050 幼女、浴衣に着替える
「お邪魔します!」
先頭の穂乃香が恐る恐る玄関を押し開いて、その隙間からそっと顔を入れつつ挨拶を口にする。
すると、いつから待ち受けていたのか、目の前にはビシッと執事服に身を包んだ初老の男性が一人、優し気な笑みを浮かべて立っていた。
「穂乃香お嬢様。ようこそ、おいでくださいました。この『青海島』の管理を任されております。板倉と申します」
そう口にしながら綺麗な所作で、お辞儀をして見せる。
穂乃香をはじめとする幼女三人だけでなく、奈菜とみどりの母親もその流れるような動きに目を奪われていた。
やがて頭を上げた板倉は、みどり、奈菜の順に視線を送りながら、しっかりと「みどりお嬢様、奈菜お嬢様もようこそおいでくださいました」と間違えることなくその名を呼び、再び頭を下げる。
「それから、みどり様、奈菜様のお母様方も、急な申し出でありましたのに、ご同行いただき、誠にありがとうございます。当ホテルの支配人として精一杯歓迎させていただく所存です」
次々と挨拶を重ねて、そう笑顔で締めくくると、板倉は半歩体を引いて、自らの背にしていた長い廊下に、一同の視線を誘った。
「当ホテルは、元々はこの島の診療所でありましたが、島の頂に建設されており、島内でも有数の景色を望める部屋がございます。ぜひともご堪能下さい」
自信ありげにそう宣言すると、板倉は「お荷物はすでに運び入れておりますので、ご安心ください。それでは、ご案内いたします」と付け加えて踵を返す。
床はきっちりと緑の絨毯に覆われているので、板倉の動きに合わせて靴が触れ、スッとこすれる音を立てた。
「ここが私たちの部屋かぁ」
南向きに並ぶ10個ほどの個室の最奥、西の端にある他の部屋と比べても2倍近くありそうな広めの部屋に穂乃香の姿はあった。
日当たりも良好で、太陽が頂点を過ぎたことで、部屋の奥までしっかりと光が届いている。
この部屋を使うのは榊原家当主の令孫嬢である穂乃香と、保護者役であり穂乃香専任のメイドでもあるゆかりだ。
「穂乃香お嬢様、まずは着替えましょう!」
「え、あ、うん」
南側の島のほとんどとその外に広がる大海原を見渡せる景色の良い窓で、潮風を感じていた穂乃香は、急にゆかりにそう声を掛けられて、慌てて頷く。
思い返せば、移動用の船の上で着替えて以来、まだ水着のままだったと、穂乃香はおもむろにパーカーとライフジャケットを脱ぎ始めた。
船上でこの格好になったのは、元々、孤島への旅を漠然と海への旅行だと思い込んでいたみどりが、船上で『泳げないの?』と涙目になったのが原因である。
もともと榊原家の大型クルーザーは様々なオプションを搭載している多目的な船舶であった。
とはいえ、みどりの泳ぎたいというニーズに応えるのは、なかなかに困難である。
ただ、この願いにプラスに働いたのは、穂乃香を筆頭にみどりたちがまだ幼いという事実だった。
甲板の一部をスライドすると出現する半身浴ができる程度の小さなプールであっても、穂乃香たちには適正なサイズなのである。
喜々として持参したお気に入りの水着に着替えたみどりに引きずられる格好で、穂乃香と奈菜も水着に着替えたのだ。
こうして、みどりが満足するまで船上のプールで過ごした三人だったが、目的地が迫ったという知らせで、急遽パーカーにライフジャケットを着て、船首で接岸迄の始終を眺めることになる。
そうしてそのまま、今日の宿泊先である『元青海島診療所』へとやってきた。
「あの、ゆかりさん?」
「なんでしょう? 穂乃香お嬢様?」
「えーと、これは?」
穂乃香は、自分に着せつけられた木綿でできた見慣れない形の衣装に首をかしげる。
「それは、浴衣と申しまして、我が国伝統の衣装である着物の一種ですよ」
「ゆかたですか」
四角い袖口を掴んで引っ張りながら、不思議そうに穂乃香は衣装全体にまんべんなく視線を動かした。
「はい、穂乃香お嬢様なら、スカートやワンピースなどもお似合いになるとは思いますが、やはり伝統ある榊原家の一員として、浴衣もよいのではないかと思いまして」
ニコニコと着付けの出来栄えを嬉しそうに見つめながら、ゆかりはやさしく穂乃香の背を押して、部屋の片隅に置かれていた大きな姿見の前に連れ出す。
「へぇ。これが!」
大きな鏡の前で、見慣れない衣装に身を包んだ自分を確かめるように、穂乃香はあれこれとポーズを変えて、浴衣を着た自分の姿を映し込んだ。
ガウンのように、体の前面で重ねられた木綿の布地は、柔らかい生地の太い紐で体に沿う様にして止められている。
「夏用の浴衣は吸湿性にも優れていますし、古くから寝間着などとしても用いられているんですよ」
「そうなんですか?」
「特に、現代では温泉街には欠かせない衣装ですね」
「へぇ」
穂乃香が纏うのは、いわゆる旅館用の浴衣よりも、かつての一般住宅などでみられた普段使いの色の強いものだ。
もっとも、榊原家の浴衣が一般家庭向けのものな訳はなく、腰に巻かれた兵児帯も、木綿の着物も、造りのしっかりした特注品である。
白地に淡く金魚と水の動きをかたどった紋様が刻まれた上品な浴衣は、見る人が見れば一発で名品とわかるし、淡い赤と黄色のグラデーションの兵児帯も、細かな飾り刺繍が光る一品だった。
当然着心地もよく、汗を吸いながらもさらりとした肌触りに、穂乃香は一発で気に入る。
そうして、笑顔でゆかりに「これはとても素晴らしいです」と感想を伝えた。




