第95話 ココロコンパス
1-Fに向かう途中。
ヒヒーン、と馬のいななきが聞こえた。
また連れて来ている、と命は嘆息する。
今日もシルスターが愛馬のファルシオンを連れて来たようだ。
エレベーターも備え付けられていない白亜の城の3階までどうやって馬を運ぶのか、なんて思ったりもしたが、答えは至ってシンプルだった。
魔法の力でチチンプイプイ。力尽くで3階まで運ぶのである。
……バカだ、バカがいるぞ。
この話を聞いたとき命は、シルスターがバカ殿呼ばわりされる理由の一端を知った気がした。
白馬がいる日常にも慣れた命は、動じることなく階段を登り切る。そのまま廊下を歩いて教室に差しかかったところで、足を止めた。
(……何でしょうか?)
教室の前に人集りができている。
背が低い……もとい背が控えめな命には全容は掴めないが、何やら言い争うような怒号が飛んでいた。
「ふざけんなヨ! 人のこと突き飛ばしておいて、謝罪の一言もないのカ!」
「謝罪? なぜ余が謝らねばならぬのじゃ」
命は思わず「……うわっ」と漏らした。
一聴しただけで誰だか判る。どうやら人集りの中心では、紅花がシルスターに食ってかかっているようだ。西の女帝と東の后の争いと言えば綺麗な響きだが、要は怪獣大戦争の前触れである。
小市民としては火の粉は避けたいが情報は欲しい。命は辺りを見回して、人垣のなかでも一際大きな背中に近付いた。
「コメリン、コメリン。これはどうしたのですか?」
「おおっ、八坂。あのなあ、大変なんだあ」
緊張があるのかないのか、ドドスがのんびりした口調で応える。
「勝手にファルシオンに触ってたとかで、シルスターが小喬を突き飛ばして」
「小喬さんを?」
スカートの裾を押さえて、命はピョンと跳ねる。一瞬ではあったが、確かに小喬の姿が見えた。小喬は腕にしがみついて、いきり立つ紅花を押さえていた。
「いいって、紅花。私は大丈夫だから」
「お前は黙ってるヨ――ッ! 正しい方が泣き寝入りするなんて間違ってるネ!」
「無礼な。まるで余が悪いような口ぶりじゃな」
「お前がちゃんと馬を繋いでおかないのがいけないネ! 小喬はただ危ないからロープを繋ぎ直してだけヨ。つーか、学校に馬を連れてくる方が悪いに決まってるヨ!」
(超ド正論――ッ!)
痺れるほどにストレート。誰もが言えなかった根源的なツッコミが炸裂したことに命は感動すら覚えたが、その正論は火に油だった。
「下郎が……余に意見するか」
人集りを抜けてなお香る濃厚な銀の魔力が、肌を撫でる。ゾワリと命は鳥肌が立つのを感じた。シルスターが【銀の剣】を抜いたのだ。
「それで黙ると思ったら、大間違いヨ――ッ!」
紅花が【方天戟】を構える。微かだが黒い魔力の匂いが命にも嗅ぎ取れた。
「いいぞー、やれやれ!」
「おい、誰か賭けようぜ。あたしはシルスターな!」
「よせよ。誰も紅花になんか賭けねーよ」
下卑た笑い声が起きる。シルスターの取り巻きが無責任に二人を煽った。
「余が勝つ方に全財産」とシルスターが不敵に笑えば、「いいのか? お前の愛馬が馬刺しになるヨ?」と紅花が挑発し返す。
【銀の剣】と【方天戟】がヒュンヒュンと風を切る。今すぐに剣戟でもおっぱじめそうな二人だが、紅花の腕には小喬が抱きついていた。
「邪魔ヨ。さっさと離すネ!」
「……紅花に」
「何ヨ?」
「紅花にお小遣い全部――ッ!」
「よく言ったヨ――ッ!」
最後に油をぶち込んだのは、意外にも小喬だった。小喬が腕を離すと同時に、紅花の手元がブレた。
瞬間、前方に黒い穴が空いた。
シルスターがかわした突きは後ろに流れ、
「わ――っ!」
取り巻き一人の前髪を切る。【羽衣】を着る暇もなかった。彼女の顔からは見る間に血の気が引いていった。
「あーあー、調子に乗って煽るから」
イルゼが何の感慨もなさそうな声でつぶやくと、パニックが起きた。人集りを作っていた女生徒たちが我先にと逃げ出したのだ。
きゃあきゃあと悲鳴があがる。色とりどりの【羽衣】を着た女生徒たちが1-Fの教室から離れていくなか、命は立ち尽くしていた。
「きゃあ!」
人波にのまれた小さな少女が転んだ。那須だ。周りが見えてない女生徒たちが何度か那須を踏んでいった。
那須はうつ伏せになったまま動かない。怪我の具合も気になるが、何よりも場所が悪い。下手をすると巻き添えを食う位置だ。
ドクン、と命の心臓が一際大きな音を立てた。
目の前では速射砲のように飛ぶ突きを【銀の剣】が捌いていた。
……また逃げるのか?
誰かが心のなかでそう言っている気がした。
教室のなかと外との違いはあるが、この状況はマグナとシルスターが喧嘩したときの状況と酷似していた。
「ど、どうしよお~、八坂!」
ドドスがバンバンと肩を叩いてきたが、命は気にもならなかった。
逃げる? 助ける?
今、目の前にある二つの選択肢が頭のなかをグルグルと回る。
焦燥感にかられる命の横を、イルゼが緩い足取りで通り過ぎる。那須を無視したイルゼは、去り際に命の耳もとで囁いた。
「やめとけよ。お前には何もできねーよ」
……心のなかで何かが着火した。
気づけば命は【羽衣】を着ていた。
「離れていて下さい」
ドドスにそう言い残すと、命は危険地帯に飛び出した。加害者の一味の癖に。見て見ぬふりした癖に。そんな人に言われたくなかった。
シルスターに歯向かうわけではない。逃げ遅れた子を助けるだけだ。それぐらいのことなら私にだってできる。己にそう言い聞かせ、黒髪の乙女は駆ける。
「命ちゃん!」
命の接近に気づくと、うつ伏せだった那須がパアッと顔を輝かせる。ついこぼれた喜びの声が、戦況に大きな変化をもたらした。
「……ッ!」
頭に血が上っていた紅花の槍に迷いが生じる。シルスターが、那須の伏せるライン上に立ち位置をずらしていた。
シルスターの突進を恐れるあまり、槍を長くし過ぎた。紅花はとっさに槍を止めるも、その一瞬は致命的な隙だった。
「紅花っ!」
小喬が悲鳴を上げる。
紅花が柄で打とうとするよりも早く、シルスターが剣の間合いに侵入した。
「余に……っ!」
――楯突いた報いじゃ!
絶対の破壊力を誇る【銀の剣】が走る。
やばい。命は反射的に【呪術弾】を装填するも間に合わず……那須を抱き上げると、横っ飛びする。
――直後、銀の横槍が飛んできた。
結果的に、命が飛び退く必要はなかったが、彼の動物的勘だけは正しかった。女侠と女騎士が衝突する絵画のように、紅花とシルスターは凍りついていた。
【白銀鳥の嘴】
二人の間を通り抜けた刺突が、廊下を曲がらずに壁を貫いた。
針の先ほどの穴は城壁の外まで続いている。しゅう、と対魔力レンガから煙が上がる。
廊下の端から端。
それは刺突と呼ぶよりも銃撃に近い。
「……何をしている」
怒気を孕んだ低い声が落ちる。
【銀の剣】を肩に担いだエリツキーが、大股でやってきた。
(や、やばいっ!)
命は、遅れて顕現した【呪術弾】を宙に散らす。シルスターに反逆の意思ありと見なされた日には、何もかもが終わりだ。
「どういうことか説明して貰おうか」
眉間にシワを寄せたエリツキーが詰め寄ると、当事者二人はめいめい勝手に言い分を口にした。
「余は悪くない。こやつが先に仕掛けてきたのじゃ」
「お前が小喬に手を出した所為ネ!」
左右から飛んでくる声を聞いていると、頭が痛くなる。エリツキーはどちらの肩も持たずに仲裁した。
「わかった、わかった。お前らの言い分はよーくわかった。続きは放課後にでも聞こう」
気を取り直して講義に移ろうとするも、教室はもぬけの殻。
厄介なクラスだとは知っていたが、ここまでとは……。エリツキーの頭はますます痛くなりそうだった。
「悪いな、ドドス。出て行った生徒を集めて来てくれ」
「お安い御用だあ〜!」
ドスンドスン、と重い足音を立ててドドスが遠ざかる。
「那須は……大丈夫か? 一人で歩けるか?」
「ちょっと腕が痛いですが……大丈夫です」
「そうか。なら一人で保健室にいけるな。怪我が酷いようなら今日は早退しろ」
「……はい」
命に礼を告げてから、那須も遠ざかる。本当に一人で大丈夫だろうか。後を追おうとするも、エリツキーの声が命の足を止めた。
「八坂と陳……お前らは講義の後に職員室に来い」
(……ですよねえ)
少なくとも、エリツキーには全てバレているようだった。命と小喬は顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
◆
雨音にフローリングを磨く音が混じる。
放課後……。
職員室で説教を受けた命と小喬は、罰として演舞場を掃除していた。
さすがに全階は大変である、とエリツキーは1階だけに負けてくれたが、それでも二人で掃除するには広い部屋だ。
「すみません。私の所為で巻き込んでしまったようで」
命は申し訳なさそうに謝る。
今回の罰は教室前の騒動がというより、命の日ごろの行いの悪さが災いした。事実、命と小喬が職員室で受けた説教の割合も9:1だった。
「ううん。私の所為でもあるし。それに私、掃除好きだから気にしないで」
その言葉に嘘がないことは、小喬の掃除っぷりを見ればわかる。
この子、かなりできるのでは……と、思った命の予感は的中した。
丁寧な掃き掃除。右に雑巾、左に濡れ雑巾を持つ二刀流スタイル。極めつけは、あの踊るようなモップさばきだ。優しい手つきで滑らかに、ついー、と滑るようにモップを引いていた。
「あとでワックス二度がけしますか?」と試すように問えば、「うーん……いいかな。業務用だし」と的確な回答を返す。小喬は黒髪の乙女もかたなしの掃除っぷりを発揮していた。
「今日の天気なら、乾くのはあと三十分ってとこかな。その間にもう半面も片付けちゃおうよ!」
小喬……恐ろしい子。命の顔は蒼白に変じていた。
「あれ? もしもーし……命ちゃん、帰って来て~」
「はっ! すみません。ちょっと遠いところにトリップしていました。それにしても見事な手際ですね。誰に習ったのですか?」
まさか乙女塾の門下生ではなかろうかと疑うも、そんな奇特な塾に通う同門生はいなかった。
「そうかな。実はこれ、部活の先輩に教えて貰ったの」
「部活?」
「うん、ボランティア部。学校の掃除したり、植え込みや花壇のお世話したりするの。楽しい部活だよ」
(えっ、なにこの人、天使なの?)
誰にでも別け隔てなく優しい子なので冗談交じりに1-Fの天使と呼ばれているが、本当に天上から落ちてきたのかもしれない。
「小喬さん、ちょっと回ってくれますか」
言われるがままに、小喬はその場で回った。
「背中にゴミでも付いてた?」
「いえ、背中に天使の羽根が生えているか確認したくて」
カッと頬を染めて、小喬はブンブンと腕を振った。
「もう! お世辞が上手いんだから。そんなに褒めてもウーロン茶とパイナップルクッキーしか出ないよ!」
(……出るんだ)
ナチュラルに水筒と手作りクッキーを持ち歩いている辺りが、小喬を天使たらしめる所以である。気を良くした天使は1.5倍速で残り半面を片付けると、本当にお茶と焼き菓子を勧めてきた。
特に断る理由もないのでお相伴にあずかると、これがまた絶品だった。甘い香りがする少し不揃いなクッキーもだが、特に命を驚かせたのは味わい深いウーロン茶だった。
「もしかしてこれ、茶葉を干すところから作ったのでは」
「すごい! よくわかるね!」
パチパチ、と小喬は顔の前で拍手する。
「と言っても、お茶の葉は買ってきたものだから、あんまり自慢できないかも」
「そんなことないですよ! 私も緑茶なら作ったことがあるのでわかります。いいですよね、お茶は。どれだけ手間暇かけたかが風味に現れますから」
ウーロン茶に挑戦したことはないが、緑茶よりも経る工程が多かったことは覚えていた。命が素直に賞賛を送ると、小喬は気恥ずかしそうだった。
「もう……命ちゃんは本当にお世辞が上手いなあ。でも、こういうのって良いね。紅花なんて、上手いか不味いぐらいしか言わないんだよ!」
つい誰かさんと重ねて苦笑してしまう。命の周りにも、上手いか不味いぐらいしか言わないコーヒー党がいる。
「それにしても、紅花ってば遅いなあ」
ピカピカに輝くフローリングの上。女の子座りした小喬は、たびたび出入り口に視線を送る。その横顔の乙女っぷりったらなかった。
どうやら命は本命を待つまでの暇つぶし相手のようだ。そう思うと虚しくもあるが、小喬の横顔を見ていると全て許せてしまう。
(小喬さんったら、魔性の乙女なのですから)
紅花のことが妬けてしまい、命はつい意地の悪いことを口にした。
「もしかしたら、今ごろ大目玉を食らっているのかもしれませんよ。何しろ手を出した相手が相手ですから」
「……かもね。でも、それならそれで良いと思うよ」
てっきり命は、紅花のことを心配すると思ったのに、返答はその真逆。ともすると、紅花に痛い目に遭って欲しいようにすら聞こえた。
「だって……紅花ってば、私が何度言っても危ないことするんだもん。今日だって私がいいって言ったのに、シルスターさんに突っかかっていくし」
(……えっ)
最後にけしかけたのは貴方ですよね、とは言えなかった。
母さましかり、リッカしかり。
女性というのは理不尽な生き物なのかもしれない、と命は薄々感じ始めていた。どれだけ頭が良い女性でも、理不尽さを内包している。
道理と理不尽という、本来混じり合うことがない水と油のようなものが、さも矛盾などないように同居しているのだ。
この奇跡的なバランスがときに女の子の愛らしさを生み出し、しょっちゅう男の子を振り回したりするのだから、たちが悪い。
「危ないことしないって約束してくれたけど、全然守ってないし!」
「そうなのですか」
「そうだよ! この前なんて雨降ってるのに洗濯物のこと無視してたし、信じられない!」
「……それはいけませんね」
「あっ、洗濯物で思い出したけど、紅花ってば脱いだら脱ぎっぱなしでね。何度言っても、脱いだ服をまとめてくれないの!」
「……えっと、それはひどいですねえ」
やばいと思ったが、逃げきれなかった。
どうやら小喬のなかで変なスイッチが入ったようだ。
「靴も脱いだら脱ぎっぱなしだし、たまに料理したと思ったら古い油あるのに新しい油出しちゃうし。ちょっと文句言ったら『せっかく作ってやったのに』って……私はもっと作ってるよ! 皿洗いも雑だし、お風呂は熱くし過ぎ! 私、前もあと2~3℃下げてって言ったよね――ッ!」
理不尽な言葉の嵐が命を襲う!
でね、紅花ってば、紅花ってば――。
火が付いた小喬は止まらない。
ああ、これは無理だな……と、命はあきらめた。
こうなったら、命にできることは相槌を打つことだけだ。同じ相槌を連続して使ってはいけない。私の話ちゃんと聞いてないでしょ、と責められるから。
『いや』や『でも』なんて返事はもってのほか。なによ私の味方じゃないの、とヒートアップするから。
これらの処世術は、命が乙女塾で学んだものではない。父さまの背中を見て学んだものである。ああ、素晴らしきかな、かかあ天下。
「もう紅花ってば! もう! もう!」
地団駄を踏んでから、小喬は用具室にすっ飛んでいった。何しに行ったのだろうと訝っていると、バスケットボールを抱えた小喬が戻ってきた。
「紅花の……ばかあああああああああああああああ――ッ!」
ズドオオオン、と。
地面に投げたバスケットボールが天井に突き刺さりそうな勢いで跳ね上がる。その衝撃たるや凄まじいもので、命は小喬の背中から天使の羽根が二、三枚抜け落ちたのではないかと思った。
小喬の荒い呼吸とバスケットボールが跳ねる音が続く。どう声をかけたらいいものか、命が逡巡している間に小喬の怒りは収まったようだ。
背中を向けていた小喬が向き直る。
穏やかさのなかにもどこか憂いを帯びた顔をしていた。
「……でもね、良いところも一杯あるの」
「知っていますよ。今日だって、小喬さんのこと助けてくれたじゃないですか」
「ううん。私だけじゃないよ。紅花はいつだってみんなのことを考えてくれる、とっても優しい子なの……ちょっと乱暴だけどね」
それも知っていたが、命は頷くに留めた。
今の1-Fはちょっとした緊張状態にある。シルスターが登校したことで、スクールカーストが大きく塗り替わったからだ。
初っ端からイルゼのグループを吸収したシルスターは、1-Fで最も権力を有する女生徒として君臨している。
初めこそシルスターを忌み嫌っていた連中も多くいたが、彼女たちが抱く嫌悪が恐怖に変わるまでには、そう多くの時間を要さなかった。
西洋系の魔法少女の多くはシルスターに与した。シルスターに擦り寄る者たちの本心は知れないが、彼女たちは銀の女帝のお膝元に入ることで難を逃れたのだ。
では、東洋系の魔法少女はどうしたのかといえば、彼女たちには選べる道がなかった。能力がある者は別だと豪語しているが、シルスターは基本的に東洋系の人種が嫌いだ。
余ほど光るものがなければ側には置いてくれないが、シルスターのお眼鏡にかなう人物などそうは居ない。
不要と判断された大半の東洋系は、いつの間にか教室の隅へ隅へと追いやられる存在になっていた。東西比率3:7という数の力も働いて、1-Fでは東洋系の魔法少女を軽んじる傾向が強まっていた。
折悪く、コートマッチという上下関係を決めるにはおあつらえ向きの決闘が始まりだしたこともこの流れに拍車をかけた。
西に白星つきゃ東に黒星つく。その度にシルスター一派は自信を深めるのだ。壁に張られた1-Fランキング表を見ては笑い、白星を数えては優越感に浸る。
私たちは強い……だから、弱い東洋系の魔法少女などどう扱っても良いのだ、と。
元より東洋系の魔法少女を毛嫌いしていた国の悪風が、内部進学生から外部入学生に染み渡っていくようだった。
1-Fは、とうにシルスターを頂点とした西洋系の魔法少女の楽園になっていてもおかしくはなかった。そう、彼女……紅花さえ居なければ。
東の后は、シルスターの横暴な振る舞いを黙って見ていなかった。東洋系では数少ない内部進学生にして篤い義侠心を持ち合わせる紅花は、事あるごとにシルスターに牽制を入れていた。
東洋系の魔法少女が貶されたとき。
東洋系の魔法少女が嘲笑われたとき。
東洋系の魔法少女が危険な目に遭ったとき。
紅花は例外なく牙を剝いた。
先に手を出した者を後悔させるほどに噛み付いた。
東洋系の魔法少女の誰もが黒星を付けていくなか、ただ一人、己が負けることを許さなかった。
他人に優しく己に厳しく、そんな東の后が叩き出したコートマッチの戦績は、圧巻の全勝。勝ち星の数でいえば、1-Fでも単独トップの位置に付けていた。
東洋の雄はここに有り――ッ! とばかりに紅花は己の存在を示す。そう、全てはこのクラスにいる同族を守るために……。
幾らマグナやエリツキーといった教師が抑止力になるといっても、いつも生徒の側に彼女たちがいるわけではない。
教師がいて、そして紅花がいるからこそ1-Fは均衡を保っていられる。紅花は今や、1-Fには無くてはならない東の支柱となっていた。
「私、怖いの。頑張れば頑張るほど、紅花が傷付いちゃうんじゃないかって。いつか取り返しの付かないことになっちゃうんじゃないかって不安になるの。ズルいよね……紅花には傷付いて欲しくないから、無茶しないでって言うのは」
「……小喬さん」
命は、何と声をかければいいかわからなかった。少なくとも、知ったような口を利く権利は自分にはないとすら思えた。
「なんてね! ごめんね、急に変な話して」
小喬は精一杯おどけているようだが、目元に薄っすらと浮かんだ涙を拭う仕草が見えては台無しだった。
「命ちゃんは無茶しちゃダメだよ?」
「私はしませんよ」
臆病者ですから、と命は胸の内で自嘲する。
小喬は疑わしげな目を命に向けていた。
「えー、本当かな? あのときだって【呪術弾】撃とうとしてたでしょ」
「うっ……見えていましたか」
胃がキリキリする。もしかしするとシルスターにも感づかれたのでは、と考えてみても詮無いことが頭に浮かぶ。
「あれはつい体が動いてしまっただけですよ」
「それが凄いことだと思うんだけどなあ。あのとき私、紅花が危ないってわかってたのに、悲鳴を上げることしかできなかったんだよ」
小喬は己を恥じ、ちょっとだけ瞑目した。あの、廊下の一直線上に並んだ紅花と命の姿が目に焼き付いていた。
「紅花と命ちゃんって、似てるよね」
急に何を言い出したのだろう。命は突拍子もない話題を疑問に思いながらも、紅花との共通点を探してみた。
「えっと……髪が黒いところと、背丈が似ていますかね」
プッ、と小喬が小さく噴き出した。
「あはは、ちょっと! それ紅花に言ったら怒られるよ~」
あと胸の薄さも似ている気がしたが、命は控えめな胸パッドの内にその言葉をしまった。コートマッチ1位さまに喧嘩を売るのは得策ではない。
「でも、あまり似ているところはないと思うのですが」
「そう? 私はとっても目が似てると思ってるんだけど」
「……お目目」
紅花はキツ目の美人といった印象を受ける少女だ。命は首をひねる。はて、私はツリ目がちだったろうか。そんな命の仕草がおかしかったのか、小喬はまた小さく噴き出した。
「違うよ。見た目じゃなくて、目の色って言ったらいいのかな。【呪術弾】を撃とうとしたときね、命ちゃん紅花と同じ目をしてたの」
「同じ目、ですか」
「うん。戦う人の目をしてたの。ああ、やっぱり私とは違うんだなって、そのときに思ったんだよね。命ちゃんも無茶しちゃいそうな気がしたの」
小喬は子供に、めっ、と言い聞かせるように人差し指を向ける。
「けど、だからって無茶しちゃダメだよ!」
小喬は本当に魔性の女なのだな、と命は確信した。理不尽と道理が水と油のように混じっている。無茶して欲しくないと訴える一方で、小喬の濡れた瞳は命に助けを求めているように映った。
「ええ、わかっていますよ」
そこまでわかっていながら、命は彼女の声の方に応えた。少しでも心が震えなかったといえば嘘になるが、危ない橋を渡る気にはなれなかった。
ごめんなさい……命は心中で小喬に謝った。
今は自分のことだけで手一杯なのだ。
「私はどちらかといえば、小喬さんに似ていますよ」
「また、そんなこと言っちゃって。紅花に告げ口しちゃうよ」
命の言葉を取り違えたのか、小喬はプクーっと頬を膨らました。どうやら自分で言う分には良いらしいが、他の人に紅花の悪口を言われるは嫌らしい。
「紅花にだって良いところ沢山あるんだよ。例えば……そう、これ」
ほあー、と気の抜けそうな叫び声とともに小喬が手足を動かす。
「八極拳が得意!」
(……ラジオ体操かと思いました)
少なくとも小喬は八極拳が得意ではないらしい。恐ろしく功夫を積んでないムーブメントであった。
「八極拳ってこんな感じじゃないのですか?」
命も頭のなかにあるイメージで八極拳もどきを披露する。とりあえず腕をくねらせるだけの酷い動きだが、小喬の動きよりはそれらしい。
「むむっ、命ちゃん上手い! けど私だって負けてないよ」
「パクリじゃないですか!」
さっそく小喬も腕をくねらせる動きを取り入れる。負けじと命も腰を落として、格ゲーのキャラみたいなポーズを決めてみせた。
「それっぽい! ならこっちだって」
「な――ッ!」
小喬のへなちょこムーブメントが倍速になる。体技の上に【羽衣】を上乗せするという暴挙に打って出たのだ。
ズルいが、小喬の動きは見違えるほどに八極拳に限りなく似た何かに近づいた。いや、目の錯覚だ。早回しなのでキレのある動きに見えるだけなのだ。
しかし……このままでは負けてしまう。人生史上もっとも負けても困らない勝負ではあったが、命は興が乗った。
見失いがちだった楽しさが、ここにある気がしたのだ。
ならば受けて立とう。黒髪のカンフー乙女もまたマジカルを羽織る。
「あー、ズルい! 今度は命ちゃんがパクった!」
「パクってないアル」
「ズルイ! 語尾がズルイよ命ちゃん!」
二人は憂鬱な気分を吹き飛ばすぐらいに、八極拳と思しき動きを繰り出す。
「あちゃー、ほちゃー!」
「てやー、ていていてい! 双撞掌!」
「ズルイ! 技名はズルイよ命ちゃん!」
ピカピカに磨き上げたフローリングの最初のお仕事は、二人の魔法少女のわけのわからない勝負に付き合わされることだった。
そうして三十分ほど時間が過ぎたころ。
「ったく、やってられないヨ」
ようやく説教地獄から解放された紅花が現れた。演舞場の1階に入るなり、彼女が目にしたのは奇妙な二人組だった。
脱力しそうな叫び声。見る者の眉をひそめさせるような動き。あれは……自作のダンスか何かなのだろうか。
「お前ら何してるヨ?」
「あっ、紅花! ちょうどいいところに帰ってきた。私と命ちゃん、どっちの動きが八極拳に近いかジャッジしてよ!」
「ハッ?」
「私ですよね、私! いくら仲がいいからって、贔屓してはダメですよ。ジャッジは公平にお願いします!」
……こいつら正気なのカ。
このへなちょこなダンスが、本当に八極拳だと思い込んでいるのか。八極どころか一極、いや、3メートル先にも武勇が轟きそうにない拳法だった。
紅花はため息を落とした。あまりの下らなさに、頭を占めていた怒りなどすっかり忘れてしまった。
「はあ。勝負以前の問題ヨ。八極拳っていうのは」
スクールバッグをぶん投げると、紅花の両手が動く。ゆったりと、それでいて淀みのない両手を胸の前に置いて。
深く腰を落として両の掌を突き出す――冲捶。
突き出した腕を戻すと同時に反転。冲捶。
更に反転して打つと同時に震脚。
ドンと鈍い音を立てた床が、途端にキュイと鳴く。
活歩――滑るように紅花が移動する。
勢いを乗せた拳を射出。止まることなく上段の二連つま先蹴りを繰り出す。ブンブンと風を切る音を引き連れて紅花が突進してくる。
途切れることない流麗な動きに、命と小喬は目を奪われる。二人とは月とスッポンほど差がありそうな套路だった。
「こういうのは言うんだヨ」
おおー、と命と小喬は拍手を送る。本物の実演はやはり違う。【羽衣】を着ずともここまで動けるのか、と命はいたく感心した。
「さすがですね」
「でしょ、でしょ? 紅花カッコいいでしょ?」
「……別に無理に褒めなくていいヨ。というか、どうしてお前らは八極拳の真似事なんてしてたネ?」
面映ゆいようで、紅花は頬を掻きながら話題をずらした。
「あー、それなんだけど」
小喬が掻い摘んで説明すると、紅花は失笑した。やっていることも下らなければ、やるに至る理由も下らなくて笑えた。
「床の状態かなりいいネ。お前らまさかワックスまでかけたのカ?」
「そうだよ。っていうか、紅花ズルくない? 私たち説教を受けただけじゃなくて、こうして掃除までしてるのに」
「そんなことないヨ! お前らの倍は説教受けた上に……オマケにこれだヨ」
がさごそと制服のポケットを漁ると、紅花は黄色いカードを見せつけた。
「あー! イエローカード!」
「というわけで、当面使える資金が減ったヨ」
「ちょっとー! 生活費どうすんの! 紅花が必要だって言うから、お高い茶器セット買ったばかりなのに」
「知るカ。お前が何とかするネ」
どうやら紅花より小喬の方が堪える罰のようだ。稼ぎの悪い旦那と、家計簿とにらめっこする妻という絵が、命には見えた気がした。
「済んだことグチグチ言っても仕方ないネ。それより、そんなまがい物じゃなくて本物の八極拳を教えてやるから元気だすヨ。ほら、せっかく磨いた床が勿体ないヨ」
「生活費……生活費どうしよう」
頭のなかでそろばんをはじく小喬には取り合わず、紅花は八極拳教室を開校した。命は窺うような目つきで紅花を見遣る。さっきから二人の空間を作っているので、参加していいものか躊躇していた。
「あの、私は」
「なにキョロキョロしてるヨ。あんな物を八極拳だと吹聴されたら堪ったもんじゃないネ。お前にもきっちり教えてやるから、参加するヨ!」
紅花のキツ目の顔が和らいだので、命も笑顔で了承を返した。
「はい! 紅花老師!」
「老師は止めるヨ……せめて師父にするネ」
勝手に門下生にされた命であったが、存外に紅花の八極拳教室を楽しんでいた。元より命は父さまから剣道と柔道を習っていた身である。武術そのものに対する興味は強かった。
その熱意もあって、数十分前にはへなちょこ拳だったものも随分と八極拳に近づいた。飲み込みが早い弟子に物を教えるのは楽しいのか、紅花も上機嫌だった。
「ふむ。武道経験があるだけはあるヨ」
「わかるのですか?」
「そういうのは体軸に現れるものヨ。お前は筋がいいネ……それに比べて」
紅花が目を向けた先には、ウーロン茶を飲んでいる小喬がいた。これであの弟子は何度お茶休憩を挟んだのか。紅花は呆れ混じりに言う。
「あいつは全く才能ないネ」
「そんな! 私だって頑張ってるのに。というか命ちゃんの飲み込みが早すぎるだけだよ。も~、命ちゃんは全体的にズルいよ!」
「ズルいと言われましても」
プンスカしていた小喬であったが、やにわに大人しくなった。アルマイト製の水筒をそっと床に置くと、そそくさと出入り口に歩きだした。
「どこ行くネ」
「……トイレ」
「お茶ばっか飲んでるからネ」
「だから言いたくなかったのに。いー、だ。紅花なんて大っ嫌い!」
小喬は両頬を引っ張ってペロリと舌を出す。嫌いな相手に向ける顔にしては、愛らしい表情だった。
「仕方ないネ。少し休むとするカ」
紅花がどっかと床に座ると、膨らんだスカートが持ち上がる。
「どうしたヨ?」
「……いえ」
紅花は無頓着な方なので八極拳教室の間もスカートが激しい運動に合わせて踊っていた。目の遣り場に困るとも言えず、命はお淑やかに正座した。
「そう畏まらなくていいヨ」
「お気遣いありがとうございます。でも畏まっているわけではないのですよ。正座で座る方が、気が休まるたちで」
下手に女の子座りや体育座りをすると、スカートの中身が見えてしまうわけで。スカートで床に座るときは、正座するよう心がけていた。
「そうか。ならいいヨ」
そこで会話は途切れてしまう。
思えば、命は紅花とあまり話したことがなかった。紅花と話すときはいつもそばに小喬や那須がいたので、二人きりという場面は初めてかもしれない。
天気の話は……連日雨ばかりだからダメだ。無難に小喬の話でも振ってみようか。と、命が引き出しを漁っていると、先に紅花が口火を切った。
「お前、最近のクラスの雰囲気をどう思うヨ?」
「クラスの雰囲気ですか。そうですね……あまり良くはないかと。徐々に空気が澱んでいくのがわかります。東洋系の人は肩身が狭そうに感じますし」
「なんだ。ちゃんとわかっているのカ」
湿った空気が一段と重く感じられるなか、紅花は淡々と続けた。
「私とシルスター、どっちが強いと思うネ?」
「それは……」
命は言いよどむ。
朝の揉めごとを見ている内に読めてしまった。純粋な実力だけでいえば、紅花よりシルスターの方が圧倒的に強いのだ、と。
横幅の狭い廊下という環境。槍と剣という獲物の差。
この二つを踏まえれば、あの勝負は紅花に分があった。魔法少女にも故事が当て嵌まるかは怪しいが、槍術三倍段なんて言葉もある。
口ごもる命の様子から、紅花は答えを察したようだった。
「お前の考えてる通りヨ。私一人じゃ近い内にアレを押さえられなくなるネ」
「そんな弱気な発言……似合わないですよ」
「似合うも似合わないもあるカ。無理なものは無理ヨ」
そんな言葉が紅花の口から出るとは、思いも寄らなかった。
いや……紅花の性格を考えれば、口を付いて当然の言葉だったのかもしれない。東の后は希望的観測で物事を語らない。
でも、たとえそれが事実だったとしても、
「私が言うのもおこがましいですが……それでも、紅花さんは無理だなんて言っちゃダメですよ」
紅花がいないと困る女生徒は大勢いるのだ。困る生徒代表として命は嘆願したが、紅花だって困る。東の后なんて呼ばれているが、紅花だって一介の女学生に過ぎない。
「それこそ無理言うなヨ。私だって弱音の一つや二つ吐く普通の人間ヨ。まあ……状況を改善する手がないこともないヨ」
「本当ですか!」
閉塞感で満ちた暗闇に光が差し込んだようだった。なんだ、紅花さんってば、ちゃんと手を打っているじゃないですか。
もう、紅花さんってば、紅花さんってば――。
命は目を輝かせながら続きを促した。
「それで、その一手というのは」
「お前が私を手伝うヨ」
「……えっ」
命の目の輝きが死んだ。抜けだした暗闇の先には世紀末の世界が広がっている。そんな気分だった。
「聞こえなかったカ? もしもことを1-Fで収めたいなら、お前の協力が不可欠ネ」
「ちょ、ちょっと紅花さん?」
「もう一度言ってやるヨ。お前が必要だ」
身にまとう空気から、その目から、紅花の本気が窺えた。命もふざけた態度で通すのは失礼だと判断し、真面目な顔つきで返す。
「本気ですか? こう言っちゃなんですが……私、弱いですし。コートマッチだって未だに一回も勝てたことないのですよ」
「勘違いするな。戦力として当てにしているわけじゃないヨ。お前は状況を読む力に長けているし、何より強い目をしてるネ」
また目か。どうやら命の目は、すこぶる中華組に好評なようだ。
「……買いかぶりすぎですよ。私は大した人間じゃありません」
「あまり自分のことを卑下するなヨ」
「えっ」
「お前の評価だけで、お前の価値が決まるカ。少なくとも――」
紅花は、命を守る必要性をあまり感じていない。
気を遣って言葉を選ぶ必要もないし、腹が立ったなら手を上げてもいい。なぜなら命は、紅花が1-Fで唯一対等だと思える東洋系の魔法少女だからだ。
「――私はお前のことを評価してるヨ」
実力ではなく気持ちの上で、紅花は命のことを認めていた。
誰もが教室から逃げ出すことしか考えてなかった、あのとき。最後までマグナの身を案じていたのは、命だけだった。
そして今日だって……性懲りもなく援護射撃なんてしようとするのだから、救いようのないお人好しである。
「来い。私にはお前が必要ヨ」
紅花の目は、灼熱のように熱い。火には人を魅入らせる力があるというが、ずっと見詰めていると、差し出された手を握ってしまいそうになる。
(……私は)
それでも手をとるわけにはいかなかった。無事にこの学校を卒業するために。命は目を切り、震える腕を意志の力で押さえつけた。
「……すみません」
「まあいいネ。いきなり色よい返事が貰えるとは思ってなかったヨ。もしも気が変わったら、そのときは頼むヨ」
叱咤やビンタの一つも覚悟していたが、それらに類するものは何一つ飛んでこなかった。ただ紅花が微笑んでいることが、命には辛かった。
「……どうして、そんなに強いのですか」
「勘違いするなヨ。私だって普通の人間ネ。どうしてお前が、バカ殿に媚びを売ってるのかと憤ったこともあるヨ。でも……心の整理が付いてない奴に無理言えないヨ」
武道とは、身体を鍛えるのみならず心を鍛えるものでもある。だからこそ、その動きには人の心が色濃く現れる。
「お前は心体のバランスが無茶苦茶ヨ。技があるから上辺は真似できるが、そこが限界ネ。だから拳に心が宿らないヨ」
「心……ですか」
男でありながら女装し続ける生活を送っているのだ。心身のバランスが崩れるのは当たり前である。
しかし、ことは女装の範疇に収まりにない。心と体が解離しつつあることは、命も感じていた。心は東を向いているのに、身体は西を向いているような違和感がつきまとう。シルスターが来てからというもの、胸中のざわつきが止まずにいた。
「お前は何をしたいネ?」
何を? そんなものは決まっている。
セントフィリア女学院を無事卒業することが目的だ。
この学校に来る前の命だったら、そう(心のなかで)断言できただろうが、今の命には言い切れなかった。
では何か? 私は生き延びるためだけに今を生きているのか。今こうして生きている時間は、人生の繋ぎに過ぎないのか。
考えだすと思考の迷宮に引きずり込まれそうになる。いや、迷宮など有りはしないこともわかっていた。そこにあるのは、ただの一本道のトンネルだ。真っ暗闇のなかを通り抜ければいいだけなのに、自分はいつまでも入り口の前で立ち止まっていた。
「今すぐには無理でも、ゆっくり考えるといいヨ」
見かねた紅花が助け舟を出す。
その険しい顔つきから命の苦悩が察せられた。
「……そうですね。今度ゆっくり考えてみるとします」
命もそう返すのが精一杯だった。この悩みは、時間があれば解決する類のものでないことは本人が一番理解していた。
時間ではない。足りないのは覚悟だった。
命は真っ暗闇のなかを歩くことが怖いのではない。トンネルの先にある景色を見ることを恐れていた。
「それにしても小喬のやつ遅いネ」
と、わざとらしく紅花が顔を振ったときだった。
「……っ!」
雨音に掻き消されそうな、か細い音色が聞こえた。初め一音だったそれに続いて、どんどん音色が重なる。
入学式のときに聞いた音色と同じだと、命は気づいた。誰かが乙女のオカリナを吹いて、助けを求めているのだ。
途端に二人の顔が青ざめる。
「紅花さん。小喬さんって今……どこにいます?」
「小喬――ッ!」
紅花が歯ぎしりして飛び出すのと、
「はいはーい。呼んだかな」
小喬が戻ってくるのは、ほぼ同時だった。
ズコー、と紅花が綺麗にずっこけた。
「お前、でっかい方なら先に言うネ――ッ!」
「でっかい方じゃないもん! 紅花のバカ!」
本当に、とうにお手洗いは済ませていた。ただ二人が深刻そうな話をしていたので、戻りづらかったとは言えない小喬であった。




