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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第一章

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15、アリアネル④

 ぱらり……と静かな夜に、ページを捲る音がする。


「……お姫様が蛙にキスをすると、蛙は王子様へと姿を変えました」

「えっ!?なんで!?」

「何ででしょうねぇ……私にもわかりません」


 ベッドの中でアリアネルを後ろから包むようにしながら絵本を読み聞かせていたゼルカヴィアは正直な感想を述べる。人間界のおとぎ話とやらは、本当に意味不明な物語が多い。


「……そうして、二人は結婚し、いつまでも仲良く暮らしましたとさ」


 最後の一文を読み終えると、アリアネルは寝間着姿のままパチパチと小さな掌を何度も打ち付けて感動を表現する。いつの間にか、拍手、という感情表現を覚えたらしい。


「ぜる、ぜる」

「はいはい。何ですか」


 絵本の読み聞かせは、子供の想像力を豊かにすると言う。将来的に、魔法の行使に必要となる力だろう。

 それ以上に、読み書きを覚えるのは早いに越したことはない。その分、早く学習を始められるのだから。

 短絡的にはどう考えても下らないと思う読み聞かせという行為も、将来の目的を考えれば、仕方なく続けるしかあるまい。


(この子も、絵本が一番好きなようですからね)


 ゼルカヴィアが仕事中も、いつも部屋のどこかで一人遊びをして過ごしているアリアネルだが、こうして絵本を読んでやるときが一番瞳をキラキラと輝かせて最高の笑顔を振りまく。

 昼間、あまり構ってやれない穴埋めとばかりに、読み聞かせを就寝前の習慣にしてやったところ、毎晩嬉しそうにベッドに数冊持ち込んで、早く早くと急かされる羽目になった。

 出来れば一冊で寝てほしいと思っているこちらの思惑など無視して、今日もアリアネルの瞳は絶好調に煌めいている。


(今日は、新しい絵本を買ってきたばかりですから、余計に嬉しいんでしょうが)


 過去に読んだことがある本でも、お気に入りであれば何度でも読めと要求してくるアリアネルだが、今日は人間界に赴いて新しい本を買ってきたばかりだ。執務室に帰ってきた瞬間から、ゼルカヴィアの手に新しい絵本があると知って、今この瞬間までアリアネルのテンションは最高潮をキープし続けている。


「あのね、あのね……”キス”、ってなぁに?」

「…………ふむ。なんでしょうねぇ……」


 世の中の親という生き物は、こういう質問にどう答えているのだろうか。

 一瞬遠い目をして、ゼルカヴィアは考える。誰か、切実に今すぐ模範解答を教えてほしい。

 しかし、好奇心の塊となった幼女は、留まることを知らない。腕の中でくるりと体の向きを変え、魔族の顔を大きな瞳で見上げた。


「ぜるも知らないの?」

「いえ、それがどんな行為なのかは知っていますよ」

「したことある?」

「さぁ……あったような、なかったような……」


 竜胆の曇りなき眼をまっすぐにこちらに向けて来ないでほしい。

 嘆息しながら、ゼルカヴィアは象牙色の手触りの良い髪を撫でた。


「アリィも、かえるさんに”キス”したら、王子様に会える?」

「衛生的に絶対にしては駄目です」

「えいせい……??」


 ぱちぱち、と眼を瞬く無垢な子供を前に、ゼルカヴィアは唸るようにして考える。最近読んだ人間界の育児書で、子供の「知りたい」という欲求を大人の都合で無碍にすることが続くと、その後の育成に悪影響が出るといったような記述があった。


(……キスの一つも知らずに大人になって、愚かな人間の男に無理強いされたときに、無知ゆえに抵抗の一つも出来ないのは問題でしょうしね)


「アリアネル」


 深く嘆息した後、ゼルカヴィアは腕の中の少女に呼びかける。

 信頼しきった様子で身体を預けて見上げてくるアリアネルは、正天使に乳飲み子でありながら加護を授けられるに相応しい無邪気さだ。

 ゼルカヴィアは、長い象牙色の髪を戯れに弄んでいた手で、そっと少女の前髪を撫でるように掻き上げる。

 小さな額が露出して、きょとん、とした竜胆の瞳がいつも以上に印象的だった。


 そのまま、ゼルカヴィアは優しく露出した白く美しい額にそっと唇を寄せる。


「!」


 耳に響く小さなリップ音に驚いたアリアネルは、びくっと肩をはねさせた。


「これが、”キス”です。愛しいと思った相手に、愛情表現の一種として行う行為ですね」

「いとしい……?」


 少し早口で説明すると、言い回しが難しかったのだろうか。幼女は首をかしげながらゼルカヴィアの言葉を口の中で反芻している。


「……相手のことが大好きだ、と伝える手段――ということですよ」


 全く、どうして魔王の右腕たる自分がこんなことをしているのか――自嘲の笑みを口の端に刻みながら、そっと優しく小さな頭を撫でてやる。


「当然、誰にでも構わずするようなものではありません。唇を触れさせるわけですから、汚いものにはしてはいけませんよ。池や溝に棲む蛙など、絶対駄目です。もってのほかです」


 めっと子供を嗜めるように眉尻を吊り上げて言い聞かせると、ぱぁっとアリアネルは顔を輝かせた。


「アリアネル?聞いているのですか?」

「ぜるは、アリィのこと、大好き――!?」


(……おっと。そう来ましたか)


 今彼女に施した口づけを、ゼルカヴィアからアリアネルへの愛情表現だと解釈したらしい。

 視線を落とせば、アリアネルは嬉しそうに頬を紅潮させて、瞳をキラキラと輝かせている。


「いえ。そうではなくてですね。キスをする相手は慎重に、という話を――」

「アリィも、ぜるのこと、大好き!」


 こちらの話を聞くことなく、満面の笑みで叫んだあと、身体を伸ばして首に縋りつく。


「アリ――」


 ちゅっ、と小さな音が頬で響いた。


「――……」

「大好き、だよ、ぜる」


 ふわり、と少しはにかんだように告げる言葉に、嘘の響きなど一つも混じってはいなくて。


(まぁ。アリアネルは嘘を吐くことが死ぬほど苦手ですからね)


 大嫌いなはずの天使のように無垢な笑顔で首に縋りついてくる子供を、鬱陶しいと引き剝がすことが出来ないのは、何故なのか。

 ゼルカヴィアは、そっと小さな頭を撫でてやりながら、小さく苦味の混じった吐息を漏らしたのだった。


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