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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第十四章

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302/350

302、堕天②

「いつか、毎日が本当につまらなくて仕方がなくて、そんな毎日を生き続けることに疑問を持ってしまうことがあったら――その時は、私のことを、思い出してください」

「何……?」


 少女の申し出に、命天使がぎゅっと眉根を寄せて聞き返すと、眩しい光を発する魂の持ち主は、太陽のように笑った。


 世界に溢れた彩が、煌めく。


「天使様のことを、心から『大好き』って言っていた人がいたこと――天使様と過ごす毎日が楽しくて、貴方に逢うのが本当に楽しみで、何も特別な事なんてなくても、ただ一緒にいるだけで『幸せ』だって思っていた人間がいたこと。――そんなことを、思い出してください」

「――――……」


 ふふ、と嬉しそうに笑って、少女は続ける。

 鮮やかな彩に満ちた世界は、温かな陽だまりのように、慈愛をもって天使を包んだ。

 

「天使様は、”愛”も”幸せ”も理解から遠い感情だって言うけれど――そんな感情を天使様に抱いていた人間がいたんだって、いつか思い出してくれたら、いいなって思うんです。天使様は、”愛”も”幸せ”も、持ちたくない感情だって思っているみたいですけど――それを貴方に抱いていた人間は、こんなに毎日、楽しそうにしていたよって、思い出してほしいな、って」


 心地よい陽だまりを吹き飛ばすように、遠くから鋭い秋の風が駆け抜けてくる気配がする。


 眩しい笑みに、ほんの少しの苦笑を滲ませて、少女は続ける。


「本当は、私がずぅっと天使様の傍で、『大好き』を伝えられたらいいんですけど――私は、天使様と同じ時間を、生きることは出来ないから」

「――――」


 ざぁっと音を立てて、二人の間を肌寒い風が通り抜けていく。

 太陽の樹の葉が擦れ、ざわざわと耳障りな音で騒いだ。


(そうか……この女は、人間。あとたった百年すら生きられない、脆弱な――)


 考えた途端、胸の奥に、今まで感じたことの無い、形容しがたい感情が湧き上がる。

 ざわざわと騒ぐ葉の音にも負けぬ程の、不快で不穏な、未知の感情。

 陽だまりで温まった胸の内を、一瞬で底冷えさせる感情だった。


 不意に、この日常が幻想であることを思い出す。

 太陽の樹の下で、大樹を見上げて穏やかに言葉を交わすことも。くるくると変わる感情豊かな表情を隣で眺めることも。視界を焼くほどに眩しい閃光を放つくせに、決して眼を逸らせない不思議な魅力を持つ魂を傍に感じることも。


 すべては、瞬きするほどの一瞬に過ぎ去っていく、幻想なのだ。

 

(人間は、脆弱で――本当に簡単に、あっけなく、命を落とす。この女とて例外ではない)


 命を司る天使は、その儚さを知っている。

 一度、命を終えた存在は、二度と蘇ることはない。


 その理を捻じ曲げるのは、唯一治天使の固有魔法だけだが、己の最愛が死ぬ要因となった人間の命を、治天使が蘇らせようなどと考えるとは到底思えない。


(つまり――この女が死ねば、そこで、終わり。この日々の全てが幻になり、遠い”記憶”として処理されていく)


 最初に忘れるのは、声からだと言った者がいた。

 

「大好きですよ、天使様。……貴方が誰を好きでも、関係ない。私を嫌いでも、いいんです。そんなことで、『天使様が好き』という感情が無かったことにはなりません」


 微笑みを浮かべて穏やかに囀るこの美しい声を、忘れる日が来るのだろうか。


「だって、天使様が誰を好きで、誰を嫌いでも――私が大好きな天使様の優しいところは、変わりません。こうして、太陽の樹の下で、木漏れ日を浴びながら穏やかに語らった日々も、無くなりません」


 ――本当に?


 声を忘れ、顔の面影さえおぼろげになって、どんな会話をしたか、詳細すら思い出せなくなっていって――


 ――それは、この”楽園”で過ごした日々が、『無くなる』ことと、同義ではないのか。


「だから、私は幸せです。天使様が、私のことを忘れてしまって、明日から二度と来てくれなくなっても、ずっと――ずっと、ずっと、貴方のことが、大好きだから」

「っ……」


 決して避けられない別れの運命さだめを、達観したように受け入れる横顔は、少女が『家族』と呼んだ親友に似ていた。

 

 胸の中に吹き荒れる未知の感情に翻弄され、命天使は気づけば翼を大きく広げていた。


「ゎっ!何――」


 天界から覗き込む何者かがいても邪魔されないように、少女を空から庇うように前に立ちはだかり、翼で覆うように包み隠す。


 たった一つ――たった一つだけ、知っていた。


 この、穏やかで”幸せ”な毎日が”永遠”になる、唯一の方法を。


 ―ー造物主と交わした約束を違える、禁断の方法を。


「天使さ――」

「黙れ」


 生まれて初めて、情緒が酷くかき乱される感覚に、命天使は拳を握り込む。


 少女がありもしないことを言ったせいで、一瞬――ほんの一瞬だけ、想像してしまった。


 この、眩しく尊い少女が、未来永劫、ずっと、ずっと、永遠に傍にいてくれる未来を。

 

 何度、沈まない太陽の息苦しい世界に押しつぶされそうになっても、こうして大樹の下で笑顔で迎えくれ、歌うように何度も『大好き』と無償の愛を捧げてくれる未来を。


 空虚な白黒モノクロの世界が眩いくらいに色鮮やかに色付いて、『役割』のためではなく――少女の”幸せ”ために生きたいと願う、禁断の未来を。


「っ……」


 そんな未来を――――――永劫に失う、決して避けられない、絶望の運命を。


「俺にはっ……”愛”も”幸せ”も必要ない……!望んでは、いけない……!」


 絞り出すように叫ぶ。

 心が悲鳴を上げるように、言葉にならない何かを叫んだ。


「どうして?……天使様も、他と変わらない、たった一つの命なのに」


 慈愛に満ちた瞳が緩むように笑んで、たおやかな手を伸ばす。

 威圧オーラにもひるまない少女は、最高位の天使の羽に包まれた狭い世界で、ゆっくりと男を抱きしめた。


「天使様だって、幸せになって、いいんですよ。誰かを愛しても、いいんです」

「黙れっ……!」

「天使様は、自分が『役割』を果たせなくなるって言うけれど――じゃあ、私が、お手伝いします」


 耳元で囁くように声が響き、触れあう箇所から分け与えられる体温に、天使は困惑する。

 何万年も生きて来た生涯の中――こんな風に優しく誰かに抱きしめられるのは、生まれて初めてだった。


「何が出来るのかはわからないけれど――大好きな天使様のために、精一杯、頑張りますから」

「っ……」

「大好きな天使様が、幸せじゃないなんて、嫌なんです。天使様が、”幸せ”って思えるまで――”愛”されてるってわかるまで、毎日、ずっと、傍にいますから」


 ――私の命が、尽きるまで――


 少女が敢えて飲み込んだであろう言葉は、口にされるまでもなく身に染みた。

 

 瞬間、再び未知の感情が胸の内に吹き荒れ、命天使は衝動に駆られるままに口を開く。


 もはや理性は、それを留めることが出来なかった。

 

「本当に、偽りなくそう考えるならば――永劫、俺の隣にいると誓え。役割を放棄し、俺の前から勝手に消えることは許さん」

「ぇ――でも――」

「許さん。――もう二度と、俺を、白黒モノクロの世界に閉じ込めないと、誓え」


 吐き出すように言って、天使は少女の小柄な体を抱きしめる。


 ――誰かをその腕の中に抱きしめるのも、生まれて初めてだった。


「永遠に、俺の隣で、”愛”を伝えろ。そうすれば――俺は、()()()()()()生きるから」


 熱を持って零れた本音は、衝動を伴い、天使を突き動かす。


 ”愛”を知らない天使は、生まれて初めて――少女の可憐な唇にそっと、己の唇を寄せて”愛”を伝えた。


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