第98話 カウントダウン
このところ雨の降らない日はない。
ただ、それでもごく稀に雨の音が消えるときがある。一つはスキマ時間みたいな雨上がり、そして、もう一つは演舞場にいるとき。
ふっと雨の音が消える。二人が【銀の剣】を構えるだけで、神経を研ぎ澄まされる思いだった。
湿気で弛んだ空気に張りが戻る。命の目は、演舞場中央にいる二人の騎士に釘付けだった。
構え、計り、歩を進め。
隙をうかがい積み上げた静かな時間も、崩れるときは一瞬だ。
彼女たちの闘争はいつだって唐突で、それでいて図ったように始まる。
銀の尾を引く二人の剣がぶつかる。
体の芯まで響くような音がして、命の意識はいっそう奪われる。否が応でも、四角い戦場に立つ二人を見ないわけにはいかなかった。
一合目からはあっという間だ。
二合目を交わすなり三合目に繋げ、立ち位置を変えるように二人は回る。
軽快な足音を立てて、音色を奏でるように互いの剣を滑らせて。
気づけば二人は踊っていた。
なぜここが演舞場と呼ばれる施設なのか、それを体現するかのような動きだった。
いつまでも見ていたい、そう思わせるに足る舞であったが、終わりのない舞はない。
互いの剣を弾いて手元に戻すと、足を止める。始まりが唐突なら、二人の試合は終わりも唐突だった。
――ジャスト三分。
体内時計に秒針が備わっているかと思うほどに見事な引き際だった。
近くて遠いコートを、命は瞬きも忘れて見つめていた。
「もしもーし。聞こえるか?」
上下する手が視界に入る。命は、手を振るリッカに意識を向けた。
「ずいぶん熱心に見てたな」
「うーん、どうでしょう。見ていたというより、魅せられていたといった方が正しいかもしれません」
エリツキーとシルスターの試合には、確かに目を惹くものがある。
だが皆が皆、熱い視線を送っているわけでもない。むしろ諦観の眼差しを向ける者が大半で、命のように熱い視線を注ぐ者の方が少数といえた。
変なこと考えてないといいけど……、リッカは翠のくせっ毛を掻いた。
「ずいぶん動くようになりましたね、右腕」
「前に比べたらな」
ギプスで固定していたときは左でやっていた仕草だが、それも数日前までのこと。白いギプスが外れ、代わりにリッカの右腕には黒いサポーターが巻かれていた。
「おおっ、ついに……ついに女神さまの腕が」
「これは完治も近いですわ」
リッカの復活は、穏健派にとって希望に他ならない。誰もが女神さまの復活を待ち望んでいる。ただ無責任に、救いの手が差し伸べられるのが当たり前のように思って……、命にはそれが気に食わなかった。
「でも完治したわけではないでしょう? くっ付きかけが一番危険ですから、気を付けた方がいいですよ」
「そうだな。手前も気を付けろよ」
「私も?」
「ああ。そもそもこの怪我だってコートマッチで負ったもんだ」
一度区切ってから、リッカは続ける。
「気を付けろよ。慣れてきたころが一番危ねえんだ」
「ええ。お互い気をつけましょう」
和やかなのは表面上だけで、二人とも目が笑っていなかった。命もリッカも感じとっていたのだろう。この部屋に満ちる、水面が揺れるような気配を。
(やっぱり……まだいない)
目が合った女生徒Bが会釈する。彼女の隣に、栄子はまだ帰ってこない。
(あまり重そうでなかったのに……どうして)
聞けない。時おりのぞく女生徒Bの悲しげな表情が、命に踏み入ることを躊躇わせた。
リッカの妹の件だってある。
もしかしたら栄子は魔法少女であることを……。嫌な予感が胸を巡る。
ポチャン、と水面に石が落ちた気がした。
波紋が広がる。
あちこちで起きた輪が衝突しては乱れ、水面を揺らした。
今は少し揺れているだけだ、直に収まるだろう。命は自分にそう言い聞かせたが、水面は一向に落ち着かない。
水面を一番騒がせる者がいた。ばしゃばしゃと水を掻き上げながら、彼女は歩いていく。
怪訝な顔をするエリツキー。
飄々とした白石。
二人の教師の前に立つと、シルスターは世間話をする気軽さで話しかけた。
「今日も引き分けか。余と張り合うとは、主もやるではないか」
「主ではない。先生だ」
「えっ、そこ突っ込むん?」と白石。
二人は無視して続ける。
「それは失敬。先生が前に廊下で見せた魔法剣じゃが――」
「【白銀鳥の嘴】のことか?」
「うむ、それじゃ! あれは良かった」
我が意を得たりという顔でシルスターは頷く。
「余は主の……おっと、先生のことを買っておる。どうじゃ、余の指南役をつとめてみぬか?」
「私が、か?」
「他に誰がおる?」
「ウチ」と、やはり白石。
安定のスルーであった。
「ともかく、恐れ多くもこのヴァイオリッヒ家の後継者たる余の指南役をつとめられるのじゃ。光栄であろう? ん?」
「そうだな。非常に光栄だが断る」
【銀の剣】に勝るとも劣らぬ切れ味であった。シルスターはムッとした顔で問う。
「なぜじゃ、なぜ余の指南役を受けぬ?」
「お前一人特別扱いできないからだ。私に教えを乞うなら、私の講義に顔を出せ」
「それは無理じゃ。余は先生の講義をとっておらぬ」
(ああ、そういえば)
錬金術基礎Aの講義でも、命はシルスターを見かけたことがなかった。
「なら無理な相談だ。あきらめろ」
「無理? 無理ではなかろう。余は選抜合宿に出ていたのじゃ。履修を組む時間だって、ここにおる者たちよりも少なかった。そこは考慮されて然るべきじゃ!」
ここにいる有象無象とは違う、とシルスターの金眼は語っている。その有象無象のなかにリッカが含まれていることは、彼女の視線からも読めた。
「それに先生は何か勘違いしているようじゃが、余は元より特別じゃ。特別扱いしないという考えがそもそも間違っておる」
無理が通れば道理が引っ込むを地で行く発言だった。エリツキーもこれ以上の問答は無意味だと判断したのか、渋々折れた。
「……わかった。その指南役とやら受けてやろう」
「初めから素直にそう言えばいいのじゃ。それでは今日の放課後から頼むぞ」
自分の意見が通って満足したのだろう。シルスターはさっさっと戻っていた。
エリツキーは眉間を押しながらため息をもらした。やらねばいけないことは雨のように降ってくるのに、与えられる時間はここ最近の晴れ間より短い。
『エリツキー先生、エリツキー先生、至急職員室までお越し下さい』
またか、とエリツキーの目が言っていた。校内放送での呼び出しはしょっちゅうで、もはや何が至急なのか感覚が狂いそうだ。
「あとはええよ。任せとき」
ポンポン、と白石が労うようにエリツキーの背中を叩いた。
「悪いな」
「大丈夫や。ここはウチに任せて先に行き」
「…………」
「心配いらへん。直ぐに追いついたる。マグナの……マグナの仇を討つんや!」
エリツキーは無言で演舞場を出ていった。
それからほどなくして、共通魔法実技が終わった。女生徒たちは三々五々に帰っていく。
(なんだか……)
グループを作る女生徒の顔ぶれがずいぶんと変わっている。東は東、西は西の者と、さらに言うならコートマッチの成績が似た者同士が連れ立っていた。
「どうした? 早く行こうぜ」
「ええ。直ぐ行きます」
前を歩くリッカを追う。
――ポチャン。
後ろでまた水面が揺れた気がしたが、命は振り返らなかった。
◆
「失礼します」
職員室に入った命を待っていたのは、自席で腕を組み瞑想するように眠るエリツキーだった。
(お疲れのようですね)
起こすのは少し気が引けるが肩を揺する。元より命はエリツキーのお使いで職員室にやってきたのだ。
「……八坂か」
エリツキーはトロンとした目を擦る。夢うつつといった具合だったので、命が先に用件を切り出した。
「外語のノートをお持ちしました」
「ああ……悪いな。助かるよ」
「その、全員分は集められなかったのですが」
エリツキーは机に置かれたノートの山に目を遣る。確かに全員分にしては厚みが足りなかった。
「……全く。あれほど言ったのに」
「また日を改めて回収しましょうか?」
「それには及ばん。私はちゃんと、提出しない場合は成績に響くと言ったつもりだ。それともなんだ、八坂が待って欲しいというなら考えるが」
「やだな。私はちゃんと提出しましたよ」
ふうんどれどれ、とエリツキーは山から抜き出した命のノートをパラパラめくった。
「なかなかユニークなノートだな。日替わりで別の人が書いてるみたいなところがな」
「でしょう? 日々ノートの取り方を研究しているのです。勉強熱心だと思いません?」
などといけしゃあしゃあと言う命だが、彼はノート術の研究など当然していない。単に美しき友情の合作を提出しただけだった。
「ふん、物は言いようだな。だがノートを提出しない連中よりはよっぽどマシだ。ノートを写した努力だけは評価してやろう。正当にな」
命はただ微笑んだ。困ったとき立場が悪いときは無言で微笑むのが、乙女の処世術である。
「にしても、お前は字が上手いな。魔法文字は不慣れだろうに」
「恐縮です」
「誰かさんもお前の十分の一でもキレイに書いてくれると助かるんだがな」
恨めしそうに視線を送る先には、マグナの席があった。書類が雑然と置かれた机から、エリツキーは紐とじの黒い日誌を取り、それを命の前で広げてみせた。
「見てみろ。読めたもんじゃないぞ」
「フェニキア……いえ、ヘブライ文字に似ていますね」
「まだその方が解読できるから良かった。これで引継ぎされる身にもなって欲しいもんだ」
読めないという意味で魔法文字。ダイナミックさのなかにもエグみを感じさせる文字が、ツイストやらゴーゴーやら好き勝手に踊っているようだ。実にマグナらしい文字だと命は苦笑した。
「マグナ先生……元気にしていますかね」
「さあ。漁船に乗ってると聞いたが」
「獲物はマグロですか?」
「季節からしてサバやイサキだろ」
真顔で返された。
(……本当に何しているのですかね、あの人は)
マグナは自分の秘密を知る数少ない味方なのに、そんなに軽いフットワークで転職されても困る。
と、命が自分本位の思考を巡らせていると誰か近づいてきた。四十代半ばといったところか。見たことがない、ひっつめ髪の教師だった。
「お忙しいところすみませんね」
「いえ」
「なら良かった。寝る暇もないほど忙しいのかと思って」
嫌味な人だと思うも、大人同士の話し合いである。命は邪魔にならないように一步引いた。
「少しお時間いい?」
「なんでしょう」
エリツキーは薄い笑みを浮かべて応えたが、どうやら相手はその余裕が気に食わなかったようで、表情を険しくした。
「貴方のところのヴァイオリッヒさん、もう少し何とかならないの? あの子がいると講義にならなくて困るのよ」
「申し訳ありません」
「あのね、謝って欲しいんじゃなくて、もっときちんと指導して欲しいって言ってるの。わかる?」
「……はい。今後このようなことがないよう本人にも強く言い聞かせますので」
「言い聞かせるだけじゃね……マグナ先生といい、いつまでも学生気分でいるから生徒に舐められるのよ」
(……っ!)
沸き上がる衝動をぐっと堪える。先生が我慢しているのだ。命が話をこじらせるわけにはいかなかった。
担任だから庇うわけではないが、エリツキーはよくやっていると思う。錬金術基礎Aを始めとした講義をこなした上で、マグナの講義もすべて吸収しているのだ。あのわけのわからない怪文書だけを頼りに、だ。
それに、エリツキーはシルスター相手でもはっきり物を言う。権力に屈することなく面と向かい、ときに斬り結んでさえいる。
そんな教師が、この学校にあと何人いるというのだ。大多数はヴァイオリッヒ家の権力の前に頭を垂れているだけではないか。
(そう、貴方のことですよ。そこのひっつめ髪の人!)
命は糾弾してやった。それはもう思いっきり心のなかで。
……情けないが、これが今の黒髪の乙女にできる精一杯であった。
誰か、誰か助け舟を出してくれる人はいないのか。あちこちに目配せしていると、ちょうど一人の教師と目が合った。
「あっ」
しーっと、その教師は人差し指を立てて、命に口をつぐむように促した。
ゆるふわな水色のロングヘアを静かに揺らしながら、そろりそろりと近寄る。ひっつめ髪の教師の背後をとると、勢い良く肩に手を置いた。
「まあまあ、先生っ!」
ビクンとひっつめ髪の教師の身体が跳ねる。耳元で大声を出したのは絶対にわざとだ。命は顔を背けて小さく笑った。
「リ、リルレッド先生! なんですか急に!」
「いや~、そのへんで良いんじゃないかと思って。あんまり怒ると、眉間に寄ったシワが戻らなくなっちゃいますよ」
リルレッドが指で眉間にシワを寄せた。これはさすがに癇に障ったのか、ひっつめ髪の教師も言い返す。
「私のシワを心配する暇があったら、自分の心配でもしたらどうです。ずっと独り身でいるなんて、みっともないですよ?」
チャンス到来! すかさずリルレッドはタコのように絡んだ。
「そうなんですよ、そうなんですよ~。ねえねえ先生、誰かいい人いません?」
「こ、こら! 離しなさい」
「ねえねえ、いるでしょう一人ぐらい。誰か紹介して下さいよ」
「いないわよ、もうっ!」
強引に引っぺがす。ひっつめ髪の教師はリルレッドから距離を置くと、
「エリツキー先生、本当に頼みますよ!」
そう言い残して職員室から退散していった。彼女が扉の向こう側に消える様を見て、リルレッドは鼻で笑った。
「昔から嫌いなのよねー、あの人」
「すみません。リルね……リルレッド先生」
「直ぐ謝らないの! エリちゃんも真面目ねー。テキトーにあしらっときゃいいのよ、あんなの……っと、さすがに口が過ぎたかしらん?」
リルレッドは口元に上品に手を当てていたが、目が笑っている。隠す気などさらさらないのだろう、ニヤケていることも悪意があることも。
職員室には、噛み殺せない笑い声が漏れていた。
「大丈夫よ。見てる人はちゃーんとわかってるから、エリちゃんが頑張ってること。ほら……」リルレッドは命に目を遣る「ものすごーく物言いたげな生徒がここにいるじゃない? あんたがちゃんと仕事してる何よりの証拠よ」
命は大きく二度頷いた。これくらいなら反感を買わないだろう。
「……えっと」
エリツキーは言葉に詰まる。何と言ったものか。考えに考えたが、不器用な彼女はシンプルなお礼しか言えなかった。
「いつも……ありがとうございます」
「なーに良いってことよ。頑張るのはいいけど、根詰めすぎないようにね」
これにて一件落着。リルレッドは自席に戻ろうとして、途中で勢い良く振り返った。
「あっ! 土日の件は頼むわよ。私、今回は賭けてるから!」
「わかってますよ」
「ありがとー! エリちゃん愛してる」
リルレッドはスキップせんばかりの足取りをみせたが、予鈴が鳴ると「やばっ! 次、一号棟なのに」と一転して慌てだした。
「ふふっ、相変わらずだな、あの人は。……で、お前はゆっくりしてていいのか?」
「あっ!」
命は、水魔術基礎A-3――ちょうど職員室から飛び出していったリルレッドの講義をとっている。早く行かねば、とカバンを持ったところで、エリツキーが声をかけてきた。
「ありがとな。お前は私のこと嫌ってるものとばかり思ってたよ」
「私もエリツキー先生のこと大好きですよ」
「……ノートの評価は変わらんからな」
「あらら、それは残念」
命は大して残念そうでもない表情を浮かべ、職員室から出ていく。急いでいたが、スカートのプリーツは乱さない。それが乙女の美学である。
◆
銀の針のような雨の降る夜。
「――ということがありまして」
命が職員室であった出来事を伝えると、向かいに座る根木が顔を輝かせた。
「ほへえ、リルちゃんカッコイイ!」
本日のお勤めを終えた命は、そのままアルバイト先のカフェ・ボワソンで食後の紅茶を楽しんでいた。
(それにしても……)
根木と二人っきりというのは久しぶりだ。疎遠になっていた理由は薄々察していたが、口には出しにくかった。
(もしかして茜ちゃんってリッカと仲悪いのですか……なんて、面と向かって聞くわけにもいきませんし)
そうなのだ、二人は明らかに互いのことを避けている。命がリッカといるとき、基本的に根木は寄って来ないし、逆もまた然りだ。
この前、たまたま根木とリッカが鉢合わせたときだって。
『リッちゃ……リッカさん、こんにちは』
なぜにさん付け? 命はこの遣り取りだけで、二人の間にリプロン川より深い溝があることに気づいてしまった。
しかし……どうして仲が悪いのか。リッカは無愛想に見えて面倒見がいいし、根木に至っては誰とでも仲良くなれそうな気質を持っているのに。何が原因なのか、命には皆目わからなかった。
「命ちゃん!」
「は、はいっ」
「今、考えごとしてたでしょ? 命ちゃんって考えごとするとき、いっつも遠い目してるもん」
よく見ていらっしゃる、と感心していた命の頬が、むちゃーと潰れた。
「命ちゃん!」
「ふぁい」
上手くしゃべれない。根木の両手が命の頬をサンドしていた。
「ちゃんと二人でいるときは私を見ること!」
「わかひぃまふぃた」
確かに今のは良くなかった。目の前に相手がいるのに本を読む(リッカがたまにする)のと同じ不快感を与えたに違いない。命は悔い改めることにした。
「もう、プンスカ系だよ!」
根木は手を離した。命の誠意が伝わったのか、あるいは言っても無駄だと悟ったのか。
「すみません。土日の約束って何だろうと思って。講義中も終始ご機嫌の様子でしたので」
「リルレッド先生の?」
そうそう、と命は頷いた。本当のことは言えないので、職員室で聞きかじった話を使わせてもらった。
「たぶん、お見合いのことじゃないかな」
「お見合いって……エリツキー先生もですか!」
常時婚活モンスターのリルレッドはともかく、堅物のエリツキーがお見合いというのは驚きだ。単なる苦し紛れだったのに俄然興味が湧いてきた。
「二人でお見合いというのは珍しいですね。もしかしてお相手は友人同士、それとも双子とか!」
「う~ん、そうじゃない系。"王宮騎士団"って言うのかな? リルちゃんがそこの隊長さんから紹介してもらったって言ってたけど」
根木はどこか歯切れが悪い口調で続ける。
「お見合いというか参加費を払って」
参加費? 何やら雲行きが怪しくなってきた。
「一定のエリアの色んな飲食店を男女で巡る……お見合い?」
「それ単なる街コンでは」
「言えないよ。あんなにはしゃいでいる人を前にして……言えないよ」
――もうね、すっごいの! 数百名の男女が集まって一緒にお見合いできるんだって。いやあ、外の世界のお見合いって進んでるわねー。これ私いけちゃうよね、いけちゃう系だよね? やっばー、テンション上がって口癖が移っちゃう系、なーんてね! それにしても、やっぱり持つべきものは友達よね。こんな素敵な出会いの場を紹介してくれるなんて。まっ、恋人ができたら友情よりも恋愛を優先しちゃう私だけどね。たっはー!
なぜだろう。今、はしゃぎにはしゃいでいるアラサーの絵がとても鮮明に浮かんだ気がする。言えない、これを前にしたら命も言えそうになかった。
(というか茜ちゃんに気を遣わせる時点で……)
相当である。行けず後家をこじらせると、こうなってしまうのか。命は言い知れぬ戦慄を覚えた。
「エリツキー先生も最初は一緒に参加するの渋ってたらしいけど」
「けど?」
――大丈夫だって。お見合いは初めて? ははっ、肩の力抜いていいわよ。言うて私、お見合い上級者よ? 百戦錬磨のプロがいれば安心っしょ!
「ってセリフで口説き落としたって」
「大丈夫じゃない……全然大丈夫じゃない。それ、単なる負け戦のプロです」
早くも漂う敗戦ムードに命と根木は言葉をなくした。二人はカモミールティーに手を伸ばす。一口嚥下すると、命が新たな話題を振った。
「茜ちゃんのクラスは最近どうですか?」
「私の? う~ん」
根木は首を傾げると、ややあってから続けた。
「あんまりよろしくないかも。ほら、命ちゃんのクラスのヴァイオリンさん」
「ヴァイオリッヒさん?」
「そうそれ! あの人の知り合いが幅を利かせるようになって……」
後は聞かずとも察しがついた。もうそんなところにまで影響が……。派閥争いというタームも、にわかに現実味を帯びてきた。1-Bが陥落されれば、争いが泥沼化することは火を見るより明らかだった。
「そうですか……茜ちゃんは大丈夫なのですか?」
「うん! 1-Bにはハルちゃんだっているもん」
(……ハルちゃん?)
はて? 命は記憶のページをペラペラめくってみたが、条件『ハルちゃん』に該当する人物は見つからなかった。
「あー! 命ちゃん、ハルちゃんこと忘れてるでしょ。ドイヒーだよ! この前だって一緒にお昼食べたのに」
「……そうでしたっけ?」
全く描写がないのだが、根木がそう言うのならそうなのだろう。登場人物が増えたので仕方あるまい。命はもう一度、記憶のページをめくる。今度はじっくり探すと、ぼんやりと幸薄そうな顔が浮かんできた。
「確か……塩顔の子でしたね」
「そう、それがハルちゃん!」
「ハルちゃんってお強いのですか?」
「とっても優しい系! この前ほっぺにお米粒付けてたら、取って食べてくれたもん。しかも『私だけごちそうなったら悪いから』って、鶏の唐揚げもくれたんだよ!」
「まあ、いい子!」
塩顔ハルちゃんが神対応なのはよくわかった。もっとも、それを知ったところで命の不安は全く和らがないのだが……。
命は、ガラス製のティーポッドから二人分のカモミールティーを注ぐ。今はカモミールのリラックス効果にも縋りたい気持ちだった。
「んっ、ありがとう。私もだけど、命ちゃんは大丈夫なの?」
「私は大丈夫ですよ」
「……そっか。なんでかな、このところずっと無理してるように見えたから」
カップからくゆる湯気の向こう。神妙な顔をする根木がいた。
「無茶したいときはね……無茶しても良いんだよ?」
命はカップをソーサーにぶつけて、音を立ててしまう。無茶するなと言われたことは何度もあるが、無茶して良いよと言われたのは初めてだった。
「もしも命ちゃんが無茶したいなら、私も全力で付き合う系!」
夜も雨も関係ない。きっと彼女が笑えば辺り一面晴れてしまうのだ。そう思えるほどに根木の笑顔はまぶしかった。
「……参りましたね」
深いところまで見透かされた気がした。
もしかしたら宮古やリッカよりも、もっと……。
根木がただの友達だったら、危険から遠ざけるのが正解だと思っていた。
でも今は、こう返すのが正解だと思える。
「無茶する予定はありませんが、そのときが来たら是非」
「うん! 待ってるから」
命はカップを桜色の唇に運ぶ。カモミールが効いてきたのか、いつになく穏やかな時間を過ごすことができた。
互いの知らない学院生活の話をして、夜中のカロリー摂取に怯えながらも一つのプリンパフェを二人で食べて……。
ガタガタと強い風が窓を叩き出してようやく、そろそろいい時刻だと気づいた。大きな古時計の短針が二回目の九時に迫っていた。
「うぅ~」
「どうしたのですか?」
「何か邪魔された気がする」
命にはさっぱりわからないが、何か見えざる力を感じたのかもしれない。根木は小さく唸りながら、窓の外を睨んでいた。
根木は愚図ついたものの天候には敵わぬことを悟ったのか、あきらめて帰りの準備を始めた。
「君たち、荒れるようだから気をつけて帰りなさい」
マスターの忠告に対し、二人は「はあい」と元気よく返事をして、カフェ・ボワソンを後にした。
「あっ」
根木がそう声を落としたのは、食堂棟の出入り口を出たときだった。
「傘忘れた系」
「えっ! 取りに戻りますか?」
ううん、と根木は頭を振る。
「ボワソンにじゃなくて、朝から持ってなかった系」
「……朝から降っていましたよね、雨」
ぷいっ、と根木はそっぽを向けながら返す。
「持ってないものは、持ってないもん!」
(……嘘だ。このなかに一人、嘘つきがいます)
訂正。嘘つき女装子も含めれば二人である。しかし、大嘘つきが小さな嘘を咎めるというのも滑稽な話である。
はあ、と小さなため息を雨のなかに溶かす。
命は根木の茶番に付き合うことにした。
「なら私の傘に入りますか?」
「わあい! だから命ちゃん好き」
「あっ、ちょっと!」
急に抱きつく勢いで飛び込んできたので、命はさした傘ごと揺れる。
「危ないですよ」
「えー、だってぇ」
何が『だって』かは知らないが、言い争ったところで勝てないに決まっている。実に甘え上手は得である、と命は思う。
「久々だから命ちゃん成分を充電しないと! ギュ~っ!」
「はいはい。暴れて傘から出ないようにね」
命は努めて冷静を装っていた。どうして女の子の身体とはこうも柔らかいのか。布越しに届く感触の身体に悪いことといったら。どうか雨の音が心臓の音を消してくれますように、と祈りながら歩く。
「それにしても雨ばかりですね。来週は晴れるといいのですが」
「あっ、来週は嵐みたいなのが来るらしいよ。那須ちゃんが、メイスがどうとか言ってた」
「……春の嵐ですか」
日本では4月、5月にかけて急激に発達した低気圧が大風をもたらす現象を春の嵐と呼ぶが、似たような悪天候に見舞われる予報のようだ。
「それ、雷や雹が降ってくるかもしれませんよ」
「ホント! ちょっと楽しみかも。嵐ってだけでもワクワクするのに、ワクワク倍増だね!」
「こら、そこワクワクしない!」
嵐の日ほど外をのぞきたい気持ちは理解できる。でも、家をしっかり守ってこその黒髪の乙女である。
「氾濫した川とか見に行ったら『めっ!』ですからね」
「ええーっ! 前向きに楽しまないと損だよ!」
島国を二分するリプロン川が氾濫したらどうなるのだろう、水の魔法少女が何とかしてくれるのかもしれません、なんて他愛のない会話を交わしていると、前から歩いてくる人影が見えた。
「何だお前ら、まだいたのか」
「あっ、エリちゃん先生! おこんばんは~」
「エリちゃん……先生?」
命はエリちゃん先生(と思しき人物)に目を向ける。うん、やっぱりどう見ても1-Fの堅物副担任エリツキーだった。
「だから、エリちゃん先生はやめろと何度も」
「でも、私のなかではもうエリちゃん先生で定着しちゃった系。リルちゃんもエリちゃんって呼んでるし」
「……やっぱり、あの人の影響か」
エリツキーは額に手を当てる。彼女にとってリルレッドは、頭の上がらない最たる人物なのだ。
「茜ちゃんは、エリツキー先生のことご存知なのですか?」
「廊下フレンズだよ! よく廊下を走ってるときに挨拶するの!」
「それは注意と言うんだ、注意と。……まあいい。で、お前らこんな時間まで何してるんだ?」
「夜のデート! えへへ、いいでしょう」
急に根木が腕に抱きついてきたので、命は「わっ」と小さく悲鳴を上げる。胸が、胸が……っ! 小さいけれど衝撃は大である。
「そうか。仲が良いのはいいが、不純同性交友は禁止だからな」
「何ですかそのありそうでない単語は」
「あっ、そういえばお前らは外から来たのか」
この国には男性がいないので、女性同士で番いになることも少なくない。女性同士がイチャイチャしていても『そういう人もいるよね』で済まされるのが、セントフィリア王国である(ただし、マジで出生率の低下に繋がるので国は推奨していない)。
「まっ、そういう趣味嗜好の人もいるという話だ。というか、不純異性交友なんて禁止しても意味ないだろ。男いないんだから」
「ははっ、そうですね」
周りはものすごくウェッティーなのに、命の笑い声は乾いていた。
「ほへえ、この国でなら私たち結婚できるって、命ちゃん」
「そんなこと誰も言ってないですよ、茜ちゃん――ッ!」
今日の根木はやけにグイグイ来る。会う機会が少なかったからだろうか。このまま放っておくと、明日にでも婚姻届をもらってきそうな勢いである。
命は迅速に話題を変えることにした。
「まあ、私たちはそんな感じです」
「どんな感じだ」
「ええい、細かいことはいいのです。エリちゃん先生こそ、何していたのですか!」
「……お前も意外と先生のこと敬わないよな」
やはり私の教育が足りなかったのか、とエリツキーは嘆いた。
「指南役だよ、指南役。お前も聞いてたろ?」
「もしかして、そのほっぺた」
「ああ、これか? ちょっと切られただけだ」
小さい傷なので触れないようにしていたが、それが人為的なものであるというなら話は別である。
「ヴァイオリッヒのやつ、講義のときよりもよっぽど良い動きしてたからな。まあ私が叩きのめした回数に比べれば軽いもんだ」
「勝ったのですか?」
「当たり前だ。教師が生徒に後れをとるわけがないだろ」
「ひゅー、エリちゃん先生カックイイ!」
根木は能天気にはしゃいでいたが……強いなんてものではない。誰かが言った、最終兵器という言葉が思い出された。
もはや強さの次元が違う。なんで教師なんてやっているのか気になるが、無闇にプライバシーに立ち入るのも――
「エリちゃん先生はそんなに強いのに、どうして正規の魔法少女にならなかったの?」
「どストレート――ッ! ダメですよ、そんな気安く訊いちゃ」
地の文を遮るアグレッシブさである。これだけ真っ直ぐ尋ねられると、エリツキーも口端を上げて笑いたくなった。
「いいよ、八坂。それぐらい気軽に訊いてくれた方が答えやすい。ただお前らが期待するほど面白い話じゃないぞ。ならなかったんじゃない……なれなかったんだ」
エリツキーは黒く濡れた石畳に目を落とす。
「正規の魔法少女になれるのは多くて年に四人……私たちの代には三名の枠があったが、私は四番手だった。ただそれだけの話だ」
だから万年四位。一生ついて回るそれが、エリツキーの呪いのあだ名だ。
「そんな……エリツキー先生、お強いのに」
「私の代にはもっと強い奴が三人いたからな」
学年が違えば、なんて慰めの言葉はかけられない。きっとそんなことは本人も幾度となく考えたに違いないのだ。
「第一志望が叶わなかったから、待遇の良い教師になったという話だ。ははっ、大して面白い話じゃなかっただろ?」
激しい雨風が吹き抜ける。しなる木々がバサバサと揺れた。一瞬の風が永遠の沈黙を運んでくると思われたが、
「そっか。それはとても残念だけど」
こともなげに根木が会話を繋いだ。
「私たちは光栄だね。だってこんな凄い先生に教えてもらえるんだもん」
風が凪いだ。数秒にも満たないが、荒天のなかに静寂が生まれた。命にはわからない、彼女はどうしてこうも、すっと人の心に入ってこられるのか。
「そうですね。オマケに守ってももらえますし」
よくわかなかったが高感度を稼ぐチャンスっぽかったので、命も便乗しておくことにした。教師の高感度は高いに越したことはない。
「でも茜ちゃん、エリちゃん先生の講義とっていましたっけ?」
「あっ、私とってない」
「……とってないのかよ」
最後に珍しくエリツキーが突っ込んだ。浮かべた笑みは、さっきの作り笑顔より自然なものだった。
「まあいい。正規の魔法少女になれるのは一握りだということだ。ちゃんと覚えておけよ、八坂?」
「えっ、私はなる気ないですよ?」
「えっ」エリツキーは口をポカンと開ける「だってマグナの奴……いや、何でもない」
何でもないわけがない。
「絶対に何かあるやつだ! もしかして、私のコートマッチの相手が強い人ばかりなのって……答えなさい、エリちゃん先生!」
「誰がエリちゃんだ! ええい、うるさいうるさい! それ以上追及しようものなら、お前のノートをマイナス評価にするぞ!」
「くっ、職権の濫用とは卑怯な!」
激しい憤りが命の胸を焦がす。でも、ノートの評価が大事だから普通に退いた。黒髪の乙女は優等生のステータスを愛して止まないのだ。
拍子抜けしたエリツキーは左腕を持ち上げる。腕時計の針は九時半を指していた。
「立ち話が過ぎたな。お前らは荒れる前に帰れ」
「ええー、もっとお話しようよ!」
「というか、根木は女子寮住まいだろ。この時間に帰って大丈夫なのか?」
「大丈夫! 私、女子寮に忍び込むの大の得意だから!」
「八坂、ノート加点してやるからさっさとこいつを連れて帰れ!」
「そんな悪いですよ、錬金術基礎Aの欠席も帳消しにしてくれるなんて」
「こいつ……っ!」
結局、欠席を一回帳消しにすることで合意。命は困ったお姫さまを連れて帰ることにした。女子寮の門限もだが、宿屋アミューズのチェックインの時間も危なかった。
「と、帰る前に、エリちゃん先生!」
「だから……何だ?」
もう訂正するのも億劫なエリツキーに、命は微笑みかける。
「応援していますから、街コン頑張って下さいね」
「なっ! お前どっからそれを」
「あっ、エリちゃん先生、リルちゃんのサポートもよろしくね。リルちゃん、今度こそ結婚だってはりきってたから」
「……善処はする」
エリツキーは大人らしい返答をして、去っていった。できなくてもできないと言えないのが大人の辛いところである。
「そろそろ帰りましょうか」
「うん! 女子寮まではエスコートしてね」
命は帰路を急ぐ前に後ろを振り返ったが、エリツキーの姿はとうに夜の闇のなかに消えていた。
◆
真っ暗闇のなかにいた。
手探りで探し当てたスイッチを押すと、火の魔法石をちりばめた天井から柔らかい光が降り注いだ。
「……だよな」
エリツキーは独りごちる。印刷室が消灯していた時点でそんな気はしていたが、案の定、職員室はもぬけの殻だった。
お門違いなのは承知だが、それでも彼女は言いたい。
みんなちょっと薄情ではないか、と。日中はあれだけシルスター、シルスター騒いでいたのに、ちょっと暗くなるとこれだ。
「ちっ!」
舌打ち。誰もいないのを良いことに、入り口直ぐ側にあるデスクの脚に蹴りをくれてやる。ひっつめ髪の教師のものだ。
「~~っ!」
が、足首がねじれて、その場でぴょんぴょん跳ねる羽目に。一人だからいいが、だいぶマヌケな姿だった。
「何してるんだ、私は」
これではマグナと同レヴェル……これではマグナと同レヴェル……。よし、とエリツキーは魔法の呪文を唱えて苛立ちを抑えたが、
「……っ!」
隠していた脚の痛みまでは治まらない。
「まだ若いんだけどな」
学生のころと比べると体を動かす機会は減ったし、放っておけば魔力だって年々減衰していく。成長期のシルスターと長時間やり合うのは、想像以上に骨の折れる仕事だった。
パンパンの太ももを持ち上げて、自席に腰を下ろした。思いっきり背もたれに寄りかかりたいところだが、机の上の現実と向かい合わなければいけない。
「……こっから仕事か」
ガックシとうなだれそうになる。呼び出しだ会議だ何だとまるで仕事にならず、やっと落ち着いたと思ったら今度はシルスターの指南役である。
指南役とはまた面倒なことを言い出したと思うも、この役目を受けたこと自体に後悔はなかった。
指南役を受けることには、二つのメリットがある。
一つは、文字通りシルスターを指南できること。期待薄だが、【銀の剣】でねじ曲がった性根を叩き直せる可能性がある。
そしてもう一つは、シルスターを管理できること。これが一番大きい。放っておくと問題を起こす生徒なら、いっそ手元で管理した方が楽だった。
シルスターの申し出は、エリツキーにとってはむしろ渡りに船だった。唯一の気がかりといえば、乗った船に罠がないかだけだ。
――なあに。そう悲観することもない。運が良ければ『講義中に起きた不幸な事故』と取られるやもしれぬぞ。
あのときのやり口は、現場に居合わせたエリツキーも覚えている。大方シルスターは事故を装って自分のことも潰したいのだろう。
長期戦に持ち込めば何とかなるとでも思ったのか?
大した自信だな、とエリツキーは鼻で笑う。
――舐めるなよ、問題児。
その程度であればリスクたり得ない。マグナの怪文書にも劣る危険度だ。
「だいたい才媛、御三家だと騒ぎすぎなんだよ」
問題児が多い世代であることは認めるが、私たちだって負けていなかった。そんな自負がエリツキーにはある。
セレナ像を落雷で砕いた奴もいたし、キャンパスに墓石を並べた奴もいたし、女子寮でガス爆発を起こした奴もいたし、白亜の城を半壊させた奴だっていた。
自慢ではないが、エリツキーだって教育棟のワンフロアを破壊し尽したことがある(本当に自慢ではない)。
実にロクでもない青春だったが、振り返ってみると悪くないと思えるから不思議だ。もしも戻れるとしたらあのころに戻りたいし、選定会だってやり直したいと思う。
でも……もしもはない。
こうして一人寂しく職員室にいる今が、エリツキーの今である。
不平も、不満もある。
窓の外にすべてを投げ出したくなる夜もあるが、今日はそうではない。
伸びをすると、エリツキーはやるべきことに目を向けた。
決して望んだ日々ではなかったが、小さな喜びがある。
自分のことを好きだと、自分に教わることができて光栄と言ってくれる生徒がいて、柄にもなく思ってしまった。教師も悪くない、と。
「いいさ。何度でも来れば」
立ち塞がる現実も、問題児も、すべてねじ伏せればいい。
エリツキーは軽い仕事に手をつけるとした。食事と同じで、急に重いものを入れると胃もたれを起こすからだ。決意を新たにしたからって、いきなり仕事がバリバリできるわけでもない。
登竜杯関連の資料が、キャビネットに入っていたはずだ。エリツキーは引き出しを開けようとして、
「……っ!」
猛烈に嫌な予感に襲われた。
「……なんで」
鍵付きのキャビネットが開いていた。
開けっ放しにしていた? まさか。
エリツキーは片っ端から引き出しを開けていく。この際、登竜杯の資料なんてどうでもいい。それこそ机をひっくり返す勢いで探したが、嫌な予感を裏付けるように彼女の探し物は見つからなかった。
「やられた……こっちが本命か」
中間考査の解答がない。
してやられた。事件は船の上でなく職員室で起きていたのだ。船に乗せられた時点で負けていたのだと認めるしかなかった。
でも、どうやって?
シルスターがエリツキーを引きつける間に、仲間が犯行に及んだのか。
もしくは、
「この部屋に共犯がいるのか」
――教師による犯行。
考えたくはないが、その線の方が濃厚だ。職員室にあるキャビネットにはスペアキーが存在する。生徒が職員室でピッキングに及ぶより、教師がスペアキーで持ち出す方が遥かに現実味がある。
思えば、シルスターが生徒を扇動して暴れた日、あの日だって何かがおかしかった。若手の教師がもっと早く駆け付けていれば大事にならなかったはずなのに、初動が遅れた。
まるで何者かの意思が、若手の教師を遠ざけようとしていたように。
「いや……よそう」
不毛な犯人探しより、起きた問題にどう対処するかの方が大事だった。
どう転んだとしても管理責任が問われる、そういうシナリオが用意されているに違いないのだ。
それに解答の流出もだが、大きな問題はそのあとにも残っていた。
セントフィリアの印刷技術は、手動の謄写版で止まっている。問題用紙を差し替えるということは、そのまま千枚単位の用紙を手で刷り直すことを意味した。それに中間考査が間近に迫ったこの時期、印刷室がいつでも使えると考えるのは楽観的すぎた。
「土日も充てれば……いや」
そこまで思案して、エリツキーは止まる。
土日には街コンがある。出国申請を取り消すのは骨だし、何よりそれではリルレッドに合わせる顔がない。彼女には返しきれないほどの恩があるのだ。
中間考査の準備と街コンの参加。
この二つを両立しようとすると、自ずと手段は限られた。
深夜・早朝の時間帯の活用――最終的にエリツキーが選んだ手段は、誰の手も借りずにリカバリーを図るものだった。
「……今の問題児もなかなかやるじゃないか」
次に手合わせする機会があれば本気で叩きのめしてやろう、と心に固く誓う。
そんなエリツキーを嘲笑うかのように雨風がガタガタ窓を揺らした。
次第に夜は深くなる。時間はいつだって平等で、容赦なく人を追い立てていく。
◆
時間とはどうしてこうも残酷なのか。
かの偉人が『熱した鉄板の上で土下座する一分は一時間にも感じられるが、黒髪の乙女と一緒にいる一時間は一分に感じられる』と言ったのも頷けるといったものだ。
毎週の恒例行事、憂鬱な月曜日の到来である。
さようなら楽しかった土日、こんにちは招かれざる月曜日。命は重い足取りでキャンパスを歩いていた。
(学生の内からこんなことを言っていると怒られそうですが)
嫌なものは嫌なのだ。学生は気楽でいいよな、なんて気軽に言ってくれる大人もいるが、学生だって大変なのである。
スクールカーストという逃れられない階級闘争のなかに身を置き、常に女装バレに怯えながら生きているのだ。
私はそんな子供のときの気持ちを忘れない大人になりたい、と思う命であった。
(まあ、学校が嫌というわけではないのですが)
月曜日には共通魔法実技がある。二限連続で彼女と顔を合わせなければいけないことが、命の心に暗い影を落としていた。
そんな命の憂鬱に拍車をかけるように天気も大荒れ。予報通り春の嵐が到来していた。
地面を殴り付ける雨。看板を砕き花壇を蹂躙する暴風。遠くで雷を落とす暗雲。春の終わりを告げるかのような天気が猛威をふるっていた。
キャンパスを歩く女生徒たちは【羽衣】で防備していたが、それで恐怖まで抑えられるわけではない。滝のような雨音や、今に落とすぞ今に落とすぞと悪趣味な脅しをかける雷さまに怯えていたし、命だってスカートがめくれそうな暴風に怯えていた。
早く雨宿りできる場所に避難せねば。
命は傘の森をすいすいすり抜けて、3号棟に飛び込む。
一、二限目は錬金術基礎A。
担任が少々口うるさいのが難点だが、命にとってはセーフティタイムだ。
講義教室の扉を開けると、銀髪の魔法少女たちが飛び飛びに座席を埋めていた。命はすっかり定位置となった窓際の最後列に歩き、エメロットと挨拶を交わした。
「今日はひどい天気ですね」
「ええ。あまりにひどいから、ついお嬢さまの布団干しちゃいました」
「やめてあげて――ッ!」
相手がアレだとわかっていても、つい庇ってしまうひどさである。エメロットの毒舌は今に始まったことではないが、今日はいつにも増してひどい。
ご機嫌ななめなのか、どこか顔もムッツリしていて。
(……んっ?)
奇妙な違和感を覚えた。発注し忘れたのかと思うほど表情パターンが少ないエメロットにしては珍しい。
「あったのですね、表情差分」
「なに失礼なことを言っ……っ!」
言葉を遮るように雷鳴が響き渡った。
女生徒が悲鳴を上げるなか、命は見逃さなかった。
びくりと肩を震わしたエメロットの姿を。
「もしかして苦手なのですか、雷」
「苦手じゃありません……嫌いなだけです」
口に出すと怒られそうな感想を、命は胸の奥にしまった。自分の秘密に近づきつつあるエメロットをからかうのは危険である。せっかく水面下で『私たち友達だよね?』作戦を進めて、有耶無耶にしようとしている最中なのだ。
「なら窓際に座らなければいいのに。替わりましょうか」
「結構です。まあ、貴方がどうしてもと言うなら……考えますが」
そそる挑発である。命は、エメロットにどうしても譲ると言わせたくなった。
「あー座りたいなあ。猛烈に窓際の席に座りたくなってきました。どこかに席を譲ってくれる親切な子はいないものでしょうか」命はわざとらしく辺りを見回して「おや、こんなところに……見目麗しい窓辺の君が」いるではありませんか、と熱っぽい視線を送る。
「まあ、少々臭いですが嬉しい。譲って差し上げますわ」
ははー、ありがたき幸せ。こうして黒髪の乙女は、雷嫌いのお姫さまを窓辺から遠ざけることに成功したのでした。めでたしめでたし、と童話的ハッピーエンドを迎えた。
命の本音としては差分が増えるまで弄り倒したかったが、それはあまりにリスキーである。足りないからかい成分は、別のところで補給するとした。
「そうそう窓辺の君、面白い話を一つお教えいたしましょう。エリちゃん先生の街コンの話はご存知ですか?」
「エリちゃん……先生?」
先週末の命と全く同じ反応が返ってきた。
「それは、あの恐ろしい魔女のことですか。あの魔女の私生活にツッコむなんて、なんて命知らずなお方なの」
「そんなことありませんよ。勘違いされやすいですが、あの魔女はとても優しい心の持ち主なのです」
きっと街コンの結果を訊いても許してくれるぐらいには。命は今日それを訊くのが楽しみで登校してきたと言っても過言ではない。
成功したのならエリツキーが照れて顔が真っ赤になるまで祝福して、失敗したのならささやかな残念会を開くのだ。
どっちに転がったって面白くなること必至である。
「窓辺の君、後で街コンの話を訊きに行きましょう!」
「まあ! 魅力的なお誘い。私も連れて行って下さるの?」
「もちろん。だって二人で質問攻めにする方が楽しいでしょう」
「天使みたいな顔して悪魔みたいなこと言いますね、貴方」
数分の茶番も冷める畜生ぶりであった。
と、噂をしていると張本人がやってきた。横を向いておしゃべりしていた命にもわかる。静かに扉が開く音。次いで潮が引くように私語が消えたなら、それはエリツキーが入室した証拠である。
カツカツと靴音を鳴らして、ほどよい緊張感が漂う教室を歩く。教壇を上がり、彼女が教卓の前に立てば講義が始まる――はずだった。
「……先生?」
教卓の前には誰も立っていない。
どさりと重いものが落ちる音。
教壇の上でエリツキーがうつ伏せに倒れていた。
私語厳禁の教室は黙ったまま。ただ暴風だけが窓をノックし続けていた。
そうして……どのくらい教室は固まっていたのだろう。
ふらり、と最前列の女生徒が立ち上がる。幽鬼のように歩く少女がエリツキーに近づき手を伸ばした瞬間、命は弾かれたように立ち上がり叫んでいた。
「触らないで――ッ!」
冗長な説明を挟む余裕はなかった。
命にも、この教室にも。
「きゃああああああああああああああああああああ――ッ!」
破れた静寂のあとに生まれたのは、金切り声が渦巻く恐慌だ。耳をつんざくような悲鳴、そのなかに混じって水のうねる音がした。
初め水たまりだと思っていたそれは水かさを増して……。
いつの間にか命は、腰まで黒い雨水に浸かっていた。
波乱の月曜日が……取り返しのつかない一日が始まる。
あと三人




