144、王都へ④
夕食の準備をするというロォヌを先に魔界へ帰して、市場でショッピングを心行くまで楽しみ、帰ったあとに案の定待っていたゼルカヴィアの小言をミュルソスの取りなしで往なしてから、ロォヌの作った夕飯に舌鼓を打った後――
風呂の準備が出来るまでのわずかな時間に、アリアネルは魔王の執務室を訪れた。
「お邪魔します……パパ、帰ってる……?」
そっと重厚な扉を押し開けて中を覗き込むが、扉の先に光はない。星明かりさえない魔界らしく、濃密な漆黒が幾重にも重なって、来訪者を奥へと引き込むような錯覚を覚えさせた。
しかし、人間ならば本能的な恐怖を覚えそうなその一室に、アリアネルは躊躇なく足を踏み入れる。
ここは、幼い頃から毎日訪れる慣れ親しんだ父の部屋だ。
物の配置は目を閉じていてもわかる。大好きな父の気配が至る所に潜むこの暗がりの、なにを恐れると言うのか。
少女は上機嫌に鼻歌を口ずさみながら、魔王の執務室の中をまっすぐに進み、立派な執務机へと向かう。
辿り着く頃には、暗闇に目が慣れ、物体の輪郭が朧げに感じられる程度になっていた。
「喜んでくれるかな……」
机の上にある花瓶に、昼間市場で購入した花を活けながらつぶやく。
人間界の土産として、花を持ち帰るようになったのは、何歳のころからだっただろう。
父から感謝の言葉など聞いたことはないし、喜んでいるそぶりも見たことはないが、アリアネルがこの部屋に訪れて父に向けて一方的に会話を楽しむ間、花茶をすすりながら時折彼の視線が花瓶へと向けられているのを知っている。
「パパ、いつ帰ってくるのかな……」
もう数ヶ月、大好きな父の顔を見ていない。
元気にしているのか、なにを思っているのか。何一つ知る術はない。
ただでさえ無駄話を好まない父とは、顔を合わせていても会話が少ないと言うのに、こうもすれ違う日々が続いては、その声すら忘れてしまうのではと不安になる。
「私、次は、十四歳になるんだよ……」
机に身体を預け、頬杖を突くようにしながら、飾られた花に向けて語りかけるようにポツリと呟く。
十三の誕生日に、魔王はいなかった。おめでとうの伝言が届くなどという淡い期待も、当たり前のように幻想と化した。
(仕方ないよ。パパにとって、数か月とか、一年とか――たぶん、一瞬なんだと思うし)
数万年を生きる存在と、百年生きることすら大変な人間とでは、時間の感じ方が違うことはわかっている。
アリアネルはぎゅっと手を握り締めて、胸に浮かんだ寂寥をやり過ごした。
(あと二年もしたら、学園は卒業……魔界の危機が続くのなら、きっと、正天使はこのチャンスを逃がさない。すぐにシグルト達を魔界に送るように、神殿で神託を授けると称して人間をけしかけるに決まってる。そうしたら――)
自分の運命は、どうなるのだろう。
武器を手に、魔界の勢力として、かつての級友たちと戦うことになるのだろうか。
その闘いの果て――そこから先の、命の保証は、何もない。
何故なら、アリアネルの”役割”は、勇者ら人間勢力が魔界に挑み続ける理由を調査することだからだ。人間勢力を退けることではない。
いうなれば、その理由を探ることが出来る聖騎士養成学園を卒業したら、少女は用済みということ。
戦いに参加することは強制されていない。
参加してもしなくても、どうせ人間が魔族に勝つことなど不可能なのだ。
戦力として期待などしていない、という魔王の言葉は事実だろう。
「あと、二年……だよ。パパ……」
腕の中に顔を埋めて、震える声で囁く。
父にとっては、光の速さで過ぎるその短い期間――たった二年しか、アリアネルが大義名分を持って、魔王の傍にいることは出来ない。
世の中のバランスを保つために存在する、と自らを定義づけた魔王は、殊更”役割”という言葉に敏感だ。
アリアネルの”役割”が果たされれば――勇者に敗れて命を落とそうが、生き残ろうが、どうでもいいのだろう。
あの、徹底した合理主義者が、大した”役割”のない者を傍に置くとも思えない。
(パパに、『大好き』って言えるのは……あと、何回くらいかな……)
こんなにも顔が見られない日々が続くとは、数年前までは全く予想もしていなかった。
まだまだ、彼に心からの『大好き』を伝えきっていない。――あと二年しかないなら、なおさらだ。
「会いたいよ……パパ……」
命が惜しいわけではない。ただ、寂しいだけだ。
あの、感情を映さぬ冷酷な蒼い瞳が――世の中の全てを、ただ与えた”役割”通りに運んでいるかどうかだけを見極めるだけの、詰まらなさそうな瞳が、哀しいのだ。
死ぬまでに一度でいいから、あの冷え切った瞳に、強い感情が宿るところを見てみたい。
どんな感情でもいい。怒りでも、哀しみでもいい。喜びや楽しみであれば、何よりだ。
それを成すにはきっと、彼の冷え切った対応にもめげずに、愛情を伝え続ける必要があるのだろうと思っている。
だから、アリアネルに残された時間は、非常に少ないと言うのに――
ヴン……
「――!」
聞きなれた重低音が背後で響き、はっと顔を上げる。
真っ暗な部屋が、紫色の淡い光源に照らされて浮かび上がった。
「……来訪者か」
「っ、パパ!!」
懐かしい声が、いつも通りの淡々とした音を紡ぐのを聞いて、アリアネルは弾かれたように立ち上がり駆け寄る。
紫色の巨大な魔方陣から姿を現した見慣れた長身に、夢中で飛び込んだ。
「パパ!おかえり!!」
「俺の執務室に何の用だ」
「パパの帰りを待ってたんだよ!」
当たり前のように『ただいま』の一言すら返してくれない父にもめげない。
いつも通りの美しく涼やかな顔は、少女が胸に飛び込んできても動揺することなく、その身体をいとも簡単に受け止めてみせた。
「少し見ぬ間に、背が伸びたようだな。人間の”成長”というシステムは、何度見ても不可解な速度だ」
「だって、もう何か月も会ってないんだよ?私だって、大きくなるよ!」
ぎゅうっと渾身の力で抱き付いてくるアイボリーの旋毛の主を、蒼い瞳が冷静に見下ろす。娘の成長を喜ぶような男ではないが、興味深い観察対象、程度の関心はあるのかもしれない。
「パパ、しばらくお城にいられるの?すぐにまたどこかに行っちゃう?パパに会えたらお話ししたかったことが、いっぱいあるの!」
「?……ゼルカヴィアから、定期的に必要な報告は受けているが」
「そういうことじゃなくって!」
アリアネルが学園で得た魔界に有益な情報は、すぐにゼルカヴィアから魔王に知らされているのだろう。
雑談を好まぬ魔王らしい返答に、アリアネルはもどかしい想いを抱きながら切り返すと、少し考えた後、魔王は重たいマントの留め具を外しながら口を開く。
「ちょうど、一息入れようと思っていたところだ。いつものように俺の反応を気にしないなら、好きに話せばいい」
「本当!?」
マントを脱いで、近くの定位置に無造作にひっかけながら言われた言葉に、アリアネルは目を輝かせて父を振り仰ぐ。
いつものように、というのは、かつての茶会のことを言っているのだろう。
いつだってアリアネルが一方的に話しかけるのを、魔王は花茶を啜って聞いているのか聞いていないのかわからないくらいの反応の薄さで聞くのが常だった。
それでも、時折ちゃんと相槌を返してくれるから、いつだってちゃんと聞いてくれていることは知っている。
「あのね、えっとね、色々、いっぱいあるんだけど――えっとね」
キラキラと喜びを隠し切れない笑顔で、アリアネルは父を見上げて、口を開く。
懐かしい声。懐かしい顔。懐かしい反応。
何度見ても、世界で一番大好きな――パパ。
彼に、何よりも一番伝えたい言葉は。
「あのねっ……パパ、大好き!」
「フン……飽きもせず、よく言う……」
つまらなさそうに鼻を鳴らす仕草さえ、愛しい。
太陽のような笑顔でまっすぐに放たれた愛の言葉に、魔王はほんの少しだけ眩しそうに眼を眇めた後、小さく嘆息して娘の”愛”を不器用に受け止めたのだった。




