307、堕天⑦
造られし命は、命を創造した存在を超えることは出来ない。
命天使が思い至る未来の予測を、造物主が気づいていないなどあるはずがなかった。
狂愛を向けられ、苦手意識が最後まで払拭できないとしても、命天使が造物主を尊重する理由はただ一つ――
造られた命と違い、造物主は、決して選択を間違えない。
どれほど感情的になろうとも、正しく情報を与えられ、論理的に説き伏せられれば、最後の最後、彼は正しい答えを選び取る。
それだけが、裸足で逃げ出したくなるほどの重たい感情を向けられても、命天使が造物主に付き合い続ける理由だった。
《……*****。久しぶりに、お前を抱きしめてもいいかい?》
永遠に続くかと思った沈黙を破り、告げられた言葉は、予想外だった。
意外そうに片方の眉を跳ね上げ、命天使は首をかしげる。
「珍しいな。実態を取るのは好きじゃないと、昔、言っていなかったか?」
「――嫌いだよ。これは、私の弱く愚かな所を煮詰めたような姿なのだから」
脳裏に直接響いていた声が、鼓膜を震わす音へと変わる。瞬き一つの間に、虚空に浮かんでいた光は、中性的な人間に似た形を取っていた。
長く靡く黄金の髪と、澄んだ空のような蒼い瞳を持つ美しいそれは、己が造り出した最高傑作にどこか似ている。
彼にとっては、実体化する際の姿かたちなど自由自在だろうが、命天使を抱きしめるときだけは、いつもこの外見を取っていた。
「愛しているよ、*****。この姿を見せるのは、お前の前だけだ」
その昔、天界に命天使と造物主の二人しか存在しなかった時代と変わらない声音で愛を囁き、造物主は命天使を腕の中に抱きしめる。
どこにも行かせないと引き留めるような拘束に、呼吸が止まりそうな息苦しさを感じていたのは、随分と昔のことだ。
今は、凪にも似た感情で、造物主の狂気を受け止めることが出来る。
この場所を出れば、色鮮やかな美しい世界が待っていることを知っているから。
「二代目正天使には見せていないのか?お前はいつも、不安定になると実体化して、俺を抱きしめて拘束していただろう」
「見せるはずがないよ。彼は可愛いけれど、とても弱く、脆く、危うい。彼の愛を受け止めるのは酷く心地よいが、もしも私の全力の愛を注いだら、お前と違って潰れてしまいそうだから」
命天使は呆れたように鼻を鳴らす。だからと言って、自分にその役目を与えられても困るのだが。
「私が本当に弱さを曝け出しても良いと思えるのは、お前だけだ。私の本質を理解してくれるのは、お前だけだと知っているから」
「好きにすればいい。今回は、お前の気が済むまでとことん付き合うと決めた。お前がこうすることで心を落ち着かせ、納得させることが出来ると言うなら、甘んじて何年でも付き合おう。――だが、どれだけ付き合おうが、最後には、リアの元へと帰してもらう。俺が帰るべき場所は、もう、ここじゃない」
のしかかるように身体を預けて甘える造物主に、冷たく突き放すように事実を告げる。
何かを堪えるようにぎゅっと天使を抱きしめる腕が強くなったが、やがて、諦めたようにゆっくりと拘束が緩んだ。
「わかったよ、命天使……お前は誰より賢く、誰より聡い。お前との会話は心地よく、共に過ごす時間はかけがえのないものだ。ここから世界を二人で眺め、未来の行く末にあれやこれやと議論を交わしていた頃が、私は一番幸せだった」
「あぁ」
「だが、長く生きて環境に適合していくことで、私が造った当初の『役割』を果たすことが困難な個体になられるのは困る。お前が、あの人間を失った世界を想像もできないと言うのと同じように――私は、お前を失うことだけは、想像すらできない。心が潰れてしまう」
「……そうか」
「あの人間を眷属として傍に置くことを許せば、お前は永劫、私の傍にいてくれるか?私の弱いところを受け止め、共に世界を眺め、未来の行く末について、議論を交わしてくれるか?」
「約束しよう。お前と同じ熱量の”愛”を返すことは出来ないが、俺なりに、お前を大切に想おう。お前が唯一対等な立場であれと造った命として、時にお前を諫め、対等に議論を交わし、世界を正しく導く存在であり続けよう」
「そうか。……ありがとう、*****。ずっと、ずっと、大好きだよ」
その昔、あんなにも怖気が立った言葉も、今は落ち着いて受け止めることが出来る。きっと、リアという存在を知ったからだろう。
なおも離れがたいと言うように天使の身体を抱いていた造物主が、ハッと息を飲んで急に身体を離した。
「?……どうした。突然、何が――」
「結界が」
驚いた顔で明後日の方を向いてポツリと呟く言葉に、命天使は眉を顰める。
「何を――」
「お前の領域に張られた封天使の結界が、何者かに、強引に破られたようだ」
「っ――!?」
造物主の言葉に、ザァっと一瞬で血の気が引く。
封天使に結界を張らせた目的はただ一つ――世界で一番大切な少女を、どんな魔の手からも守るためだ。
それを、力技で破った何者かがいると言う。
「造物主!”門”を!!!」
「ぁ、あぁ……!」
焦燥に駆られた凄みのある声に、造物主は急いで天界とつながる”門”を造り出す。
命天使は、もはや己の命の創造主の姿を振り返ることすらなく、一目散に現れた”門”へと駆け込んだ。
◆◆◆
命天使は”門”を飛び出し、絶句する。
見慣れた天界の領域は、最後に見たときと大きく様変わりしていた。
見る者全ての視界を楽しませる一面の花畑は、地獄の業火で焼き払われたようにぶすぶすと黒煙を上げており、ところどころが抉れている。
誰かがここで、激しく戦ったことは、一目瞭然だった。
「っ……リア――!」
ざわざわと落ち着かない胸騒ぎを必死になだめ、周囲を見渡す。
仮に、何者かの襲撃によって少女が命を落としたとしても、既に”寵愛”を授けた後だ。少女は命天使の眷属となって生まれ変わるだけで、取り返しのつかないことになるわけではない。
頭の片隅で考えて、必死に冷静になるよう言い聞かせるが、言葉に出来ない不安がどんどんと胸を覆っていく。
「命……天、使……様……」
「!封天使――!」
虫が鳴くような声が聞こえ、振り返ると、純白の羽を焦がされ、地に伏せった見知った天使が血塗れで息も絶え絶えになっていた。
慌てて駆け寄り、状況説明を求めるために治癒魔法をかけようとした瞬間だった。
「っ、ぁあああああああああっ!!!!」
「!?」
突然、喉の奥から振り絞ったような掠れた絶叫と共に、背後から殺気がぶつけられる。
命天使によって造られた命しか存在しないこの天界で、他者から殺気をぶつけられることなど、命を受けて数万年、一度も考えたことはなかった。
驚きながらも、振り向きざまに封天使の魔法を展開して攻撃に備えると、刹那の瞬間に耳障りな音がして、間一髪で襲撃者の攻撃を防いだことを知る。
一拍遅れて襲撃者を視界に収め――命天使は驚きに息を飲んだ。
「炎天使――!?」
「くっ……ぁあああああああああああっ!!!」
鍛え抜かれた己の剣で攻撃を仕掛けた炎天使は、叫びながら刀剣に蒼い炎を纏わせ、力任せに結界を破らんと試みる。
炎天使の位は第三位階――封天使と同等だ。固有魔法でないなら、力推しで敗れると踏んだのだろう。
天界での序列一位の天使に殺気を伴って切りかかる時点で、看過できない異常だ。
驚愕からすぐに立ち直った命天使は、ギッと奥歯を噛みしめ、魔力を練り上げる。
「神雷槍!」
「ガッ――!」
雲一つない晴天に似つかわしくない雷鳴が鳴り響き、一直線に鍛え抜かれた炎天使の身体を打ち抜く。
天界における最高位の攻撃力を有する第二位階の天使の魔法は、純白の羽を焼き、炎天使の全身を駆け抜け、生命力を奪い去った。
人間界に降りることもなく、天使しか存在しない天界において固有魔法を使えば容易く相手の命を奪える命天使が、真っ向から天使と戦闘行為を行うなど、有史以来初めてのことだ。戦闘そのものというよりも、予想外の事態に直面して乱れた息を整えながら、油断せず命天使は地に倒れ伏した炎天使へと近づく。
指先一つ動かすことが出来なくなった天使は、虫の息で最後の鼓動を響かせていた。
「炎天使……なぜ、こんなことを――!」
やり切れぬ想いを吐露するように、問いかける。
火の扱いに長けて来た人間たちの進化に合わせ、いつか、炎天使が必要なくなる時が来ると造物主に告げたのは事実だ。だが、それは決して今すぐのことではないと考えていた。
造物主と十分に議論を重ね、背景を炎天使に言葉を尽くして説明し、本人がその命を終えることについて心から納得出来たら、眠るように安らかに最期を迎えさせてやるつもりだった。本人がまだ生きたいと望むのであれば、本人の気が済むまで生を謳歌させるつもりだった。
炎天使が長く天界に尽くしてきたことは事実だ。二代目正天使に傾倒する水天使を諫めながら、理性を失わず生きていた、模範的な高位天使の一人だった。強く、聡明で、分をわきまえた控えめな天使だった。
命天使を相手取り、刃を向けたところで勝てるはずがないと、誰に言われるでもなく本人が一番、わかっていただろうに。
「な、ぜ……?笑わ、せる……」
焼かれた喉からヒューヒューと苦し気な息を漏らし、炎天使は口の端を微かに吊り上げた。
自嘲するように、絶え絶えの息で、力を振り絞り、声を紡ぐ。
「アンタの、せいだろう……なぜ、など……俺が、聞きたい……」
「何……?」
くぐもった声を聞き取ろうと、命天使は炎天使の傍らに膝を付く。焼けた黒い花が、はらはらと崩れ落ちた。
「なぜ……あの日……俺を、水天使と―ーイリエルと一緒に、殺して、くれなかった……」
「――!」
イリエル――それは、先代の水天使の名前だった。
命天使に恋に似た感情を募らせ、命天使の愛を欲し、身分不相応に乞うたことで、造物主の怒りを買い、処刑を命じられた女型の天使。
「復讐を果たしたかった……とでも?」
「ハッ……馬鹿馬鹿しい……そんな、こと……意味は、ない……出来もしないことを、望みはしない……俺はただ、アンタが造ったとおり……そうあれと望まれた通りに、生きた、だけだ……」
妹のように慕った天使の命を屠ったことへの報復ではないと否定され、命天使は軽く眉を顰める。
炎天使は、自嘲するように吐息だけで笑って、ゆっくりと瞳を閉じる。
「アンタが……『水天使』と共にあれと……望まな、ければ……俺だって……こんな、ことは――」
掠れた声は、最後まで音を紡ぐことなく、鼓動が止まるのと同時に途切れてしまう。
命天使が炎天使の言葉を逡巡し始めるとすぐに、後ろで苦悶の声が響き、我に返った。
「封天使!」
「申、し訳、ありませ――」
「黙っていろ。今、治癒する」
ぐったりとしている封天使に治癒魔法をかけながら傷口を確認する。全身に及ぶ火傷の跡と、剣による無数の斬り傷を見るに、炎天使と激しい戦いを繰り広げたのだろうと推察した。
第三位階未満の天使の攻撃に対しては無敵に近い封天使は、交友関係の極端な狭さのせいで、使える攻撃魔法はほとんどない。半面、同位階で攻撃魔法にも特化し、誠実で真面目な人柄で天界中から信頼を得ていた炎天使は、顔も広く、激しい戦闘になれば力推しで押し切られてしまったのだろう。
「何があった。なぜ、炎天使が謀叛など――」
「命天使様、早く――早く、地上へ――!」
言葉を発せる程度に回復した途端、ガシッと治癒のために翳された腕を取り、命天使の狂信者は必死に訴える。
「貴方の眷属になる人間が、水天使に奪われました――!」
「何!?」
思わず治癒を中断し、命天使は瞳を見開く。
苦し気に咳き込みながら、封天使は手にした己の剣を無理やり渡すように命天使に押し付けながら、必死に言葉を紡いだ。
「炎天使は足止めです……!水天使と共に封印を破り、炎天使が俺を足止めしているうちに、水天使があの女を攫って、人間界へ――」
「く――!」
指さされた方角を振り返ると同時、命天使は封天使の剣を取り上げるように受け取り、翼を広げて最高速で飛翔する。
封天使が差したのは、天界にあるいくつかの”門”の一つ――度重なる紛争で治安が悪化し、天界の中でも聖気が薄くなっているエリアの”門”だった。
「リア――リア、アリアネル――!」
目を血走らせながら”門”へ飛び込み、命天使は己が寵愛を与えた人間の名前を必死に呼んでいた。




