主を見守る守護者の日常
彼女の朝は早い。
日が昇ると同時に目覚め、大きく伸びをする。
丸くクリクリした目で辺りを見回し、透明の箱の壁にうっすらと映る金色の体を確認して、満足げに舌をちょろちょろと出し入れした。
気温と湿度が一定に保たれている透明の箱。
そこが自分の部屋だとは理解しているのだが、彼女の成長した体には手狭で、最近は寝るとき以外は寄りつかない。
壁際に移動して、腹をくっつけるようにへばりつき見下ろすと、主が「ぐがおおおっ」と妙な音を口から発しながら寝ていた。
昨日の夜遅くに帰ってきて直ぐに寝てしまったので、起こすのも悪いと彼女は考える。
体を伸ばし手慣れた動作で天板をずらし、透明の箱からあっさり脱出した。
毎日やっていることなので苦でもない。
透明の箱が置いてある台の縁まで移動して、下を覗き見る。
……やっぱり、主は熟睡していた。
ここから寝具にダイブしてもいいが、それをすると主を起こしてしまう。彼女はそう思い、縁をゆっくりと歩いて行く。
そして、主の部屋の壁際に設置されている机に飛び移る。
主が毎日熱心に叩いている突起物が並んだ板の横に、ちょこんと座った。
すっと視線を上げると四角い板があって、そこには美しい映像が流れている。
彼女は知っている。ここに映っている世界が今いるこことは別の世界だと。
空から見下ろしているかのような場所で、人と二足歩行の獣が動いている。
彼らはいつも慌ただしく働いていた。
草や木がいっぱいあるところで、毎日を懸命に生きている彼らを眺めるときが、彼女にとって至福の時間だった。
人と獣が集まって食事の準備を始めているのを見て、自分の空腹に気づく。
ご飯を与えてくれるはずの主は起きる気配がない。そうなると、食事を得る方法は一つだけだ。
机からぴょんっと飛び降り、主の寝具の隅に着地する。
主の体を避けたので起きることはなく、豪快な寝息は健在だ。
その様子を見て、前足で自分の胸を撫で下ろす。
よく見ると被っていた毛布が乱れていて、体の半分にも被さっていないので、口で毛布を噛み、後退りしながら引っ張っていく。
肩まで毛布が到達したので口を開き、満足げに舌をちょろちょろさせる。
そこで当初の目的を思い出したようで、この部屋の入り口まで移動すると、首を上へと伸ばす。
目の前にあるのは大きな一枚の板。
これがこの部屋からの脱出を邪魔する一番の難所だ。
板が開かない限り、部屋から出ることは叶わない。
以前はその方法がわからず、この部屋で大人しくするしかなかったが今は違う。
彼女は主がこの板を開けるのを目撃するたびに、じっと観察を続けていたのだ。
板の端にある金属の出っ張りを下にカチャリとやれば板は開く。
それを実行しようとトコトコと歩いて行くと、前足をぺたりと目の前の板に添える。
普通なら垂直に切り立つ板に登ることは不可能なのだが、彼女にはそれが可能だった。
足場になるような出っ張りは存在しないというのに、難なく登っていく。
手には極小の小さな毛が無数に生えていて、それが滑り止めとなり、ありとあらゆる場所を上り下りできる。
金属の出っ張りに移動してぶら下がると、カチャリと音がした。
だけど、これだけじゃ板は開かない。
彼女は大きく長い自慢の尻尾を勢いよく振って、横の壁に叩きつける。
その反動で板がゆっくりと開いていく。
自分が通れる程度の隙間ができたので、金属の出っ張りから手を離して床に降り立つ。 スルッと部屋から出て行くと、そこは板張りの巨大な通路。
見上げると通路の脇に巨大な板が三枚ある。自分が今出てきたのと合わせると四枚。
確かこの一枚は奥に主より年下のメスが住む場所だった、と彼女は思い出す。
前に主が、
「いいか、ここだけは絶対に入っちゃダメだぞ。無事に帰れる保証はないからな!」
と強い口調で言い聞かせてきた。
主は少し怯えているようにも見えたが、そのメスは凄く優しい。
「いやーん、かわいいっ! あれー、お腹空いたのかなぁー」
と笑いながら、甘えた声で話し掛けてくれる。
主の前では絶対に見せない顔と声だから、きっと誤解しているのだろう。
もう一枚の板の先には主を産んだ、つがいが住んでいる。
オスの方は目に二枚の小さな透明の板を張り付けて、じっとこっちを見てくるので少し怖い。
危害を与えられたことはないのだが、ちょっと不気味なので苦手にしている。
板は残り一枚だが、あそこはフンや尿を排泄する場所らしい。前に開いていた板から顔を覗かせたら、主が困り顔をしていた。
っと、今はそんなことを考えている場合じゃない。と彼女は思ったのか四足歩行で通路を足早に進む。
彼女の前に待ち受けているのは第二の関門。
眼下を覗き込むと、大きな段差が連なり下まで続いている。
主ぐらいの体の大きさがあれば苦もないのだろうが、四足歩行でこの体の大きさだとかなり辛い。
とはいえ、ここであきらめるわけにはいかない、と奮起したようで、慎重に段差を降りていく。
段差から上半身を斜めに伸ばすと後ろ足で小さく跳び、次の段に着地。
それを一段一段、慎重に時間を掛けて下りていく。
ようやく平らな床にたどり着くと後方を見上げて、また満足そうに舌をちょろちょろさせた。
「あら、また勝手に抜け出してきたの。しょうがないわね」
大きな声がしたので振り返ると、つがいのメスの方が見下ろしている。
ここの群れの中で一番おしゃべりな個体だ。
実はこのメスが群れのリーダーなのを知っている。
表向きはつがいのオスが群れを支配しているように見えるが、本当はこのメスがすべてを取り仕切っているのを彼女は理解していた。
何故、そう思ったのか。
群れに食事を提供するものが一番偉いと決まっているからだ。
彼女はメスの足下に歩み寄ると、じっと大きな目で見つめる。
「お腹空いているの? 良夫は昨日遅かったから朝ご飯まだなのね。ちょっと待ってなさい」
この仕草だけで直ぐに察する能力。
やはり、このメスが群れのリーダーで間違いない。
少し待っていると、目の前に食べものが置かれた。
緑色の薄く丸い板に、肉がみじん切りにされて盛られている。
この緑の丸い板が自分専用の容器だと彼女は知っているので、ためらいもなく食らいつく。
「あなた生より火が通っている方が好きなのよね。ほんと変わった子ね」
背中にそっと触れる指の感触を無視して、黙々と食べ続ける。
山盛りの肉を平らげると、辺りを見回す。
群れのリーダーが大きく長い椅子に座っているので、そこまで彼女も移動する。
慣れた動作で椅子を登り、リーダーの隣にちょこんと座った。
「食べ終わったのね。今日も一緒にワイドショー観る?」
彼女は頷くように三度、頭を縦に振った。
「まるで言葉を理解しているみたい。特別に頭のいい子なのかしら」
首を傾げるリーダーの近くで、じっと映像の流れる板を見つめる。
白く大きな箱が走っていて、その中に主たちと同じ種族が入っている。あれはクルマというのを彼女は最近知った。
一時間近く、そうしていると不意にピンポーンと音が響く。
「誰か来たわね。また小包かしら」
リーダーが立ち上がり壁際の小さな箱に指を置いて、何やら話し掛けている。
「良夫はまだ寝ているけど、入って入って」
遠くの方でカチャリと何か音がした。
あれは外へと繋がる板が開いた音だ。
もう一度、今度は少し大きくカチャリと聞こえた。
自分たちのいる場所へと繋がる板が開き、そこから姿を現したのは胸部がやけに膨らんだメス。
彼女は知っている。あれは主とつがいになろうとしているメスだと。
素早く椅子から飛び降りると、足早に胸部の膨らんだメスに近づく。
「お邪魔しま、すううううううううううううううううっ!?」
迫り来る彼女を見た途端、床に尻を突き悲鳴を上げる。
「こ、こら。精華ちゃんは苦手だから寄ったらダメだって言っているでしょ」
あと数歩でメスの足に体当たりができたのに、リーダーに捕まってしまった。
「まったく。いつもは言うことをきいてくれるのに、なんで精華ちゃん見ると寄っていくのよ。暴れないのっ」
彼女はその手から逃れようと体を振っているが、逃がしてくれないようだ。
逆らうと後が怖いのを知っているので、渋々だが大人しくなる彼女。
そのまま、あんなに苦戦した段差を簡単に上がっていくリーダーに連れられ、主の部屋へと舞い戻ってしまう。
「あらまあ、幸せそうな顔してぐっすり眠っているわね」
主の寝姿を確認して笑うリーダー。
彼女は自分の個室である透明の箱へと入れられた。
「良夫、そろそろ起きなさい。精華ちゃんが下に来てるわよ」
「んっ、ふああああああ。おはよう、母さん。精華来てるんだ……わかった。少ししたら下りるよ」
主は目元を擦って体を伸ばしている。
リーダーが出て行くと、主は彼女の前へと移動した。
「おはよう、ディスティニー」




