309、堕天⑨
その後、天界は混乱の渦に巻き込まれた。
実質的に天界の頂点に君臨していた命天使が――数万年、決して変わることなく模範的な天使として存在していた世界の中心たる存在が、禁忌と定められた咎を犯したという事実は、風よりも早く天界中に周知された。
当の命天使本人は、罪を犯した後、逃げも隠れもせず堂々と天界に戻って来るとすぐに、造物主の元へと自ら赴くと告げた。
正天使の命令によって、これまで命天使が粛清してきた天使たちに施してきたのと同じ、封天使の固有魔法による拘束を言い渡されても、反論一つすることなく受け入れた。封天使の固有魔法による拘束は、命天使自身の許可が無ければ効力を発揮しない。その拘束が顕現したという事実そのものが、命天使に抵抗の意思がないことの証明でもあった。
むしろ、罪人であることを象徴するような拘束を施すことに異を唱え、拒否したのは、封天使だった。
炎天使と水天使が共謀し、命天使が寵愛を与えた人間を奪い去る際に交戦した封天使は、彼らが明確に命天使を害そうとしていたことを必死に証言した。
歌天使の魔法を行使し、己の証言が天界中に響き渡るようにしながら、命天使の無実を訴え、何者かによって命天使は卑劣な罠に陥れられたのだと喧伝した。
水天使が正天使の言いなりになる憐れな駒となり果てていたことは、公然の秘密だった。人望のあった炎天使が当代の水天使に振り回され、本来の彼の振る舞いが出来なくなっていることもまた、周知の事実だった。
立場上、明言することは叶わなくとも、封天使が告発する『何者か』の正体など、全ての天使に察せられただろう。
しかし、言外に謀の首謀者であると告発された正天使本人は、悪びれる素振りも見せず、飄々とその主張を受け流した。
何を言われたところで、証拠はない。水天使が勝手に忖度をして、正天使が命令したわけでもないのに身勝手に暴走したのだ――と言われてしまえば、それを覆すことなど出来なかった。
真実を明らかにする魔法は、正天使の魔法だ。本人にそれを掛け、真実を語らせることなど、出来はしないのだから。
「もういい、封天使。どのような経緯があれど、俺が、己の感情を律することが出来ず、禁忌である『人間殺し』を犯したことは事実だ」
下らないやり取りに終止符を打たせたのは、命天使本人の言葉だった。
「っ、ですが、命天使様――!」
「俺はかつて、初代正天使の命を、同じ罪状で奪った。――造物主以外の存在を愛し、与えられた『役割』に悖る行動をした、と。……その時、あの男を慕う数々の天使から、恩赦の嘆願を受け取ったが、俺は聞き入れることなく処断した。同じ第一位階の治天使の嘆願でさえ、聞き入れなかった。その俺が、同じ罪で裁かれると言うのならば、誰のどんな嘆願も聞き入れられるべきではないだろう。それが、俺が世界のために守ってきた、『正義』であり、『秩序』なのだから」
ぐっと封天使は言葉を飲み込む。
正天使は、にやにやと隠し切れない愉悦の笑みを漏らすだけだった。
治天使は、中立を標榜する立場に相応しく、余計な口を挟まずに、感情を表に出すことなく無表情で押し黙っている。
命天使には、こうなることなど、最初からわかっていたのだろう。
その未来が容易く予見できる頭脳を持ちながら――それでも、我慢が出来なかった。
その理由はただ一つ。
――寵愛する人間と過ごす”永遠”が霧散したという事実を、受け入れることが出来なかったから。
(下らない、感情だ。『役割』の前に、個人の感情など、考慮に入れるべきではない。いかなる事象であっても、『役割』を凌駕することなどあってはならない。……俺が、散々同胞の命を奪う際に告げて来た論理だ)
運命を受け入れている命天使を前に、封天使はそれ以上の言葉を紡げなかった。
結局、正天使に命じられれば、封天使は逆らうことなど出来ない。
――そうあれと命天使によって、造られているのだから。
「命天使様――命天使様、申し訳ございません――!申し訳ございません――!」
「お前が謝罪することなど何もない。俺だけが特別扱いをされることなど、あってはならない。それこそが――今まで、無数の命をこの手で屠って来た報いだ」
そうして封天使の固有魔法で拘束された命天使は、その足で造物主の元へと向かった。
正義の天使と、慈悲の天使――造物主と直接言葉を交わすことが出来る存在を従え、その裁きを受けるために。
◆◆◆
「もういいだろう?何を言ったところで、この男が人間の命をその手で直接奪ったことは変わらない。たくさんの天使が水鏡でその瞬間を目撃している。僕も見た。――治天使だってそうだろう?」
「……そうね。確かに命天使が、その手にした剣で、人間の首を刎ねたわ」
「ほら、ね。そして、本人も罪を認めている。もう、この天使は、造物主の命令通りには動かない、異常な個体になったんだ。そんな天使が、命の創造という最も重要な役割を担っていてはいけないだろう?即刻処分すべきだよ。正義を司る天使として、断言してあげる」
《――……》
「それなのに、何を迷っているんだい?髪の毛一筋だって、逡巡する余地はないだろうに」
《……わかっている。命天使には、相応の罰を与えると約束しよう。ただ――私と最も長く、時を共にした個体だ。最期に、語らう時間が欲しい。……二人とも、少し席を外してくれるかい?命天使と、二人で話したいんだ》
◆◆◆
「……実体を見せるのは嫌いなんじゃなかったのか」
「嫌いだよ。……だけど、お前を抱きしめるには、これしかないから」
「懐かしい感覚だ。……聖気が足りずにこうして身動き一つ取れない状態で、一方的に抱きしめられたころを思い出す。……あの時とは、何もかもが変わってしまったな」
「……命天使。*****。最期だと思って、本音で話してほしい。どうして――」
「……」
「どうして――生きたいと、願わない……?」
「……世界の、”彩”を、知ったからだ」
「彩……?」
「あぁ。……一度、あの”彩”が溢れる世界を知ってしまえば、もう知らなかったころには戻れない。リアを失えば、再び世界は灰色になるだろう。そんな世界を生きろと強いられるなら――俺は、禁忌を犯した存在として裁かれ殺される方が、何百倍も、幸せだ」
「……そ、れは……」
「お前には、わからないだろうが――」
「っ――わかる!わかるさ……誰よりも、私が、一番――!」
「……?」
「わかる、さ……私が……何も存在しない、空虚な漆黒の世界で生きることを強いられた私が、初めて見つけた”彩”は――お前と過ごす、愛しく美しい、毎日だったのだから――」
◆◆◆
命天使の処刑は、天界の真ん中に急遽設えられた処刑台で執行されることになった。
「さすがにそれは、悪趣味なんじゃない?今まで、命天使が同胞を処罰するときは、どんなに同情の余地がない天使が対象であっても、そんな――見世物にするようなことはしなかったでしょう」
「何を言っているんだい、治天使。これから次代の命天使が生まれるまでの間、僕らは眷属という手段を使ってしか、天使の数を増やせないんだよ?眷属なんて、純正の天使よりも異常が起きやすい不安定な奴らだろう。今まで以上に、異常の発生に対しては、神経を使う必要がある。絶対に愚かな行為に走ったりしないように――かつて頂点に君臨した天使だったとしても、大罪を犯せばこんな風に処刑されるんだと、見せしめにしておくことは、今後の”秩序”を守る上で、大切だろう?」
「……本当に、”正義”を語るときには、良く回る口だこと……」
最期に残った良心で口を挟んだ治天使だったが、何を言っても無駄だと悟ったのだろう。唾棄するような視線を投げた後、それ以上は何も言わなかった。
当然、天界は荒れに荒れた。
封天使のように、命天使を崇め、信奉する勢力は、暴動を起こすことすら辞さないと言わんばかりに、処刑の実施を反対した。
雷天使のように、命天使の超自然性を信じ付き従っていた者は、過去の信頼への裏切りを償えと、衆目に晒される処刑に賛同した。
光天使のように、争いを嫌う者たちは、目と耳を塞ぎ、口を閉ざして、誰にも同調しないことで中立の立場を標榜した。
天界が荒れる様子を、正天使は愉快そうに眺めるばかりで、混乱を治めようなどとは微塵も考えていないようだった。その姿からも、命天使が統治していた時代とは、全く異なる未来がやってくることが、容易に想像出来た。
そうして、処刑執行の日が、無情にもやってくる――




