325、絶望の日々④
その日、珍しくミュルソスは緊張していた。
しかし、第二の主と仰ぐゼルカヴィアと何度も事前に計画をすり合わせ、覚悟して臨んだことだった。今更、退くわけにもいかない。
「あと何人の謁見が残っていいる」
「もうしばし御辛抱を。次が最後でございます」
ひと際長い魔族生成の不在期間を経て戻って来た魔王は、続く謁見の列にうんざりした声を上げている。
いつもなら柔らかく受け止められる言葉だったが、ミュルソスは内心、ひやひやしながら返した。
面と向かって主に歯向かっているわけではないが、明確に主の意向に背く行為であり、苦言を呈されるとわかっていることを実行するのは、本能で縛られる魔族にとっては胃が痛い。
「それでは、次の者――入室を」
「はっ」
低い声が響き、薄暗い前室から、宵闇色の長髪を束ねた青年魔族が歩み出る。
「……?」
魔王は眉を顰めて、軽く首を傾げる。
――見覚えのない、魔族だった。
豪奢なシャンデリアに照らされ、緋色の絨毯をまっすぐに歩いてきた魔族は、完璧な所作でスッとひざを折り、恭しく礼をしながら、口を開いた。
「私の名前は、ゼルカヴィア。お目にかかれて光栄です。――父上」
ビクリ、と魔王の眉が不愉快を表すように跳ね上がる。
聞き覚えのない低い声が、冗談にもならないことを告げたのだ。一瞬で、謁見室の空気が氷点下まで下がったような錯覚を覚えるほど、殺気にも似た威圧感が室内を満たす。
不愉快だ、と言って、すぐにでも首を垂れる魔族の頭を刎ねかねない魔王に、ミュルソスはそっとフォローを入れる。
「魔王様。よくご確認ください。冗談を申しているわけではありません。――貴方の御子息、ゼルカヴィア殿ですよ」
「何――?」
ぎゅっと魔王の眉根が寄った。ゆっくりと立ち上がり、疑惑の視線を落とす。
「御無沙汰しております。……どうにも、ミュルソスの話は聞き入れていただけないようでしたので、直接お願いに参った次第です」
底冷えするような視線にも、一切怯むことなく、ゼルカヴィアは当たり前のように告げる。
「……俺の息子は、お前のような男ではない」
「いいえ。よくご存じのはずです。幼い頃も、月に一度、魔族の組成になったときは、この外見になっていました」
「今日は、新月ではない。まして、夜でも――」
「えぇ。随分と前から、身体の周期が変化しております。今では、月に一度、新月の夜にだけ、人間の組成――父上もよくご存じの、金髪の人間の姿になります。魔族としての身体では、魔法も問題なく使えるようです。今では、ミュルソスすら圧倒するようになりました」
「何……?」
俄かには信じられず、ミュルソスを見やるが、軽く目を伏せて頷かれれば、それ以上追及は出来ない。
「……顔を上げろ」
「はっ」
どうにも信じられずに命じれば、まるで配下の魔族のように、男は従順に従った。
魔王派自ら階段を降り、跪くゼルカヴィアに近づく。
至近距離で眺めると、眼鏡をかけた青年は、よくよく見れば確かに、記憶の彼方の面影を残しているように見えた。
「ゼル……?」
「はい。……父上」
困惑するように口にされた懐かしい愛称に、ゼルカヴィアもどこかぎこちなく返事をする。
こうして顔を合わせてまともに言葉を交わすのは、約千年ぶりだ。悠久を生きる存在とは言え、感慨がないわけではない。
しばらく、目から入ってくる情報と今まで聞いた情報を整合していたらしい魔王は、どうやら目の前にいる男が己の息子であることは受け入れたらしい。
その瞬間、キッと鋭い目つきでミュルソスを振り返った。
「ミュルソス。これはいったいどういうことだ」
「っ……ゼルカヴィア殿より、直接魔王様にお会いしたいとの申し出がありましたので、謁見を促しました。魔族であれば、誰でも使える権利ですので」
「父上、ミュルソスを責めないでください。私が頼んだのです」
主君に容赦のない視線を向けられ、冷や汗をかきながら答えるミュルソスを必死にゼルカヴィアが庇う。
「このように、今の私は魔族として生きていけます。魔法も、頭脳も、今やミュルソス以上と自負しております。どうか私を、魔族として――父上の右腕として働かせてください!」
「何を馬鹿な――お前は、魔族ではない!」
息子の申し出を、魔王は強い言葉で一蹴する。
目の前に、千年逢っていなかった息子がいると認識すれば、同時にズキズキと頭が痛みだした。
どうしても、ゼルカヴィアの顔を見れば、天使に攫われ、肝が冷えたあの日の記憶がよみがえってくる。
ぐったりとして息も絶え絶えになりながら、蒼い顔で必死に父を呼び、手を伸ばす光景が脳裏に焼き付いて離れない。
「誰がそのようなことを頼んだ!余計なことを考えず、お前は城の深くで魔族に守られていればいい」
「私も、父上のお力になりたいのです!」
「脆弱な子供に助けられねばならんほど落ちぶれてはいない!」
言い募るゼルカヴィアの言葉を振り切って、魔王は踵を返す。
「父上!」
「ミュルソス。執務室を整えておけ。執務に戻る」
「父上!話を聞いてください!」
立ち上がって叫ぶが、魔王は聞く耳を全く持たない。
結局、千年ぶりの親子の邂逅は、全く相互の理解が深まることなく、終了したのだった。
◆◆◆
「こちらが、本日の報告です」
どさり、と机に置かれた書類をチラリと見てから、魔王はすぅっとミュルソスを見上げる。
「……いつもの報告書は、もういいのか」
「おや。お気づきでいらっしゃったのですか。お持ちしなくなってもうかなり経つのに、一度も言及されませんでしたので、てっきりお忘れなのかと思っておりました」
困ったような笑みで、それでもチクリと刺し返されるあたりは、環境がミュルソスに与えた変化なのかもしれない。
魔王は鼻の頭に皺を寄せてから、何も言わずに書類へと眼を通す。
いつもながら、一部の隙も無いわかりやすい報告書だ。
「ゼルカヴィア殿に私がお教えできることはもう何もありません。育成に関する報告書など必要ないでしょう。もはや、坊ちゃん、とお呼びすることなど出来ないほど、逞しく立派な、誰よりも魔族らしい魔族でいらっしゃいます。魔王様のご意向を組み、魔界を第一に考え、聡明な頭と確かな実力で、魔王様不在の城を差配していらっしゃいますよ」
「俺は、そんなことをしろと命じた記憶はない」
「魔族の序列に、強さと言う概念を取り入れたのは魔王様でしょう。名実ともに、序列第二位の魔族と言って良いのではないでしょうか。――この報告書も、殆どゼルカヴィア殿が作成されているのですよ」
心の中で、一部の隙も無い報告書だと褒めてしまったことを指摘されたようで、ぐっと言葉に詰まり、眉間に皺を寄せる。
「いじらしい御方です。天使との一件以降、強さが序列の概念に組み込まれた我らにとって、人間の組成が主だったころのゼルカヴィア殿は、『魔王様の息子だから』という理由以外では、お立場がありませんでした。誰も彼も、口には出さぬものの、実力にそぐわぬ待遇であるとゼルカヴィア殿を侮り、腫れ物に触るようにして、悪い意味で特別視しては、遠巻きにして眺めるばかりでした」
「何――?」
「いつもの報告書には何度もそうした実態をお書きしましたよ。一度も目を通して頂けませんでしたが」
顔色を変えて身を乗り出そうとした魔王をチクリと牽制する。ぐっと魔王は言葉に詰まって再び椅子に沈み込んだ。
「そんな状況を、ご自身の努力で跳ね除けられたのです。今や、ゼルカヴィア殿の実力を知らぬ者はこの城におりません。逆立ちしても敵わぬ存在として認識し、魔王様のお子に相応しい御方だと認めています。分不相応な待遇だと侮る者もおりません。……魔王様。どうか、ゼルカヴィア殿を魔族として認めていただくことは出来ないでしょうか」
ぐぐっと眉根を寄せて魔王は黙り込む。外堀を順番に埋められて、反論の糸口を探すのが難しい。
「天使に再び狙われでもしたらどうする。生きていくのに、人間のような食事ではなく、瘴気だけを摂取すればよくなったのであれば、むしろ好都合だ。なおのこと、城の奥で大人しくされている方が護りやすい」
「もう、ゼルカヴィア殿は何もできない子供ではありません。今や、魔族の中では最も強い御方です。高位天使がやってきたとて、ゼルカヴィア殿が勝てないなら他の魔族が束になっても敵いません。そういうレベルに達していらっしゃるのですよ」
ミュルソスは、第二位階相当と戦えるように造っている。”制約”のせいで生成中に集中が奪われた他の上級魔族たちは、戦闘に特化させようと思ったところで、最後までミュルソス以上の戦闘力を付与することは出来なかった。
そのミュルソスよりも上、ということは、少なくとも第二位階の天使と対等に戦えるレベルと言うことだ。確かに、それならば、正天使が直接乗り込んででも来ない限り、ゼルカヴィアを拐かすことなど出来ず、その際はどれだけ城の奥に引っ込んでいても関係ない。魔王が直々に相手をしない限り、再び魔族は絶滅の危機に瀕するだろう。
「最近、勇者と呼ばれる人間たちが魔界に挑んでくるようになったのは報告書でご存知でしょう。脆弱な人間ごときが、何度挑んで来ようと、我ら魔族に敵うはずもありませんが、彼らは”進化”する生き物です。何千、何万と年月を経れば、魔族に匹敵する力を得る可能性もあります。そうなる前に、早急に魔界を盤石な体勢にし、一枚岩で事に当たらねばならぬ――と、ゼルカヴィア殿はお考えです」
「む……」
普段、魔王が考えていることと同じ思考の流れに、魔王は唸って黙り込む。
「今も、ゼルカヴィア殿は己の出来る範囲で魔界のために奔走しておいでです。ですが、魔王様のお墨付きがないせいで、不都合も生じています。魔王様が体調を大きく崩されるから、と言って城では魔王様と鉢合わせしないように細心の注意を払っておられますが、そのせいでゼルカヴィア殿が着手できる仕事の範囲が狭まっているのも事実です。……ゼルカヴィア殿の外見をご覧になったでしょう。魔族としての外見であれば、アリアネル様の面影は強くありません。どうか、ゼルカヴィア殿を一人前の魔族と認め、臣下として尽力する仲間と宣言して下さらないでしょうか」
真摯に頭を下げるミュルソスに、魔王はしばし黙って考え込む。
謁見室に現れた、見覚えのない外見の青年魔族は、確かに、愛する女の面影と直結するものではなかった。
能力は、これほどミュルソスが力説するのだから、きっと問題ないのだろう。
問題があるとすれば――魔王の心の持ちよう一つだ。
「……ゼルに、仕事を任せることは容認しよう。妙な気を勝手に回さず、自由に城を動き回ればいいと伝えろ」
「魔王様――!」
ぱぁっとミュルソスの顔が明るくなる。
しかし、と魔王はミュルソスの喜びを遮って伝える。
「あくまで、ゼルは、魔族ではない。魔界の序列とは関係ない所にある存在であり――俺の、子供だ。ゼルの能力がどうであれ関係なく、魔族全員がゼルのために献身を捧げるべしという掟に変更はない」
「!」
「ゼルは、臣下ではない。仲間、などというものでもない。――俺が、命を賭して守るべき存在だ。リアが、俺のために遺した、”希望”だ。唯一無二の特別であり、代替など不可能な存在だ」
魔王は澱みなく言い切り、ミュルソスら造られし命との明確な線を引く。
「俺は昔、リアの純潔が奪われ、眷属とすることが叶わないと悟った時、生きる意味を見失ったことがある。リアがいなくなり、世の中から”彩”が消え、白黒の世界に閉じ込められることを考えれば、絶望しかなかった。……ゼルがいなければきっと、リアが死んだ時点で、同じことを考えていただろう」
「魔王様……」
「だが、今は違う。……ゼルがいるから、俺は、生きている。ゼルが何も心配することなく”幸せ”に生きられる世界にするために――そのために、天使が邪魔なら天使を滅ぼす。魔界の”幸せ”を壊さんと人間が魔界に侵略してくるらなら、受けて立とう。……それだけが、今の俺が、ゼルにしてやれることだ」
愛する存在を無情に奪われ、世界から”彩”は掻き消えた。
天使への憎悪だけが募り、白黒どころか、視界全てを真っ黒に塗りつぶされていくような錯覚を覚えた。
気が狂いそうになる絶望の奥底で――それでも、膝を付かずに立ち上がり、前に足を進められるのは、ゼルカヴィアという存在があるからだ。
たとえ自分に何があっても守り通す――と口にしていたリアの言葉は、真実だ。
誰を敵に回し、世界を焦土に変えようと、ゼルカヴィアを守れるのは自分だけなのだ。
そのために、血反吐を吐きながら全身を耐えがたい苦痛が襲い続けるとしても。
「ゼルは臣下ではない。”家族”だ。序列の外にある存在であり、俺がゼルに期待する『役割』などない。本人がやりたいと動くことを止めはしないが、危険に首を突っ込むような真似だけは決してするな、と釘を刺しておけ」
軽く顔を顰めるようにして言い放つのは、不機嫌なのではなく、じくじくと痛みを発しはじめた頭を庇ってのことなのだろう。
深く深く根付いた”愛”と、そのせいで苦しむことを余儀なくされている現状に、ミュルソスは痛ましげな顔を見せてから、静かに主の言葉を拝命した。




