110、恋愛の条件②
「え――?」
青年の刺々しい言葉の意味が分からなくて、アリアネルはきょとんと聞き返す。
イライラした様子のゼルカヴィアは、ガサ、と苛立たし気にアリアネルの手の中の竜胆の花束を視界から避けるように押さえつけて、恋愛というものがよくわかっていないらしい少女にゆっくりと語りかけた。
「いいですか。恋仲になるということは、つまり、誰よりも特別な相手を一人だけつくる、ということです」
「特、別……?」
「幼いころに絵本で何度も読んであげたから知っているでしょう。恋愛の先には結婚があります。結婚とは、家族になることだと教えましたね?」
「う、うん……」
急に何の授業が始まったのかと身構え、思わずじりっと後退る。
しかし、ゼルカヴィアはアリアネルが逃げることを許さず、言葉を重ねた。
「貴女にとって、今の『家族』は――誰だと言っていましたか?」
「え?えっと……パパ、と……お兄ちゃん……」
いつになく迫力のある青年に戸惑いながら、何か気恥ずかしさを覚えてすぃっと視線を逸らす。
「――と……ゼル……」
「はい。では、人間の男と恋仲になると言うのはつまり――その三名よりも『大好き』な一人をつくる、ということですよ?」
「え――ぇええっ!?」
余りと言えばあまりな論理の飛躍に、アリアネルは驚いて声を上げるが、ゼルカヴィアは自分の言葉を訂正するつもりはないらしい。
「いいですか?私たちとこの学園の男は、決して相容れぬ存在です」
「ぅっ……」
「その男と生涯を共にし、家族となるのだと言うのなら――当然、我々は貴女と縁を切る羽目になるでしょう」
「そ、そんな――!」
顔を蒼くしてアリアネルは声を上げるが、ゼルカヴィアの言うことは至極まっとうだ。
所詮は、魔族と人間。――本来、決して相容れることなど出来ぬ存在。
そもそもこの学園に通っている人間は、将来魔族討伐を主任務とする聖騎士となるのだ。明確に敵対することがわかっている存在と恋仲になり、『家族』としてその男と人生を歩もうとしているような存在を、いつまでも内側に入れておく謂れなど、魔王軍には一切存在しない。
もしもそんな事態になれば、いつも通りの冷ややかな表情をした魔王が、何の感情も写さない瞳で、あっさりとアリアネルの首を刎ねることすら容易に想像が出来てしまうくらいだ。
「それでもいいんだと思うなら、どうぞお好きに。そこまで愛し抜く唯一無二の存在が出来たのだと――貴女が毎日『大好き』と言って憚らない”パパ”よりも、ずっとずっと大切で『大好き』な存在が出来たのだと、我々に正面切って宣言が出来るほどの覚悟があると言うのなら、私はその意見を尊重します。――その時が、我々との永別の時となることは必定ですが」
「っ――!」
それは、いつぞやゼルカヴィアが言っていたことと同じだろう。
最後の恩情で、ゼルカヴィアが命だけは助けてくれるかもしれないが――この世の全てから、アリアネルが魔界で過ごした日々の記憶を消し去り、”なかったこと”にして、人間界へと送り出される。
それはつまり、アリアネルとの”永別”のときなのだ。
「そ、そんなの、やだよ……絶対、絶対、やだ……」
「別に、我々としては構いませんよ。いつか、貴女の”パパ”もおっしゃっていましたが――貴女は、我々の理から外れたところにいる存在。貴女が貴女の人生を歩みたいと言って、一歩を踏み出すことを制限する謂れなどないのですから」
「っ……!」
ぶんぶん、とアリアネルは首を激しく横に振って拒否を示す。
魔王も、ゼルカヴィアも――アリアネルを魔界に引き留める理由など、本当はどこにも持っていないのだ。
彼らがアリアネルを魔族の理と異なるところで扱ってくれているのは、あくまで、アリアネルが人間だから。
不要になれば切って捨てるだけの、駒でしか、ないから。
「そう頑なにならないでください。私も鬼ではありません。『心』というのは、そう簡単に制御出来るものではないのです。いつか、貴女が本気で人間の男を愛すときが来たら、その気持ちを否定する必要はありません。それはそれで良いのです。ただ――覚悟もないのに、ふらふらするのは止めておけ、と忠告したいだけです」
「そんなつもりは――!」
今、アリアネルが『大好き』だと慕う存在全てを放り投げてでも手に入れたいものなど、あるはずがない。
アリアネルは、必死に自分の気持ちを伝えようと、咄嗟にゼルカヴィアの袖口を掴んだ。
「ど、どうしたらいい……?」
「?……何が、でしょうか」
「さっきの――お、お友達になるっていうのは、駄目、なんでしょう……?」
「……ふむ。今日、もしも他の男子生徒から花を貰ったらどう対応したらいいか、という話でしょうか?」
ゼルカヴィアの冷静な問いかけに、こくこく、とアリアネルは小さな頭を必死に縦に振る。
何せ、愛の告白を受けるなどというのは初めてのことだったのだ。
断り方の一つすら、アリアネルにはよくわからない。
「そうですねぇ……とはいえ、お嬢様は、心にもない断り文句を笑顔で告げることは、性格上絶対に出来ないでしょうし……」
「ぅ……が、頑張るよっ……!」
「いえ。そちら方面はもう、諦めていますから」
十年、あれこれ手を尽くしたが、結局アリアネルに『上手に嘘を吐く』というスキルを習得させることは諦めたのだ。
些細な嘘を吐かせようとしただけで、明らかに目が泳いで、気まずそうな表情で口ごもってしまう少女に、何を期待しろと言うのか。
「ふむ……では、嘘ではない文句で断ればよいのではないでしょうか」
「え……?それって、どういう――」
「つまり、こう言うのです。――『パパよりも格好良くて、尊敬出来て、頼りになる人じゃないと、恋愛対象にはならないの』――と」
「へ……」
ぱちくり、と竜胆の大きな瞳が何度か瞬かれる。
ゼルカヴィアは、にっこりと笑ってアリアネルを見返した。
「嘘ではないでしょう?」
「え……いや……う、うん……?」
「あの御方よりも格好良くて、尊敬出来て、頼りになる人間の男などが存在したとしたら、貴女がそれに惹かれるのはもはや自然の摂理です。――絶対にあり得ぬことだ、と断言できますが」
「わ……私も、そう思う……」
脳裏に、神に愛された美貌を兼ね備えて優雅に玉座に腰掛ける父の姿を描いて、アリアネルは頬を引きつらせる。
あれ以上の美丈夫など、この世に存在するはずがない。
文字通り、この世を創造した神によって、叡智も、美貌も、能力も、何もかも完璧なものを与えられた存在なのだから。
「ですが、言ったはずです。……恋仲になるほどの相手となれば、貴女が家族と慕うあの御方よりも『大好き』になるような存在でなければならない、と」
「う、うん……」
「そう考えれば、やはり、あの御方よりも優れた能力と美貌を持つ人間でなければ、条件を満たすことはないと言えるのでは?」
「それは――う、うん……そう、かも……?」
なんだかゼルカヴィアに丸め込まれているような気がする。
それはつまり――譲歩しているようで、アリアネルが恋愛に現を抜かすことは許さない、と言っているのと同義ではないだろうか。




