105、聖なる乙女と正義の天使⑧
長い付き合いだ。顔を見れば、相手の機嫌くらいすぐに察することが出来る。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
黒ずくめの青年のいつも通りの笑みと、恭しいお辞儀に迎えられながら、ひくり、とアリアネルは頬を引き攣らせた。
――どうやら、なかなかに怒っているらしい。
「ご、ごめんね、ゼル……あの、ミヴァには言っておいたんだけど、図書館でちょっと調べ物を――」
「お話は馬車で伺いますよ。さぁ、参りましょう」
少女の言葉を遮るようにして鉄製の扉を開けながら、有無を言わさぬ笑顔で促され、思わず口を閉ざす。
御者台に乗っている猫顔の少女も、不穏な空気を察してチラチラとこちらを伺いながら、ハラハラしているようだった。
バタンッ……と分厚い扉が閉まる音が響くと、馬が一つ嘶いて、ゆっくりと街道を歩み始める。
時折、車輪が小石を撥ねる振動に身体を揺らしながら、車中の気まずい沈黙に、アリアネルは長い睫毛を伏せてしょんぼりと肩を落とした。
「……それで?度重なるこちらからの伝言も無視して、お嬢様は一体何を調べていたのですか?」
「ぅ゛……ごめん、ってば……」
もじ、と膝の上に乗せた手を所在なさげに弄びながら、本日何度目かの謝罪を口にする。
こういうときのゼルカヴィアのねちねちモードは、あの魔王すら辟易させるのだ。アリアネルなどひとたまりもない。
「怒ってはいませんよ。ただ、自覚がないと小言を言いたいだけです。貴女は随分のほほんとしていますが、ここはまぎれもなく敵地のど真ん中で――」
「怒ってるじゃん……」
唇を尖らせてぼやきたくなるのも仕方がない。言葉の節々に現れる棘が、ぐさぐさとアリアネルを執拗に刺し貫くのだ。
(もう……こういう時の過保護っぷりは、”お兄ちゃん”みたいなんだから……)
ゼルカヴィアの”影”と称して幼い頃に面倒を見てくれた金髪の青年を思い出してため息を吐く。
人間と同程度の力しか持たないという彼は、不測の事態に備えられないからと、いつだって過保護にアリアネルのことを心配し、少しでも少女の行方が分からないことがあると顔を真っ蒼にして慌てていた。
”影”というだけあって、思考回路の根底は同じなのだろう。
敵陣のど真ん中――ゼルカヴィアのあずかり知らぬ場所、それも彼の力が上手く発揮できない濃密な聖気が渦巻く学園内で、度重なる伝言に返答がないとなれば、アリアネルの身に何かがあったのではないかと不安になる気持ちもわからなくはない。
実際は、ただ絵本の内容に夢中になり過ぎて時を忘れてしまっただけなのだが。
「心配をかけてごめんなさい。明日からはちゃんと気を付けるから」
「本当ですね?あと少し遅かったら、かの有名な聖騎士養成学園が、上級魔族の群れに襲撃されるという歴史的事件が起きていたのですよ。二度と同じことを繰り返さないでください」
「もう……そんなことしたら、皆がパパに殺されちゃうでしょ。私は大丈夫だから、絶対にそんなことしないで」
食事以外の目的で、不用意に人間を脅かし瘴気を発生させることは、魔王による粛清対象になりうる。
魔王城にいる魔族のほとんどが名だたる上級魔族であり、彼らは皆アリアネルの窮地とあれば勇んで駆けつけるような過保護な連中ばかりだが、そんなことで冷酷非道と名高い魔王の逆鱗に触れるなど馬鹿馬鹿しいことだ。
アリアネルはため息をついてゼルカヴィアを諫めると、ぎゅっと膝の上に乗せた鞄を抱いた。
誰一人、自分の親しい魔族たちを死なせたくない。
誰一人――大好きな父の手で、同胞を殺させたくなど、ないのだ。
「全く……本当に、何もなかったのですね?」
「何もなかったよ。危ないことなんて、一つもないし――私が魔王の娘だなんて疑う人もいないよ」
「……ならばなぜ、泣き腫らした眼をしているのです」
ハッと息を飲んで、サッと顔を背ける。
ゼルカヴィアのもの言いたげな視線がアリアネルの横顔に突き刺さった。
「魔王様も言っていたでしょう。……貴女は、魔界の太陽。貴女が涙を流していると知れば、城中の魔族が、何事かと気を揉むのですよ」
「だっ……大丈夫だよ!これは別に、誰かにいじめられたとかじゃないから……」
目元を覆って誤魔化すように言ってみせるが、ゼルカヴィアの疑いの眼差しは容赦なく突き立てられる。
気恥ずかしさに頬を染めながら、アリアネルは観念して鞄の中から一冊の絵本を取り出した。
「?……何ですか、それは」
「ぅ、その……これを読んでて……泣いちゃったの」
「……?」
怪訝な顔を隠しもしないで、ゼルカヴィアは手渡された絵本の表紙をしげしげと眺める。
「”聖なる乙女と正義の天使”――あぁ、昔、何度か似たようなタイトルの絵本を見ましたね。正天使をモチーフにした本など、胸糞が悪いだけなので、近寄りすらしませんでしたが。……感動するような物語だったのですか?」
眼鏡を押し上げながら、半眼で呆れたように問いかけられ、言葉に詰まる。
人間の価値観に絆されたのか、と侮られている雰囲気に、アリアネルはぼそぼそと言い訳がましく口を開いた。
「その……最初は、ちゃんと、人間界で正天使がどんな風に親しまれているのかを知ろうと思って、冷静に読み始めたんだけど」
「ほぅ」
「えっと……こ、子供向けの絵本とは思えないくらい、臨場感たっぷりで、すっごく感情移入しちゃって……!」
「なるほど」
ゼルカヴィアの声は固いままだ。どうやら、全く理解してくれていないらしい。
「ぜ、ゼルも読んでみたらわかるよ!」
「私が、ですか?」
苦し紛れの少女の主張に、ゼルカヴィアは呆れたように聞き返す。
ガタガタと揺れる車内に、気まずい空気が流れた。
「……まぁ、良いでしょう。今日はミュルソスに用事があるので、人間界の屋敷まで帰る予定でしたから、時間だけはあります」
「ぅぅ……」
確かに、ゼルカヴィアが人間界の子供向けの絵本を読む謂れなど無いといえばそれまでだ。
彼は魔族であり、何千年もの時を生きる存在であり、人間を見下し天使を敵視する筆頭の存在なのだから。
ゼルカヴィアが多少なりとも絵本という存在に拒否反応を示さないのは、あくまで、幼いアリアネルのために何度も読み聞かせをした経験があるからに過ぎない。
自分で言い出しておきながら申し訳なくなって、アリアネルはしゅん、と車中で項垂れた。
「やれやれ。……なんだか、懐かしさを覚えますね。この文字の大きさ。デフォルメされたイラスト。丁寧で平易な文体」
表紙を眺めながら、ふっと小さく吐息で笑うゼルカヴィアは、思いのほか機嫌を損ねてはいないらしい。
そっと伺いみるように視線を上げると、眼鏡の奥の深緑の瞳は、昔を懐かしむように優しく緩んでいた。
「ゼル……?」
「これを、こうして一人で読むというのは、もしかしたら初めてかもしれません。……これを読むときはいつも、膝の上に、寝る前だと言うのにテンションを最高潮にした誰かさんが居座っていましたからね」
「っ……!」
幼少期、ゼルカヴィアに絵本を読み聞かせてもらった頃のことを言っているのだろう。
かぁっと頬を赤くして言葉に詰まったアリアネルを見て、クスクスと可笑しそうに笑った後、ゼルカヴィアはポン、と己の膝を軽く叩いた。
「また、昔のように読み聞かせてあげましょうか」
「なっ――ななな何言ってるの!!?」
「おや。私の膝の上は、貴女だけの特等席だと約束してあげたでしょう?」
「じょ、冗談言わないで!」
十歳にもなって、膝の上に抱かれるようにして絵本を読み聞かせてもらうわけにはいかない。
「寂しいですねぇ。私にとっては、つい昨日のことのようなのに」
「も、もうっ……いいから、早く読んでよ!」
恥ずかしさを紛らわすように、アリアネルはゼルカヴィアを促す。どうにも、幼い頃を揶揄われるのは気恥ずかしい。
ゼルカヴィアはくすくすとなおも笑いながら眼鏡を押し上げ、表紙にそっと手をかける。
(本当に――つい、昨日のことのようなのですけれどね)
昼間は全く手がかからず静かに一人遊びをしている幼女が、寝る前、ゼルカヴィアを独り占めできるその時間だけは、堰を切ったようによくしゃべるのだ。
読んでほしい本を最低でも三冊、多い日は五冊ほど選んでは、『ぜる、ぜる、今日はこのえほん、よんで!』と舌足らずの甘い声で嬉しそうにねだってきたのを、よく覚えている。
膝の上に呼んでやると、ぱぁっと真夏の太陽のように眩しい笑顔で笑って、駆け足でやってくる。そのまま、遠慮なく膝の上に乗り上げ、幼児特有の少し高い体温を遠慮なくゼルカヴィアの胸に預けて、風呂上がりの石鹸の香りが漂う艶やかな髪の毛を揺らしながら、物語の合間に何度も後ろを振り返るようにして、ゼルカヴィアを見上げては話しかけるのだ。
(映像石、でしたか。当時その存在を知っていれば、魔王様に頼んで、映像の一つも残しておけたのでしょうが――もう、どれほど願っても、あの体験が出来ないと言うのは、なんだか寂しいものですね)
当時は、仕事と育児の両立でくたくたになった一日の最後にやってくる大仕事に、げんなりした日もあったと思うのだが――こうして、膝の上に乗ることも拒否されるようになった今振り返ってみると、まるで当時がキラキラと宝石のように輝く素晴らしい日々だったように思えてしまうから、不思議だ。
少女の成長を喜ばしく感じる反面、言葉に出来ない寂しさも感じる。
あの、怒涛の日々を過ごした毎日も――いつか、記憶の果てに追いやられて、思い出すことも難しくなっていくのだろうか。
一人で生きていくことすらままならない脆弱な命が、『ぜる』と嬉しそうに名前を呼んで寄り添っては、温もりを分かち合った日々も――あとたった百年もしないうちに、今目の前にあるこの肉体から体温すら失って、跡形もなく塵のように消えていくのだろうか。
(まったく……理解しがたい感情ですね。これが、アリアネルがいう所の”家族”の情なのでしょうか)
目の前に座る少女にわからないように、口の端で苦笑してから、ゼルカヴィアはそっと絵本の表紙を開いたのだった。




