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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第十五章

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321/350

321、天変地異④

 喉の奥から血の塊がせり上がってくる気配がある。


「――封天使ぃっっ!!!!」


 吐血で阻害されるより先に、正天使は掠れた声で怒号にも似た声量を出し、飛び上がりかけた部下を制止した。

 驚き振り返る封天使に向かって、有無を言わさず抱えた子供を放り投げる。


「チッ――!」


 襲撃者の気が、放られた子供の方に向いた隙を突き、背後の男の腹のあたりを蹴り飛ばすようにして、身体を貫いた剣から逃れる。


「治天使に乞う!癒せ!」


 激痛を堪えながら腹に手を当てて正天使は叫びながら蹴り飛ばした男を振り返る。忌々しい女天使は、何が気に入らないのか、同じ第一位階とはいえ名前は教えないなどと生意気なことを言うせいで、名前で命令することが出来ない。原始的に呪文を唱えなければならないのは、こういうときに煩わしい。

 最低限の治癒を施しながら、腰に帯びた剣を一息で抜き放つ。一瞬身近に迫った落命の危機に、爛々と瞳が輝き、戦を司る天使としての本能が燃え上がるようだった。


「まさか、かつて人間を栄えさせることを『役割』と据えていた存在が、こんな実力行使に出るとは思わなかったよ――魔王!」


 吼えるように叫んで、剣を振り被り、一直線に憎い美貌に切りかかる。


「いくら”門”が無くなったからと言って、まさか、大地――魔界のそらを物理的に割り開いて、飛び出してくるなんて、ねっ!」


 地天使の魔法が発動しなかった理由も今になればわかる。天変地異とも言える大地震は、魔王によって作為的に引き起こされた地天使の魔法だった。

 既に地天使の力を引き出す形で、大地を割るという魔法が展開されていたのだ。同時に地天使に大地を留めろと命令したところで、相反する二つの命令を同時に聞くことは出来なかった――ということだろう。


 発する呼気に合わせてガッと危なげなく切り結んだ先の魔王の額に、珍しく汗が浮かんでいるのがわかり、思わず正天使の愉悦がこぼれた。


「いつだって余裕を崩さない君が、随分と焦っているようだね!そんなにも――あの脆弱な子供が大切かい!?」

「黙れ――!」


 魔王は、嬉々として襲い掛かってくる正天使に興味など無かった。

 彼の目的はただ一つ――天使の腕でぐったりとしている、幼い息子の奪還だ。


「封天使――***!子供を返せ!」


 急に始まった天界魔界の頂上決戦に困惑していた封天使は、魔王が張り上げた声にびくりと肩を揺らす。

 何のためらいもなく魔王の命を取らんと襲い掛かる正天使の攻撃を捌きながら、魔王は絶えず封天使の抱える子供から視線を外さない。

 

「っ、ぁ――」


 名前を知られている存在。敬愛するかつての至上の主。『役割』として、決して抗えぬ者――そんな相手に命じられては、逆らうことなど出来ない。

 封天使は、ごくりと息を飲み、何度も切り結ぶ二人へとゆらりと近づいた。

 視界の端でそれを捕らえた正天使は、戦場で人間を鼓舞するような力強い声で叫ぶ。


「***!魔王に与することは許さない!今すぐ天界へ子供を連れていけ!」

「っ――!」


 ビタリっと封天使の身体が意に反するようにして硬直する。

 正天使と、命天使。

 この世に生を受けてから、悪用されることを避けるためにと、必ず命令に従わなければならないと定められたのは、この二人だけ。

 その二人から、全く相反する命令を受け、封天使は本能に抗うことが出来ず、目を泳がせる。

 

「チッ――雷神槍(ライトニング)!」

暴砂嵐(サンドストーム)!」


 雷の轟音と共に、魔王が寸分たがわず封天使を狙って射出した稲光に反応し、正天使は生み出した暴風で動けない封天使を無理矢理に上空へと攫う。一瞬遅れて、先ほどまで封天使の頭があった空間を、雷光の矢が貫いて行った。

 何の手加減もなく、急所を射抜くように放たれた魔法からも、魔王は封天使を殺してでも子供を奪い返そうとしていることがわかる。怒りと焦りで、なりふりなど構っていられないのだろう。


 空中で繰り広げられる派手な人外最強同士の戦いに、混乱していた地上の人間たちも気づいたようだった。壊滅した都市の中から空を見上げ、ざわめく気配が広がるとともに、不安に後押しされて瘴気が濃くなっていくのがわかる。


(っ――聖気が、薄い!魔法の打ち合いでは不利になる!)


 翼に溜めている聖気の残量を気にしながら、正天使はすぐに魔王の懐へと飛び込み、剣を交える。

 

「***!早く行け!天界までその子供を攫えば、僕らの勝ちだ!」

「行かせん!」


 有無を言わさぬ命令をかき消す言葉と共に、魔王は山の高さほどはあるのではないかと錯覚するような朱い津波を地上に召喚する。


「な――!」


 眼を見開く封天使に構うことなく、魔王は津波とは真逆の方角にある山を一瞬で蒼い炎で包みこんだ。

 両側から迫る自然の脅威に、人間界が阿鼻叫喚の地獄へ図へと変わっていく。


「貴様――気でも触れたか!?魔王!」

「さぁ、***――!お前が護らねば、その視界に映る全ての人間が死ぬぞ!」


 正天使の色を失った呼びかけすら無視する魔王の蒼い瞳に、冗談の色はない。

 

「ぁ――ぁ、ぁ、あ――!」


 封天使は、真っ青な顔で唇を戦慄かせながら、翼を広げて聖気を全て放出し、洪水と灼熱の炎から人間界を守る円形ドーム状の結界を展開する。

 結界に辿り着いた途端、ジュワッ――と音を立てて阻まれた魔法は、さすが魔王のものと言わざるを得ない。一瞬でも気を緩めれば、すぐに力推しで負けてしまうほどに強力だった。


(っ――動け、ないっ……!俺が今、ここを後にすれば、尋常ではない人間が犠牲になる――!)


 封天使の後方で、刃が何度も交差する耳障りな音が響くが、そちらに視界を移す余裕などどこにもない。少しずつ迫ってきているような気がするのは、何度も魔王が正天使を振り切っては近づき、正天使が追い縋っていく手を阻み、を繰り返しているためだろう。


「……ぅ……」


 抱えている子供が小さく呻き、身じろぎする気配がする。高位天使が纏う聖気のせいで上手く空気が吸えていないはずだったが、地上から立ち上る瘴気のせいで、僅かながら意識を取り戻しているのかもしれない。


「……とぉ……さ、ま……」

「ゼル!!!」


 虫が鳴くような声で父へと手を伸ばす子供に、背後からかつて主と仰いだ男の聞いたことがないほど焦る声がする。

 

(集中したい――いっそここで子供を手放せば、どうなる――?)


 つぅ――と額から伝う汗を拭うことも出来ぬまま、心の中でそんな考えが頭をもたげる。

 意識を取り戻しつつある子供など、面倒な荷物でしかない。この厄介な荷物が無くなれば、もっと人間を守る魔法に集中できるはずだ。より多くの人間を救うために必要だったと言えば、正天使の命令に背いたというお咎めから逃れることは出来ないだろうか。

 ここで手を離せば、重力に従って子供は無常に落下していくだけだろう。だが、全能に最も近い位置にいるかつての主ならば、落下する子供を何とか救い出す術を持っているはずだ。


(もたもたしていれば、人類の危機を前に、流石に看過できぬと、やがて高位天使たちが押し寄せるだろう。造物主がどうご判断されるかは未知数だが、命天使様に失望したと吐き捨てていた雷天使や、過去の確執から命天使様の味方になることはないだろう治天使様が現れれば、命天使様の不利は確定する……)


「ケホッ……とぉ……さ……」


 腕の中で必死に遠くの父に助けを求めるように手を伸ばす幼子に、焦燥が募る。


「ゼル!!」

「行かせないっ――!」


 争う声は近くなり、ドクドクと心臓が緊張で脈打つ。

 正天使が口にした論理もわかる。天界がこの子供を確保することで保たれる安寧があるのも事実だろう。

 だが封天使は、扱う能力の性質上、決して人間に対して友好的とは言い難い性格に造られているとはいえ、その根底は魔王が手ずから造った純正の”天使”であることに変わりない。

 人間に対し好意的かどうかは別次元として、前提、人間を繁栄させることを命の役割として据えられており、その根幹にあるのは”善”の気質だ。

 

 魔界で、第一位階を魅了するくらいに眩しい光を発する清らかな魂の人間を前に、彼女の幼い子供の目の前であらゆる加虐を尽くして殺されていくのをただ見ていろと言われたことは、封天使の情緒をかき乱した。

 心の中心には”善”の気質が根付き、人間を――特に心の清らかな存在を助け、幸せにすることを使命とする本能があるからだ。


 手を下したのは天使(じぶんたち)ではなく人間――などというのは、詭弁だ。

 正天使が吹き込んだ情報で、彼女は殺されたのだ。手を下した人間たちは、まさかあの女が、人間だったなどとは思っていないだろう。きっと、他と同様、人間に仇なす脅威的な未知の種族――魔族の一味だったと思っているはずだ。

 

 封天使にとって、敬愛する命天使を狂わせた元凶である女は、決して好ましくなかったことは事実だ。あの女さえいなければ、と思ったことは数知れない。

 本来、誰よりも『役割』に忠実に生きていた孤高の主が、己の目的のために世界に天変地異を巻き起こし、子供を取り戻そうと必死になる姿など、見たくなかった。利己的な振る舞いとも取れるそれを引き起こしたのが、あの女の死であり、子供を攫われたという事実であるならば、彼から”家族”を奪えば、また、在りし日の敬愛する彼の姿を取り戻してもらえるのかもしれない。


 だが、それでも――魔界で聞いた「自分はどうなってもいいから」「子供だけは」と懇願する女の悲痛な声が、今も鼓膜にこびり付いているような気がする。

 どれほど正天使が詭弁を弄そうが、目の前で助けを求める清らかな魂の持ち主を、それを助ける術を持っているはずの自分が見殺しにした事実は変わらない。 


「ぁ……ぁぁ……」


 敬愛する命天使によって本能として刻み込まれた、『役割』に悖る行いをした。

 そして今、そんな自分を棚上げし、「世界の安寧のために」などと言って、結ばれたはずの不可侵の約束を一方的に破り、彼に残った唯一の希望を取り上げようとしている。


「返せ――返せ!!!それは、俺の――たった一人の、息子だ!」

「往生際の悪い――!くたばれ、魔王!」


 すぐ近くに迫った声の後、ザシュッと痛々しい音が響く。

 思わず目を向けると、封天使に手を伸ばした魔王の背中に、正天使が切りかかり、鮮血が宙に舞っていた。

 見れば、正天使も魔王も、血だらけだ。完全無敵と言える魔王がこれほど血だらけなのは、何度も封天使の腕で苦しそうに父を呼ぶ子供を取り返そうと気を取られているからだろう。

 真正面から切り結べば決して勝つことは出来ない男を相手に、善戦しているという事実が嬉しいのだろうか。正天使は、悪魔のような笑顔を浮かべて、愉悦に瞳を爛々と輝かせていた。


 ――どちらが、悪なのか。

 清らかな魂の人間を惨殺し、子供を人質にして卑怯な手で戦うことしかできない自分たちと、ただ、己の子供を取り返そうと必死になる男と。


「――訳……申し訳……あり、ませ――」


 純正の天使である封天使には、限界だった。

 良心の呵責に耐えかね、子供を滑り落とすようにして手から離す。


「――!」

「封天使!血迷ったか!!!」


 がらりと顔色を変えて正天使が叫ぶが、魔王の行動は早かった。

 空中ですぐに軌道を変え、一直線に落下する幼子へ向かって速度を上げる。


「くっ――逃がすか!」


 正天使が叫び、再びその背中へ切りかからんと翼を広げた瞬間――


 ざぁ――!


「何――!?」


 突如、目の前が黄金一色に染まる。

 思わずたたらを踏むように制止すると、人間界が俄かに騒がしくなった。


「何だあれは!?」「金だ!黄金の粒だ!」「触るな!俺のモノだ!」


 恐怖で膨れ上がった瘴気が、空一杯を覆う黄金のヴェールに煽られた強欲で更に濃度を増す。

 黄金を跳ね除けて魔王へと追い縋ろうとするも、膨れ上がった吐き気を催すほどの瘴気に、正天使が思わず苦悶に顔を歪めた瞬間、一振りの剣が、黄金の分厚い幕を貫いた。


「っ、ぐぁあああああああああっっ!!!」

「正天使様!」


 先ほどまで魔王が手にしていた剣が、まっすぐに正義の天使の右目を貫く。


「――殺してやる――」

「「――!」」


 重力に従って薄くなっていく黄金の幕の向こうから、おどろおどろしい声が響いた。


「言ったはずだ……俺の子供(ゼルカヴィア)に手を出せば、世界を焦土に変えてでも抵抗する、と――!」


 微かに見える黄金の向こうには、血濡れた手で幼い子を抱えたまま落下していく魔王の姿があった。


「リアを殺したこと――ゼルを奪おうとしたこと――骨の髄まで後悔させてやる――!」


 謝罪も、命乞いも聞かない。課せられた『役割』にすら興味がない。

 天界は――決して踏んではいけない虎の尾を踏みつけたのだ。


「望み通り、人間界を蹂躙してやろう――この世を瘴気で蔓延させ、天使の生きる糧を奪い、一人残らず貴様らを殺してやる――!」


 地の底から響くような声は、世界最強の力を持った男が、”幸せ”を壊され、狂気の復讐鬼へと変貌したことを如実に語っていた。


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