100、聖なる乙女と正義の天使③
「うぅん……ここら辺は、きっと創作だよね。いくらなんでも、狼のお乳で人間を育てたりするのは難しいだろうし……」
夢のないことを呟きながら、アリアネルは開かれたページに描かれた狼の絵を眺める。
雪原を思わせる美しい毛並みの巨大な森の主と、その取り巻きの小柄な狼たち。
冬を越すための暖を取る毛皮としては有能だろうが、子供を育成するほどの知能も適性も持っていないはずだ。
あの、魔王の右腕であるゼルカヴィアですら、人間の赤子の育成には四苦八苦していたと言うのに。
「実際は、どうだったんだろう……赤子の時じゃなくて、ある程度大きくなってから森に捨てられたのかな?それとも、最初から正天使が手を差し伸べてたのかな……?」
純白の翼を持った黄金の長髪を靡かせる天使の絵を見て、考える。
魔王と似た性格と言われる正天使に、どれだけ慈悲と慈愛の心があったのか――それはもう、当時を共に生きていた魔王本人に尋ねるしかないのだろう。
アリアネルは、そう結論付けて、もう一枚ページを捲った。
◆◆◆
正義の天使は、狼に育てられていた幼い子供を伴い、森の中を進んで行きました。
あまり人が来ることがない泉のほとりに場所を見つけて、正義の天使は配下の天使の魔法で子供を育てる環境を造ってあげたのです。
大地の魔法で地面を平らにし、植物の魔法で家を造りました。
そうして、人間が口にしても問題がない果実がなる植物を家の周囲に生やして、食糧の問題を解決しました。
正義の天使は、賢者としても有名でした。
言語もまともに使えなかった子供に、最低限の教養を施します。
とはいえ、彼は子供に肩入れしすぎないように注意していました。
正義を司る天使は、常に中立でいなければいけません。
誰かに、何かに肩入れをして、”正義”を見誤っては困るからです。
「君が独りで生きて行けるようになるまで――それまでは、君の面倒を見てあげよう。だが、成長して、大きくなったら、いつかここを出て、独りで生きていくのだよ――」
天使はいつもそう言い聞かせていました。
やがて赤子は子供になり、天使の加護を賜るに相応しい美少女へと変わっていきます。
トロリと蕩ける蜜のような黄金の髪も、黄みがかった緑色の大きな瞳も、人間離れした愛らしさは、留まることを知りません。
仮に少女が実は小柄な天使だったと言われても、人々は容易に信じてしまったことでしょう。
幼い頃から一緒に暮らした森の獣たちは、少女にとって親友と同じ。
生まれたときから周りにある豊かな自然は、少女にとって生きる恵そのもの。
美しく眩く成長していく少女は、森の中を探検し、動物と交流し、植物を愛でながら、その清らかな心のまま真っ直ぐに育っていきました。
「ねぇ、天使様。森をずぅっと東に行くと、なんだか気分が悪くなるの。どうしてかな?」
「……しばらく、そちらへ行ってはいけないよ。その方角には、悪い空気が渦巻いているんだ」
それは、かつて少女が生れ落ちた村がある方角でした。
赤子を人身御供にして自分たちだけ生き延びようとする浅ましい心が災いしたのでしょうか。その後、村は瘴気に塗れて、禍が多く降りかかる土地になってしまいました。
幼いころから人間と関わることなく生きてきた聖気の塊のような少女には、瘴気が渦巻く村落は、猛毒のようなものだったのです。
(あの地が浄化されたなら、その時はこの子供を返しに行こう。きっと、こんな森の奥で暮らすより、人間に紛れて生きる方が幸せなはずだ)
天使は心の中で考えて、優しく少女の頭を撫でます。
そんなことなど露知らず、少女は無邪気に天使に語りかけました。
「天使様、次はいつ来てくれるの?明日?明後日?」
子供と適切な距離を保とうとする正義の天使は、子供が死なないように、時折様子を見に来るだけで、毎日一緒にいてくれるわけではありません。
それでも少女は、文句を一つも言いませんでした。
「太陽の樹に、お花が咲いたよ。もう少し涼しくなったら、実が出来るね」
「あぁ。君の瞳と同じ色の実が、今年も豊富に実るだろう」
「実が生る前には、もう一度来てね。夏には、ステリもナナムも美味しい果実が採れるんだよ。ご馳走してあげる」
「まったく……私は、人間と同じものを食したりはしないと言っているのに……」
天使は、寂しくないはずがないだろうにいつもキラキラとした笑顔で慕ってくる少女の頭を撫でて、困った顔をしました。
正義の天使の食事は、純粋な善の気である少女の聖気そのものです。
争いを平定する力を持った正義の天使は、戦地に赴くことが殆どでした。瘴気が渦巻く戦場では、愚かな人間の振る舞いに、気分が悪くなることばかりだったのです。
正義の天使は、久しぶりに、純粋な聖の気を生み出す人間に出逢い、触れて、人間は愚かな者ばかりではないのだと認識を改めていきました。
「何か、不便なことはないか?私が調達出来る物なら、工面してあげよう」
「ううん、大丈夫。森の獣たちも優しくしてくれるし、毎日楽しいよ。植物を育てる方法も教えてもらったし、困ったことは何もないよ」
正義の天使に魔法を教わった少女は、心からの笑顔でそう告げます。
「だけど……贅沢を言うなら、一つだけ」
「なんだい?なんでも言ってごらん」
「もっともっと、天使様と一緒にいたいな……」
小さな声で、初めての我儘を言った少女に、天使は驚きました。
今まで、そんなことを言われたことはなかったからです。
「私、天使様が大好き。この森が、森に棲む皆が、大好き。だから――ずっと、ずぅっと今と変わらず、皆で一緒にいたいって思ってる」
それは、叶わぬ夢でした。
天使は、いつか人間の世界に少女を送り出そうとしていたのです。
何故なら、天使と人間は、生きる世界が違うから――
「それでは、一つ、プレゼントをあげよう」
「えっ……!?何!?天使様からもらえるなら、何でも嬉しいよ!」
誰かを特別扱いすることを嫌う天使は、少女が命を繋ぐための物以外を与えたことはありませんでした。
少女は初めての出来事に興奮し、大きな瞳を輝かせます。
「君の、名前だ」
「名前――?」
「名前は、万物に贈られるものだ。君が育てている果実にすらあるだろう。天使の私にもある。だから、君にも、贈ろうと思ったんだ」
そうして、天使は優しく頭を撫でながら、生まれて初めて人間に”特別な”贈り物をしました。
「――アリアネル」
「!」
「君の親友の、森の主の毛並みにあやかって名付けた。気に入ってくれるといいんだが」
正義の天使の、戦地を思わせる燃えるような紅い瞳が、優しく笑みの形に緩みました。
少女は、何度も口の中で「アリアネル」と呟いて、顔を綻ばせます。
「嬉しい!ありがとう、天使様!」
「喜んでくれたならよかった」
無垢な幼い少女の、本当の願い事は叶えてやれないけれど――せめて、ほんの少し、これくらいならば。
正義の天使は、罪悪感をかき消すように、少女の頭を撫でました。
種族の垣根を超えた、不思議な関係を育む二人。
二人も気づかぬうちに、少しずつ――少しずつ、二つの心が近づいていました。




