58.薔薇は薔薇 前
メディロ侯爵家は王党派の貴族の中でも名門に数えられる、権勢を誇る家だった。
王妃は国外から迎えるのが慣例であるリッテンバウム王国であるけれど、王族は正妃以外に三人の妃が傍に侍ることが許されている。
メディロ侯爵家は永い王国史の間に何人も第二妃、第三妃を輩出した家柄であるし、その中から国母が出たこともあった。一族は今もその誉れを胸に王家に仕えている者ばかりである。
今代の国王はそうした慣例をすべて無視し、どこの誰とも知れない女を王妃とした。相応しい教育を受けていない者が王妃としての役割など果たせるはずもなく、それどころか婚姻十年目に入ろうというのに、いまだに子を成す気配すらない。
その上、王は王妃以外の妃は要らぬと宣言し、その日から頑なに縁談を拒み続けている。
王党派の目は自然と、王弟であるアンリへと向けられた。
王弟の正妃は国内の貴族から選ばれることが多い。一刻も早く年頃の娘をというのは、当然の流れだっただろう。枠は四人。アンリと年齢の釣り合う王統派の娘たちが集められ、仮の婚約者候補として交流を持つことになった。
メディロ侯爵家には年頃の少女がいなかったため、侯爵夫人の兄の娘の後見人となり、彼女を推薦することになった。
その少女は高位貴族である自覚を持ち自らをしっかりと律する反面朗らかで、話しているとほっとするような優しさがにじみ出る、気立てのいい娘だった。
顔立ちも美しく、ハシバミ色の緩く波打つ髪を持ち、所作も礼儀作法も完璧な令嬢である。
メディロ侯爵夫人は――バーミヤは、姪が少なくとも四人の妃の一人に、いや、正妃こそが相応しいと信じて疑わなかった。
アンリは婚約者候補たちと入れ代わり立ち代わり交流を持つことを厭う様子を見せていたけれど、それも今だけのこと。こんなに美しく素晴らしい娘と接していて、年頃の男が惹かれぬわけがない。
姪には、たとえそっけない態度をとられても腐ることなく微笑んでいなさいと言い含め、侯爵家の支度であの子が王弟妃として嫁ぐ日を楽しみにしていた。
そうしているうちに、小さなほころびが見え始めた。
アンリ殿下がまた単身で城から抜け出したらしい、令嬢との交流会を直前でキャンセルした、ふらりと城を出たまま数日戻らない日があるというようなものだ。
男性とはそういう時期があるものだろうと、その時は大げさに考えてはいなかった。当時アンリ王子は十六歳、なにかと周囲に抵抗してみせたい年頃でもあるのだろう。いずれ王族としての自覚に芽生える日が来る。その時は、代々支えてきた王党派へ報いていただけるはずだ――。
アンリの数日の出奔に振り回されていた宮廷も、やがてまたかという空気になっていたけれど、ある日を境にぱたりとアンリが戻らなくなって、そこからは大騒ぎだった。
現在の王家は若くして王位を継いだ現国王と王弟以外は、傍系の王族が数人いるだけの王族が少ない状態だ。唯一の王弟が失われるかもしれないという状況にこれまで傍観していた宮廷と議会は激しく対立し、泥沼の罵り合いに発展し、王宮内は一時、ひどくぎすぎすとした空気に陥っていた。
そうしたとき、女の身でできることは少ない。捜索は騎士の主導の元兵士たちが総動員で行っているし、宮廷政治は男の仕事だ。
自粛のムードに社交を制限され、貴族の女たちには鬱屈を晴らす場もなく閉塞感にうんざりする、そんな時期だった。
アンリが見つからないまま一年が過ぎ、婚約者候補だった令嬢たちもほかの縁談が調いだすようになってきた。
女としての花の命は短い。結婚適齢期の令嬢の一年はとても重く、国が総出で探しても一年以上見つからないアンリはもう人知れず儚くなっているのだろうと諦める雰囲気も出てきた頃だった。
バーミヤは、不安がる姪に強く言い含めた。殿方を待てない女が王族の妃にふさわしいわけがない。一途にアンリ殿下をお待ちなさい。お戻りになったとき、あなたこそが第一の妃に相応しいと誰もが納得するでしょうと。
そうして二年が過ぎたころ、諦めの蔓延していた王宮に、アンリが帰還した。
国中が沸き立つほどの喜びだった。その頃六人いた王弟妃候補のうち半数はすでに他の釣り合いのとれる貴族と縁を結んでおり、ようやく姪も報われるのだとバーミヤは涙すら落とした。
帰還した王弟の傍には少女が寄り添っていて、アンリは彼女を唯一の妃とすると宣言したことも、過酷な放浪を経て一時錯乱しているのだろうとしか思わなかった。
王族は王宮で生きる者だ。道端に咲く花を愛でる日があったとしても、雑草が宮殿に咲く薔薇になることは決してない。
そんなことはバーミヤにとっては当たり前の道理であり、アンリが戻った以上何も案ずることはないと信じていた。
数か月後、アンリとその少女の婚姻を宮廷と教会が認めたと聞いた時も、それからほどなく、少女が懐妊したと噂が流れてきても、馬鹿げた茶番だと嗤っていた。
その娘が何人子を産もうと、確固とした後ろ盾のある高貴な女から生まれた子の継承権が上だ。つまらぬ噂に惑わされたのか寝付くようになった姪を、くよくよとして容色が落ちたらどうするのだ、心を強く持ちなさいと叱咤し、正しい選択がなされるまで、バーミヤは待った。
姪は次第にベッドから起き上がれぬようになり、実家である伯爵家に戻りたいと泣くようになった。
王弟妃は太陽の下に咲く黄金の薔薇もかすむほどの美しさで、宮殿に戻ったばかりの頃は衰弱していたが、アンリが足しげく見舞い手を握って力づけ、健康を取り戻しついに結婚を果たしたのだと面白おかしく話す使用人たちは全て屋敷からたたき出した。
おかしい、どうして正しいはずのことが、こうも上手くいかないのか。
無責任に風に乗って流れてくるような噂に左右されては痩せ細り、泣き続ける姪にもっとしっかりしてほしかった。
王族として生を享けながら間違った選択をし続けるルイ王とアンリ王子が、不満だった。
どこの誰とも知らぬ雑草が薔薇と誉めそやされるのを耳にするたびに、扇でそう噂するものを打った。
そうして衰弱した姪がとうとう目を覚まさない朝を迎えたのとほとんど時期を同じくして、新たな王族の姫が生まれたと告知され、久しぶりの新たな王族の誕生に、国民も対立していた宮廷も議会も、その時ばかりは慶事の雰囲気に包まれた。
兄には、なぜ娘がここまで弱っているのに伯爵家に戻さなかったのかと責められた。
兄嫁は、姪にすがり、泣いていた。
国中が浮かれたような空気になっているのに、メディロ侯爵家だけは冷たい氷に閉じ込められたようだ。
何もかもがおかしく、何もかもが狂っている。
バーミヤは決して私欲のために姪を利用していたわけではない。気立てがよく自分に懐いていた姪を心から愛していた。
婚家である侯爵家を盛り立てたいという気持ちはあったが、それ以上に王党派の貴族として育てられた義務と責任を果たそうとした、それだけだ。
王族に忠誠を。秩序ある繁栄を。生まれた時からそう教えられ続けてきたし、今も心からそれを願っていた。
生まれた子は女児だという。ならばすぐにでも王弟に第二妃、第三妃をと各家も動いているではないか。
王弟妃は頻繁に寝込むようになり、やがてベッドから起き上がることもできなくなったらしいという話も聞こえてくる。
それから少し遅れて、どうやら生まれた王女も病に伏して生死の境をさ迷っていると聞こえてきて、不覚にも笑ってしまった。
やはり間違った道には間違った結果が待っているのだ。王弟妃も、いずれはその女が生んだ娘とやらも消え去って、遠回りはしたけれどやがてあるべき形に戻るだろう。
自分が間違っているなどバーミヤは僅かも思わなかったし、王党派はこのまま手をこまねいていないだろう。
長年王家を支えてきたのだ。正しい妃を迎えれば、野に咲く花の種など忘れるほど、すぐに素晴らしい王族が誕生するはずだ。
姪の喪が明けた直後、悪運強く生き残った王女の一歳の誕生日、祝福の儀に高位貴族として参加した時も、バーミヤはそう信じて疑わなかった。
教会のステンドグラスが目を焼くほどに輝き、大陸初の全属性の持ち主であるとその場が混乱に陥っているときも、ただ現実感のないまま、世界があるべき形に戻るのを待って、立ち尽くしていた。




