145、王都へ⑤
「パパ、花茶飲む?ロォヌに持ってきてもらおうか?」
「いや、いい」
魔王は端的に答え、襟元をくつろげながら、どさりと体を備え付けの大きなソファへと沈ませた。
「記憶を整理しながら聞く。起きてはいるから、好きに話せ」
そのまま、ごろりと長身をソファに横たえて、美しい切長の瞳をそっと閉じた。
(そっか。人間と違って、魔族や天使の睡眠は、記憶の整理と定着の役割の方が大きいって、昔ゼルが言ってた気がする……)
勿論、体力を回復する効果もある。だが、元々の身体の作りが人間よりも丈夫で、気の遠くなるような年数を生きる前提で造られた彼らは、体力回復のことだけを考えるなら毎晩寝る必要はないらしい。
それでも彼らが毎晩寝るのは、頭の中を整理する意味合いが強いのだ、とゼルカヴィアは言っていた。
頭の整理は、心の整理でもある。
特に、濃密な瘴気に酔って暴走する危険がある魔族は、魔王によって毎晩の睡眠と十分な休息を奨励されていると聞いた。
きっと、魔王も同じなのだろう。
「パパ、今日も世界一格好いいね」
魔王が横たわるソファの前に置かれたローテーブルに頬杖をつくようにして、その姿を観察しながらほぅっとため息をつく。
夜の闇にも負けないキラキラ輝く金髪も、彫刻のように美しい造形の顔面も、何もかもが美の結晶と表現するにふさわしい。さすが、この世界を作ったという造物主自ら手がけた最高傑作だ。
「パパが横になってるこの光景を記録石に残すだけで、きっと歴史に残る芸術作品として後世に語り継がれるよ」
「フン……くだらん。そんなことを言いたくて待っていたのか?」
「違うけど……思ったことは、思った時に伝えたいなって思うから」
大好きも、愛しているも、何もかも。
きっと、何万年も生きてきた彼を褒め称える言葉など、無数に聞いてきただろうが、それでも口にすることが無駄だとは思わない。
あと二年――その間に、伝えたいことは余すことなく伝えておきたい。
いつ、お別れの日がやってきても、後悔しないように。
「そういえば今日、マナ――えっと、治天使の加護を持つ女の子がね」
「あぁ」
一度だけ見たことのあるボブカットの少女の顔を思い出しながら、魔王は小さく相槌を打つ。
ゼルカヴィアの力によって、魔王と遭遇した記憶は綺麗さっぱり無くなっているだろうが、治天使の捻くれた愛情を一身に受けるにふさわしい、清らかだが複雑な心根を持つ少女だったように思う。
「パパは、従者を顔で採用しているのか――って言ってたよ。パパが造る魔族って、皆美男美女ばっかりだから」
「知らん。意識しているわけではない」
「ふぅん。……あ。パパ、知ってる?この前気づいたんだけど、ゼルって、眼鏡を外すと意外と中性的な顔してるんだね」
「そうか」
「もともと、がっちりした体格ってわけでもないし……一番の側近をああいう顔にしたってことは、パパは中性的な顔が好みなの?」
素朴な質問を投げかけると、スゥッと暗がりの中で青空の色をした瞳が開かれた。
「……アレは」
「ぅん?」
「ゼルカヴィアだけは、この魔界で唯一、俺の意図とは違う次元にある」
「へ……?」
パチパチ、とアリアネルは何度も目を瞬いて横たわる美丈夫を見つめる。
「アレだけは、俺が役割を付与して造ったわけではない」
「ぇ……?」
「側近――というのも、アレが自身でそう望んでいるから、その役割を与えているだけだ」
「ど……どういうこと……?」
ゴクリ、と喉を鳴らして尋ねる。
これは、アリアネルが聞いてしまって良い話なのだろうか。
魔王は何かを逡巡するように視線を宙に巡らせた後、深いため息をついて再びその瞳を閉じた。
「ゼルカヴィアは、生殺与奪の権利を俺に握らせるために、自ら望んで俺の傍にいる。……もしも裏切り行為をした場合は、誰より一番早くに気づいて、誰より先に処罰をしてくれと言ってきた変わり者だ」
「それって――……」
「ゼルカヴィアは、魔界で唯一、俺が支配出来ない存在だ」
ひゅ――と、まるで部屋の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
「昨今の、魔界に起きている異常事態――ゼルカヴィアは、己が真っ先に疑われることを気づいているだろう。裏に何かの陰謀があるのだとすれば、俺の支配が及ばぬ者から疑うのは必定……アレは、聡く、優秀な頭を持っている。己の立場が危ういことなど、誰に言われるでもなく理解しているはずだ」
「そ、そんな……そんな、だって、ゼルは――!」
カラカラに喉が渇いて、掠れた声で抗議しようとした言葉は、魔王のため息に遮られた。
「俺の独断で、アレを処罰することなど簡単だ。真相が明らかになっていない今、疑惑を晴らすことも難しいだろう。それをわかっていて――全く変わらず、俺の傍で献身的に仕える、変わり種だ」
「……へ……?」
「それが、最初にゼルカヴィアが俺に捧げた誓いでもある。……仮に、俺がゼルカヴィアを信頼出来ぬと言って命を奪うとしても、決して抵抗しない。……その誓いと共に、アレは、俺の前に現れた。誰よりも魔族らしく、誰よりも俺に忠実な魔族として振る舞うから、どうか傍に置いてくれと懇願されたのが、一万年ほど昔の話だ」
アリアネルは、パチパチと何度も目を瞬いて情報を整理する。
つまり――ゼルカヴィアは、魔王の固有魔法によって生み出された存在ではなく、ある日突然魔王の前にやってきて、忠誠を誓った、どこの誰ともわからぬ存在――ということだろうか。
「イレギュラーな存在を許容することは、リスクを孕む。とはいえ、他の魔族は何も事情を知らん。優秀で模範的な振る舞いのゼルカヴィアを、これといった罪状もなく処断すれば、それはそれで軋轢を生む。少しでも怪しい素振りがあればすぐに殺してやる――そう思いながら、いつの間にか、もう一万を数える年月が過ぎた」
「パパ……」
「さすがに、今回の異常事態に面した時は疑った。……治天使の、含みのある物言いも気になった。だが――奴の周辺をどれほど叩こうと、塵一つ出てこない。奴の固有魔法の特性から、うまく証拠を隠している――という線も無くはないが、これほどまでに誰に何を聞いても矛盾を生じさせぬような状態を作り上げようとすれば、尋常ではない大掛かりな魔法となるだろう。それを、俺や他の魔族に一切気取られることなく――となると、現実的とは言えんな」
フン、といつものように鼻を鳴らす横顔を、アリアネルはじっと見つめた。
(パパ……なんだか、ほっとしてる?ゼルを疑わなくてよかった、って思ってるのかな……?)
それは、“役割”のためならばどんな非道も厭わぬという冷酷無比な孤高の王のイメージにはそぐわないかもしれないが、アリアネルはほっと安堵の息をつく。
ほんの少しでもいい。魔王が、感情らしき何かに揺らいでいるようで、安心する。
(しかも、それが、ゼルのおかげなら――うん。大丈夫、だよね)
この魔界が始まって以来の緊急事態を、ゼルカヴィアを信頼して共に乗り越えることができたなら、きっと、自分がいなくなった後も、魔王は大丈夫だ。
心を許せる存在が、ずっとずっと、そばに居てくれるということなのだから。
「私も、ゼルが裏切るなんて、絶対にあるわけないと思うな」
「この件に関しては、お前の進言ほど頼りにならぬものはないな。……ゼルカヴィアから、お前は身内に対して甘すぎると報告を受けている。ヴァイゼルを処罰した日も、眠れないほどに泣き腫らしていたとか」
「ぅ゛っ……いや、えっと……」
案の定、ゼルカヴィアはしっかりと魔王に報連相をしているらしい。気まずさに思わずアリアネルはもごもごと口の中で反論する。
確かに号泣してしまったが、それは久しぶりに『お兄ちゃん』と再会できたから、という側面が大きいのだが――今それを言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。
「言ったはずだ。――魔界の太陽は、沈まない」
「パパ……」
「魔界の秩序を守り、統制するのは俺の役割だ。お前は、些事に心を揺らすことなく、毎日城の魔族らを相手に、能天気に笑って暮らしていれば良い」
冷たいのか優しいのか判断に迷う言葉をかけられ、アリアネルは困ったように視線を下げる。
「でも……私にしか出来ないことがあるなら、頑張りたいよ」
「……王都に侵入することを言っているのか?」
すぅっと再び切れ長の瞳が開かれ、むくりと魔王は長身を起こしてアリアネルを見た。




