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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第五章

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115、シグルト②

 人々の不の感情を煮詰めて押し込んだような鬱屈とした屋敷に誘われるように、ある夜突然、大人数の武装した賊が押し入ってきた。


 ある者は、眠りの世界から目覚めることなく殺された。

 ある者は、逃げまどう背中から切りかかられて、絶命した。


 あっという間に屋敷が占領されたとき――気まぐれのように、()()は、現れた。


 空に輝く黄金の月明りを背に、眩い純白の翼を広げて、フッ……と綺麗な顔が、笑みを造る。


「僕は、君たちが正天使と呼ぶ存在。……ねぇ、君。――助けて、欲しい?」

「…………ぇ……」


 立ち込める血臭に、こみ上げる嘔吐感を必死に堪えながら、少年は現れた人ならざるものを見つめる。

 それは、何度か絵本で見たことがある存在。

 ――天使、と呼ばれる、超越者。


「全く、局所的とはいえ、瘴気の濃さは目を見張るね。ここしばらく、君と、君の周りを見ていたけれど……僕に言わせれば、よくあんな瘴気の吹き溜まりみたいな家で何年も生きていられるね、君たち人間は」

「瘴、気……」

「下位の天使じゃ顕現も出来ないレベルだ。そんな中で――君は、変わらず三年間、善性の魂を貫き通した」


 真っ赤に燃える瞳をしたその天使は、ニヤリ、と顔を歪めて笑う。

 高潔で美しい正義の天使――そんなイメージを持っていたシグルトは、目の前の天使が浮かべた笑みに強烈な違和感を覚えた。


「ちょっと前に見つけた()()()()()には素質の面で劣るけど――まぁ、今となっては仕方ない。……うん。ま、『勇者』になるには十分な素質じゃないかな。歴代最強の勇者だった”ルーゲル”の血を引いてるみたいだし、磨けば光りそうだ」

「な……にを……?」

「君に、選択肢をあげると言っているんだよ。矮小な人間」


 ニヤリと歪んだ口から、真っ白な歯が覗く。

 

「『勇者』に必要なのは、十五を過ぎても決して失われることのない善性の魂の輝きと、魔族と戦っても壊れない頑丈な身体と、魔法を扱う繊細な技法と、愚かな人間とはくらぶべくもなく抜きんでた優秀な頭脳――そして、正天使ぼくへの絶対の忠誠」

「――!」

「それを全て叶えるために、これから先の十五年余りの人生を全て捧げると約束するなら――僕は、ここで、君を助けてあげよう」


 屋敷のあちこちから、耳を劈く悲鳴が聞こえる。争い合う物音がひっきりなしに響いて、騒がしい足音がすぐそばの廊下を何度も行きかうが、不思議と天使と会話をしているこの間、この部屋に入ってくるものはいない。


(この、天使が……何か、してる……?)


 魔法の心得があれば、部屋全体に第三位階の封天使の魔法がかかっていると察することが出来ただろうが、幼いシグルトにそれを理解することは出来なかった。

 ごくり、と唾を飲んだ後、恐る恐る尋ねる。


「助けてくれるのは、僕だけ……?」

「ぅん?当たり前だろう?……ははぁ……なるほど。さすが、清らかな魂の持ち主。悪くないね。家族を助けたい、とでも言うのかな?」


 天使の言葉に、こくりと頷くと、目の前の青年は「ハハハッ」と大口を開けて高らかに笑った。


「なんだい、それは。本当に君たち人間は愚かで、想像もつかない行動をする、愉快極まりない生き物だね。造物主の気持ちがよくわかるよ」

「ぇ……?な、何、を……」

「その思考は、どれだけ説明されても、やっぱり全く理解が出来ない!だって、君をずっと虐げていた連中だろう?」

「――!」


 息を飲む少年に、こみ上げる笑いを堪え切れぬまま、正天使は言葉を続ける。


「屋敷の主も、その家族も、召使も。皆、お前を疎んじて、空気のように扱い、一族の汚点だと言ってどうやって排除しようかと考えてばかりだったじゃないか」

「そ――れは――」

「君の母親にしたって、あれでまともな存在だったとは思えない。あの眼は、我が子を見る母の眼じゃない。愛しい雄に向ける、浅ましい雌の眼だ。汚らわしい、瘴気に塗れた、醜い存在だ」

「っ――」

「僕は、天使だ。清らかで、美しい、善なる気しか傍に置く気はないし――僕の正義は、そうした高尚な者にしか与えられない」


(違う――)


 咄嗟に、シグルトは本能で天使の言葉を否定していた。

 彼の言葉は、偽りだ。

 この青年が、己の『正義』を与える基準は、それが善なるものであるかどうかではなく――


 ――己にとって、都合の良い物であるかどうか。


「最初に言っただろう?僕は、君にしか興味がない。君の母親にも、他の家族にも、屋敷の召使たちにも――当然ながら、武器を手に金品を漁って走り回る醜い賊にも興味はない」

「っ……!」

「……さぁ、少年。そろそろ、答えを聞かせておくれよ。――君が助かりたいと言うのなら、僕が君に加護を与えよう。この加護は、どんな外敵からも君を守る。そして君に、魔法を使える力を授ける。……断れば、君はここで死ぬだけだ。君の家族やこの家の召使たちのようにね」


 今も止まない断末魔が、少年の耳にへばりつく。

 ぞっとするような笑みを浮かべる悪魔のような天使に、シグルトは震えながら静かに頷いたのだった。


 ◆◆◆


「学校や、世の中で語られる正天使は、どれもこれも素晴らしい人格者だろ。品行方正な行いをしている善なる気質の人間に味方をしてくれる、まさに正義の天使だ。恐ろしい魔族の脅威から唯一人間を守ってくれる存在だ――なんて、言われてるけどさ」


 シグルトは、蒼い顔で震える吐息を吐き出した後、絞り出すように胸中を吐露する。

 生まれて初めて、明かす胸の内。


「本当は、そんな立派な存在じゃないって、俺は知ってる。――世界中でたった一人、俺だけが、知ってる。……あの天使は、人間を愚かで脆弱な生き物だと見下して、自分に利がないならあっさりと見放す、そんな奴だ」

「…………」

「でも俺は、それがわかってて頷いた。……あの天使に忠誠を誓うと、約束した。あの、地獄みたいな世界から逃げれるなら――なんだっていいと、その時は、思ったんだ」


 ぎゅっと固く拳を握り込んで呻く。

 大半の天使が、加護を付与する人間に悟られることすらなく、勝手に加護を付けていくのに対し、人間界での目撃例が圧倒的に多い正天使だけは、加護を付与するときに、ほぼ必ずその人間の前に現れることで有名だ。

 記録に残っているほとんどが「ありがたい言葉を賜った」「魔界へと攻め入り、魔に生きる存在モノを滅ぼせと言われた」などと言われているが――シグルトは、その伝承を疑っている。

 正天使に限っては、その加護は一般的に天使の『寵愛』になぞらえられるようなものではなく――『取引』や『契約』に近いのではないか、と。

 

(そ……っか……だから、歴代の勇者は――勝ち目がないかもって思っていても、絶対に魔界侵攻作戦から逃げたりしないんだ……)


 ごくり、とアリアネルは唾を飲み込む。

 初代勇者が誕生し、仲間と共に魔界へ旅立ったのは、記録が正しいなら、約一万年前――それから現在に至るまでに、一体どれだけの数の”勇者”が送り込まれたのだろう。

 その勇敢なる者たちは、現代にいたるまで誰一人帰ってきていないというのに。


 いくら、学園という機構を作り上げ、教育という名の洗脳をしたとしても、これだけの長い歴史の中、勇者が誰も命乞いをしなかったというのはおかしな話だ。

 どうせ死ぬんだと、魔族に打ち勝つなど無駄なことだと、弱音を吐いて責務から逃げ出す者がいてもおかしくはない。

 だが、そんな勇者は誰一人観測されていないのだ。

 

 その秘密が、もしも――加護を与えられたときに、何かしらの取引に近しい約束をしていたためだとしたら。

 

 基本が善なる魂を持つ者たちだ。一度交わした約束を反故にすることに対し、耐えがたい苦痛を感じるのが殆どだろう。

 シグルトのように、命を助けられた、などという大きな代償を得ていた場合は、特に。


「ごめん。急にこんな話されても、困るよな……」

「う、ううん。大丈夫。ちょっと驚いたのは本当だけど――」

「悪い。……正天使の加護があるってことは、きっとお前も、同じように何かの取引をしたんだと思ってたから」


 気遣うように言われて、ぶんぶん、と頭を横に振る。

 決して愉快な過去ではないだろうに――思い出したくもない出来事だったろうに、その心の内を教えてくれたことには、感謝しかない。


「私は、生まれたばかりの赤ちゃんの時に加護がつけられたらしいから――全然、記憶にないの」

「そっか。……でも、それを聞いて、今は安心した。お前みたいな優しい奴が、巷で正義を司るって言われている天使に、卑怯な取引を持ち掛けられてたら、可哀想だってずっと思ってた」


 アリアネルの底抜けの善なる魂を知っているからこそ、シグルトは小さく安堵する。

 彼女の眩い魂の輝きを、わずかでも曇らせる要素は排除したかった。


「その……えっと、私には、わからないんだけど――絶対、『勇者』にならなきゃいけないのかな」

「?」

「その……シグルトが交わしたのも、口約束、といえばそれまでだし……過去には、シグルトの御先祖様みたいに”例外”で正天使の加護付きなのに魔界へ行かなかった勇者もいたんでしょう?」

「あぁ……そうだな」


 正天使の本質を知ってしまったシグルトにはわかる。

 過去、”竜殺し”の異名を取ることになったルーゲル一族の初代当主は、竜が攻めてきたと知った時――その戦いの末に、大怪我を負いながらも生きながらえたそのとき、歓喜したことだろう。

 呪いのような契約に縛られ、魔界に赴き、無残に死ぬことを約束されていた人生に、初めて『未来』という名の希望が見えたのだ。

 妻をもらい、子を成せば、眷属として正天使に死後縛られることもない。

 きっとそれは、目が眩むような幸福な奇跡。


「でも、一応俺、納得はしてるんだ」

「え……?」

「正天使が、世間で言われてるような素晴らしい人格者じゃなかったのは事実だけど――でも、あの、地獄みたいな世界から、俺を助けてくれたのも、事実だし」


 瞳を閉じれば今も思い出す。

 陽の光もほとんど差さない、薄暗い閉塞感が漂う屋敷の一室。色濃い瘴気が日々渦巻いて、息苦しさすら感じる世界。空気のように扱われ、どんどん希薄になっていく自我の意識。

 一族郎党皆殺しに遭う――というセンセーショナルな結果ではあったが、それでも、無力な幼子があの異常な世界から抜け出すには、あれ以外に方法がなかったのも事実だ。

 

 たとえ、その理由が天使の酷く利己的なものだったとしても――シグルトが、地獄を抜け出し、あの晩を生き延びて、今、こうして平穏な学園生活を送れているのは、他でもないあの血潮の瞳をした天使の行いの結果なのだ。


「この、馬鹿みたいに平穏な日々を得る代償に、世界を救え――っていうなら、俺は、やっぱり『勇者』になるよ」

「でっ……でもっ……!」

「だって、そうしないと――」


 ずいっと身を乗り出して距離を詰めたアリアネルを振り返って、シグルトは困ったように微笑する。


「――魔王によって、人間界が、征服されてしまうから」


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