315、【断章】遠い日の記憶①
魔族ゼルカヴィアにとって、幼少期の記憶は、意外と少ない。
一万年近く前のことなのだから、それを朧気でも覚えている時点で、十分に記憶力があると言えるが、記憶を司る魔族などと大層な二つ名をもらっているくせに、あやふやな記憶があるのは居心地がよくない。記憶を司る力が顕現したのは、幼少期を過ぎて、随分と成長した後だったからだろうか。
覚えている記憶は、酷く断片的だ。恐らく、特に印象的だった事柄だけが、未だに脳裏に焼き付いているのだろうと思う。
一つは、父の記憶。
実は幼少期、父が傍にいた記憶はあまりない。育児をしていたのは、母と母の従者のようにふるまう魔族たち――人間型をした炎と水の魔族と、動物の特徴を兼ね備えた愛らしい下級魔族たちだった。
だが、父という存在がいるということ、それが非常に偉大な男であること、そして誰よりも優しい性格なのだということ――これは母だけが耳に胼胝が出来るほど訴えていたからとても覚えている――は良く知っていた。
だから、珍しく父と顔を合わせる時は、いつも少し緊張したことを覚えている。今思えば、人見知りに近い感覚だったのかもしれない。
そんな我が子の反応に、美しい顔を少し不可解そうに歪めながら、それでも父なりに愛情を注いでくれたと思う。
皆に偉大と言われる父は、母にはめっぽう弱いようだった。
「ほら、久しぶりに起きているゼルに会えたんだから、貴方も抱っこしてあげて」
「いや……だが」
「もう、訳も分からず不快感を泣くことだけで表現するような赤子じゃないわ。大丈夫よ。抱っこの仕方は教えてあげたでしょう?」
「……だが」
ぐいぐいと幼子を無理に手渡そうとする母に、往生際悪く言い訳を口にしようとする父の姿は、今思えば非常に稀有な姿だった。この時代以外の記憶で、彼がそんな姿を見せたことは一度もない。
「以前、ゼルが烈火のごとく泣いたのは、貴方がとんでもない抱き上げ方をしたからでしょう!腰ひもを掴んでひょいっと持ち上げるなんて――!」
ゼルカヴィアはギクリ、と肩をはねさせ、抱きかかえられている母の胸に顔を埋めて気まずさをやり過ごす。
どれだけ父が偉大で優しい存在か聞かされても、彼に抱き上げられることに抵抗感があったのは、その時の記憶があったからだ。あの時は、息が出来なくて死ぬかと思った。
「でも、寝ているゼルを相手に、何度も練習したでしょう?」
「……起きているのを抱いたことはない」
「練習では、あんなにスヤスヤと寝息を立てていたのよ?息苦しくなかったってことなんだから、大丈夫!」
人が寝ている間にどうやら勝手に練習されていたらしい。ずいっと母に身体ごと差し出され、ゼルカヴィアは観念する。
ここは自分が大人になってやるべきところだろう。
「……とぉ、さま……」
「……む……」
恐る恐る両手を差し出すと、途端に不安定になり、ぐらりと身体が揺れる。ともすれば落下しかねない幼い身体を前に、父も観念したのだろうか。渋面を作って、両脇に手を差し込み、母からそっと身体を受け取ってくれた。
一瞬、過去のトラウマから息を詰めて苦しさに備えるが――いつまで経っても、かつてのような息苦しさはやって来なかった。
「ほら、大丈夫でしょう?……よかったわね、ゼル。お父様が抱っこしてくれたわよ」
「う、うん……母様」
「ふふ。愛らしい……幸せね」
母や普段から世話をしてくれている魔族達と比べれば、抱き上げるのはどうにも不器用な手つきで、不安がないと言う訳ではなかったが、それでも、苦しくはないと思うとホッとした。
普段、なかなか会うことが出来ない父の存在を近くに感じ、振り返れば心から嬉しそうな母の笑顔を見て、幼心にゼルカヴィアまで嬉しくなってくる。
「~♪」
上機嫌な母は、父に抱かれているゼルカヴィアの小さな背をポンポンとあやすように叩きながら、歌を口ずさみ始めた。
物心つく前から聞きなれた子守唄は、条件反射のように幼子の睡魔を誘う。
とろん……とした瞳になって重くなる瞼と葛藤するゼルカヴィアの上で、父母が会話するのが聞こえた。
「……相変わらず、調子の抜ける歌だ。言っただろう。ガリエルには芸術を理解する能力を付与しなかった」
「ふふ、勿論覚えているわ。あの”塔”で、初めて神殿で歌われている原曲を聞いたとき、カラクリがわかって、思わず笑っちゃったもの」
「原曲を知ったなら、本来の音階もわかっただろうに――」
「えぇ。でも、いいの。私が知っているのは、神殿で歌われる讃美歌じゃなくて、子守唄――あの不器用な親代わりの天使様が、唯一知っているよく聞いた音楽に、必死に語彙力をかき集めて自作した歌詞を載せた、世界で一番愛情のこもった子守唄だもの。この、調子はずれの節こそ、愛情の証だと思わない?」
クスクス、と母の鈴を転がすような和やかな笑い声が響く。
トントンと体を叩くリズムが心地よくて、意識が薄れていくのを感じた。
「私、この子のためなら何でも出来るわ。何も怖くない。たとえ私に何があっても、絶対に守り通すって、決めているの」
「縁起でもないことを言うな。何かあるなら俺を呼べ。何があっても、どんなものからも、必ず俺が守ってやるから」
父母と三人で、いつもの定位置――中庭の太陽の樹の根元で、ゼルカヴィアはゆっくりと夢の世界へと落ちていく。
遠くなっていく記憶の中で、不思議とおぼろげに残っている”幸せ”な光景だった。




