第96話 犬に正義
命たちが八極拳教室に参加していた同時刻。
レッドラム姉妹は日課となったパトロール中だった。
「ったく、やってらんねーし」
「うんうん。こうも雨続きだと気も滅入るしね」
そう愚痴をこぼす二人は傘を差していない。制服の上から【羽衣】を纏っただけの、ラフな格好でキャンパスの外れを歩いていた。
大森林育ちに二人にしてみれば、傘を差すというのは不思議な文化だ。【羽衣】という便利な魔法がありながら、なぜ人は傘を差すのか。
おしゃれ? ウチらの故郷には傘なんてありませんでしたけど何か、といった感じである。ヒッピーライフに嫌気が差して故郷を飛び出したというのに、故郷の癖が抜け切らない二人であった。
「こうさ、ぱぁーっと晴れやかに行きたいもんだよな」
「だねだね。チップが飛び交う、きらびやかな世界みたいにね」
にんまり、と双子は顔を合わせた。
お互い何を考えているかは、その汚い顔を見ればわかる。
「今日あたり行っちゃう?」
「行っちゃっちゃう?」
話は決まった。ポーション事件からずっと自粛していたが、今夜は賭場をパトロールだ。
「これも夜のパトロールの辛いところだな」
「つらいよまじつらいよ。夜まで仕事とかブラックすぎー」
「それな。私たちマジ警備員の鏡だし」
団長に聞かれたら小一時間は説教を食らいそうな会話だが、ここにオルテナは居ない。
それに、双子にはパトロールという口実がある。たとえ見つかったとしても、お目こぼししてくれるだろうという悪知恵も働いた。
巡回ルートも残すは運動施設のブロックのみ。
と、二人が気合を入れ直してテニスコート脇を歩いているときだった。
ピ――――――――――――――、と。
優しくて残酷な音色が、湿った風に乗ってきた。
「……マジかよ」
「ないわー。まじないわー」
柄にもなく残業なんてするんじゃなかった、と双子は後悔する。
「しゃあねーな。そう遠くねーし、ちゃっちゃっと片付けるか」
「疾う疾ういきますか」
森育ちの双子は耳が良い。
オカリナの音量、方角から、おおよその当たりは付けていた。
現場はそう遠くない。
あとは直行して、スピード解決するだけ。
そう高をくくる双子の耳を刺したのは、聞いたこともないようなオカリナの大重奏だった。
「巷でオカリナが大ブーム……なーんて落ちじゃねーよな」
「あ~、やだやだ。何の嫌がらせなの!」
……これは一気にきな臭くなってきた。
双子が揃って顔をしかめた折も折、ポケットの魔法石が震えた。相手がマイアであることを認めると、姉のレモンは魔法石を耳当て付き帽子に近づけた。
「よう、マイア。どうなってるし?」
『おかしーです。一気に鳴るにしたって限度ってもんがあるです』
「おかしいことなんてわかってるし。さっさと状況教えてくれよ」
『わからねーです。まだ何も掴めてねーですし』
「……状況つかめてから連絡しろし」
要領を得ない会話につい口調が荒っぽくなる。オルテナだったら、とうに適切な指示をよこしているところだ。
『無茶言うなです! 雨のせいで感度も悪いですし、【遠視】も役に立たねーです』
「だったら最初からそう言えよ、トロ目!」
『言ってるじゃねーですか、ギャンブル狂い!』
「言ってねえし! いきなり弱音は……いてっ!」
時を同じくして『いてっ!』という悲鳴が魔法石から上がる。ライムがレモンを、伝令ちゃんがマイアの後頭部を殴っていた。さっさと魔法石を奪うと、ライムと伝令ちゃんは会話を引き継いだ。
「ハロハロ。テニスコートから南西に1km……7号棟の裏手辺りかな。まずはそこから調べるように、マイアに言っといて。あとは人目の付かない場所中心にヨロ」
『ははあ、仰せのままに……と言いたいところですが、そんなにテキトーで大丈夫でしょうか?』
「おけおけ。半分以上は釣りの匂いがするし。何ヶ所か確認とれれば十分っしょ」
女学院は依然として雨の静寂に包まれている。あの距離も方角もてんでばらばらなオカリナの演奏が嫌がらせでなければ何なのか。ライムは自信を持って断言した。
「ではでは! 私たちも近場から当たるから、目ぼしい情報あったら教えてね~」
『御意! お二人のご武運を祈っております!』
……いやいや、ご武運って私たち誰とも争う気ないんだけど。そんなライムのツッコミも、とうに通話が切れた魔法石の前では無意味だった。
ほい、とライムは魔法石を投げ渡す。レモンは後頭部をさする手を止めて、魔法石を受け止めた。
「いってえ。この妹、本気で姉の後頭部殴ったし」
「メンゴメンゴ。慰謝料として、チップ10枚あげるから許して」
「よし許した」
分をわきまえた妹である、あとでダダこねて20枚にしたろと姉は思い、こいつマジちょろいな、チップ9枚にちょろまかしたろと妹は思う。
ゲスさ加減もどっこいどっこいな双子は、言葉も交さず歩き出す。隣を歩く片割れを除けば、ここまで話が早い相手は幼なじみのオルテナぐらいのものだ。
だから、つい双子は思い浮かべてしまうのだ。
手っ取り早く話が通じる、あの頼りになり過ぎる団長のことを。
「ダサダサじゃん。言い出しっぺの私たちがオルテナちゃんに頼ったら」
「ああ~、わかってるし! わかってないことまで含めてわかってるし!」
オルテナが居ないこの状況がもどかししく、それは転じて自分たちの不甲斐なさに依るものだと理解しているからこそ、双子は尚のこと腹が立つのだ。
女学院の著しい治安の悪化。
その責任の一端が自警団にあることは双子も自覚していた。どこぞのバカが東西の対立を煽っていると知っていても、後手に回り続けているのが実状だ。
オルテナが仕切っていれば、ここまで状況が悪化することもなかっただろう。……いや、オルテナが前面に出られないことを見透かしているからこそ、バカが強く出ているというべきか。
「要は自警団が舐められてんだろ」
「ムカつくなあマジムカつく。今年の一年はホントちょづいてるよね」
全四面のテニスコートを通り過ぎる。【羽衣】を着れば十分練習可能な範囲内だが、セントフィリア女学院の部活動はそこまで盛んではない。雨が染みた色濃いコートには誰もいなかった。
問題なしと判断して二人は先を急ぐ。
続いて視界に広がるのは、400メートルトラックを完備した陸上競技場。楕円状のトラックの内には天然芝が生えており、サッカーコートも兼ねた施設だ。
やはりここにも陸上部やサッカー部はいなかったが、
「いた……っ!」
天然芝の中央には、二人の女生徒がいた。
一人は制服の上から軽鎧をまとった女生徒。そしてもう一人は、彼女の前で崩折れる女生徒。雨が映える空色の長髪は濡れて垂れ、少女の顔を覆っている。その顔色は窺えないが、一見して良好な関係には見えなかった。
「うっわ、足元にオカリナも落ちてるし」
森育ちの双子は耳だけでなく目も良い。だが、良すぎると見たくもない現実まで目に入ってくることがままある。
まごうことなきビンゴ。他のポイントが釣りかはさておき、双子が足を運んだ場所は大当たりだった。
「いやいや、フラグ回収早すぎでしょ」
「変なところで運使わせんなよ、マジで」
マイアの言葉を借りるなら、限度ってもんがあるです、だ。
あれは、ちょづいている一年の代表格であらせられる、ヴァイオリッヒ=シルスターさまではないか。
颯爽登場! ネイチャー系美少女! レッドラム姉妹……と、決める予定が一転して、イッツァ・ピーンチである。双子はそそそ、と陸上競技場の外周に点在している植林木の裏に隠れた。
「作戦ターイム……あれどうする?」
「どうすると言われても……どうする?」
ちっ、こいつ使えねーな、と双子の想いは一緒だった。レモンは帽子の上から頭を掻いて仕切り直す。
「いや、よく見ると仲良しだという可能性も捨てきれないし。ほら、雨のなか友情を確かめ合っている風にも見え……」
「わわっ、バカ殿が蹴り入れた」
遠目に見える女生徒が芝生に倒れた。なんとヴァイオレンスな友情であろうか。
「えっと、イジメの線が濃厚でしょうか?」
「だねだね☆ 人目が付かない場所でやれよ、クソが……っ!」
現実逃避に悪態つき。双子は人として最低の畜生であったが、それでも最低限の正義感ぐらいは持ち合わせている。
「……とりあえず援軍求める?」
「賛成賛成、超賛成!」
マイアと伝令ちゃんが増えたぐらいで焼け石に水だが、おとりか弾よけぐらいにはなるだろう。双子は冷静な畜生であった。
「おや?」
早速呼び出しを掛けようとした途端、手にした魔法石が震えだした。タイミングが良すぎる上に、登録外の相手からというのが怪しすぎる。レモンは無言で着信に応じた。
『見ているのであろう』
……誰だよ、人の石番バラしたのは。
双子には恨みを買う心当たりがあり過ぎた。
しかし、今は犯人探しなんてどうでもいい。問題なのは、この危うい場面をいかにして切り抜けるかである。
ライムと視線を交わすと、レモンは鼻をつまんで口を開いた。
「ヘイ。こちら蘭々件」
いったいった姉がいった――ッ! この土壇場で女学院に一つしかないラーメン屋を騙るとは、神をも恐れぬくそ度胸である。ライムは興奮気味に姉を見守る。
短い沈黙が流れ……先に切り出したのは、絶句していたシルスターだった。
『主は自分の状況が理解した上でふざけておるのか?』
「予約のコールでしょうか? 店内大変に混み合っていますので、本日はクソ難しいと思いますが」
『今すぐ出前に来い、クソ双子。目の前の女が傷物になる前にな』
「ご注文ありやとやんしたー。チャーシュー一丁、ニラもやし一丁!」
レモンはやけくそ気味に魔法石を叩き切った。
「ああ畜生……なんで私たちのときに限って」
行き場のない憤りを訴えるように膝を叩く。そうして、ビシバシと十回ほど膝ドラムを鳴らすと、レモンは覚悟を決めた。
「行くぞライム……っ!」
「いやいや、嫌だよお姉ちゃん」
「うっせ! あとでラーメン奢ってやっから来い!」
「やれやれ……ニラもやしマシマシだよ?」
追い詰められた双子が、ついに植林木の裏から一歩を踏み出した。その勇姿は満を持して現れたヒーローというより、完全に包囲されてるしもうどうしようもねーなーと投降して来る立てこもり犯を彷彿とさせた。
「Bだ。オペレーションBでいくぞ、ライム」
「ええ~、B?」
ライムは難色を示した。
大仰にオペレーションなどと言っているが、双子の間にあるオペレーションはAとBの2つだけだ。
一つは、二人がかりで敵を叩きのめすオペレーションA。そしてもう一つは、双子の片割れをおとりにして事を成し遂げるオペレーションBである。
「もちろん、おとり役はお前な」
「ちょっとちょっと! なんで私なの!」
「あっ? 妹が姉にたてつくなし。味玉ものっけてやるから手ぇ打てよ」
「カッチーン、超カッチーン! 私、味玉で釣れるほど安い女じゃないんですけどぉ……もちろん、チャーシューものっけてくれるよね?」
「もうチャーシューメン頼めよ、お前!」
過程はどうあれ作戦は決まった。あとはタイミングと勇気の問題だ。仕掛けを気取られぬよう、双子は平静をよそおってイジメ現場に向かう。
土を均しただけのトラックを突っ切り、濡れた天然芝のフィールドに入る。シルスターとの距離が詰まると、
「止まれ」
警告にあわせて双子は足を止める。シルスターが横一閃に振るう【銀の剣】が、線引きの役割を果たした。
「よく来たな。尻尾を巻かずに来たことだけは褒めてやろう」
「はっ? 人質を取るような卑怯もんに褒められても嬉しくねーし」
「そうだそうだ! 大人しく投降しないと、痛い目に遭うよ!」
勇ましい言葉を吐き散らすライムであったが、シルスターが黄玉の瞳を細めると、直ぐさま姉の背中に隠れた。
我が妹に呆れながらも、レモンはいじめられっ子を一瞥する。小刻みに震える少女は足元がおぼつかないのか、逃げる気配を見せない。
(……しゃあねーな)
レモンは一先ず時間稼ぎに徹することにした。期待薄だが、いじめられっ子が独りでに逃げ出してくれた方が仕掛けやすい。
(最悪の場合は)
……ポケットに忍ばせた魔法石がある。
「それで、ヴァイオリッヒのお嬢さまが、私たちに何の用だよ。こんな手の込んだ真似までしてよー」
わざわざ陽動まで仕掛ける用意周到ぶりだ。あのオカリナのアンサンブルも、シルスターの息がかかった者の演奏に違いあるまい。双子としては、一刻も早くマイアたちが敵の狙いに気づいてくれることを祈るのみだった。
「そうか……手の込んだ真似か」
シルスターはくつくつと喉を鳴らした。
「確かにな。ネズミを二匹退治するにしては大掛かりであったか」
「ネズミじゃねーし」
「似たようなものであろう?」
レモンは歯ぎしりした。安い挑発だとわかっていても、腹立たしいことには何ら変わりない。
「冗談じゃ。これでも余は主らのことを買っているつもりじゃ」
次にシルスターがとった行動は、双子にとって予想外のものだった。
「余に力を貸せ、森の双子。余には主らが必要じゃ」
レモンは、言葉を失うほどの驚きに打たれた。
冗談だろう? 御三家のご令嬢ともあろう者が……森育ちの手を借りたいだなんて。
「……冗談キツイぜ。私たちに何させる気だし?」
「女学院を引っ掻き回して欲しい」
不敵な笑みを湛えて、シルスターは続ける。
「よもや自警団が治安を荒らすなんて思わぬだろう? なんなら、主らが前にやったようにポーションを撒き散らすというのも面白いな」
喜々として語るシルスターに、双子は震えた。このバカ殿は、他人の迷惑など一切顧みていないのだ。
対立煽りによる東西間の軋轢。
契約会の乱発による姉妹間の不和。
それに加えて、自警団まで女学院を荒らしたらどうなるのか?
考えるまでもなく、セントフィリア女学院は無法地帯と化すだろう。元よりこの学校に通う女生徒は千差万別。国も違えば、言葉も違う。様々な文化や考えを持つ女生徒が集まっているのだ。悪意のある者が突けば、この平穏は砂の城より脆く崩れ落ちる。
「……っ!」
双子の脳裏に二年前の光景がよぎる。
オルテナと宮古が卒業して、学級どころか学校ごと崩壊した……あの、才媛どもに食い物にされた中等部の光景が。
「お前は……何を企んでやがるし」
「知れたこと。余は闘争の向こう側が見たいのじゃ」
煮え切らぬ終わりを迎えた、闘争の続きをもう一度。今度は敗者としてではなく勝者として終劇を迎える。その先にこそ、銀の女帝が欲するものがあった。
「あと幾本か柱を倒せば、勝手に潰し合いが起こる。この流れはもう誰にも止められぬ。この世は、余が思うがままに回るのじゃ」
錯乱したようにシルスターは笑っていた。双子が限度をわきまえた畜生だとしたら、シルスターは限度を知らぬ独裁者だった。
「もっとも、余の目的を知ったところで、主らに選べる道など二つしかないがな」
ことさら強調するように、シルスターは左手を差し伸べる。
「選べ。余の左手を掴んで幸せに暮らすか、ありもしない正義感を発揮して余の右手に切り伏せられるか」
二者択一。
丁半博打だと思えば悪くないが、これは次がない博打だ。
ごくり、とレモンはツバを飲み込む。
ライムは、全てを託すような上目遣いでこちらを覗いていた。
ずるい妹だ。
タッチの差で生まれただけで、大事なことはいつも姉任せである。
時の砂が泥のように重い。
いつになったら、この重苦しい空気から抜け出せるのか。
レモンは悩みに悩み抜いた末、
「……わかった」
シルスターの手をとることにした。
後者だけはあり得ない。
事情を話せば、自警団の面々も理解してくれるだろう。仕方がなかったのだ。魔法も権力も何もかもが及ばない。
ポーション事件のときだって、最後にはオルテナも許してくれた。今優先すべきは、いじめられっ子とクソ生意気な妹の安全だった。
たった一度、屈辱に耐えればいいだけのこと。この場を切り抜けるためだけの口約束なんて、あとで破ればいい。
はっ、ざまあみろ!
レモンは胸の内で毒づくことで、心を静めていた。
「それで良い。なに、いい働きを見せれば報奨ぐらいはくれてやろう」
……本当は死ぬほど嫌だった。王都の成金にだけは頭を下げたくなかった。それでも下手に出なければいけない。レモンは姉だから、下の子を守らないといけなかった。
「主らは賢明じゃ。あの腰抜けの下に置くのは惜しい。余がもっと上手く使ってやろう」
「……ああ」
うつむき、あきらめ、そして全てを受け容れる――つもりだった。最後の最後、シルスターがバカなことさえ口走らなければ。
五指を丸める。握手ができぬように。
レモンは、固めた拳を真っ赤な激情とともに叩きつける。
「そうかい――ッ!」
【噴火】
拳から噴き出す炎に押され、シルスターが芝を削りながら後退する。やがて小さくなった人影は炎のなかに消えた。
「やばいよやばいよ。それはさすがにやばいよ、お姉ちゃん!」
「うっせ! やっぱ私がおとり役になるから、お前は先行ってろ。こいつには、一発くれてやらねえと気が済まねー!」
もうもうとした白煙が晴れる。煙のなかから現れたシルスターの前には、熱を帯びた【銀の盾】が張られていた。
「……それが答えか」
「ああ、そうだよ! お前ごときが私たちを上手く扱える? 笑わせんな! 言っとくけど、私たちのサボり魔具合は半端じゃねえぞ!」
百歩譲って自分たちのことはいい。だが、愛すべきあのバカ……オルテナに対する侮辱だけは許せなかった。
「私たちのことを上手く扱えるのは、後にも先にも団長だけだし」
「抜かしたな畜生」
シルスターのこめかみに青筋が立った。格下が調子づいているだけでも腹立たしいというのに、その格下が言うのだ。お前は畜生どもの頭より劣っているのだ、と。
「大人しく従っていれば、おこぼれに与れたものを」
「いらねーよ。悪趣味な成金の施しなんてよー」
どれだけの施しを受けようと双子の心は満たされない。なぜなら二人が本当に欲しいものは、いくら金を積んでも手に入らないものだから。
「代りにこれでもくれてやらあ!」
もう一丁、と放たれた【噴火】はあっさりとかわされた。ほとばしる赤い炎と逆走するようにシルスターが突撃した。
「げっ!」
「なら余もお返しにくれて――」
せっかく【噴火】で空けた距離すら一瞬でゼロにする。シルスターはさんざ自分のことをバカにした畜生に肉薄し、
「……がっ!」
剣を振り下ろす――よりも早く、ふたたび真っ赤な炎に包まれる。
姉を餌にした、オペレーションB。
ライムの【噴火】が炸裂した。
これぞ双子特有の畜生コンビネーション。【羽衣】の上からとはいえ、今度こそ捉えた。炎の勢いに押されたシルスターが芝の上を転げた。
「やれやれ。やっぱりお姉ちゃんは、私がいないとダメだね」
「いいとこ取りかー! でも許すし」
こうなったら、行き着く先までいってやる。
すかさず追い撃ちをかけようとすると、斜め向かいから物音がした。
敏感に察知した双子が目にしたのは、脱兎のごとく走りだす少女――髪を下ろしていじめられっ子を演じていた、イルゼだった。
「にゃろう。いじめられっ子までグルかよ」
「いいじゃんいいじゃん、あんな小物なんてほっとけばさ。それよりも問題なのは……あいつでしょ」
千載一遇の好機を逃したのは惜しいが……果たして追い撃ちをかけられたとして、どれほどの効果が期待できただろう。
ゆらり、と。
陽炎のように揺れる銀色の魔力が、彼女を包んでいた。
燃える服を脱ぎ捨て、【羽衣】を着直す。シルスターの美しい面差しは薄っすらと雨に濡れ、怒りで歪んでいた。
「……畜生風情が、本気で余に敵うとでも思っておるのか」
真正面からの【噴火】を受けて、なお無傷。
根本的なスペックがまるで違う才女を前にして、
「勝てるし。ギャンブラーってのは、いつだってそう思って打つもんだろ?」
レモンは笑う。
辛いときや苦しいときこそ、笑うもんだ。
あの人なら、きっとそう言うに違いないから。
何の前触れもなく、双子は左右に弾け飛ぶ。
「チャーシュー一丁――ッ!」
「ニラモヤシ一丁――ッ!」
【噴火】×【噴火】
シルスターに迫る十字砲火が雨を灼いた。
◆
袈裟に斬る【銀の剣】を難なくかわすと、
「ていっ!」
マイアはお返しに【呪術弾】を放った。腹を撃たれた女生徒は、唸りながら石畳に落ちる。相手はシルスターとは比べるべくもない凡百の使い手だった。
「きりがねーです」
一棟、二棟……そして、進むこと三棟目。
女学院で起きている異変に気づいたマイアたちは、三号棟の裏手にいた。双子と連絡を取ったまでは良かったが、そこから先は災難続きだった。
数分の時を置いて、それは唐突に起きた。
喧嘩に、狂言、挙句の果てには吹き逃げまで。ありとあらゆる悪意が津波のように押し寄せてきたのだ。マイアたちは慌てて部室から飛び出し、片っ端から揉めごとに介入したが、それでも追いつかない。
そこかしこから上がる女生徒の悲鳴も。
自警団を嘲笑うかのように吹き鳴らされるオカリナの音も。
何もかもが止まない。
「……人の善意を信じてつくった物なのに」
伝令ちゃんの悲しげな声が胸を刺すが、感傷に浸っている暇はない。オルテナがいない今、自警団の頭はマイアが張るしかなかった。
「急ぐですよ。助けを待ってる人がいるです」
マイアは動いて考える。それが後手に回っている証拠なのだと知っていても、彼女にできることはそれしかなかった。
「いきなり何すんのよ――ッ!」
「誰か早く……友達が倒れてるの!」
「まだなの? 自警団の方々はどこにいますの!」
怒号が、悲鳴が、一つ上がるたびに、マイアの焦りは増す。
どこから向かうべきか?
怪我人の手当を求める声を優先すべきか。
いや、それだって虚言かもしれない。
信じるべきものはなにか。
疑うべきものはなにか。
マイアの頭はすでにパンク寸前だった。
「……マイア」
足が止まるマイアを、伝令ちゃんは不安げにみつめる。
こんなときこそ堂々とした態度で振る舞わなければいけないのに。できない……やっぱり、あの人みたいには振る舞えない。
と、混乱の真っ只なかにいるマイアの内ポケットが震える。
とっさに取り出した魔法石に表示された名は、レモン=レッドラム。
マイアは縋るような思いで着信に応じる。
「レモン!」
『誰じゃ、其奴は?』
マイアは青ざめ、魔法石を落としかけるほどに動揺した。
「どうして……貴方が」
『察しが悪いな。少し頭をひねれば、わかることであろう』
「レモンは! ライムはどうしたです!?」
『さあな。教えてやる義理はないが……主の滑稽さに免じて、一つ面白いことを教えてやろう』
ロクなことを話さないと知っていても抗いがたい魅力がある。悪魔の声は、マイアの耳を捕らえて離さなかった。
『主は何度もコールがあったことに気づいておったか?』
「……っ!」
気づいていなかった。
目の前の問題に対処することに手一杯で、全く。
この状況を伝えようと、レモンが密かに鳴らし続けていた魔法石が、マイアに繋がることはなかった。
『あの畜生どもは、主が来ることを最後まで信じていたというのに。どうやらあやつらは、頼る相手を間違えたようじゃな』
「最後って! ちょっ、答えろです!」
『答えるわけがなかろう』
ブチリ、と無慈悲な切断音が響く。
マイアは必死に掛け直したが繋がらない。先手を打って、シルスターが魔法石をオフモードに切り替えていたのだ。
だらりと落ちたマイアの手から、魔法石が石畳に落ちた。
「どうして……こんなことに」
昨日まで平穏だった日々が崩れ落ちていく。
本当に? それは平穏な日々だったのだろうか?
一つ一つは取るに足らなくても、心がざわつくようなことが何度もあったではないか。この騒動は、本当は……未然に防げたものではなかったのか。
――任せろです。団長なんて居なくたって、問題ねーです。
そう自信満々に応えた自分がバカみたいだ。
みたいだ、ではない。バカそのものだ。
どこか喧騒が遠くに聞こえる。視界が滲んで、そのまま見えなくなってしまえばいいのになんて、自暴自棄なことすら考えてしまう。
「こら、何をしている!」
騒動を聞きつけた教師たちが次々と駆けつけてくるが、いかんせん若手の数が足りない。年配の教師が束になったところで暴れる魔法少女を御せるわけがなかった。
「こんなときに若手は何やってるの!」
「えっと、中間考査に向けて黙々とガリ版を刷ってるものかと……」
「バカ! さっさと呼んできなさい!」
校内放送が鳴らないのも、先んじて妨害しているからこそ。全ては突発的に見えて計画的な犯行なのだ。シルスターは、マイアよりも一手も二手も先を読んでいた。
「……行かなきゃ、マイア」
「わかってるです。そんなことは――ッ!」
八つ当たり気味なことも、理不尽なことも自覚していた。
「でも……どうしたらいいか、わからねーです」
マイアの頭のなかはぐちゃぐちゃだった。
腕を通した腕章が、その双肩にかかる責任が、重い。
大して感謝されることもなければさして得をすることもない。それでも不甲斐なければ文句が飛んでくるような損な役回りを、どうしてあの人は笑ってこなせるのだ。
こんなに重いものを、どうして平然と腕に巻きつけていられるのだ。
逆立ちしたって、どうしたって、私はあの人には――。
「どこにも居ないと思ったら、こんなところに隠れていたのか」
けぶる雨が見せた幻なのかと思ったが、違う。
外ハネした茶髪に、トレードマークの耳あて付き帽子。何よりこの窮地においても変わらぬ凛々しい顔つきを、マイアが見間違える訳がなかった。
銀河系まで探したって見つかりっこない、マイアにとっての一番の美少女。
オルテナ=シルフィード。
押しも押されもせぬ無敵の生徒会長にして、自警団の長でもある先輩が曲がり角から颯爽と姿を現した。
「……団長ぉ」
「どうした? 泣きそうな声なんか出して」
「ひっぐ……済まねーです。せっかく団長が信じて預けてくれたのに、私……全然期待に応えられなくて、この体たらくで。こんなこと……私には言う資格なんてねーですが」
下唇を噛んでも嗚咽は止まらない。悔しさを滲ませた涙声でマイアは訴える。
「……助けて下さい、団長ぉ」
応えるよりも早く手が動いていた。オルテナはマイアの黒髪を優しく撫でつける。苦悩や後悔、様々なものを乗せた手は、次いで後輩の腕から腕章を抜いた。
右腕には生徒会長の証を、空いていた左腕には団長の証を。ダブル腕章を巻いたオルテナは胸を張って言う。
ただ一言、
「任せろ」――と。
それ以上の言葉は要らない。その言葉が鉛のように重ければ、その言葉に漲る自信が乗れば、それで事足りる。
マイアと伝令ちゃんの顔から、すうっと焦りの色が消えていく。不思議なものだ。依然として旗色は悪いというのに、二人は今、安堵さえ覚えていた。
凛々しく、頼もしく……そして何よりも美しい。
オルテナに見惚れていた後輩コンビは、はっとする。
「って、長々と立ち話してる場合じゃねーです!」
「急報! 急ほーう! 乙女のオカリナを妄りに吹いて、女学院の治安を荒らす者、多数! ご指示を下さい団長!」
「ああ、それなら行きがけに半分ほど鎮圧してきた」
「……っ!」
なんてことないように言うものだから、後輩コンビは絶句する。いつの間にか女学院を包む喧騒のボリュームが落ちていた。
それは7号棟の講義から抜け出し、飛び出してきた才女の足跡を示すように。オルテナが歩いて来た道には、ただ静寂だけが落ちていた。
「一応、連絡がつく者には助力を求めておいた。これだけ大規模な騒動ともなると、人手が足りなくなるのは目に見えていたからな」
人出が足りないなんて、どの口が言うのか。二人は唖然たる面持ちで固まっていたが、オルテナは構わず続けた。
「マイアと伝令ちゃんは、このまま上がれ。責は私が負う。多少荒っぽくなっても構わん。目に映る全ての揉めごとを鎮圧しろ」
「えっと……それでは、セレナ通りが手薄になるのでは」
「逆だ。よく考えろ、マイア。じきに若手の教師たちも来る。教育棟が立ち並ぶここより、人気が少ない離れの方が危険だ。それに……」
帽子を目深に被り、コキリと首を鳴らす。足の腱を伸ばすオルテナは、すでに先を見据えていた。
「安心しろ、私がいる。こっちは端から片付けてやる」
「待って下さい!」
マイアが慌てて叫ぶ。
今まさに飛び出そうとしていたオルテナの足が止まった。
「どうした、まだ言い足りないことでも?」
「レモンが……ライムがっ!」
しどろもどろになりながらも、マイアは早口で双子の行方が知れないことを伝える。全てを聴き終えたオルテナは「ふむ」と相槌を打った。
「状況はわかった。それじゃあ、あいつらと通話したときのことを教えてくれ。魔法石からは何か特徴的な音は拾えなかったか?」
「……いえ、なにも。周囲の人の声すら聞こえなかったです」
言い終えてからマイアは、はたと気づく。人気がなく、7号棟から1kmほど離れている、この条件と合致する場所は……。
「運動施設のブロックだな。巡回ルートと照らし合わせても、辻褄が合う」
マイアの憶測を裏付けるように、オルテナが明言した。
「どの道、やることに変わりはなさそうだな。一直線に下って、この馬鹿げた騒動を収めるまでさ」
「ちょっ、団長!」
「今度はなんだい? 双子のことが心配なのはわかるが、あまり気を揉むな。あの阿呆どもが簡単にやられると思うか?」
双子のことが心配でないといえば嘘になる。でも、マイアが本当に心配していたのは。
「……お気をつけて下さい」
「ありがとう」
オルテナは白い歯を見せると背を向ける。不安げに見つめるマイアも、敬礼する伝令ちゃんも置き去りにして、3号棟の裏手から飛び出した。
◆
低く疾く。
極端な前傾姿勢を維持したまま、オルテナはしなやかな足を回す。
敷き詰めた白い石の欠片が弾ける。
足を一歩出すごとに石畳を踏み砕き、砕いた端から補修する。
【整地】――オルテナは、地属性の魔法少女が初歩の初歩として習うこの魔法が大の得意だった。
別段この魔法を熱心に練習した覚えはないが、ただ必要にかられて何度も唱えている内に得意になってしまったのだ。オルテナが本気で走るには、この国の石畳はあまりに脆すぎた。
セレナ像が立つ目抜き通り――通称セレナ通りを単身駆け抜ける。
手で足で、必要とあれば魔法も交えて。
オルテナは揉め事を起こす女生徒を見つけた端から鎮圧した。
オルテナの姿を認めたときには、すでにそこに揉め事の跡はなく、女生徒たちは遅れて生徒会長万歳、団長万歳を唱和する。
数秒の間を置いて、今度は数百メートル先からドゴンと轟音が鳴る。石畳を突き破って伸びる【蜂鳥の彫刻柱】が女生徒を打ち上げていた。
生徒会長万歳、団長万歳。
またも遅れて女生徒たちがオルテナを賞賛した。
女傑が集うこの学校を治めるには人徳だけでは足りない。平穏を守るためには腕っぷしが求められることを、オルテナはよく知っていた。
取りこぼし、怪我人。気にし出せば切りがないそれらを、歯噛みしながら切り捨てた。最優先すべきは、この混乱した空気を払拭すること。オルテナが絶対の存在感を示せば示すほどに、女生徒の士気は上がった。
軍隊どころか烏合の衆ですらなかった魔法少女の卵たちが、立ち上がる。オルテナの後に続けとばかりに自発的に動き出したのだ。
腕っぷしが強い者は率先して揉めごとに介入し、腕っぷしが弱い者はそれでも何かできることがないかと周囲に目を配り、怪我を負った女生徒を保護した。
誰も彼もが善行に走ったわけではないが、数人に一人でもそのような意識を持ってくれれば十分だ。オルテナは安心して前に進める。
この女学院は強い。これしきの悪意に晒されたところで、膝を屈することはない。そう信じることができた。
ただ一つ気がかりなことがあるとすれば、レッドラム姉妹のことだ。
後輩の手前強がってみたものの、あの双子のことが心配でたまらない。昔から心配ばかりかける幼馴染なのだ。
(……大丈夫だよな)
オルテナほどではないとはいえ、森育ちの双子は健脚を誇る。逃げに徹した双子を捕まえるのは、オルテナといえども骨が折れるほどだ。
願わくは、あの不真面目な双子が真面目に仕事していないように。オルテナは祈るような気持ちでセレナ通りを飛ばした。
やがて女生徒が集中する通りを抜けたオルテナは、運動施設が並ぶブロックに到達する。運動部員が居ないこともあって、この一帯はやけに静まり返っていた。
しとしと降る雨だけが世界を満たしていた。夏に向かって日が長くなっているのだろうが、全く実感が沸かない。黒く分厚い雲が覆う空はあまりに暗かった。
「…………」
オルテナが足を緩めたのは疲れたからではない。
逸る心よりも警戒心が先立ったからだ。
……いる。
雨に混じる鉄の匂いが鼻を突いた。どんどん濃厚になる匂いの元を辿るように、オルテナは慎重に足を進めた。
森育ちのオルテナは鼻が利く。錬金術士特有の魔力の匂いこそするものの、双子の魔力の匂いはしない。きっとあの双子は上手いことやったのだろう。
運動施設は敷地の外れにあることもあって、少し足を伸ばせば雑木林に紛れることができる。あの双子が森林で捕まえるものか、とオルテナは自分に言い聞かせた。
程なくしてテニスコートに差し掛かる。ここには誰もいなかった。吸水したグラスコートが、新緑から深緑へと薄汚れていた。
問題なしと判断してオルテナは先を急ぐ。
続いて広がる場景は、400メートルトラックを完備した陸上競技場。やはりここにも運動部の部員はいなかったが、
「……っ!」
400メートルトラックが描く楕円の内に広がるサッカーコートのさらに真ん中。センターサークルには、三人の人影が見えた。
森育ちのオルテナは鼻だけでなく目も良い。だが、良すぎると見たくもない現実まで目に入ってくることがままある。
こちらに気づいた銀髪の女生徒が、口元を三日月に歪めた。彼女の嗜虐心を象徴するかのような刺々しい銀の長髪を濡れた風が揺らす。
シルスターの足元には……オルテナの幼馴染が横たわっていた。
「様……っ!」
オルテナのことを次姉のように慕い、小さいころからよちよち歩きで付いてくるような幼馴染の双子が。
しょっちゅう迷惑をかけられても不思議と嫌いになれない存在が。よせと言ったのに、後を追って女学院に来てしまうような気のいい阿呆どもが。
どうして濡れた芝生の上に横たわっている。魔力の匂いがしないほどに打ちのめされて、ボロ雑巾のようになっているのだ。
「貴様あああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」
オルテナの理性のタガは一瞬で外れた。煮えたぎる感情をほとばしらせながらシルスターの元へと突撃する。踏み荒らした芝生を置き去りにして、一秒でも早く。
怒りで曇るオルテナの瞳に後先は見えていなかった。
後先を見ていたのは、
「――ッ!?」
【銀の剣】に打たれ、冷たい雨に打たれ、それでも芝生を這う双子だった。シルスターに急迫するオルテナの足が止まる。
遅々とした動きで、双子はようやくオルテナの足元に辿り着く。レモンが右で、ライムが左。オルテナの行く手を阻むように、双子は両の足首を掴んだ。
「約束だろ……団長は手ぇ出すなし」
「そうそう……約束破ったら罰金刑だよ」
焦点の合わない目で、双子はオルテナを見上げる。雨と千切れた芝にまみれた双子は、本当に汚い笑顔を浮かべていた。
「……お前ら」
オルテナは怒りと苦悩にまみれた顔で立ち尽くす。振りほどこうと思えば訳ないが、約束を反故にはできなかった。
オルテナはフウフウと息を荒げる。
血走った目を向けても、シルスターは平然としていた。
「もうよいか? 下らぬ芝居に付き合うほど余の時間は安くない」
小雨のなかに【銀の剣】を溶かす。手を出せないことを確信した時点で、剣は無用だ。シルスターは挑発の意を込めて【羽衣】まで脱いでみせた。
「馬鹿な奴らじゃ。さっさと逃げ出せばいいものを、主の名前を出したら猪のように突っ込んできおった。やはり畜生はオツムが弱いと見えるな」
オルテナのしぼみかけた闘志が再び燃え盛る。その徴候を読み取ったレモンが、機先を制して叫んだ。
「オルテナァァ――ッ!」
オルテナは怒りで打ち震えながらも思い留まる。レモンの叫声がなければ、拳と魔法が飛んでいるところだった。
「どうした? 随分と苦しそうな顔して。我慢は体に毒だぞ」
シルスターは喜々として体を寄せる。いくら無敵の生徒会長といえども、無抵抗ならば恐れるに足りない。
白銀の軽鎧に押し込まれ、オルテナの形の良い胸が潰れた。吐けば息がかかる位置、手を伸ばせば届く距離に、横っ面を引っ叩きたい女がいた。
「ほれ、どうした? 遠慮するな。余のことが憎かろう。怒りに任せて叩いてしまえば良いではないか? んー?」
シルスターは頬を差し出したが、オルテナは手を挙げなかった。爪が刺さるほどに拳を固めて、この上ない屈辱に耐え抜いてみせた。
シルスターはつまらなそうに吐息をこぼし、
「……はん」
熱い手のひらを浴びせてきた。魔法で強化された平手は、いともたやすくオルテナを横倒しにした。
「そんなに夢が惜しいか、卑しい畜生めっ!」
シルスターの蹴りが腹に刺さる。オルテナが顔を歪めると、とっさに双子が庇いに入ったが、銀の女帝は情けという単語を知らない。
「ええい、邪魔じゃあ!」
虫の息の双子を蹴り散らすと、シルスターは標的を戻す。何かに取り憑かれたかのように、一心不乱にオルテナを蹴りつけた。
「主のような者がっ!」
蹴る。
「本当にっ!」
蹴る。
「正規の魔法少女に成れるとでも思っておるのかっ!」
ただただ蹴りつけ吐き散らす。
選考会を控えた三年生が問題を起こすということが何を意味するか、両者ともに知っていた。
だからシルスターは蹴る。オルテナは無抵抗で蹴られる。
「どうしたっ! 腰抜けっ! さっさとっ! 手を出せっ!」
森育ちの者が名家……ましてや御三家の者に手を挙げれば、ただでは済まない。夢を奪われるどころか、最悪その場で素っ首を叩き落とされることもあり得る。それほどまでに貴族の命は重く、森育ちの命は軽い。
そんな、どうしようもない格差を是正しようと森を出た少女の前に立ちはだかったのは、やはり格差の壁だった。
「……もう良い」
シルスターは苛立たしげに吐き捨てる。どれだけ挑発しても反撃をする気を起こさない、亀のように縮こまるオルテナの相手をするのも疲れた。
銀の女帝は目を移す。黄玉の瞳から伸びる視線の先には、二人仲良く並んで気絶する双子がいた。
「……おい、待て。何をする気だ」
ゼイゼイと荒い息を吐きながらオルテナが問うと、
「畜生どもの首を落とす」
シルスターは挨拶をする気軽さで返した。
「本当なら主のが欲しかったが、こやつらので我慢してやろう。余に手を挙げた蛮勇を讃えて、セレナ通りに首を晒してくれよう」
「待て……っ! お願いだから、待ってくれ!」
なりふり構わずオルテナは匍匐前進する。地を砕く健脚も、いつもの凛々しい顔つきも見る影がなかった。
シルスターは嗜虐的な笑みを深め、右の手に【銀の剣】を握る。業も構えもない処刑人の刃が、緩慢な動きで掲げられていく。
「ならぬ。余に歯向かったことを畜生地獄で悔いるが良い」
ゆっくり……ゆっくりと掲げられた刃はやがて頭上に達し、
「頼む……お願いだからっ!」
オルテナの懇願を無視して落ちる。
「やめてくれええええええええええええええええええええええええ――ッ!」
数メートル先が遥かに遠い。手を伸ばしたオルテナが見たものは、すでに右手を振り下ろしたシルスターの姿だった。
双子の首は……、
「あははははっ! なんじゃその顔は!」
――繋がっていた。
今まさに首に刃先が触れる瞬間、シルスターが【銀の剣】を引っ込めたのだ。この程度の芸当は、彼女の腕をもってすれば朝飯前だった。
シルスターは狂ったように笑う。
おかしくて、楽しくて。
冷や汗まみれのオルテナを見ていると胸が高鳴る。威風堂々という言葉を体現したかのような、あの生徒会長が狼狽えている。それがたまらなく嬉しかった。
シルスターは玩具を取っ替え引っ替えする子供のように、今度はオルテナの元に向かった。しゃがむと、地に伏せるオルテナの頭を乱暴に掴み上げ、緑の地面へ叩き落とす。
「犬っころが……ようやく余の怖さがわかったか」
シルスターの悪行は終わらない。バスケットボールをドリブルするような手つきで、何度も何度もオルテナの頭を叩きつけた。
「余がその気ならっ! 主らの処遇などっ! どうとでもできるのじゃっ!」
唇が切れる。学校一の凛々しい顔には汚れた芝が張り付き、割れた額からは血が流れたが、シルスターはお構いなしだった。
「なんじゃ、その反抗的な目つきは? 余がその気なら大森林を焼き払うことだってできるのじゃぞ。燃えるぞ? 主のせいで故郷が燃えるぞ?」
「違っ! 私はそんな目などしていない!」
「んー? 余は弁解など聞いておらぬ。犬は悪いことをしたとき、どう謝らねばいけないのかも知らぬのか」
「……ごめんなさい」
「それじゃ――ッ! なぜ最初からそれができぬ」
地面にキスをさせただけでは飽き足らない。茶髪を絡ませた女帝の手は、オルテナの頭をねじり地面に押し付ける。
「頭が高いわ! もっと……もっと頭を下げろ。それこそ頭が地面にめり込むほどになっ! そして寛大な余に感謝するがよい。ほら、どうした? 感謝の言葉はっ!」
「……ありがとう……ございます……っ!」
「どういたしまして、なの、じゃ――ッ!」
一際強く頭を叩きつけると、シルスターは立ち上がる。双子を餌にした釣りも成功したし、犬と戯れるのもいささか飽いた。ゆえに帰る。銀の女帝はわがままなのだ。
「……それが君の……名家に生まれた者の掲げる正義か?」
問いかけられて振り返る。見れば、この期に及んで口の減らないオルテナが倒れ伏したまま真っ赤な唇を開いていた。
「正義?」
難癖をつけて傷めつけることもできた。だが、シルスターはそうはしなかった。頭を叩きつけるより、この女には現実を叩きつけてやりたくなった。
「随分と難しい言葉を知っておるな……だが忘れて結構。それは上に立つ者だけが知っていればいい言葉じゃ」
それは豪奢な邸宅で開かれる社交界。自慢のドレスで着飾り、飲み飽きた美酒を煽り、料理を口にしては専属の料理人の腕前と比べて。
やれ最近の政治はどうだ、やれ事業の調子がどうだと語る連中が保持しているもの。シルスターはとっての正義とは、そんなものだった。
「犬に正義はない」
生まれながらにして知っている常識――シルスターが口にした至極当然な言葉は、この日一番にオルテナの心を傷つけた。
痛みの塊が胸のなかを暴れまわっているかのようだ。痛い、痛くてたまらないのに、オルテナには不平不満を口にすることすら許されなかった。
この怒りをぶつけることも、この胸を抉る痛みを分かつことも叶わぬというならば、オルテナは天に叫ぶほかなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」
どうして生まれだけでこれだけの不遇を、屈辱を味わわなければならないのか。オルテナは天上に問うたが返答はない。負け犬の慟哭は黒く分厚い雨雲の前に阻まれた。
オルテナがもだえ苦しむ姿は手負いの獣そのもので、
「カカカッ。ついに本性を表したか犬め」
オルテナを獣だと信じて疑わないシルスターはいたく満足した。大気を震わす慟哭を背中に感じながら、銀の女帝はこの場をあとにする。
「……あと四本」
無意識にカウントダウンを刻んでしまうほどに待ち遠しい。女学院崩壊のときは、直ぐそこまで迫っていた。




