118、太陽の花①
ヴン……と小さな音を立てて地面に紫色の魔方陣が浮かび上がると同時、血に伏していた物言わぬ躯がゆっくりと沈み込むように吸い込まれ、消えていく。
魔方陣と共に、暴走した魔族の姿が露のように消えてしまうと、かき混ぜられるほどの濃密な瘴気の中、ぬちゃりと足元で耳障りな音が響いた。
今しがた始末した魔族の血液が、地面と混ざり合ってぬかるみになっているせいだろう。
靴を汚したその音に軽く眉を顰めてから、魔王はふいっとあらぬ方を振り返った。
そのまま、こめかみに指をあてて、口を開く。
「――伝言。こちらは片付いた、ゼルカヴィア。何の用だ」
つい先ほど、暴走していた魔族を見つけ出し、制裁を加えている真っ最中に、魔界にいる右腕から伝言が届いていたが、手が離せなかったために放置していたことを思い出したのだ。
緊急の要件かと思い折り返すと、すぐにいつもの慇懃な声が返ってきた。
『魔王様がそちらに赴かれて三日です。そろそろ、仕事も終わった頃ではないかと思いまして』
「あぁ。まだ主犯格に追随していた個体が少し残っているが、この程度ならば放置しておいてもいいだろう。聖騎士団と呼ばれる人間程度でも狩れる程度の魔族ばかりだ」
『左様ですか。……では、もうお戻りになられるのですか?』
「そうだな。この地方は、最近あまり足を運んでいなかった。ついでに、もう少し視察をしても良いと思うが――……どうした。何かあったのか」
一度言葉を切り、思い直して問いかける。
基本的に、魔王が処罰対象の元へと単独で赴く際に、ゼルカヴィアから帰城をせっつかれることなどはない。
魔王の仕事の中でも、重要度と緊急度が最も高い案件が、この暴走した魔族への対処だ。
魔王の判断に間違いなどがあるはずもないと思っているゼルカヴィアは、その仕事の進捗を尋ねることなどない。全てを魔王に任せきりにして、自身に指示があるまでは城に残って他の政務を滞りなくこなすことこそがゼルカヴィアの仕事だとよくわかっているはずだ。
にもかかわらず、わざわざこうして任務中の魔王に伝言を飛ばしてきたということは、何か不測の事態が起きている可能性が高い。
自然と、魔王の声も固くなる。
「視察は、他の魔族に任せることも出来る。今の時期、オゥゾあたりは手が空いているだろう。息の合うルミィと共に派遣すれば、一日もあれば完了するはずだ。……どうした」
重ねて問いかけながら、瞬きと共に魔力を展開すれば、ヴン……と耳慣れた音がして、虚空に巨大な魔方陣が浮かび上がった。
『いえ。それでは、オゥゾとルミィに伝えておくので、お言葉に甘えて――一度、こちらに戻ってきていただくことは可能でしょうか』
「わかった。……もう着く」
言いながら一歩足を踏み出せば、一瞬で空間を飛び越え転移出来る。
答え終えたときには既に、見慣れた執務室の中だった。
「お帰りなさいませ、魔王様」
「いい。……どうした。何があった」
恭しく頭を下げた右腕を手で制し、ばさりとマントを翻しながら足を踏み出して尋ねると、ゼルカヴィアはにこりと笑った。
「いえ。……以前、私も、仕事先から魔王様の鶴の一声で帰城を強制されたことを思い出しまして」
「……?」
「あの時の借りを返して頂こうと――そう思っただけですよ」
見慣れた黒ずくめの青年の笑みには、黒い何かが見えるようだった。
◆◆◆
「ミヴァは、悔しいです……みすみす、憎き勇者候補にアリアネル様を目の前で連れ去られてしまい……」
「ミヴァ……」
「ミヴァは、ちゃんと、アリアネル様のお役に立てているのでしょうか」
昇降口を出て正門へと向かう間、小柄な身体を両手いっぱいの竜胆の花に埋もれさせながら、しゅん、と俯く猫顔の少女に、アリアネルは慌ててその小さな頭を撫でた。
「大丈夫だよ!ミヴァがいなかったら、私、学園で生活なんて出来ないもの。ちゃんと、役に立ててる――どころか、すっごく助かってる。いつもありがとう、ミヴァ」
「ですが――」
「それに……役に立つとか立たないとかじゃなくて。ミヴァは、パパが初めて私に作ってくれた『魔族のお友達』だもん。もしミヴァが何もできなかったとしても関係ない。いつも一緒にいてくれるだけで、楽しくて、嬉しいの。大好きよ、ミヴァ」
「アリアネル様ぁ……!」
うるうると感動に眼を潤ませるミヴァは、やはり可愛らしい。
にっこりと安心させるような笑みを向けると、丁度正門に辿り着いた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、ゼル」
「ほう……これはまた、大量に貰ってきましたね。さすがはお嬢様。至高の御方の元で育たれた以上、人間の男を誑かすくらい、鼻歌交じりにやっていただけないと」
「ちょっと……人聞き悪いこと言わないで」
すぅっと眼鏡の奥の瞳を細めて皮肉を言う執事姿のゼルカヴィアに、困った顔で返す。
「全く……このままでは馬車の中が大変なことになりそうですね。先に中にお入りください。……ミヴァ、お前は私とお嬢様が中に入った後に花を中に入れてから扉を閉め、御者台へ。屋敷に着いたら、ミュルソスに断っていつもの場所へ帰りなさい」
「かしこまりました」
青紫の花に埋もれながら軽くお辞儀をして拝命するミヴァは、外見とはミスマッチなほどにしっかりとしている。
ゼルカヴィアはアリアネルを馬車の中へ入れると滑るように己も中へと入った。そのまますぐに、口の中で呪文を詠唱し始める。
ミヴァはそれを見ながら、外から中が見えないように巧みに花束を馬車の中に積み上げていき、バタンッと扉を閉めて御者台へと上がった。
「転移門」
呪文の完成と、馬車が動き出すのはほとんど同時だった。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれて花の香りがむせ返る馬車の床に、ぽっかりと紫色の魔方陣が開くと、沈み込むようにして可憐な花々が飲み込まれていく。
「やっぱり、便利だよね、その魔法。パパには、人間には使えないだろうって言われたけど、頑張って練習してみようかな……」
「無理だと思いますよ。ルシーニは上級魔族の中でも比較的高位なことに加え、極端な人間嫌いです。人間が助力を乞うたところで、力を貸してはくれません。同胞の魔族との交流すら疎んじるほどの偏屈な男ですから、序列が上の魔族から名前で縛って命じられた時しか力を貸さないほどなのです」
「むぅ……一回くらい、逢ってみたいんだけどなぁ。最近、ちょくちょくお城に来てるんでしょ?」
「貴女のその前向きな性格は賞賛に値しますが、相手に徹底的に避けられているという可能性を少しは考えるようにしましょうね……」
眼鏡を押し上げながら嘆息して呟く。
ルシーニが魔王城に現れる頻度が上がったのは事実だ。それも、ここ半年ほど――アリアネルが学園に入学してからの期間と一致する。
入園前の見学の日にやってきたときから、その予兆はあった。どうやら、律儀にアリアネルとの偶然の遭遇を嫌って、彼女が学園に行っている間を見計らい、魔王城へとやってくるらしい。
別に、何の用事もなくやってくるわけではない。――彼の孤独好きは筋金入りだ。魔王やゼルカヴィアに用事が無ければ、わざわざ彼が城へと足を運ぶことはない。
(最初にルシーニがやってきたときから、不穏な気配を感じていましたが……案の定、あの時報告を受けた魔族らが、暴走し始めています。それも、滅多に暴走することがない上級魔族が既に数体――さすがに異常な頻度ですから、そろそろルシーニを城詰めにさせて早期発見に協力させるべきかと魔王様もお考えですが、あの性格が邪魔をしていますからね)
勿論、最後は魔王の強権によって命じられれば聞かざるを得ないのだろうが、無理強いをしたことによってルシーニ本人が叛心を抱き暴走し始めてはたまらない。
結界を張ることが出来る魔族が主体的に暴走すると碌なことにならないのは、十年前のワトレク村の一件で十分に証明されている。
「さぁ、我々も行きましょう」
「え?」
「転移先を魔王城の中庭に設定しています。ミヴァはミュルソスに門を開いてもらうでしょうし、我々がここから転移をしない理由はないでしょう」
なるほど、と頷いてアリアネルは差し出された執事のような白手袋に包まれた青年の手を取る。
そのまま、エスコートされるように床に広がる魔方陣へと足を踏み入れた。
ヴン……と耳慣れた重低音が響いて、奇妙な浮遊感に包まれた後、世界が一瞬で切り替わる。
「ぇ――」
目の前に広がる光景に、アリアネルは驚いて息を飲んだ。
「……帰ったか。ちょうど終わったところだ」
転移先で目の前に立っていた長身の背中が、フン、と鼻を鳴らしながらつぶやいた。
「これで満足か」
「えぇ、勿論。無理を言って申し訳ございませんでした」
「全くだ。これで借りは返した。二度とやらん」
再びつまらなさそうに鼻を鳴らして、魔王はくるりと踵を返す。仕事へと戻るのだろう。
いつも通りの涼しい顔で、目の前の光景に言葉を失い立ち尽くしているアリアネルの脇をすり抜ける。アリアネルに『おかえり』の言葉の一つも掛けないどころか、視線すらやらないのはいつも通りだが、今日はいつもと一つ違った。
ぎゅっ……
「……何の真似だ。人間」
「パパ……パパ、これ……これっ……!」
すり抜けようとする魔王の服を掴んで引き留めるなど、世界は広しと言えど、アリアネルにしか許されない無礼だろう。
澄み切った青空の瞳が、面倒くさそうな顔でチラリと少女へと向いた。
上手く言葉を紡げぬのか、震える唇。寒いわけでもないだろうに、ほんのりと紅潮した頬。
いつも以上にキラキラと眩しく輝く、竜胆の瞳。
――目の前一杯に広がる、地面を埋め尽くした可憐な花と同じ色をした、大きな瞳。
「私が魔王様に頼んだのですよ。花天使の加護があるというあの少年が作った花束ごときを、見事と称して部屋に飾って大切にするなど、魔王様への冒涜に等しい。――見事、というのは、こういうものを言うと思いませんか?アリアネル」
「っ――!」
じわり、と感動のあまり眦に涙を浮かべて、アリアネルは声を詰まらせながらこくこく、と何度も頷く。
目の前に広がるのは、『太陽の樹』を取り囲むようにして、中庭一杯にどこまでも続く、青紫の絨毯。
アリアネルの瞳と同じ色をした、見事な竜胆の花畑に他ならなかった。
「フン……所詮は、人間界の花を、花天使の魔法で一時的に無理矢理この不毛な地に植えたに過ぎん。どれほど水を遣ろうと、太陽の光すらない魔界では、すぐに枯れてしまうだろう。……何の生産性もない行為だ。全く以て理解が出来ん」
「まぁ良いではありませんか、魔王様。こうしてアリアネルが、涙を浮かべて声を詰まらせるほど感動してくれたのです。十分すぎるほどに、意味のある行為ですよ」
「全くわからんな」
忠臣の言葉にも呆れたように嘆息するだけだ。――アリアネルに負けず劣らず、魔王に対して他の魔族は絶対に敵わない無礼な要求をしゃあしゃあと出来ると言う点では、ゼルカヴィアも相当なものだろう。
(人間の男からもらった竜胆の花の印象を薄れさせるというのが本来の目的だろうが――面倒なことを考える男だ)
魔王がチラリ、と視線をやるのは、アリアネルたちが舞い降りた地面。
彼女らが転移門から現れる直前に、何やら夥しい量の花束がぼとぼとと地面に落ちていたのは気づいていた。
だが、ゼルカヴィアに言われた通り、中庭全てを竜胆の花で埋め尽くしたせいで、今日アリアネルが男子生徒からもらった花々は、まっすぐに天を向いて咲き誇る竜胆に埋もれてしまって、全てを探し出すことはもはや困難だろう。
(なるほど。……あの花束を部屋に持ち帰って世話をしては、毎日花を贈った男を思い出すようなことをさせたくなかった――というわけか。とんだ親馬鹿になったものだ)
過保護なゼルカヴィアの思考回路に思い至って、やれやれと嘆息する。
ゼルカヴィアは、魔界において唯一魔王の支配の外にある特殊な存在だが、何故かその思考を読むのに苦労したことはない。
己が『こうあれ』と造ったわけではない存在の思考が読めるというのは、考えてみれば不思議な感覚だ。
それだけ、長い時を共に過ごしてきたことの証明だろうか。
「パパっ――パパ、パパっ……!」
「なんだ」
「ありがとうっ……!ありがとう、すごく、すっごく、嬉しい――!大好きっ!」
ぎゅっと腕に縋りつくようにして、全身で喜びと感謝を伝える少女を見て、小さく嘆息する。
「フン。……俺は、ゼルカヴィアに言われた通りのことをしたに過ぎん。礼が言いたいならゼルカヴィアに言え」
「ゼルもありがとう!大好き!」
確かに、魔王にとっては何の意味があるのかわからないことだったが――この、太陽のような眩い笑顔を見るための行為だったと考えれば、さほど悪い物でもないと思えるから不思議だ。




