を仕掛けた後、私は確かに、貴方にも魔法をかけた。貴方もまた、数日昏睡し――目覚めた後は、母のことも、私が混血であることも、何もかもを忘れていたはずです」
「あぁ……それについて、ですか」
責めるような口調のゼルカヴィアに、ミュルソスは再び困ったように眉を下げて、持ってきた分厚いショールをゼルカヴィアへと手渡す。
「そうですね……いつ、というのは正確には覚えておりませんが――まぁ、比較的昔から、ずっと、でしょうか」
「何を――何故――!」
「ゼルカヴィア殿は、私の記憶を消さなかった。奥深くに沈めただけの記憶は、正しい記憶に紐づく何かのきっかけさえあれば、芋づる式に戻ることがある――でしたか。貴方が教えてくれた通りだった、ということですよ」
「な――」
「勿論、私は記憶を司るわけでもなく、魔王様のような頭脳を持っているわけでもありませんから、全てを鮮明に覚えていると言う訳ではありませんが――」
言ってから、苦笑する。種明かしをしてやったほうが良さそうだ。
「私の部屋は、ご存知でしょう。歴代の書類の保管庫と化している、あの部屋です」
「それが、一体――」
「私の『役割』は本来、執務をこなすことではありません。私は、ゼルカヴィア殿――坊ちゃんを教育する『役割』を担って生み出された。……ゼルカヴィア殿はご存じなかったと思いますが、魔王様は昔から、ご自身の不在の間の報告を、口頭ではなく書面で行え、と命じていたのですよ」
「――!まさか――」
「あの部屋に保管されている書類の最初は、私が生まれたその時から――物持ちが良いことに感謝したのは、貴方に記憶を消されて初めてでしたよ」
絶句するゼルカヴィアに苦笑を深める。
その昔、魔王が、文字を読むだけで情景が浮かぶように記録しろ、と命じて書かされていた記録は、記憶を失ったミュルソスにも十分有効だった。
ミュルソスはその書類を読み返すことで、真実の歴史を思い出し、記憶を取り戻していったのだ。
「なら――なぜ、一度も、私にそれを打ち明けなかったのですか!?」
「何故、も何も――打ち明けていたら、貴方はきっと、再び私の記憶を消して、今度は私の部屋にある書物を全て処分してしまったことでしょう。……坊ちゃんと過ごした記憶は、私にとって、宝物でした。失うにはあまりに惜しい記憶でしたので、気づかれぬよう、細心の注意を払っていたまでですよ」
にこりと笑って言われてしまえば、ぐっと言葉に詰まるしかない。
ミュルソスはぽん、とゼルカヴィアの背に手を置いて、ゆっくりと上下にさする。
幼い子供を安心させるような手つきは、一万年前――まだ、ゼルカヴィアが幼い頃によくしてやっていた手付きと同じだ。
「大丈夫です。……大丈夫ですよ。魔王様は、きっと、すぐに意識を取り戻されます」
穏やかな声音で言い聞かせられると、まるで幼い日に戻ったような錯覚になるから不思議だ。
ゼルカヴィアは頭を抱え、ため息と共に口を開く。
「……アリィが攫われたあの夜、貴方に連絡を取って正解でした」
「ふふ……そうですね。真っ先に私を頼っていただいて、嬉しかったですよ」
正天使にアリアネルが攫われ、魔王は意識を失って地面に倒れ伏し安否もわからない状況になった時、封天使の結界に阻まれて身動きが出来ないゼルカヴィアは、初級魔法の伝言を飛ばし、縋る思いでミュルソスに連絡を取った。
ゼルカヴィアの身体は、人間の組成のままだった。魔族から記憶を徹底的に消し去った後、混血という異端の存在などこの世には存在しないものとして生きて来た。誰にも気取らせぬように、細心の注意を払ってきた。
状況をうまく説明出来る自信はない。明け方になる前に、他の者に情報を漏らされれば終わりだ。
人間の組成の姿は、今のゼルカヴィアにとって、誰にも知られたくない”弱点”そのものだった。
それでも、魔王の安否がわからぬ方が怖くて仕方がなかった。
どうしても、誰かに正体を打ち明けねばならないとするなら、誰を選ぶか――と考えたとき、頭をよぎったのは、第二の父とも言える、ミュルソスの顔だった。
『伝言。……ミュルソス。……ミュルソス……!』
『ゼルカヴィア殿……?どうされたのですか、こんな時間に』
『頼む……!どうか……何も言わず、誰にも気取られないように……人間界の拠点まで、一人で、来てください――!』
『ゼルカヴィア、殿……?』
焦燥の滲む声音に緊急事態を察したのか、ミュルソスはすぐに転移門を開いてやってきてくれた。
そして、封天使の結界に阻まれて動けない人間の組成をしたゼルカヴィアを見て、眼を見開く。
飴色の髪をした青年が、蒼い顔で、何と口を開こうかと絶望の色をにじませ唇を震わせている間に、先にミュルソスが穏やかな笑顔で口を開いたのだ。
『――貴方のそのお姿を拝見するのは、随分と久しぶりですね。坊ちゃん』
およそ一万年ぶりに呼ばれた呼称に、ミュルソスが、消したはずの記憶を持っていることを悟り、頭が真っ白になった。
その後のことは、あまりよく覚えていない。
第二位階相当の力を持つミュルソスの手で、封天使の結界を力任せに破ってもらい、魔王の安否を確認して、魔界へと戻って来た。
そのまま、ミュルソスに尋ねられることにぽつりぽつりと言葉を返すことで起きたことを説明すれば、感情をくみ取る魔族は、全てを察して翌朝から上手く立ち回ってくれた。
おかげでゼルカヴィアは、城の内部の動きを気にすることなく、魔王の枕元に控えて看病を続けられている。
「すみません……私が、本当は――」
「いいえ。貴方はもう何千年も、独りで戦っていらっしゃった。魔界のために――魔王様のために。たまには、配下の魔族を頼ってください。……どうか、私を二度も、魔界の危機に何も出来ない無能にしないでください」
ミュルソスの言葉に、ぎゅぅっと膝の上に置いた拳を握り締める。
考えなければいけないことはたくさんある。
人間界では王都に戦力が集められ、魔界との全面戦争に備えて着々と準備が進んでいると言う。
聖騎士や学園の生徒まで動員して、国中の物資が運び込まれていく様からも、民間人たちは大掛かりな戦争が起きると覚悟しているらしい。
だが、人間界に暴動や恐怖が蔓延していないのは、ただ一つ――神殿に正天使が顕現し、”神託”とともに魔王討伐の”切り札”を授けたためらしい。
(”切り札”、などと――!)
手塩にかけて育てた子供をそんな風に扱われ、腸が煮えくり返る。
寵愛を授けられた人間は、眷属と同じく、名前で縛られれば寵愛を与えた天使に絶対服従になると聞いた。おそらくアリアネルは、正天使の傀儡となって、人間勢力の”切り札”として前線に立つのだろう。
駒のように体よく扱われるに違いない。
今のアリアネルは、人間としては驚異の戦闘力を誇る個体だ。人間であるうちは、魔族の魔法も使える。
きっと、戦争では最強の人間として魔法を駆使して特攻をさせられ――戦いの最中で死ねば、眷属として有効活用しよう、という腹積もりであることは明白だ。




