32、お兄ちゃん①
少女が物心ついたころには、既に当たり前になっていたので、疑問に思ったことはなかったが――アリアネルには、月に一度だけ会うことができる、優しい”お兄ちゃん”がいる。
「さて、それでは日中の鍛錬は終わりです。シャワーを浴びたら、ロォヌがおやつを用意してくれているはずですよ」
「やったぁ!」
息を弾ませながら笑顔を見せるアリアネルに苦笑する。
「貴女がおやつを食べている間、私は魔王様の元へ行きます。その後、いつものようにすぐに旅立ちますので、あまり時間がありません。何か、今のうちに私に伝えておくことはありますか?」
汗で顔に張り付いた髪を取り除いてやりながら尋ねると、アリアネルは目を瞬かせて何かを考える。
「すぐ、行っちゃうの?」
「えぇ。日が暮れる前に行かねばなりませんから」
今の季節、まだまだ日は短く、日没が早い。
「約束は覚えていますね?」
「うん。……”お兄ちゃん”がいるときは、部屋の外に出ない。魔族の誰かが訪ねて来ても、ドアを開けない。”お兄ちゃん”を困らせないように、いい子にする」
「その通り。アリアネルは賢いですね」
少し寂しそうな顔で、かつて交わした約束を諳んじる少女の頭を撫でてやる。
生まれて、物心がついたころから四六時中一緒にいるゼルカヴィアと離れるのが寂しい、という幼女の心理は理解するものの、いかにアリアネルに甘いところがあるゼルカヴィアとて、どうにも出来ないことというのはある。
「魔王様の密命ですから。……密命、とは何か、覚えていますか?」
「みんなには知られちゃいけない、ひみつの命令……」
「そうです。だから、そもそも私が部屋にいないこと自体、誰にも知られてはいけないのです。私はいつも通り部屋にいて、貴女もいつも通りの毎日を過ごした――そのように振舞わねばなりません」
「うん」
「だから、いかにもそんな、泣きそうな顔で寂しさを表に出してはいけません。何があったのか、と疑われてしまうでしょう?……大丈夫。新月の夜だけです。一晩明ければ戻って来ますし――”影”を置いて行きますから、寂しくはないでしょう?」
「……うん。”お兄ちゃん”に会えるのは、嬉しい……」
それは事実なのだろう。昨夜も、嬉しそうにはしゃいでいた。
しかし、ぎゅっとゼルカヴィアの衣服の裾を掴んで睫毛を伏せるその表情からは、ゼルカヴィアと”お兄ちゃん”の両方と一緒にいたい、という少女の声にならない要求が十分に察せられた。
ゼルカヴィアは苦笑してから、そっとアリアネルの脇に手を差し込み、ひょいと抱き上げる。
生まれて初めてこの少女を手に抱いた時とは比べ物にならないくらい重たくなった身体に、こうして抱き上げてやれるのもあとどれくらいか――などと、考えても仕方のないことを考える。
(どうやら人間には、『思春期』とかいう時期があるようですからね。ゼル、ゼル、と言って可愛らしく引っ付いてきてくれるのも、今のうちだけでしょう)
人間ですら、可愛らしい期間は一瞬だと言われているというのに、人間とは異なる時間軸を生きる魔族にとって、きっとそれは驚くほど早くやってくるのだろう。
「アリアネルは、甘えん坊さんですねぇ」
「ぅ……違うもん。アリィ、もう、五歳だもん」
「おや。そうでしたね。月日が経つのは早いものです」
アリアネルは、物心がついたころから、ゼルカヴィアの仕事の邪魔をすることはほとんどなかった。
生きているだけで呼吸が苦しい魔界の中で、弱音の一つも漏らさず――自分と魔族は異なる存在だと知らされ、”パパ”と慕っていた魔王の怨敵である正天使の加護がつけられていると知っても、己の境遇を静かに受け入れて見せた。
無邪気で、物おじせず何にでも興味を示す好奇心旺盛な子供ではあったが――手のかからない子供と言って差し支えないだろう。
(子供なりに、状況を察して、”聞き分けの良い子供”を演じている側面もあるんでしょうが)
アリアネルが生きていく上で、ゼルカヴィアに嫌われないことは必須条件だ。
天使に愛されるほどの善性を極めた魂の持ち主であるアリアネルは、まっすぐな性根のそのままに、他者に媚びるような振る舞いはしないが、時折、ゼルカヴィアの様子をうかがって、今は話しかけても良い時なのか、何かをねだってもいい時なのか――顔色を伺っているようなそぶりを見せるときがあった。
(妙な所に聡くなってしまったものです。……そんな風に育ててしまったのは私ですが)
魔王や他の魔族から、この脆弱な命を守るため――と言っても、言い訳にしかならない。
そもそもアリアネルが魔界にいること自体が、魔族側の事情による、身勝手な行為の結果でしかないのだ。
「今日は、特別ですよ。浴室までこうして連れて行ってあげましょう」
「うん」
ぎゅ……と首に縋りついてくるアリアネルに苦笑を刻んで、ぽんぽんと背中をあやすように叩いてやる。
アリアネルが人間で、正天使の加護を持つものだと伝えた日から、時折こうした表情を見せるようになった。
”かぞく”という形態にこだわり続けるアリアネルは、ゼルカヴィアにある日突然置いて行かれる恐怖を拭えていないのだろう。
日常生活の中でも、仕事で少し部屋を空けるだけで、アリアネルは不安そうに瞳を揺らす。我儘になるとわかっているせいか、決して不安を口に出したりはしないが、いつもの眩しい笑みを造り出す竜胆の大きな瞳が戸惑うように揺れるのは、すぐに分かった。
伊達に、赤子のころから彼女を育てているわけではない。
(とはいえ、今日は珍しいですね。昨日、寝る前はあんなに”お兄ちゃん”に会えると喜んでいたのに――)
何か不安に駆られるような夢を見たのか、勉強の合間に読んだ書物で妙な知識を得てしまったのか。
「アリアネル」
「ぅん?」
「昔言いましたが――”影”は、姿かたちは違いますが、私の分身のようなものです」
「?……うん」
「”影”が貴女の傍にいる以上、私は貴女を置いてどこかに行ったりはしませんし――”影”の思考も、性格も、私とほぼ相違ありません。……あぁ、でも、魔力や戦闘力に関しては頼ってはいけませんよ。あれは、一般的な人間と変わりない程度の、脆弱な存在ですからね。彼と一緒にいるときに、危険なことをするのは絶対にダメです」
歩きながら、口酸っぱくいつも言い聞かせていることを繰り返す。
「ですが、思考に関しては私と全く同じです。そして――私の記憶もそっくり引き継いだ状態で、置いて行きます」
「うん」
「だから――寂しければ、貴女のいう”お兄ちゃん”に、私にするように甘えなさい。きっと、私と同じ反応を返しますから」
苦笑して、うつむいていた少女の額にそっと唇をつけてやる。
ゼルカヴィアが新月の夜のたびに”影”を置いて行くのは、アリアネルの精神的負荷を軽減するためだった。
最初は、単純に、乳飲み子の状態で一時でも目を離すと死にそうだから――という理由だったはずなのに、いつの間にか、独りになったアリアネルが泣かないように、と目的がすり替わっていた気がする。
相手に『大好き』を伝える愛情表現だと教わったキスを受けて、アリアネルは口付けられた額を抑えながら頬を嬉しそうに緩ませる。
少しは安心したらしい。
「ねぇ、ゼル」
「はい、なんですか?」
「アリィ、おやつ我慢するから――アリィも、パパのところについて行っていい?」
ぱちぱち、とゼルカヴィアは驚いたように何度か瞬きを繰り返す。
幼女らしく、甘いものに目がないアリアネルが、一日の中で一番楽しみにしているおやつの時間を捧げてでも――などと言い出すとは思っていなかったのだ。
「明日は雪ですかね……?」
「?」
「いえ、何でも。ですが――まぁ、そうですね。いいでしょう。大した機密事項があるわけでもないですし」
何故かいつにもまして不安定なアリアネルの心理的負荷を考え、ゼルカヴィアは快諾する。一緒にいられる時間を長くすることはもちろん――アリアネルが心から慕っている魔王に会わせることで、少しでも心が安らかになるかもしれない。
ぱぁっとアリアネルの顔が一瞬で輝いた。
「では、早く汗を洗い流してしまいましょう。魔王様の御前に赴くのに、汗臭い身体では失礼です。嫌われてしまいます」
「うん!ねぇ、ゼル、お洋服は一番かわいい奴にしてね!」
「はいはい。全く……おませさんですねぇ」
頬を上気させて瞳を輝かせる姿は、大好きな”パパ”に少しでも可愛いと言ってほしい女心の現れだ。少女の初恋に近いのかもしれない。
(お父さんと結婚する――というのは、人間の幼女によくある発言と聞きますが。全く、魔界の王になんたる度胸……いえ、まぁ、出来れば全力で媚びておいてほしい所ですが)
来るべき時が来たとき――魔王が、少しでもこの少女を殺すのが惜しいと思ってもらえるように。
情状酌量の余地があると思ってもらえるように――
魔王に気に入られる、というのは、アリアネルにとっての最重要ミッションだ。
――本人は、そんな打算塗れのゼルカヴィアの思惑など、毛頭知る由もないが。
きっと、嘘の一つも吐くことが出来ない善性の塊のようなアリアネルには、汚い策謀など耳に入れぬ方が良いだろう。
自然体で、無邪気に魔王に体当たりでぶつかっていけるその心根こそが、元天使だった魔王の心を融解させる一番の秘訣だろうから。




