103、聖なる乙女と正義の天使⑥
乙女が目を覚ました時、そこは正義の天使の腕の中でした。
気が付けば、乙女は天使に抱えられて暮れなずむ空を飛んでいたのです。
「天使様……!も、森が――皆が――!」
「わかっている。もう、危機は去った。落ち着きなさい、アリアネル」
現状を尋ねるよりも先に、昨夜起きたことを訴えようとした乙女を、優しい声が宥めます。ばさり、と大きな羽音が何度か耳元で力強く響きました。
乙女は、慣れ親しんだ温かな腕の中で、ぽろぽろと美しい涙を流しています。
いつも、どんなときも、ずっと笑顔を絶やさなかった乙女が見せた初めての涙に、天使は痛ましげな顔をしました。
「さぁ、目的地に着いた。もう、あの森で暮らすことは出来ないから――ここが、君の、新しい棲み処だ」
天使は、ゆっくりと降下しながら乙女に語りかけます。
下を見ると、真っ白で立派な建物の中に、人々がたくさん集まっていて、ざわざわと騒いでいるのがわかりました。
「天使様……?」
「ここには、君を害すような人間はいない。安心して暮らすと良い」
恐る恐る尋ねる乙女に、天使は笑顔で告げて、そっと真っ白な建物の中心地へと舞い降りました。
天使と乙女を取り囲むようにして集っていた人間たちが、ざわっと大きくざわめきます。
「ここは……?」
「王都の神殿だ。過去、天使の加護を与えられた人間たちが暮らしている。心根が清らかな者しか、ここには立ち入らないということだ。君が瘴気に当てられて、その清らかな魂を陰らせることはないだろう」
「でも……ここには、緑がないわ」
見渡す限りの大自然の中で生きてきた乙女は、怯えたように周囲を見回します。
どこもかしこも、真っ白な石造りをした建物は美しいですが、乙女にとっては温かみを感じられない場所でした。
不安で身を縮こまらせる乙女を安心させるように抱きしめた後、正義の天使はざわつく周囲の人間へと目を走らせ、朗々と声を張り上げました。
「私は、正義と戦を司る第一位階の天使!」
どよどよっと人々に動揺が走ります。
それまで、存在だけは知られていたその天使は、人間界の誰にも、どの国にも、どの勢力にも、決して与しないことで有名だったのです。
正義の天秤を思わせる高潔な天使は、人に好意的な下位の天使たちと異なり、みだりに人々の前に姿を現すことはありませんでした。
その伝説上の存在が、一人の幼い少女を連れて、空から舞い降りてきたのです。
神殿にいた人々は、みな驚きに目を見開き、その神々しいオーラに圧倒されて、膝をついて天使を迎え入れました。
「ここにいる乙女は、私が認めた、世界で最も清らかで美しい魂を持つ"聖なる乙女"である!」
ぎゅっと小柄な乙女の肩を抱いて、その場にいる全員に知らしめるように宣言します。
夜に沈んでいく世界でも、変わらず美しく輝く黄金の長髪と、燃え盛るような炎の瞳が、人々の心に刻まれました。
「この乙女を害すことはこの正天使が決して許さぬ。崇め、奉り、乙女の言葉は私の言葉と同義と心得よ!」
集まった神官たちは、天界の頂点に立つ偉大な天使の言葉をしっかりと聞き遂げました。
「……さぁ、アリアネル。お別れの時間だ」
「天使様……?」
「いつも、言っていただろう?君が独りで生きて行けるようになるまで、だと」
「――!」
そこで初めて、乙女は幼いころに繰り返し天使が告げていた言葉を思い出しました。
その言葉を聞かなくなって、もう何年も経っていたので、すっかり忘れていたのです。
「い……嫌、絶対に嫌!天使様、行かないで!」
「それは出来ない相談だ。君は十分大きくなった。もう、あの美しい森も無くなってしまった。君を守ってくれる人間がいて、君はこれから、幸せに生きていく」
「違う――違う!嫌!私、天使様と一緒がいい!天使様、お願い、私も連れて行って!」
「無理だよ、アリアネル。聞き届けておくれ。所詮、人と天使は一緒に生きることは出来ぬのだから――」
聖なる衣を掴んで必死に訴える乙女に、天使は困った顔で諭しました。
しかし少女は泣いて嫌だと繰り返すばかりで、全く聞き入れてくれません。
「お願い――お願い、****!」
「!」
それは、周囲の神官には意味不明の音の羅列にしか聞こえませんでした。
しかし、正義の天使は大きく眼を見開いて乙女を見返します。
「****!お願い!ねぇ、昔教えてくれたでしょう?この名前を言ってお願いしたら、何でも聞いてくれるって、約束したじゃない!」
「アリアネル――……」
天使は、これ以上なく困った顔をしました。
それは、天使がみだりに人間に教えることはないと言われている、彼の本当の名前でした。
周囲の神官たちも驚きます。
正義の天使の名前を知る存在など、この世をどれだけ探しても、乙女以外にはいなかったでしょう。
「君は本当に困った乙女だ。……では、アリアネル。こうしよう」
泣きながら縋りつく少女にそう言って、天使は掌に黄色掛かった緑色の実を出しました。
じっと赤い瞳がそれを見つめると、シュルシュルと発芽して、ひと振りの枝へと成長します。
それは、かつて、二人の楽園にあった『太陽の樹』の枝に他なりませんでした。
「さぁ、これを持ちなさい、アリアネル」
「……?」
「私は、どうしても君の元に留まることは出来ない。それが、世界の理だからだ」
「!っ……どうして――!」
「だけど、アリアネル。聖なる乙女よ。――もしも、これから先、奇跡のような出来事が起きて、この世の理が捻じ曲がる時が来るとしたら――」
涙に濡れた黄緑色の瞳を覗き込み、その雫を掬い上げるように――祝福を与えるように、天使は乙女の頬に一つ口付けを落としました。
「それはきっと、太陽の祝福が私たちの”愛”を理解し、認めてくれた時だけだ。もしもそんな奇跡が起きたら――そのときは必ず、迎えに来る。だから、アリアネル。君が私の名を口にして、どうしてもと願うのなら、この『太陽の樹』に奇跡を祈っていてくれ」
そう言って、もう一度乙女に口付けます。
幼子に愛を伝えるように。――愛しい者の、幸いを願うように。
「本当……?本当に、迎えに来てくれる?」
「あぁ。奇跡が起きたその時は――必ず二人で、永遠に暮らそう。君がいる場所が、私の楽園だ。たとえ君がその清らかで尊い命を落とし、天界へ来ても、ずっと、ずっと永遠に――」
乙女は、天使の言葉を信じて、ぎゅっと太陽の樹を握り締めました。
それだけが、二人を繋ぐ唯一の絆であるかのように、必死に、力強く――
◆◆◆
それから、どれだけの時間が経ったでしょう。
乙女は毎日、天使からもらった太陽の樹に祈りを捧げ、奇跡を願っていました。空に一番近い塔のてっぺんに暮らして、毎日登る輝く太陽に向かって、どれだけ真摯に願ったか、数えきれません。
神官たちは、正天使の教えの通り、乙女に何不自由ない暮らしを約束していましたが、乙女の心は満たされませんでした。
愛する正天使が恋しくて、かつての自然が、森の友たちが恋しくて、毎日毎日泣きながら暮らしました。
そうして、『聖なる乙女』と呼ばれた少女の噂が国中に広まったころ――奇跡は、起きたのです。
それは、月のない真っ暗な夜でした。
満天の星が瞬き、静寂が支配する暗闇の中――真っ白な王都の神殿の、一番高い塔の上。
乙女の部屋の窓の外で、バサリ、と大きな羽の音が聞こえたのです。
「っ――天使様!!?」
その音には聞き覚えがありました。
乙女は窓辺に置いてあった太陽の樹を手に取ると、急いで塔を登り、屋上へと上がりました。お付きの神官たちも、慌てて後について行きます。
月のない漆黒の夜空の中――純白の羽を広げ、神々しいオーラを放つ、美しい天使が、そこにいました。




