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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第十五章

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319/350

319、天変地異②

 住み慣れた城の一室に辿り着く。

 目の前に広がる光景を脳が処理することが出来ず、魔王の視界は黒く塗りつぶされていった。


「――リア」


 足元に転がるのは、既に温度を失った、物言わぬ躯。

 死者への冒涜とも言えるほどに念入りに破壊され、原形を辛うじてとどめているだけのそれを、躯と言っていいのかすらわからない。


 真っ暗になり行く視界の裏側で、脳裏を駆け抜けていく、穏やかで愛しい、”幸せ”な日々。

 太陽のない魔界でも輝きを放ち続ける眩しい命は、無味乾燥な世界に極彩色の彩を与えてくれた。


 最期に顔を見たのは、眠そうにしている息子を腕に抱いて、見送ってくれたときだ。「帰りを待っている」と優しく微笑んで、時折腕の中にいる息子に向かって母の顔をのぞかせながら、「大好き」といつもの言葉をくれた。


 そんな、特別ではなかった”幸せ”な日常は、あっという間に手が届かないところまで遠ざかり、極彩色の世界が、絶望と共に暗黒に塗りつぶされていく。


「……リア」


 零れ落ちるように漏れる言葉に、いつものように笑顔で振り返ってくれる存在はもう、いない。


 いつかは来るはずの別れだった。天界を追われたあの日以来、覚悟もしていた。

 だが、それでも――もう少しだけ、猶予はあるはずだった。


 想えば、生まれたときから憐れな運命を課せられた人間だった。

 身勝手な人間に生贄に捧げられたところから、全ては始まった。当時、さほど珍しくない風習だったそれを、ただ眩しい魂を持って生まれたために、正義の天使が見咎めた。あっさりと命を落とすはずだった運命が捻じ曲げられ、正天使に愛されることになった。

 そのせいで、神殿に閉じ込められ、人間に虐げられ続けることになった。

 そして、そこから助けてくれた天使も又、少女の魂に惹かれ――結果、天界の陰謀に巻き込まれ、太陽も出ない世界で生きることになった。


 天使ガリエルに愛され、魔王に愛され。

 ――ただ、愛されただけだ。


 彼女は、何もしていない。ただ、人ならざる存在の争いに巻き込まれただけだ。

 だからせめて、魔界で暮らす最期の人生は、穏やかに安らかに――そう、思っていたのに。


 こんなにも早く――こんなにも、無惨な形で、終わっていい命ではなかったのに。


「っ――」


 沸々と、腹の底から何かが沸き起こる。真っ黒に塗りつぶされた視界が、端からゆっくりと紅く染まっていくような気がした。

 その感情は、天界を追われる”禁忌”を犯したときに感じたのと、同じ――


「正天使――っ!」


 耐えがたく忍び難い、強烈な”怒り”。

 吼えるように口にして、魔王は血走った目で人間界へと去ったはずの天使を追い、踵を返す。


 許せない。許せない。許せない。


 心から愛した女を奪ったことも。”幸せ”な日々を壊されたことも。

 そして――


俺の息子(ゼル)に――何をするつもりだ――!」


 隅々まで探しても姿が見当たらない、愛しい女の忘れ形見にまで、薄汚い魔の手を伸ばしたことも。

 人間界へとつながる唯一の”門”へ向かって、魔王は一直線に駆け出していた。


 ◆◆◆


 バサッと力強い羽音を響かせ、正天使が魔界で翼に付着した血を煩わしそうに振るい落とそうとしていると、森の奥から、エメラルドの瞳の第三位階天使が現れた。


「正天使様……本当に、よかったのでしょうか……」

「ハッ……何を今更。そもそもそれは、何について言っているのさ?」


 封天使の蒼い顔の進言に、鼻で嗤い飛ばすようにして正天使は応える。

 言葉に詰まる封天使に見せつけるようにぐっと小脇に荷物のようにして抱えた子供を抱き直して、正天使は薄ら笑いを浮かべた。


「この子供を攫ったこと?それとも、造物主が造った、魔界と人間界を繋ぐ”門”をたった今、その手で壊したこと?」

「っ……」

「両方、って言いたいわけ。ははっ……魔王城襲撃に力を貸しておいて、今更」


 それは、正天使という存在に命じられたことには従わなければならないと、本能に刻み込まれているからだ。感情を優先して良いのであれば、誰がこんな卑劣な真似に手を貸すだろうか。

 そんな口答えなど出来るはずもなく、瞳を伏せて言葉を飲み込む。

 もとより、封天使が言いたいことなどお見通しだろう正天使は、思い通りに事が運んだ愉悦と相まって、歪んだ笑みを深めた。


「これは、正義の行いだよ。あの男が魔界に堕ちて数年――天界に蔓延する空気は君も肌で感じているだろう?」

「それは……」

「天使を新しく生み出せなくなったことによる、滅亡の不安――魔族と言う未知の存在の誕生に伴い、自分たちの存続が脅かされる恐怖。寵愛を付けた人間だって、すぐに魂を穢して眷属として迎え入れる資格を失くしてしまうから、たった数年なのに、漠然とした不安が堆積している」


 それは、残った第一位階の天使の怠慢だ――と言い返す気概は、封天使にはなかった。


(先代の正天使様がいらっしゃる頃は良かった。第一位階の三名は互いに不足する部分を補い合いながら、対等な立場で天界を導き、天使たちのあるべき姿を体現しておられた。天界は安定していて、天使も人間と良い関係を築きながら、恒久の未来を信じていられた――)


 だからこそ、初代正天使が処刑されるとなった時には、助命を嘆願する者が後を絶たなかった。続いて命天使が処刑されるとなれば、大混乱は避けられなかった。

 それも、後者に至っては、命天使を憎らしく想っていた二代目正天使による策略であったことなど、誰の目にも火を見るよりも明らかだった。

 魔王となった男に向けられる眼は同情的なものが殆どで、彼が長年果たしてきた理性的な治世を想えば、己の感情一つで天界を大混乱に陥れかねない今の正天使に不安を持つ者が多いのも仕方がないだろう。


 それらを責めるのではなく、奮い立たせて前を向かせ、新しい未来を見るように叱咤すべきが、第一位階の天使としての責務ではないのか――

 かつての理性的な命天使を敬愛する封天使から見れば、今の正天使が大きな顔をする天界は、酷く生き辛い世界でしかなかった。


「瘴気を糧にする魔族――今はまだ、あの男も新しい生命体を生成するのに苦戦しているだろうから、個体数も少なく、人間界に影響を及ぼすことはないだろう。だが、やがて個体数を増やして行けば、魔界に溜まる瘴気だけでは足りなくなり、人間界に魔族が打って出るのは自明の理だ。そうなれば、ただでさえ個体数が少なく今後増える見込みもない天使はどうなる?聖気が無くなり、死滅するのは目に見えているじゃないか」

「それは……そう、かもしれませんが……」


 本当にそんな事態になるだろうか。

 天使が恐れている未来ごとき、あの造物主と対等であれと造られた聡明な頭脳が予想していないとは思えない。

 個体数が増えていき、人間界に影響を及ぼすようになったとしても――瘴気が蔓延しすぎないように、別の手を打つのが、何万年も天界を統治し続けてきたあの男ではないのか。


「だから、”門”を壊すことは理に適っている。”門”が無ければ魔族は地上に出て来られない。やがてあの男が、空間を繋ぐ新しい魔法を生み出す可能性はあるけれど、しばらくかかるはずだろう。その間に僕たち天使は、人間界でとにかくたくさん聖気を生んで、魔族の力を削いでおかなければいけないんだ。世界のバランスを保つために、必要な行いだよ」

「だから……魔王と魔族の存在を、人間たちに教えた、と……?」

「あぁ。人間を滅ぼさんとする諸悪の根源――その根城を叩けと正義の天使が言えば、盲目的に従うのが、人間だろう?これから人間界に魔族が現れるようになれば、必死に抵抗してくれるはずさ」


 封天使は、正天使の命令で魔王の城に踏み入った時のことを思い出す。

 中にいた魔族らは、天使と違い、人間を害することに何の躊躇も持っていないようで、正天使に唆されて急に襲い来た人間に驚いたようだったが、すぐに抵抗をはじめた。万が一にも人間を殺すことは出来ない天使には真似が出来ない所業だった。

 

「ですが……”門”を壊すことは、世界のバランスを保つための行いだったとしても――命天使様が寵愛を与えた人間を殺し、子供をかどわかすのは、いかがなものでしょうか。確かに、異端な存在であることは事実ですが――既に、造物主と命天使様との間で話し合いがもたれ、互いに不可侵であることを約束したと聞いています」


 チラリ、とエメラルドグリーンの瞳が動き、正天使が荷物のように小脇に抱えている子供の頭を見る。

 生まれたときから魔界で暮らしてきた子供が、高位天使の纏う聖気に包まれれば、呼吸もままならないのも無理はない。酸欠で顔を青くしながら、既に意識は朦朧としているようだった。


 敬愛する偉大な命天使の血を引いているとは思えないほど、脆弱な存在。

 異端な存在が生まれたという知らせは、天界にもかつてないほどの衝撃をもたらしたが、造物主と直接対話し、天使でも魔族でもなく、未知の生物であるため、すぐに殺すことはしないとの結論が出たと言う。

 当然反論する者もいたが、その子供に手を出せば、魔王が怒り狂うと聞けば、皆が口を噤んだ。

 自由に命を生み出すことが出来なくなった天界が、無限に命を生み出せる魔王が率いる魔界勢力と事を構えるリスクは大きい。純正の天使達は皆、命天使がいつもどこか醒めたような顔で冷酷な判断を下す圧倒的強者として君臨していた時代を知っている。

 何せ相手は、少しでも手を触れ名前を口にしさえすれば、問答無用と言わんばかりに一瞬で全ての天使の命を奪える固有魔法を持っているのだ。


 善悪の観点ではなく、いたずらに純正の天使を減らすわけにいかない天界の平穏のために、互いに不可侵を守り続けることは、理に適っていた。

 魔王はどこまでも恐ろしい存在だが――こちらが怒らせない限り、数万年にわたって理知的で理想的な治世を敷いてきた有能な存在であることもまた、皆が熟知するところだったから。


「全く……君は、馬鹿だねぇ」

「なっ!?」

「逆だよ。天界の平穏のために不可侵を貫きたいならなおのこと――この子供は、天界に置いておかなければならない」


 ふっと笑って、正天使はぐったりとした子供を軽く抱え直す。飴色の小さな頭が揺れて、苦悶の声が消え入りそうに漏れた。


「この子供が将来何かしら世界に不利益をもたらすようなことがあり、天界として排除しなければならないと判断したならば、魔王は天界と全面的に事を構えると、造物主に啖呵を切ったらしいじゃないか」

「そうです。だから、明確な問題があると判明するまでは不可侵を貫くべきだと――」

「馬鹿だねぇ。そんなことをして、本当に”明確な問題”が判明したら――そのとき、僕らは、あの男の暴走を止められるのかい?」


 呆れたような顔をして、正義を司る天使は肩を竦める。


「さっき、魔界に行ってわかったじゃないか。あんなにも瘴気が濃い世界じゃ、高位天使以外は満足に息も出来ない。魔王は、この子供を天使から守ろうとするなら、あの胸糞悪くなる瘴気が渦巻く城の奥深くに隔離して、魔族たちに天使の相手をさせればいいだけだ。……眷属だって、そんなに数を増やせない。こっちは少数精鋭で、翼に溜めた聖気だけを頼りに城崩しをすることになるけど、相手は手足になる兵隊を魔力が続く限り無限に生み出せる化け物だよ?籠城戦になったら、勝てるはずがない。そもそも、個体の性能からして、根本が違う。城を囲んだところで、瘴気を使う魔法で一掃されて終わりさ」

「そ、れは……そう、かもしれません……」

「だろう?あの男の手元に、この子供が残っている限り、”万が一”が起きても僕ら天使には対処は出来ない。造物主が直々に、あの男を殺さない限りは、ね」


 きっと、造物主はそれに思い至っていただろう。

 だから、魔王の宣言を聞いて迷ったはずだが――最後、不可侵であることに納得したのは、万が一の時は自分が魔王の命を取るのだと決意したからだ。


「だけど僕は、こと魔王を相手にするときの造物主を信じていない。この間の、処刑騒動は記憶に新しいだろう?土壇場で、命を奪うのは嫌だと言い出しかねないと思っているんだ」

「な――全能の造物主に限って、そんな――」

「どうかな。僕は、正義と戦を司る存在。勝利のためには、万全を期しておきたいんだよ」


 ふっと口角を上げる正天使の横顔を見て、ぞくりと封天使の背筋が泡立つ。

 形だけは確かに笑みの形をとっているのに――それは、戦神と人間界で畏怖を集めるに相応しい、凄絶な空気を纏う顔だった。


「だから僕は、この子供は天界で保護するべきだと考える。魔界と天界のバランスを保つために。――あの人形みたいに『役割』だけに忠実に生きていた男が、子供ごときに絆されるだなんて笑ってしまうけれど、造物主相手に啖呵を切ったというからには本当なんだろう。子供を人質として盾にされれば、魔王は天界勢力に牙をむくことは出来なくなる。結果、こちらが望む不可侵と平穏が本当の意味で保たれるんだ。勿論、本当に”万が一”が起きたときも、こちらに子供がいれば、妙な情など挟むことなく、簡単に対処できる。魔王は怒り狂って、天界に攻め込んで来るかもしれないけれど、僕らが魔界で不利になるように、魔族は天界で使い物にならないだろうからね」


 どこまでも冷酷で、冷徹に――第一位階の天使に相応しく、決断を下す。

 そして、ふっと愉快そうに笑った。


「さぁ、おしゃべりは終わりだ。魔王は今頃、女と城の魔族の躯を見て、怒り狂っているだろう。子供の躯がないことにも気づいて、人間界に攫われたことには気づくだろうね。そして、壊された”門”を見て、絶望に膝を付くことだろう。無様なその姿を覗き見られないのはとても残念だけど――早く、この子供を天界に連れていかなければ」


 天界に辿り着きさえすれば、正天使が描いた”世界の均衡”は保たれる。

 ”門”を使って魔族らが出入りしている報告があったことから、まだ空間を渡る魔法は完成していないと踏んでいるが、あの有能な男は不可能を可能にしてしまうかもしれない。

 人間界は、天界と魔界の間――中間の地点だ。

 ここでは、互いに不利も有利もない。争いになれば、ただ、実力差だけが物を言う。

 万に一つ、億に一つでも、魔王が空間転移の魔法を完成させて人間界に出てきてしまう前に、さっさと天界に人質を連れ去ってしまうべきなのだ。


 正天使は血を振るい落とすことは諦めたのか、バサリと翼を広げ、その逞しい身体を宙に浮かべる。

 憂鬱そうな顔をした封天使もまた、ゆるりと翼を広げて空へと舞い上がった。


 ――その瞬間、だった。


 ――――――世界が、震えた、のは。


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