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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
98/113

第97話 一万分の

 シルスターが起こした醜悪な事件は、直ぐに女学院に通う者すべてが知るところとなった。


 首謀者含めた女生徒の処分をどうしたものか……。

 教員の間では激しい議論が巻き起こり、昨日は酷いありさまであった。

 突発的な休講に、教師の途中退出。予期せぬアクシデントが相次ぎ、女生徒たちも漠然とした不安を覚えずにはいられなかった。


 ……この学校はどうなってしまうのだろう。

 空は暗澹たる雲に覆われ、月も太陽も見えずにいる。

 何も解決しない内に、ただいたずらに時だけが過ぎていき……。

 そして、シルスターが事件を起こした翌日。ついに学校側が処分を下したものの、それも厳重注意止まり――明日になれば怒られた当人すら忘れてしまいそうな、そんな軽い説教を与えただけだった。


 今日も陰気な雨が降る。女学院は深い霧のなかに沈んでいた。




     ◆




 午前の講義を受け終えた命は、リッカとともにカフェ・ボワソンの前に来ていた。


「あらら……雨の日効果でしょうか」

「激混みだな」


 狭い店内に空き席がないことは一目で見て取れた。

 ここ最近、カフェ・ボワソンの客足が非常に好調なことは命も知っていたが、予想以上である。


「どうします?」


 そう命が訊ねたタイミングで、席が一つ空いた。

 ありがたいことではあるが、そこは一番落ち着かないであろう入り口側の席だ。人混みを嫌うリッカは口を一文字に結び考えこんでいたが、出迎えに来たウエイトレスが二人を急かした。


「ほらほら忙しいんだから、ちゃっちゃと決めてよ!」

「わかった、わかったから押すな!」


 接客としては如何なものかと思うが、それも親しい間柄だからこそ許されるもの。リッカの姉役であり命のバイトの先輩でもあるアイリは、背中を押しながら二人を空き席まで案内した。


「今日も大変そうですねえ」

「大変ねー。でも後輩ちゃんが来てくれたから助かっちゃう」

「今日は私お客さまですからね、先輩?」

「ヘイヘーイ。わかってますよーだ」


 背を向けたアイリは手をひらひら振りながら、ホールへと戻っていった。


(あれで許されるのだから、すごいですよね。まあ、私もあまり人のこと言えた立場ではないのですが)


 アポ無し、履歴書なしでやってきた命を雇ってくれるような店である。

 ああ、なんて懐の深いお店なのでしょうか。

 命がカフェ・ボワソンに感謝の念を抱いていると、前方から三人組の女生徒が近づいてきた。

 見知らぬ顔だ。三人組というとルバート一味に絡まれたことを思い出し、つい身構えてしまうが、剣呑なものは感じなかった。


「あの、良ければ席替わりますよ」

「いいのですか?」

「ええ。私たち実は大ファンなんです……カフェ・ボワソンの女神の!」

「えっ? ああ、どうも」


 急に迫られ、リッカはぎこちない笑顔を返す。ファンを自称する三人組は、命そっちのけでキャッキャッと騒いでいた。


「私たち、あちらに席を取っているんですが、やっぱりあそこは女神さまの席ですよね!」

「いや、あたしの席というわけでは」


 非公式(アンオフィシャル)ではあるが、確かにカフェ・ボワソンの一角には女神さまの席と呼ばれる聖域がある。

 しかし、それは早朝練を終えたリッカが一番乗りでカフェ・ボワソンに訪れるからであって、いつもその席を独占しているわけではなかった。


「いいよ。やっぱ悪いし」

「そんな! 私たちが良いと言ってるんだから、良いじゃないですか。それに私たち、もうお店出ますし。ねっ、ねっ!」

「そうですよ。女神さまには、あの席がお似合いですし」

「遠慮なさらずに。ささっ、どうぞ」


 ここぞばかりに二人の女生徒が続くと、リッカもとうとう折れた。


「……わかった。ありがたく座らせてもらうよ」

「いえいえ。女神さまのお役に立てたなら何よりです」


 嬉しそうな三人組を背に、リッカは複雑そうな表情を浮かべながら奥の席へと歩き出した。事の成り行きも見守っていた命もリッカに従う。


「リッカってば、モテモテですね」

「茶化すなよ」

「冗談ですよ。親切も度を越えるといい迷惑ですよね」


 命がぼそっと毒を吐いたが、リッカは否定も肯定もしなかった。


「ちょっと待って下さいね」


 そう言うと、命は席に着こうとするリッカを制した。命は椅子を、机を、女神さまの席を隅々まで確認する。

 画びょうよし。ペンキよし。カミソリよし……椅子の脚もよし。


「座っても大丈夫そうですね」

「……さすがにそれは失礼すぎるだろ」

「そうですか? 最近何かと物騒ですからねえ。ささっ、どうぞ」


 そう勧められると、お姫さまばりにエスコートされているようで悪い気はしない。リッカは慣れ親しんだ席に腰を下ろした。

 向かいの席には王子さま……というには頼りないが、命がいる。

 こうして二人でいられる時間がずっと続けばいいのに、と空想にふけるリッカであったが、荒々しく置かれたグラスが彼女を現実に引き戻した。


「もう、二人とも勝手に席替えないでよ!」

「あたしだって好きで替えたわけじゃないっての」


 ぶすっとした顔でリッカが返すと、アイリも少し気を悪くしたようだった。命は、お冷片手にその様子を見守る。


「どうせ女神さまの威光でもかざしたんでしょ? 女神さまごっこもいい加減にしないと、痛い目に遭うんだからね」

「んなっ!? そんなことしてねえよ。忙しいからって当たってんじゃねーよ!」


 売り言葉に買い言葉とはまさにこのことで。二人が姉妹喧嘩を繰り広げようとしたまさにそのとき、空のグラスが机を叩いた。


「お冷おかわり」


 にっこり、と。

 有無をいわさぬ笑みを浮かべた命が、しれっと口を挟んだ。


「アイリ先輩、ラッシュ時に勝手な真似をしたことは謝りますが、こんなところで油を売っている暇がお有りですか?」

「で、でもリッカちゃんが!」

「そういえば先週からお皿が三枚足りないのですよねえ。先輩、知りません?」

「さあ仕事だ。先輩、今日も頑張っちゃうぞ☆ うおおおお!」


 現代の皿屋敷こと、皿割りウエイトレスはフルパワーですっ飛んでいった。あの調子ならまだまだ働けそうである。先輩の勇姿を見送った命は、次いでリッカを見遣る。


「リッカも。せっかくさっきは穏便に済ませたのに、ここで怒ったら台無しじゃないですか」

「……そうだけど、さっきのはあたし悪くないだろ」

「私がお姉ちゃんと喧嘩したとき、叱ってくれたのは誰でしたっけ?」

「悪かったってば! 謝るから手前も苛つくなよ」


(……苛つく?)


 そう指摘されて、命も波打つ感情の正体に気づいた。どうやら自分は思っている以上に苛ついているようだった。


「……ですね。私の言い方も良くありませんでした。お昼ぐらいは心穏やかに過ごしましょう」

「そんなに酷いのか、手前のクラス?」

「酷い有りさま……の、一歩手前といったところですね」


 あれだけのことをしても許されるのだ。シルスターたちが調子づくのも無理からぬ話だ。時の権力者になびいた方が利口だと判断した西洋系の魔法少女はますますシルスター側に流れ、東洋系の魔法少女の肩身は狭くなる一方だった。


 窮屈で、陰湿で、息苦しい、水たまりの底のような教室。そんな場所で二限も続けて講義を受けていれば、命でなくたって気が滅入る。


「まあ、一歩手前で踏み止まれるだけ幸せなのかもしれません。本当に紅花さんさまさま、エリツキー先生さまさまですよ」

「……そうか」


 相槌を打つリッカ。その陰りを帯びた顔が、心のどこかで引っかかった。


「1-Eはどうなのですか?」

「今のところは平和……かな。できる限り目を光らせてるけど、1-Fの隣だし予断を許さない状況が続くんだろうな。本当は1-Fまでフォローできれば――」

「リッカ」見るに見かねて、命は彼女の名前を呼んだ「別に貴方が責任を感じる必要はありません」


 女神さまが慈悲深いのは結構だが、それで破滅しては元も子もない。弱み一つ見せないが、この女神さまは手負いである。腕が折れているどころか心すら危うい、まるでガラス細工のような壊れ物だ。


 周りが思うほどリッカは強くない――そのことを命はよく知っていた。


「大丈夫。誰かが何とかしてくれますよ!」

「……他人(ひと)任せかよ」

「もちろんですとも! 日々是平穏(ひびこれへいおん)なりが私の座右の銘(モットー)ですから」

「初めて聞いたんだが」

「まあまあ。細かいことは気にしない。長居するとアイリ先輩にも悪いですし、早く注文済ませちゃいましょう」


「ヘイ、アイリ先輩!」と挙手した命であったが、当のウエイトレスは応えてくれない。


 そのころ、入り口付近で接客していたアイリは手を滑らせていた。

 カランコロンとテーブルを跳ねた氷が床に落ちる。

 席に着く女生徒は……さっきまで見知らぬ顔だった三人組の一人は、頭から水を被っていた。


「ごめんちゃい。手が滑っちゃいました」


 軽い口調と裏腹に、アイリの顔は1ミリ足りとも笑っていない。偶然ではなく故意。ウエイトレスが確信犯であることは誰の目にも明らかで、カフェ・ボワソンのゆったりとした時の流れが完全に止まった。


(……もうヤダ、この地雷原)


 努めて明るく振舞っていたというのに。命が嘆息すると同時に、止まった時が動き出す。怒りに打ち震えた女生徒が口を開いた。


「ちょっと……なによ、これ……」

「水も滴るいい女です」

「ねえ……あるでしょ? 他に、何か、言うことが……っ!」

「あっ、おかわりですね」


(二杯目いったあああああああ――ッ!)


 それは花に水を注ぐ乙女のように。

 優しい手つきで傾けられたグラスから水がこぼれ落ちた。

 水浸しで震える女。

 なおも笑顔を崩さぬウエイトレス。

 一体カフェ・ボワソンで何が起きているのか。店内がざわつくなか、三度(みたび)水が飛び散った。


「……っ!」


 瑞々しい、もとい水々しいアイリの笑顔が引きつった。


 テーブルの残弾(グラス)が空になったことを認めると、二人はどちらともなく手を差し出す。仲直りの握手……なわけがない。仲違いの悪手である。

 椅子が倒れる音が店内に響く。

 勢い良く立ち上がった女生徒がアイリの胸ぐらを掴めば、すかさずアイリもやり返した。


「何さまのつもりよ、このクソウエイトレス――ッ!」

「はあ? あんたこそ何さま~!?」

「お客さまだ――ッ!」


 反論したのは水浸しの女生徒ではなかった。

 場を見守っていた女生徒たちの目が大きく見開かれる。突如アイリの背後に現れ、間髪入れずに頭を叩いたのは、マスターだった。


(どこから――ッ!?)


 命も思わず目を見張る。温厚なマスターが手を上げたこともだが、瞬く間に厨房から飛び出してきたことの方が驚きだった。


「当店のスタッフが不快な思いをさせてしまい申しわけありません。お代はいりません。クリーニング代も支払わせていただきますから、何卒ご容赦ください!」


 アイリの頭を掴んで一緒に謝るマスター。しかし、店内にいる大半の女生徒の興味は揉めごとの顛末よりも、超人じみたマスターその人に集まっていた。

 事実、水浸しの女生徒もたじろいでいた。

 ためらうこと数秒。彼女はやっと怒りを口に出せた。


「おおお、お金を払うなんてあたりまえでしょ! なにが女神さまが居着くほど居心地がいい店よ。カフェ・ボワソンの女神がいるって聞いたから来たのに。こんな失礼な店、二度と来やしないっての――ッ!」


 女生徒はマスターからクリーニング代をむしり取ると、


「ほら、あんたたちも帰るよ!」


 友達と一緒にそそくさと退店していった。彼女たちには何ら非がない筈なのに、細かな所作が悪役じみて見えるから不思議だ。

 なんて他人ごとのように眺めていると、マスターが小走りで近づいてきた。


「八坂くん。急で悪いが、今からアイリの代わりに入ってもらえないか?」


 マスターとしても、客前で問題を起こしたアイリをそのまま出しておくわけにもいかないのだろう。命が目を遣ると、察したかのようにリッカが言った。


「いいよ。あたしのことは気にしないで」

「すみません」


 ランチが……せっかくの二人っきりのランチが。リッカのショックは計り知れないものがあったが、おくびにも出さないものだから命も気づかなかった。


「問題なく入れます。直ぐに着替えてきますね!」


 いつも良くしてくれるマスターのお願いである。慌てず騒がず上品に。命は乙女走りでホール奥の休憩室を目指した。


 休憩室に入るなり、命は慣れた手つきで給仕服を手に取る。初めこそ抵抗のあった服装だが、クラシカルな給仕服はボレロの制服より余ほど布面積が広いので安心できる。

 フリフリ……フリフリについては……見て見ぬ振り。黒髪の乙女のジャッジは実にガバガバであった。


(それにしても……アイリ先輩、急にどうしたのでしょう)


 客に喧嘩を売るような人ではないのに、と命が訝しんでいると、


「はあ……」


 ちょうどアイリが休憩室に入ってきた。

 そう、ちょうど命がワンピースを頭から被ろうとしたタイミングで。


 女人国であるセントフィリア王国において、更衣室とはそれはそれは希少な設備である。需要が少ないので当たり前といえば当たり前なのだが。

 つまるところ、何が言いたいのかといえば……この休憩室には更衣室がなかった。


「ひゃい――ッ!」


 甲高い悲鳴を上げて、命は一気にワンピースを被った。


「な、なにっ!?」


 出合い頭で奇声を浴びせられたアイリもだが、命は少なくともその百倍は驚いた。なにせドッキドキの着替えイベントである。


「す、すみません。ぼーっとしていたから、アイリ先輩が入ってきたことに気づかなくて。それで驚いて!」


 苦しいか? 命は緊張した面持ちでアイリの反応をうかがう。


「も~、驚かせないでよ、びっくりしたじゃん。今のなに? 後輩ちゃん、どっから声だしてんの?」


 ……セーフ。

 嫌な汗で下着が蒸れたが、そんなことは些細なこと。

 命は胸パッドをなでおろした。


「……って、驚かせたのは私の方か。迷惑かけてごめん」


 ふと我に返ると罪悪感がこみ上げてきたのか、アイリはしゅんとしてしまった。どうやら先ほども俯きがちだったから、反応が遅れたようだった。


「夜は代わるから勘弁してちょ……なんて。ほんと……ダメな先輩でごめんね」

「ダメな先輩だなんて」


 そんなことはない。いつだってアイリは割った端から皿を隠したり、オーダーミスを隠蔽しようとしたり……。


(あれ? 結構ダメな先輩ですね、これ)


 まあ、それはそれとして。

 えいや、と命は不都合な真実をうっちゃった。


「そんなこと言わないで下さいよ」


 金欠の命にバイトの口利きをしてくれたのも、他ならぬアイリである。彼女がただの駄メイトレスなら、リッカだって姉妹の契りを交わしたりしなかっただろう。


「おっちょこちょいかもしれませんが、アイリ先輩は私の尊敬する先輩です。だから、そんな自分を卑下するようなこと言わないで下さい」


 ――お前の評価だけで、お前の価値が決まるカ。


 ふと紅花の言葉が頭をよぎる。あのとき彼女がなぜ怒ったのか、ほんの少し命にも理解できた気がした。


「お水のぶっかけは正直いただけませんが、あれだってわけあってのことでしょう」

「さあどうだか。単にむしゃくしゃしてやっただけかもよ?」

「またそんなこと言って」


 嘘に決まっている。そっぽを向くアイリの頬は、ほのかに赤みがかっていた。へそ曲がりの先輩の照れ隠しなのだと、命は確信していた。


「信じるとでも? たとえフロアの誰が非難したとしても、私はアイリ先輩の味方ですよ」

「後輩ちゃん」感じ入ったアイリの顔は次第に猜疑の色を浮かべ「……何が目的なの。金? 金なの?」

「台無しにするのやめてくれます――ッ!?」


 なんとも締まらないが、このぐらいの落ちがついた方がらしい。命は調子を取り戻しつつある先輩を見て安心した。


「もう。早く着替えないと風邪引いちゃいますよ」


 アイリがぶっかけに至った理由は気になるが、いつまでもマスターを一人にはしておけない。命はワンピースの上から白のエプロンを掛けた。


「それでは働いてきますか、先輩の分も。先輩の分も」

「後輩ちゃんって、いい性格してるよね」

「やだなあ、アイリ先輩には負けますよ」


 給仕服を着た黒髪の乙女は、とてとて休憩室から出ていく。


(ふう。それにしても危ないところでした)


 心の乱れは女装の乱れ。命は自分が犯した凡ミスを猛省した。黒髪の乙女としてあるまじき失態なのは間違いないが、


(せめて、お犬さまかカラスさまがいればなあ)


 とも思ってしまう。前は着替えの見張りとして重宝していた式神だが、今は呼びかけてもうんともすんとも言ってくれない。

 間違いなく調子は上向いてきているというのに、どうして式神だけ使えないのだろう。そこはかとなく不安を覚えるも、それを今ここで悩んでいても仕方あるまい。


 まずやるべきは目先の仕事である。黒髪の乙女は狭い店内を忙しなく駆け回った。




     ◆




 つい二週間前までは出せたのだ。出せないわけがない。命は祈るような気持ちで、魔力をこめた小石を放った。


「おいでませ、お犬さま――ッ!」


 山なりに飛ぶ小石が震えだす。白い毛がポツポツと生え始めた瞬間、得も言えぬ感動が命の身体を駆け巡った。


 いける。この手に掴んだ感触は、あの日のものと変わらない。あとは縄をたぐり寄せるようにすれば……。

 小石を白い毛が覆い尽くす。白い毛玉と化したそれは肥大化し、勢いそのままに床へと落ちる――瞬間、四本の足を生やして華麗に着地した。


「久方ぶりだな。ご主人さま!」

「お犬さま~っ!」


 その武士っぽい口調も、そのニヒルな笑みも何もかが懐かしい。

 ああ、お犬さま、お犬さま。出落ちだなんて心ないことを思ったこともあったが、出てこないとそれはそれで寂しいものである。


 さあ、反撃開始だ。

 命は前方の敵手に【犬】をけしかけようとして、


「ごふ――ッ!」


 内蔵を殴られるような形状し難い痛みに襲われた。

 反動(リバウンド)――ああ、これも懐かしい。式神が破られたときに生じる現象である。見れば【呪術弾】が直撃した【犬】の頭が弾け飛んでいた。

 グロい。そして、やはり【犬】はどこまでいっても出落ちだった。


(不味い……っ!)


 思わずくの字に曲がる体。命はとっさに頭を上げて、


「あっ」


 その瞬間、見た。

 視界を覆う一面の黒を。

 ダメ押しの【呪術弾】が命のデコに突き刺さった。のけぞるようにして身体が飛ぶ。ぐわんぐわんと頭が揺れて最悪の気分だが、意識を強く保つ。

 ハーフパンツで板張りの床を転げたらタダでは済まない。【羽衣】を着たまま、命はなんとか受け身をとった。


「式神が戻って嬉しい気持ちはわかるけど、私、前にも言ったよね?」


 式神の出始めを狙い、硬直(リガー)した術者を叩く――お手本のような反動(リバウンド)カウンターを決めた宮古は、倒れた命の元へと歩く。


「命ちゃん、式神の才能ないって」

「……返す言葉もありません」


 命は床に横たわりながら、前に立つ宮古を見上げる。

 いつも(としした)の前ではデレデレしっぱなしの宮子だが、このときばかりは別だ。引き締まった顔をしているときの彼女は、まるで別人のように映る。


 氷柱のように冷たく、尖っていて……透き通る光を放つ。宮古が見せる美しさは、ときおり命から現実感を失わせる。

 "妹殺しの英雄(いもうとスレイヤー)"の名に恥じぬシゴキも相まって、ここが地獄の三丁目だと言われても信じてしまいそうだが、ここは地下ですらない。

 演舞場の3階にあたる部屋。そこで命は今日も東洋魔術(姉)を受講していた。


「そうね。命ちゃんの式神は例えるなら、ど真ん中ストレートって感じかな」


 横たわり頭を押さえながら、命は返す。


「それは、また……打ちやすそうな球ですねえ」

「うん、絶好球。格上の魔法少女(バッター)なら、きっちりピッチャー返し決めてくると思った方がいいよ」


(……道理で出落ち率が高いわけです)


 命の式神は極端なスピード特化である。小回りが利きにくく、おまけに紙耐久ときている。要は、命にはピーキーすぎる代物なのだ。


「変化球を混ぜることは?」


 宮子は頭を振った。


「例えが悪かったかな? どれだけ努力しても、命ちゃんは変化球を投げられない体質なの。こればっかりは生まれ持ったものだから仕方ないけど」

「ストレートのなかで変化を付けることも無理なのでしょうか」


 宮古は人差し指を顎に当てて、うーんと唸る。


「できなくはないけど、変化幅なんて微々たるもんだよ? 中途半端な変化球もどきなんて覚えるくらいなら、もっと自分に合ったものを探した方がいいんじゃない?」

「そうですか。うん……そうですよね」

「まっ、色々試してみたらいいよ」


 投げやりとも取れる返しだが、その実、宮子は慎重に言葉を選んでいた。

 陰陽師型? ありえないでしょ?

 なんてもったいないことを……。松阪牛をミキサーにぶちこんで流動食を作るようなものである。


 宮子がかんがえたさいきょうの(みこと)は、むしろ逆。式神を主体とする陰陽師型の対極に位置するといってもいい(そんざい)だ。

 十分な時間さえ与えてくれれば、命をそこまで導いてやれる自信が、宮古にはある。

 しかし、しかしだ……っ!

 姉色に染めた養殖の妹に何の価値がある?


 できることならこの胸いっぱいにあふれる理想の妹像を押し付けてやりたいが、それは姉の倫理に反する行為である。

 (あっち)を立てれば(こっち)がたたないとか。

 ああ(かみ)よ、私はどうしたらいいの!

 宮古は頭を抱えて腰をツイストする。


「お姉ちゃん、気分でも悪いのですか?」

「えっ? 大丈夫だいじょうぶ! ちょっとぼーっとしてただけ」


 それは図らずも、つい数時間前に命がした言い訳と同じだった。……怪しい。命が問い詰めるように目を細めると、


「そ、そろそろ休憩にしよっか」

「あっ!」


 逃げた。姉エスケープである。


 宮古は小走りで壁際に逃げたが、命は追わなかった。本気を出せば箒に跨って150キロをマークする姉である。追いかけること自体が間違いなのだと、命は学習していた。


「……ううっ、お姉ちゃんは命のことを袖にするのですね」


 女の子座りした(今日はハーフパンツなので下の心配をする必要がない)命は、肩を小刻みに揺らす。


「ち、ちがっ! お姉ちゃんはいつだって妹のことを第一に」

「でも……私から離れていくじゃないですか」


 チラリ。命は首を回す。目元に浮かべた涙がキラリと光る。ここでのポイントは黒髪を意図的にくゆらせて、うなじを露出することだ。


「……お姉ちゃん」


 ズガーン、と宮古の脳天を稲妻が貫いた。稲妻というか稲妹(いないもうと)というか、もはや妹妻(いもうとづま)

 とにもかくにも、姉のリビドーを刺激して止まない何かが、その一言には集約されていた。


 ダメだ……耐えろ。

 宮古のぺらい意志を裏切るように足は前に進む。

 ぶっちゃけ無理でした。我慢の限界でした。


「みぃぃぃこぉぉぉとちゅわああああああああああああああああああああん――ッ!」

「はい確保!」


 姉ゲッチュ!

 上体に迫るタックルをかわして、宮古の両足に抱きつく。足をとられた姉の後を追うように命も床に倒れ込んだ。

 こちら妹警察。怪しい姉の身柄を確保した。


「さあ洗いざらい吐いてもらいましょうか。何を隠しているのですか?」

「離して! お願いだからもっとギュッと抱きしめて……じゃなくて、離して~!」

「ちょ、暴れないで! 大人しくして下さい」

「だってパン! パン……ッ!」


 パン? 私は和食派です!

 なんて命の思考は一瞬でクラッシュした。


 チラリ、と。

 薄桃色のパンがこんにちはしていた。


(なるほど。ハーフパンツでもズレるというリスクがありましたか)


 命は冷静に状況を分析する。不思議だ。まるでもう一人の自分が上から見下ろしているような気分だった。


 それにしても、上から見ると酷い光景である。

 宮古のハーフパンツをずらしたどころか、白くまぶしい太ももに頬を埋めているようにも取れる。というか、そうとしか取れなかった。


 命は両手を離すと、


「すすす、すみません――ッ!」


 顔を真っ赤にして高速で後じさりする。今度は命が距離をとる番だった。


「たはは。こっちこそ、粗末なものをお見せして恥ずかしい」


 宮古は軽い調子だが、頬を薄桃(パンツ)色に染めていた。

 妹にパンツを見られるなんてご褒美じゃない、バッチコーイ! カモカモン! ぐらいの意気はあったのだが、いざ見られると……その……恥ずかしいのである。

 柄にもないことは重々承知だが、見ている相手が異性だと意識してしまうと、どうしてもダメだ。顔が熱を持つのを抑えきれない。


 ――耐えるのよ私、耐えるのよ私。姉は妹にパンツを見られたぐらいで……まあ、興奮するけど、違う違う! 照れたりしないのっ!


「たはは。もう命ちゃんったら、お返しにパンツ見ちゃうぞ?」


(耐えるのです私。耐えるのです私。女の子同士なのですから、パンツを見たぐらいで動揺してはいけませんっ!)


「もうお姉ちゃんってば! 謝っているじゃないですか」


 たははあははたははあはは……。


 命は宮古に男だとバレるわけにはいかなかったし、宮古は命が男だと気づいていることを知られるわけにはいかなかった。

 複雑で、それでいて不毛な二人であった。

 それから微笑み合うこと数分。


「……ふう」


 頬の熱が引くと、ようやく二人は休憩に入る。早く再開しようとは、どちらも言わなかった。


 恥ずかし姉妹は壁に背を付けて座る。二人の間にはちょうど一人分ぐらいのスペースが空いていた。


「ちょっとお話してもいいですか」

「どうぞ」


 宮古の返答はそっけない。いまいち調子が戻らない姉であったが、


「それでは、妹マイスターのAさんにお聞きしたいことがあるのですが」


 命から不意打ちを受けると、一瞬で調子を取り戻した。

 妹マイスターのAさんとは、宮子が新聞部の取材を受けた(というか、無理やり取材させた)ときに名乗った名である。


「どうしてその名を、いや……そうか……そういうことよね」宮古は一人で勝手に納得する「私が妹マイスターのAさんだと気づくなんて、さすがは私の妹だわ」


(いや、それはバレバレだったのですが)


 指摘するのも野暮だと思い、命は会話を進める。


「それはともかく、あれはどういうことですか! わざわざシルスターさんを挑発するような真似して」


 おこである。この妹おこである。

 宮古は苦笑する。

 配布したはいいが、数時間も経たぬ内に謎の力が働いて回収騒ぎになった学校新聞である。それをまさか命が見ているとは、夢にも思わなかったというのが姉の本音だ。

 それに、プレススクールが配布されてから、すでに数日が経過している。それをなぜ今になって蒸し返したのかも謎だった。


「……う~ん」


 煙に巻くこともできたが、止めた。この妹は鋭いのだ。


「挑発に乗ってくれれば儲けものかなって?」


 こちらから仕掛けることはできないが、正当防衛であれば弁が立つかもしれない――命は宮古の思考を透かすように読み取った。


「……やっぱり。お姉ちゃん、前に私のクラスに来たときも、シルスターさんに何か耳打ちしていましたよね?」


 目ざとい。宮古は素直に感心した。


「危険な妹の香りがしたからさ。釘を刺しておきたかったんだけど……どうも釘の打ち方が甘かったみたい。たはは」

「……わかっていたのですか、こうなることが」

「なんとなくね」


 思えば宮古とオルテナだけは、女学院の雲行きが怪しくなることを予期していたような節があった。


「さっきだって難しそうな顔して……シルスターさんのことを考えていたのでしょう?」


 それはハズレ。勘が鋭いのにたまに的を外す。そこがまたかあいいのだが……宮古はただ微笑んだ。妹の育成に悩む姉よりも、(がっこう)のことを憂う姉の方がかっこいいからだ。


「お願いですから、危ない真似しないで下さいよ」

「大丈夫だって。危ないことはしないから」

「それは……手を出せないからですか?」


 宮古はドキリとした。命も思案顔もだが、不安がもう一つ。

 果たしてこの妹は、


「だってお姉ちゃんも正規の魔法少女(レギュラー)に成りたいのでしょう」


 ――自分が手を出せない理由をどこまで知っているのだろうか。


 宮古は動揺をしずめる。顔に出したら悟られる。


「みんな言っていました。あの姉ヶ崎先輩が、これだけ後輩が酷い目に遭っているのに黙っているなんておかしいって。なにかおかしいものを食べたのか、そうでなければ……正規の魔法少女に成りたいから手を出せないのだって」


 ……セーフ。

 嫌な汗で下着が蒸れたが些細なこと。

 宮古は意外とボリューミーな胸をなでおろした。


「あちゃー、そこまで知られてんの?」


 宮古は、おどけて額を叩く。正確には半分正解で半分不正解。宮古が正規の魔法少女に成りたいのは、それが命の助けになると思ったからだ。

 地位や名声には全く興味がない。

 むしろ、もっと助けになるポジションがあるなら、正規の魔法少女でなくたって構わないぐらいだった。


「そっ。お姉ちゃんね、正規の魔法少女に成りたいの。なぜなら妹ハーレムを築きたいから! 妹たちに大人気の"鐘鳴りの乙女(カンパネラ)"志望!」


 四大組織にして唯一公職でないから。拘束が緩い"鐘鳴りの乙女"が一番自分の目的に合っていると、宮古は踏んでいた。


「……やっぱり、お姉ちゃんも正規の魔法少女に成りたいのですね」

「ごめんね命ちゃん。良い姉である前に、私も一人の人間なの。たくさんの妹にチヤホヤされたいの。そう、この世の妹は――」

「茶化さないで下さい」


 思いのほか真面目なトーンで返されてしまったので、「この世の妹はすべて私のもの」と言いそびれてしまった。


「……だって」


 命の瞳が潤んでいる。天井から降る光を浴びていると、本当に黒水晶が埋まっているようにしか見えない。綺麗だ。でもあまり長く見ていたくない瞳だった。


「だって……手が出せないってことはオルテナ先輩みたいに」


 それ以上は口に出さなかったが、言わんことすることはわかった。要は、宮古がオルテナと同じ末路(?)を辿るのではと心配しているわけだ。


 ――んまっ、なんてかあいい妹なの!


 宮古の心のなかには二つの感情が渦巻いていた。

 一つは命に対する深い愛情。あ~かあいいかあいい。私の妹、超かあいいんですけどー、とリベリア山の頂点から叫びたい気持ちが胸半分。

 もう半分はオルテナに対する深い憎悪。あのバカ、人の妹を不安にさせやがって、リベリア山に埋めてやろうか、という気持ちがもう半分を占めていた。


 ラブ&キルの狭間で揺れる宮子であったが、最後はラブが勝った。正直オルテナがどうなろうと宮古の知ったことではなかった。


「大丈夫だよ。だから落ち着いて、ねっ?」


 下心なんてナイデスヨー。宮古はできる限りやましい気持ちを排して、命の黒髪をなでてやる。


「心配しないで。あんなしょっぱい生徒会長と違うもん。お姉ちゃんは、妹を泣かせるような真似だけは絶対にしないって決めてるの」

「……本当ですか?」

「ほんとほんと。それにしても急にどったの? 何かあったんなら、お姉ちゃん話聞くよ」


 このところ命が苦慮していることは知っていたが、それにしても様子がおかしい。宮古の姉の勘が何かを訴えていた。


「実は」


 しばらくすると、命はカフェ・ボワソンであったことを語りだした。

 あのリッカのファンを自称していた三人組のことを。


「あいつの側にいれば安泰だとか、上手く取り入っておいて損はない、などと話していたそうです。リッカのファンでも何でもなかったのです、その人たち……」


 全ての話を聞き終えた宮古は、適当な返しが思いつかずにいた。


「…………」


 ネガティブな思考が、頭を埋め尽くしている。

 女学院の危険度が更に増した。ステージ2からステージ3に進行したのだと、宮古は判断した。


「へえ。アイリちゃんもやるじゃない」


 やっとのことで口にしたのも月並みな感想だった。


 女生徒たちが神頼みを始めたのなら、それは間違いなく危険な兆候だ。神さまセレナさまリッカさまと、大して本人に興味もない癖に擦り寄って来る輩が増えたのなら、それは腹が立つことだろう。

 同じ姉として、宮古はアイリの気持ちが痛いほどわかった。


「ねえ、お姉ちゃん……派閥争いなんて、起きないですよね?」

「もう命ちゃんは心配性だなあ。大丈夫だって」


 百パー起きる――宮古は確信していた。


 このままの流れだと大炎上である。土砂降りの雨が上がると同時に灼熱の季節がやってきて、セントフィリア女学院は焼け野原だろう。冗談抜きで、ぺんぺん草すら生えないかもしれない。


 これは姉の勘ではない。

 歴史の話である。

 それも歴史という尺度で見れば極めて最近の、一年前の中等部が大荒れする前の状況とそっくりだった。


 そのころ宮古は高等部にいたので当事者ではなかったが、当時の中等部は酷い状況だったと伝え聞いている。

 聞いているだけで胸が痛くなって、中等部に殴り込みをかけそうになったほどだ。もっとも、その行動もオルテナに阻まれたわけだが。


 ――あっ、イラッと来た。


 中等部の問題に高等部の生徒が首を突っ込むべきでない、とオルテナは主張していたが、宮古は未だに納得いっていない。

 やっぱり私が正しかったじゃないと今でも思う。

 庭を変えて、あの子たちは同じ愚を侵そうとしているのだから。


「大丈夫だって。悪いことする妹がいたら、自警団の代わりにお姉ちゃん警察が取り締まっちゃうんだから。平和的にセクハラでね」

「先にお姉ちゃんが捕まりそう」

「なんですと!」


 さっきから「大丈夫」しか言えていない自分に腹が立つ。しかし宮古とて、大丈夫だと言い切れない状況なのだ。


 オルテナが下手を打ったせいだ、と宮古は心中で毒づく。

 認めたくないが、オルテナを心のよりどころとする女生徒は少なくない。

 生徒会長にして、自警団の長にして、この箱庭の絶対的正義。

 口に出さずとも誰もが彼女のことを認めているというのに、その大黒柱が簡単に倒れてどうするのだ。


 女生徒たちの混乱はまず避けられない……というより、すでに起きていると考えた方がいいだろう。

 我が身可愛さから新たな柱探しに奔走する女生徒が出始めている。それこそが同じ愚を犯しているというのに、誰もが目を閉じ耳を塞いでいる。


 誰かが何とかしてくれる。私の知ったことではない。そういった無責任のドミノが、整列し始めている。

 不味い、不味い。このまま求心力がある女生徒が派閥を築いてしまえば、取り返しの付かない事態になってしまう。


 ステージ4 学校崩壊の再来、それはつまり――才媛同士の潰し合いを意味する。


 そこまで行ったらお姉ちゃん警察の手にも負えない。

 複数人の才媛を抑えるには、少なくともオルテナとリッカの手が要る。

 でも、オルテナがあのザマでは。

 今のリッカに至っては……。


「……っ!」


 歯がゆいが、宮古だって人のことばかり言えない。

 もし最初に暴れる才媛がいるとしたら、それはアレクだと宮古は予想していた。だからこそ、正当防衛に見せかけてアレクの両足を圧し折ったのだ。

 もちろん、本気のアレク相手に手を抜く余裕がなかったのも事実だが、その裏側に打算がなかったといえば嘘になる。


 これで選抜合宿が終わっても、当面女学院は荒れないだろう……そう安心していたが、現実は宮古が思うよりも複雑怪奇だった。アレクがいないことで、今度はシルスターが幅を利かせるという構図が生まれてしまったのだ。


 下手に均衡を崩してしまったことには、宮古も責任を感じていた。でも、おいそれと動くわけにもいかなかった。

 今の宮古には、守る者がある、失いたくない者がある。全校後輩(ぜんこうせいと)と命を秤にかけたとき、姉は妹を選ぶのだと決めてしまった。

 もう彼女は……天秤を傾けてしまったのだ。


「……お姉ちゃん?」


 キョトン顔の命が小首をかしげる。


「他にも何か隠していませんか?」

「ないよ。お姉ちゃんが愛しの妹に隠しごとなんてするもんですか」


 微笑み、戸惑い、胸がチクリと痛む。

 そして宮古は今日も嘘を重ねる。

 この東洋魔術(姉)が命を死なせないための予防であることも、つい先日まで、命が死の淵をさまよっていたことも打ち明けられぬまま。


「あの……聞いてもいいですか?」


 命の歯切れ悪いなんて珍しい。それだけに嫌な予感がして、


「もしも……もしもの話ですが、外から来た一年生がシルスターさんとコートマッチで当たったとして」


 やめろ。やめろ。私の友達が、みたいな口ぶりは。

 宮古は祈るような気持ちで続きを待ったが、


「……勝ち目はありませんか?」


 嫌な予感は直ぐに現実のものとなった。


 誰が……誰に勝てる、ですって?

 勝ち目なんて万に一つもないと一笑に付すことは容易いが、宮古はそうはしなかった。

 命の言葉にそれほどの覚悟があるとは思えなかったが、目の奥に揺らぎを見た。吹けば消えてしまいそうな、頼りないが、真っ赤な火が灯っていた。


 そのちっぽけな火を否定することもまた、姉の倫理に反した。

 宮古は尻を叩いて立ち上がる。


「よしっ、休憩終わり。今日はあと一本やったら上がりにしよっか」

「お姉ちゃん!」


 非難するような声にも取り合わない。


「いいから……コートに入りなさい」


 宮古は答えないし、応えない。

 今までだってそうだ。東洋魔術(姉)において、宮古が手取り足取り教えてくれたことなんて、数えるほどしかない。

 宮古はいつだって命に考えることを要求し、


「そしたら後で答えてあげるから」


 その教えのことごとくを体に叩き込んできた。

 東洋魔術(姉)は命を生き長らえさせるためにやっていることであって、命を早死にさせるためにやっていることではない。

 そのことを知らしめるために、妹殺しは妹の前に立ち塞がる。




     ◆




 見つめる黒曜石の瞳はどこまでも冷たくて、命は汗が引いていくのを感じた。


(……やばい)


 東洋魔術(姉)で何十、いや、もう三桁に上るほど宮古と対峙してきた命だからこそわかる。これほど真面目に、姉がコートに入る姿は見たことがなかった。

 宮古は未だかつてないほどに冷えている。

 命は、どうして彼女を無意識に氷に例えたのか理解できた気がした。

 冷えれば冷えるほどに美しく、恐ろしさを増す。

 ダイヤモンドダストがきらめく景色を綺麗だとしか思えないのなら、その人は景色のなかにいないのだろう。

 氷点下の世界には刺すような痛みが伴う。

 薔薇の花と棘が切っても切り離せないのと同じように。


 美しいから恐ろしいのか、恐ろしいから美しいのか、そんな鶏が先か卵が先みたいなことは命にはわからない。

 ただ行きすぎた美しさと恐ろしさが同居する状況をきっとこう呼ぶのだろう。


 ――おぞましい。


 それが本来持つ言葉の意味と同じかはさておき、命には宮古を形容する言葉がそれしか思い浮かばなかった。

 嫌だ。全細胞が近づくことを拒絶している。

 宮子は惹かれないほどに美しい。


(というか引きます――ッ!)


 すごい人だすごい人だとは思っていたが、命の想像を遥かに超えたド変態である。今なら「さっきの話はなしです」と撤回できるかもしれない。そんな甘い考えが頭を掠めるも、瞬く間に吹き飛んだ。


 宮古の推察通り、命に覚悟なんてものはこれっぽちもない。

 ないったらない。

 その辺で買えるなら金に物を言わせて買いたいぐらいだ。

 ……お金ないけど。


「……はあ」


 ため息が出る。

 ないない尽くしで情けない。あるのはこの手からあふれるほどの不幸と、手に余るほどの借金だけだ。

 けど無理なのだ。

 これは、腹の底に落ちないから。

 引っ込められないから口をついて出た言葉なのだ。

 その想いだけは嘘じゃない。

 だから恐る恐る、薄氷を踏むようなおっかなびっくりな足取りでも……前に出る。


「……お手柔らかにお願いします」

「無理」


 のっけから酷い口撃を受けた。

 しかし、開始線に着いた命を向けられたのは口撃だけでなく、


「――ッ!?」


 黒く禍々しい【呪術弾】もだった。

 あれ? 合図は!?

 問いかける間もない。


 命は事前に装填していた【呪術弾】を放つ。

 本来コートマッチで審判がいない場合、互いの魔法弾を相殺させることを開始の合図とするという暗黙のルールがあるが、それにしたって急である。


 合図はない。

 互いの魔法弾が衝突した今でも。


「――ッ!」


 呑まれた。

 相殺し切れなかった魔法弾の残骸が、命の元へと走る。

 命は身体を振ってやり過ごす。


(いつもより力強い――ッ!)


 それだけ真剣ということか。

 一瞬の攻防であったが、宮古の怒りが垣間見えた。

 足が迷う。

 勝機を見出すなら前に出るしかないのだが……。


 ボッ、ボッ、ボッと着火するような音が鳴る。

 サイコロの三の目を描くように、三つの【呪術弾】が宮古の前に浮く。

 すかさず連射。

 先を争うように三つの【呪術弾】が飛んでくる。


 足は……使っていいに決まっている。

 命は、宮古とのコートマッチ以外では足を使わぬよう言い付けられていたが、相手がその宮古であるなら何ら問題はない。


 真っ先に飛んできた【呪術弾】から逃げるように右に跳ねる。

 と、同時。

 二発目の【呪術弾】が待っていましたとばかりに鋭角に曲がる。

 命と【呪術弾】は吸い寄せられるように近づき、交わることなく離れる。

 滑るような動きで【呪術弾】を掻い潜ると、撃つ。


【結界弾】


 透き通る橙色の壁は、三発目の【呪術弾】が直撃すると破片となって飛び散ったが、上々だ。相殺できないより余ほど良い。


 一の弾でコントロールし、二の弾で追い詰め、三の弾で仕留める。

 それが三連撃ちの基本であり、宮古の常套手段だと命は知っていた。


 黒髪の乙女に同じ技は二度通用しない――ッ!


 と、声高らかに叫べればかっこいいのだが、あいにくこの命、もう幾度となく三連撃ちの餌食になっていた。姉こわい……三連撃ちこわい状態なわけで。


(もう痛い思いしたくありません――ッ!)


 という強い想いが成し得た回避だった。

 しかし、たまたま綺麗に避けられたからといって安心はできない。


「いいね! いいね!」


 宮古は、いいねボタンがあったら十六連射しかないほどハイな声を出す。どれだけ取り繕ったって無理だ。妹の成長が嬉しくない姉なんていない。


「それでこそ」


(きっ)


 ボッ、ボッ、ボッ……ボッ!

 薄々来るのではないかと察していたが、さすがに期待を裏切らない。

 本気の宮古の【呪術弾】は、


「私の命ちゃん――ッ!」


 ――三連射以上がデフォルト。


(来たああああ~~っ!)


 シューティングゲームの主人公機って、こんな気分なのかもしれない。一発、二発、三発、そしてダメ押しの四発目。鬼宮古の妹殺しシューティングが始まった。


「ちょっ!」避ける「これは!」避ける「さすがにっ!」【結界弾】「厳しい――ッ!」掠めたが避けた。


 二週間前とは比べ物にならない動きである。心を鬼にして命を撃った甲斐があったと、宮古はしみじみ思う。


 足と【結界弾】の制限と解けば、大半の外部入学生には負けないだろう。内部進学生が相手だとしても、それなりに粘れるかもしれない。


 でも、それでは困るのだ。事情を知っている宮古ならいざしれず。コートマッチの試合が長引いては、命が突然死するリスクが高まるだけだった。


「ほらほらほら~、どんどんいっくよー!」


 笑ってはいけない、そう思ったってどうしても笑みがこぼれてしまう。

 叩けば叩くほど、磨けば磨けほど、我が妹は輝きを増す。これが姉の喜びでなくて何だろう。


 宮古がシスターズハイになるほど、【呪術弾】のキレは増す。

 命が一発ずつビー玉を飛ばす玩具なら、宮古は三点バーストのアサルトライフルである。弾数も威力も敵いっこない。


 このままではジリ貧だ。命は思い切って反撃に転じる。


「この――ッ!」


【神撫手】


 サイキックでいう念動力に当たる魔法だ。

 この魔法で宮古の足を取れば、


「惜しい」


 ひょいと宮古は右足を上げる。

 一見すると意味のない動きだが、完全に読まれていた証拠だ。


「あっ」


 間抜けな声を出す命めがけて、四発の魔法弾が押し寄せる。

 二発目までは辛うじてかわしたが、


「がっ!」三発目が肩を撃ち「うっ!」四発目が脇腹を撃った。右肩が外れ、左脇腹がなくなったかと錯覚するほどの衝撃だ。

 命の親友の、まんまヤンキーみたいな見た目した玖馬(きゅうま)の拳より重い。【羽衣】を着てなかったら悶絶どころの騒ぎではない。


 両膝から落ちると、命はそのまま前のめりに倒れた。


「狙いは悪くなかったけど」


 健闘したと褒めてあげるべきか。魔力の制御が滅茶苦茶になっていた命が、宮古の右足を狙ったただけでも大したものだった。


 日帰り旅行でのこと。

 ダイヤウルフとの激闘を制した命は、代償として魔力ハンドルをバカにしてしまった。命が魔法を使えなくなったのは、これが原因だった。


 急にハンドルがゆるゆるになったから身体が驚いたのだろう……と宮古は理解したが、これも憶測の域を出ない。

 命は、魔法使いという特例中の特例である。魔法少女と体のつくりが違っていたって、何らおかしくない。


 そもそも、命の魔力ハンドルは異常に硬かった。

 今まで命が滑らかな【呪術弾】を出せたのも、コントロールが難しい【神撫手】を苦とせず使いこなせたのも、ひとえに魔力を一定量で出力できる特異体質のおかげだ。

 別段、成形や魔力の制御に秀でていたわけではない。むしろ一定の魔力量でしか魔法が使えないなんて、凡も凡。凡骨もいいところだった。


 ……つい先日までは。


 おそろしい子――そう評するしかない。


 宮古はこれでも慎重にことを運んできたつもりだ。一定量の魔力しか絞り出せないのは、裏を返せばリミッターとも取れた。


 ――もしかしたら、命ちゃんの奥底には大量の魔力が眠っているのかもしれない。


 命の暴走する箒に二人乗りした宮古には、確信に近いものがあった。

 例として挙げるには弱いが、史上唯一(だった)魔法使いのリッシュ=ウィーンも、膨大な魔力量を誇ったと言い伝えられている。


 ――遅かれ早かれ、あの子は死ぬ。


 宮古がその結論に行き着いたのも、リッシュと命を重ねたからだった。命の奥底には大量の魔力……つまりは大量の毒が眠っている。


 それを蛇口から一気に捻り出そうとすればどうなるか。

 ……想像に難くないだろう。

 命は、唐突に死を迎えるだろう。ある日、魔力の調整を誤ってしまったから、たったそれだけの理由であの世行きである。


 事実、つい先日まで命はそういう危機的な状態にあった。いや、今だって安全だとは言い切れないが、安定してきたのは間違いないだろう。


 宮古が、過去の文献を漁りに漁り、推測と憶測を重ねて。

 女医に根回して、嘘の診断するよう促して。

 東洋魔術(姉)などと偽り、命が魔力の制御をできるよう手助けして。


 ようやく命の今がある。


 このことは本人にも告げていない。

 魔法は精神と密接に絡んでいる。下手に命の心を乱すことは、彼の死亡率を高めることに他ならなかったからだ。


 ――ならいいわよ。私一人でなんとかすればいいだけでしょ。


 幸い、宮古は裏でこそこそ動くことを得意としていた。事実の隠蔽や心理誘導なら苦とせずやれる自信があった。

 が、陰キャの姉にも不安はあった。


 命に魔力の制御を教えるのは、並大抵のことではないだろう。

 相手は魔法少女ではなく、未知数の魔法使い。

 しかも、一度手にした感覚を捨てて、ゼロからやり直さなければいけないときたものだ。


 ……これは骨が折れる。

 姉の手腕をもってしても一ヶ月はかかると見ていた。


 ――それをこの子は……。


 二週間。

 たったの二週間で成し遂げた。

 恐ろしい工数圧縮能力である。もはや、ブラックホール級と称す他ない。命の成長速度は、宮古の予想を遥かに超えていた。


 でも、


「さすがに……期待しすぎたかな」


 ――これで終わりなの?


 心のどこかで、命が一矢報いてくることを期待している宮古(じぶん)がいた。それこそ、万が一にもあり得ないというのに。


 宮古は倒れた命に近寄ろうとして、足を止める。


「…………」


 身じろぎ一つしない命を見ていると、妙に引っかかる。

 何かがおかしい。


 果たして前から撃たれた人間が、()()()()()()()()()()()()()()


 宮古が妙な違和感に襲われると同時に、


「――ッ!」


 それは襲ってきた。


 四十八の乙女技の一つ、乙女の軟体。

 乙女たる者、頭だけでなく身体も柔らかくなくてはいけない。どんな体位(ポーズ)もなんでもござれの超軟体を利用したスタートダッシュだった。


 黒髪を翻し、命は最後の勝負を仕掛ける。

 審判不在の勝負だからこそ成立した、狸寝入り。

 元よりこの試合にテクニカル・ノックアウトなんてものは存在しない。命が沈んだと判断して、目を離したのは宮古の落ち度だった。


 ――汚いさすが汚い、それでこそ……私の妹!


 不意を突かれたものの、依然として宮古の優位は揺らがない。

 撃ち合いであれば負けはしないのだ。

 前に出る命を【呪術弾】で迎え撃つ。


【結界弾】


 キラキラとした魔法の欠片が宙に流れるが、命は止まらない。

 前へ、ただ前へ。

 一瞬一秒の生命(いのち)を惜しむように駆ける。


 必死だ。懸命な姿が胸を焦がす。

 けれどそれと勝負は別である。

 宮古は照準を定める。

 不意を突かれたとはいえ、再詠唱の速さは圧倒的に宮古に分がある。


 次弾装填、完了。

 宮古は躊躇うことなく【呪術弾】を撃ち抜く。

 命の前に出る選択が間違っていたわけではないが、宮古にはこの距離なら間違いなく外さない自信があった。


 迫る不可避の凶弾を前にして、


【結界弾】


 命を更に魔法の壁を展開する。

 激しい破砕音とともに淡い橙色の破片が乱舞する。

 命は目をつぶらない。

 黒水晶の瞳には、もう前しか映っていなかった。


「な……っ!」


 命が宮古の詠唱速度を上回ったわけではない。

 ただ、不意を突かれた宮古に対して、命は万全の状態であった。

 狸寝入りしていた命には、【結界弾】を貯蔵(ストック)する余裕があった。

 必然、命の速さが宮古のそれを凌駕した。


 魔法少女同士としてはそう珍しい駆け引きではないが、それでも宮古は驚きを禁じ得なかった。


 貯蔵なんてテクニックを、宮古は教えた覚えがない。

 とすれば答えは一つである。

 物にしたのだ、この土壇場で。

 宮古ほど器用に扱えずとも、【呪術弾】の連射にも通ずるカラクリを。


 来る。命はどんどん近付いてくる。

 際どい距離である。

 外せば間合いに入られる。

 宮古が慎重に照準を合わせるなか、命は前足で床を踏みしめた。


 鈍い音を立てた床は、次の瞬間、キュイと鳴き。

 宮古の反応が遅れる。

 それが宮古の知らぬ動きだったからだ。


 活歩――滑るように命が突進してくる。


 とっておきと、ショートケーキの苺は、最後までとっておくのが黒髪の乙女の流儀である。今度こそ、完全に宮古の不意をついた。


 魔法で強化された歩みは、あっという間に両者の距離を潰す。

 近い。

 手を伸ばせば届く距離に命がいる。


 ぶるり、と。

 宮古は虎に噛みつかれるさまを幻視し、背筋に寒気が走るのを感じた。

 八の字をかたどる、命の両の掌が迫る。


 死線を越えて、もう……こんなところまで。

 姉の期待すら置き去りにする早さで、妹はどんどん成長していく。


 ――最高だ。やっぱり妹は……私の妹は最高だ。


 震える。

 肌も、背筋も、脳みそさえも。

 あの紅葉のような手がお腹を突いたとき、どれほどの多幸感がこの身を包むだろうか。永遠にも思える一瞬のなかで、宮古は甘美な夢を見、即座に目を覚ます。


 妹は素晴らしい。

 ああ、間違いない揺るぎない。

 それが、この()しんりだということに異論はないだろう。この(せかい)のどこを見渡したって妹より素晴らしいものなんて見つかりっこない。


 宮古は誰よりも妹の素晴らしさを信じていて、なればこそ、目をそらすことのできない問題とも対面していた。


 ……なら姉とは何ぞや?


 宮古は常に考えている。

 姉とは、妹の劣化品、あるいは付属品に過ぎぬものなのか?


 ――否。


 姉とは、いついかなるときであろうと、妹に負けてはならぬものである。

 では、姉とは妹に勝る存在なのか?

 そう問われたら、宮古はこれもまた否と答えるだろう。

 あくまでも至高なのは妹である。

 (しこう)が妹であり妹が(しこう)なのである。


 宮古は、何度だって主張する。

 この()、この(せかい)、この(うちゅう)において、妹に勝るものなんて存在しっこないと。

 だが、たとえどんな逆境、苦難、千荊万棘(せんけいばんきょく)にあろうと、姉は妹に負けてはいけない。

 姉が姉であるために。

 妹が(しこう)だと証明するために。


 その矛盾が、


「~~~~っ!」


 最高に宮古を昂ぶらせる。


 生成途中の【呪術弾】から詠唱を分岐、再構築。本来結びつかぬはずの魔法をあたかも延長線上にあるかのように見せかけ、最速で詠う。


【神撫手】


 掌が届く刹那、宮古が命の足を取った。


「いぃ――ッ!」


 全速力で突っ込んだ命は、勢いそのままに転げる。ローリンローリン。派手な音を立てて世界は回る。

 板張りの床、格子状に張り巡らせた天井、また板張りの床……。

 やっと止まったときには、命の世界は真っ逆さまだった。


「……あたたたた」


 股ぐらからのぞく天井にバレーボールは挟まっていない。業者を呼ばなくても、空を飛んで回収できてしまうからだ。

 当たり前といえば当たり前なのだが、命は眼前に広がる光景にどこか物足りなさを覚えていた。

 汗とともに熱が引く。うるさかった心臓の鼓動が収まると、しんしんと鳴る雨の音が耳に入ってきた。

 幾日も幾日も、雨は降り続いている。


「偉いえらい。お姉ちゃんの言いつけどおり、最後まで【羽衣】は解かなかったね」


 ――コートアウト。

 派手にすっ転んだ命はとうに枠線の外に出ていた。審判が不在であろうと関係ない。誰の目から見ても勝敗は明らかだった。

 届かなかった……そう思うことすら、おこがましいのかもしれない。


(……最後まで、私と同じ魔法しか使いませんでしたね)


 宮古は、これっぽっちも本気ではなかったのだから。


 力が抜けると自然と両足が前に落ちた。命はしばらくの間、大の字になって床に寝転がった。何も考えずに天井を眺めていたかった。


 それから。

 気がつくと、命は演舞場の軒下にいた。

 着物もいつの間にかボレロの制服になっている。不用心だとは思うが、宮古の前で着替えるような愚を犯してないだろう。

 窓口で宮古が退出の手続きをしている姿が見えた。この段になって、ようやく命は自分がこれから帰るのだと理解した。


「おまたせ。愛しのお姉ちゃんだよ」

「わあ本当だ。愛しのお姉ちゃんです」


 声に張りがないし全くもって愛が感じられない。

 ほんの少し前まで、あんなにあざとかあいい妹だったのに……。この返答には、宮古もションボリであった。

 そんな姉の落胆に気づくことなく、命は傘立てから黒い傘を引き抜く。


「開かなくてもいいんじゃない?」


 傘の留め具を外そうとしていた命は、ハッとする。

 曇り夜の空は暗い。今にも泣き出しそうな空模様ではあるが、確かに雨は降っていなかった。


「お月さまなんて久しぶりねー」

「本当ですね」


 十数日ぶりに見る月は爪先のような形をしていてえらく歪だが、それでも美しかった。


「あっ! いちばんぼし、みっけ!」


 宮古が子供のように指差して言うものだから、命はつい口元を緩めていた。


「あれ、いちばんぼしですか」


 宮古が指した星は月に寄り添うような位置にある、いちばんぼしと呼んでいいか悩むほどにか弱い光を放つ星だった。


「なによう。いいじゃない! お姉ちゃんが、いちばんぼしだって言ったら、それがいちばんぼしなの!」

「でも、いつもなら目に入らない星でしょう?」

「それはそうかもしれないけど」


 命の言うことはもっともだった。多くの星が厚い雲に阻まれているなか、あの星はたまたま良い位置にあった。ただそれだけの話なのだ。


「でも、珍しいですね。いちばんぼしって、だいたい当番制なのに」

「そうなの?」

「ええ。時期によって眩しい星がありますから、必然的にいちばんぼしになりやすい星って決まってくるのです。星の子はみんないちばんぼしになりたいけどなれない。いちばんぼし界は意外と残酷なのです」

「……ええー」


 ためにはなるが夢のない話だ。これではいけない、星を見たらロマンチックなことの一つや二つ言える妹に育てなくては。妹の情操教育も姉の務めであった。


「ねえ命ちゃん、肉眼で見える星って何等星までか知ってる?」

「六等星だったと記憶していますが」

「おー、さすが物知り妹ね」


 明るさから察するに、あのいちばんぼしも六等星であろう。

 抜群の視力を誇る黒髪の乙女の目をもってすれば、現代人には無理ゲーと言われる六等星を見るのも容易いことだった。


「それじゃあ、あの星の名前は知ってる?」

「……さすがにそれは」


 命も知らない。六等星の名前なんて知っているのは余ほどの星好きか、おかっぱ頭の変女ぐらいのものだ。


(そもそも、異界の星の名前が、私の知るものと同じわけがないのでは?)


 考え込む命に対して、宮古の答えはフランクだった。


「だよね。だって私も知らないもん」

「……ええー」


 ひどいクイズである。いや、新手の引っかけなのかもしれない、とますます混乱する命であったが、宮古が言いたいことは単純なことだった。


「でもさ、六等星(あのほし)にだってちゃんと名前があるんだよ」


 命は、いちばんぼし界は残酷だと言ったが、果たしてそうだろうか。見方を変えれば、誰かが見つけた六等星が、いちばんぼしにだって成れる世界なのだ。

 宮古は続ける。彼女はそこまで夢見がちではないけれど、妹にはロマンティストであって欲しいと願ったから。


「頼りなくて、誰も知らない星かもしれないけど」


 一等星も二等星も見えない夜空を、宮古は仰ぐ。


「案外こんな暗い夜に輝くのは、ああいう星かもしれないよ」


 さっきまでの冷たさが嘘のようだ。

 柔らかな光で照らすお月さまみたいに姉は微笑んでいた。

 ずるい、と命は思う。演舞場でコテンパンにされたときよりも、黒髪の乙女はもっと強い敗北感を味わっていた。


 それは途方もないが……そんなに悪い気がしない敗北感だった。


「それと、さっきの質問だけど」

「質問?」

「もし1-Fの女帝と遣り合ったとき、外から来た一年生に勝ち目があるのかっていう」

「ああ」


 気乗りはしないが約束は約束だ。宮古は答える。


「百回やったら百回、千回やったら千回負けるかな」

「……ですよねー」


 命の目が死んでいたが、正直に答えたまでだ。試合が終わったときから、宮古はありのままの気持ちを伝えようと決めていた。

 余すことなく思ったことを口にしよう、と。


「……でも、一万回やったら一回ぐらいはそう悪くない未来を引き当てるかもね」


 喜ぶべきか悲しむべきか、命の目にほんの少し生気が戻ってきた。余計なことを言ったかもしれないという後悔もある。

 でも仕方がない。

 宮古は見てしまったのだ、命のなかに可能性を。

 ……大目に見て一万分の一以下だけど。


「ほら」ぼんやりとした命の背中を叩いて「一雨来る前に帰ろっ!」宮古は走り出す。


「ああっ、待って下さい!」


 箒がなくたって宮古は速いのだ。命は水たまりを飛び越え、慌てて姉の後ろ姿を追いかけた。

 夜のキャンパスに二人分の靴音が響く。

 その様子を、歪な月と頼りない星だけが見下ろしていた。

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