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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第一章

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23、太陽の樹③

 つぅ――と冷たい氷が、背筋を伝い降りていくような錯覚。

 ぞくりとする低い声は、聞き間違えるはずもない。

 息を飲んで慌てて振り返れば、そこには、予想通りの神々しい主が立っていた。


「っ、魔王様っ……!」

「ゎ――!」


 急に方向転換をしたかと思えば、ゼルカヴィアは即座に地に足をついて平伏する。

 当然アリアネルも地面に降ろされ、驚いた声を出した。弾みで、手にしていた実が、地面に零れ落ち、慌てて拾い集めようと屈むが、一つのがころころ……と地面を転がっていく。

 咄嗟に追いかけていくと、こつん……と小さな音を立てて、目の前に立っている男の靴に当たって止まった。


「帰着の御報告が遅れて申し訳ありません!ただいま戻りました――!」


 頭を下げて報告しながら、ゼルカヴィアは頭を即座に回転させる。

 完全に、予期せぬ遭遇だった。


(今の状態でアリアネルを見せるつもりはなかった――!まだ分別の付かない子供であることを、魔王様にどうやってご説明すれば――!)


 ゼルカヴィアが必死に上司への対策を練っているなどとは露ほども知らず、アリアネルは地面を転がり、止まった実を拾い上げて、上を振り仰ぐ。


 キラキラと輝く黄金の髪は、つい先ほどまで滞在していた人間界に溢れていた陽光の祝福を思わせる煌めき。無感動に見下ろしてくる切れ長の瞳は、見上げた広い青空を思わせる澄み切った色。


(おうじさま、みたい……)


 この世のものとは思えぬ美貌は、まさに、絵本に描かれていた王子のようだった。

 ぽぅ――と美しさに感動して頬を染めていると、見上げていた彫刻のように完璧な男の造形が、ほんのわずかに不愉快そうに歪む。


「……なんだ。コレは」


 自分の足元から、まっすぐに見上げてくる謎の生命体を前に、魔王は冷ややかな声を出す。

 その言葉で、ゼルカヴィアは我に返り、状況を理解する。


「アリアネルっ!戻りなさい!」


 頭が一杯になり過ぎて、アリアネルが勝手に魔王の足元まで近づいていたことに気付かなかった。

 顔面蒼白で叫ぶゼルカヴィアの声にも構わず、アリアネルはじぃっと魔王の顔を見上げる。


「まおう、さま……?」

「……いかにも、そうだが」


 ふん、と小さく鼻を鳴らした後、ぴくり、と眉を不機嫌に跳ね上げて答える。

 天界にいたころは、自分と同等の序列を与えた天使が二人いたが、魔界では明確に自分よりも下位の存在しか造らなかった。

 魔界に降りて幾年月――気の遠くなるような年月が過ぎたが、自分の前で膝を折らず、不躾にまっすぐ顔を見上げてくる存在など、いなかった。

 人間界に赴いたときですら、人々は魔王を前にすれば畏怖で膝を折り、命乞いをするのが常なのに。


「……なるほど。お前が、先日拾った赤子か。人間の成長は、思った以上に、随分と早いらしい」


 数万年を生きる魔王にすれば、三年の月日など、一瞬に等しい。

 アリアネルの正体に思い至り、ゼルカヴィアと一緒にいる理由もすぐに理解した。


(図太さは、赤子のころから変わらずか。中庭にいるということは、瘴気の濃さには一定慣れたらしい。俺をまっすぐに見上げて目をそらさない度胸は褒めてやるが、序列を理解していないことと同義でもある。賢さには難があるか)


 小さく鼻を鳴らし、失望を露わにしようと口を開きかけた、その時だった。

 ぱぁああっと幼女の顔が輝いたかと思うと、天使と見紛う笑顔で、迷うことなく、アリアネルは口を開いて息を吸う。


 そして――世界で最強の、呪文を唱えた。



「――――――”パパ”!!!」



「「――――……」」


 その瞬間、場の空気が音を立てて凍り付いたのは、言うまでもない――



 ◆◆◆


 空気中の大気が、一瞬で底冷えする。

 パキンっ……と全身の神経が氷結したような錯覚に、一瞬、このまま気絶して何もなかったことにしてしまえないだろうか――と、ゼルカヴィアは全力で現実逃避をした。


「パパ!」


 そんなゼルカヴィアの気苦労など知る由もなく、アリアネルはもう一度元気よく呼びかけ、あろうことか魔王の脚にぎゅっと抱き着いた。


「アリィはね、アリアネルっていうの!パパ、会いたかったよ!」


 ぱちぱち、と魔王の長い睫毛が何度か風を送り、足元に縋りついて眩い笑顔を向ける幼女を見つめる。


(あ……あぁぁぁ……魔王様が……魔王様が、戸惑われているっ……!)


 どんな時も冷静沈着で、動揺したところなど生まれてこの方見たことがない至高の主が、はた目にも対応に惑っている様子が見て取れて、ゼルカヴィアはキリキリと胃を締め上げられるような感覚を味わう。


「……ゼルカヴィア。説明しろ」


 低い声が、有無を言わさぬ響きで指示を飛ばした。


「は……はい……」


 誰か、この地獄のような空間から助け出してほしい。

 泣きたい気持ちで、観念して面を上げる。幼女の発想の柔軟さには慣れたつもりだったが、行動の突飛さまでは想像がつかなかった。己の失態だ。


「えぇと、ですね……本日は、人間界に赴いていたのですが」

「知っている」

「そこで、家族連れを目にしたアリアネルに、”パパ”とは何だと聞かれまして――」

「それがどうして、()()なる?」

「いや、本当におっしゃる通りです……」


 完全に、自分が教え方を間違ったせいだ。だが、どうしてそんな教え方をしたのだ、と問いかけられたとき、ゼルカヴィアは明確に魔王を納得させられる説明が出来ない。


 ――アリアネルの顔が、曇っていたのだ。


 太陽の下で、キラキラと輝く笑顔を振りまいて、天使のような眩しさを放っていたはずの少女が、今にも泣きそうな顔で、不安そうに、寂しそうに、ぎゅっとゼルカヴィアの手に縋るようにしながら、声を震わせていたのだ。


 そんな少女の顔を、少しでも晴らしてやりたくて――つい、その場を切り抜けるような言葉を発してしまった。

 ――魔王には、全く以て理解のできない思考回路だろう。


「あのね、あのね、『まおうさま』はね、まぞくも、てんしも、皆の”パパ”だってゼルがおしえてくれたの!」

「あ……アリアネル……」


 ちょっと、今は話がややこしくなるから黙っていてくれないか。

 胃が捻じれるような痛みに頬を引きつらせるが、アリアネルはぴょこぴょこと嬉しそうに足元で飛び跳ねて、魔王と出逢えた喜びを一生懸命に笑顔で語る。


「でも、アリィには”パパ”がいないから――だったら、皆の”パパ”の『まおうさま』はアリィのパパにもなってくれるかなって!……パパ、アリィのパパになって!」

「アリアネル……度胸があるのは貴女の美徳ですが、ちょっと、黙りましょうか」


 胃痛が限界突破して、吐血しながら嘔吐したい衝動に駆られる。

 ぱちぱち、と蒼い瞳を瞬いて長い脚に纏わりつく幼女を見ていた魔王は、小さく嘆息した。


「フン……なるほど。事態は理解できた」

「お……恐れ入ります……申し訳ございません……」


 あの、舌足らずな幼稚な説明をくみ取ってくれるなど、魔王の器の広さと心の寛大さに感謝しかない。


「ねぇ、パパ!……これから、パパって呼んでもいい?」

「アリアネル!いい加減にしなさい!一体この御方をどなただと心得て――」


 立ち上がる許可を与えられる前に起立するのは不敬だが、それ以上の特大の不敬をこれ以上重ねるわけにもいかない。

 背に腹は代えられず、立ち上がってアリアネルを引きはがそうとした瞬間だった。


「いい。構わん」

「はっ――!?」


 フン、と鼻を鳴らしながら告げられた低い言葉に、ゼルカヴィアは思わず素っ頓狂な声をあげた。


「呼び名など、何でも構わん。好きに呼べばいい。所詮、たかだか百年も生きられぬ脆弱な生物が、束の間何をしようが、俺には関係ない」

「で、ですが――」

「せいぜい、虫けらは虫けらなりに、何かの役に立てばいい。どう役立てるかは、ゼルカヴィアに任せる」

「は、はいっ……!」


 ひとまず、不敬だと言ってその場で首を刎ねられる心配は無くなったようだ。

 ほっと息をつきながら返事をすると、アリアネルは話の内容がよくわからなかったのだろう。

 可愛らしく首を傾げた後、とりあえず“パパ”呼びを許されたことだけを理解し、ニコッと笑顔を見せた。

 そのまま、何の疑いもなく、いつか父親が出来たらしてほしいと思っていたことをねだる。


 真っ直ぐに魔王の切長の蒼い瞳を見つめて、両手をしっかりと伸ばして、いつもゼルカヴィアにしているように――


「パパ。――――抱っこ!」


「「――――――……」」


 三度みたび空気が凍りつき、ゼルカヴィアの胃が捩じ切れたのは、言うまでもない。


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