第93話 大人になれぬ者
翌朝……。
暫定的に設けられた1-Fの教室に入ると、一枚の貼り紙が命の目に入った。教室の扉を潜って直ぐ右手。えらく目立つ場所に貼られていた。
1-Fランキング表。
そう銘打たれた貼り紙には、各人のコートマッチの戦績が記載されていた。戦績順に1-Fの生徒を並べただけの表だが、そのシンプルさ故、その貼り紙の悪趣味さは際立って見えた。
(はー、これまた見事に上位を独占していますねえ)
本人を含めシルスターとつるんでいる女生徒たちは未だ負け知らず、と素晴らしい戦績を収めていたが、この貼り紙そのものは褒められたものではなかった。
先週始まったばかりのコートマッチの戦績は、まだ団子状態もいいところである。同率一位だって多数存在している。にもかかわらず、なぜかシルスターグループが優遇されて上位に名を連ねていた。
(う~ん。謎のアルゴリズムが働いていますねえ)
作為に満ち満ちている。なにより最下位だって複数名いるのに、命が一番下に記載されているあたり、悪意に満ち満ちていた。
魔法少女の女子校なんて夢のある環境なのに、実に優しくない世界である。向かい側の扉付近にはクスクスと笑っている女生徒さえいた。
小馬鹿にしたように笑っているのは、昨日のコートマッチの相手だ。
この手の輩はどこにでもいる。下手に反抗して痛い目を見るのも馬鹿らしいが、かといって無視を決め込むのも心象が悪くなりそうで気が引ける。
命は波風立てずにやり過ごそうと、俯きながら自席に逃げることにした。これぞ乙女の処世術である。
びくびく……私、箸より重いものを持ったことがない箱入り娘なのですぅ。こんな酷い仕打ちを受けると、チワワみたいに震えちゃうのですぅ――そんな圧倒的弱者オーラを発することでどす黒い感情を隠し、難を逃れる技である。
(完全に顔と名前覚えましたからね……今に見てなさい)
今は力及ばずとも、命は魔法少女として少しずつ復調してきている。この調子でいけば、物を動かす魔法――【神撫手】を取り戻す日もそう遠くないだろう。
あの魔法を取り戻したあかつきには、消しゴムのカスどころか消しゴムごとぶつけてやる。もちろん犯人が特定できない位置からである。
などと良からぬことを企てていた命だが、どうやら黒髪のイレイサー乙女になる必要はなさそうだった。
「痛っ!」
教室に入る人影。例の女生徒のすねに蹴りが入った。
「通行の邪魔ヨ。さっさと退くネ」
足で挨拶をくれた紅花は謝る素振りすら見せない。そんなところにいるお前が悪い、と全面的に相手を非難するような態度だった。
「ちょっと待ちなさいよ! わざとでしょ、今のわざとでしょ! 私たちにそういう態度とって許されると――」
「なにヨ」
制服を掴まれた紅花が振り返る。不機嫌をあらわにしてひと睨み。それだけで二人の格付けは終わってしまった。共にコートマッチ無敗同士ではあるが、紅花の方が遥かに迫力を有していた。
紅花はこんな小物など相手にしていない。東の皇妃の鋭い視線は、教室中央にいる西の女帝に注がれていた。
勝手に持ち込んだであろう特注の椅子に腰掛けるシルスター。彼女もまた、紅花の視線に応えるように棘のある視線を送り返した。
一瞬、教室が静まり返る。
「ごめんね、ごめんね~。紅花ったら朝弱いから、いっつもこうなの。朝起きたときも髪ボサボサでね。いつもお団子にするのに苦労するの」
場の空気が沈む前にすかさず介入したのは、紅花と一緒に登校してきた友達、お団子ひとつの小喬だった。
「お前は余計なこと言うなヨ」
脱力させられた紅花が苦言を呈すも気にもしない。小喬は低姿勢のまま、固まっていた女生徒に謝り続けた。
「本当にごめんね。紅花には同居人である私がキツ~く言っておくから、許してくれないかな」
「……まあ、そこまで言うなら」
「やった! ありがと~。今度ごま団子揚げたら、わけてあげるね」
小喬の朗らかさは、いつの間にか教室に充満していた剣呑な空気を洗い流してしまった。
折よく予鈴が重なったことで、蒸し返す機会も逸した。小さく舌打ちを落とすと、紅花は先に自席に歩いていった。
「ほら命ちゃんも、ぼ~っとしてないで。早く座らないと、マグナ先生来たらチョーク投げられちゃうよ」
パチリ、とウィンクを決めようとして両目とも瞑っていたが、そんなところも含めて愛らしい。
高圧的な紅花と低姿勢の小喬。
この二人だからこそ、中華組は上手く噛み合うのだろう。命はそんなことを考えながら席に着いた。
「先ほどはありがとうございました」
「……何のことヨ? お礼を言われるような筋合いはないネ」
前の背中からは、すっとぼけた答えが返ってきた。いくら邪魔な場所にいたからといって、ああも的確にすねを蹴飛ばすのは無理がある。
しかし本人がそう言い張るのなら、そっとしておこう。命は紅花の心遣いに感謝して会話を打ち切ろうとしたが、
「ちょっと紅花! 昨日と話が違うでしょ」
「昨日の話? ワタシ朝は弱いから思い出せないネ」
どうも前列の中華組は小声で揉めていた。
「いいよ~だ。そういう態度とるなら、明日からお団子に結わえてあげないからね。本気だよ本気だからね!」
「……わかったヨ」
二人のときは力関係が逆転しているのかもしれない。意外な中華組のパワーバランスに驚いていた命は、もっと驚くことになった。
「おい命――ッ!」
「はいっ!」
紅花の怒声にも似た呼びかけに、思わず命は背筋を伸ばした。
「一回しか言わないからよく聞くヨ!」
「な、なんでしょうか」
これは今世紀最大の罵声を浴びるかもしれない。心の準備を整えて、命は静かに次の言葉を待った。
「その……この前は悪かった……ヨ」
徐々に勢いを無くし、最後には消え入りそうな謝罪だった。予想と真反対の言葉だったこともあり、謝られた命の方こそ悪い気がしてきた。
(この前って何かありましたっけ?)
命は必死に記憶の糸たぐり、前々回の共通魔法実技で崩拳――見事な中段突きを貰ったことを思い出した。
「ああ、可愛いと言ったときの」
「……お前よく本人を前にして、そんなこと臆面もなく言えるネ」
「気に障ったようでしたら、すみません。私の思慮が足りませんでした。そうですね、紅花さんは可愛いよりも綺麗よりですものね」
「だから……そういうこと……言うなヨ」
後ろからでも紅花の耳が真っ赤なことだけはわかる。前に回ってお顔も拝見したいところだが、裡門頂肘とか飛んできそうなので自重した。
「ごめんね。紅花って褒められるの苦手なの」
斜向かいの小喬が首を回し、困り顔で微笑みかけてくる。「どう? 私の同居人はやっぱり可愛いでしょ」と自慢しているようにも見えるから不思議だ。
「おはよう……命ちゃん」
と、控え目に挨拶をしたのは隣の那須だ。中華組との会話に夢中になっていた命はびくりと肩を震わせた。
「え、ええ。おはようございます」
いつの間にと思うも、よくよく考えれば最初からいた。那須は会話が切れるのを待っていたようだ。
「ごめんね……助けてあげられなくて」
「気にしなくていいですよ。気持ちだけで十分ですから」
「ううん……やっぱり気持ちだけじゃダメなの。私は命ちゃんにいつも助けられっぱなしで……全然役に立てないから」
単なるおしゃべりのつもりが、思いのほか那須は落ち込んでいた。こんなに深刻そうな那須を見るのは、命をエジプト人だと勘違いしていたとき以来だ。
命は自然と那須の頭に手を伸ばしていた。小動物のような那須を見ていると、ついつい庇護欲を煽られてしまう。傷まないように優しく髪を撫でつける。
「役に立つかどうかは関係ないでしょう。一緒にいるのが好きだから友達なのです。それとも那須ちゃんは、私が役に立つから友達になってくれたのですか?」
「ちっ、違うよ!」
「ならいいでしょう。ねっ」
「うん……わかった」
顔を火照らせながら那須は頷いてくれた。(聞き分けの)いい子である。命はもう二、三度髪を撫でつけてあげた。
(役に立つかどうか……か)
初めて会ったときは、情報だけ絞り出して捨てようとしていた癖に。一ヶ月前の自分が聞いたら笑うだろうか。
この心境の変化には、命自身が一番驚いていた。優しくなったといえば聞こえはいいが、甘くなったとも言い換えられる。
認めざるをえない。あの執念じみた生への執着が薄れつつあることを。誰を利用しようとも生き残ろうとしていた命が、死につつあることを。
優しさと引き換えに、私は何か大切なものを無くしてしまったのではないだろうか。ふとした瞬間にそういうことを考える機会も増えた。
じめじめした空気が、命の悩みに拍車をかける。宮古と体を動かしているときは悩みごとを忘れられて楽だったが、いつまでも問題を引き伸ばしたままではいられない。この身はいつまで持つかもわからないのだ。
(私は……)
ときにシルスターの利己的な振る舞いが羨ましく映るときがある。ああ割り切れたのなら、どれだけ楽だろうかと思ってしまう。
性別をひた隠す魔法使いが、女装して女学院に忍び込んできた男が、この魔法少女の学び舎での生活を――――ことが、
(……どこまで許されるのだろうか)
外からは雨音が響くばかりで答えは返ってこない。答えは他ならぬ自分が、命自身が見つけなければ意味のない問いだった。
「っしゃあ! 今日もいっちょう気合入れてやるか」
乱暴に扉が開く音がする。連日の雨もなんのその。1-Fの英語を受け持つマグナが陽気にやってきた。
入室すると、命同様に1-Fランキング表に目を止めた。
「おっ、面白いもん作ってんな。あたしも七年ぐらい前に作ったな。懐かしいなー。あたしが勝率トップだったっけ」
「自慢かよ。誰も聞いてねーし」
「しっかり聞いてんじゃねえか。あとお前ら、あたしの年齢を逆算すんなよ。割り出した奴には単位やらねえからな」
ドッと教室に笑いが起こる。
マグナの手にかかれば野次も笑いの種でしかない。「へえ」とか「ほお」とか感心したような声をあげながら、ざっと上から下まで眺める。
そこで、マグナは背を向けたまま固まった。数秒にも満たない時間だが、まるで時の流れが止まったかのようだった。
「まっ、いいか」
後頭部を掻くと、マグナは教壇に立った。
(どうしたのでしょうか)
例のシルスターソートが気にかかったのだろうか。でも、そうであれば、それこそネタにでもしそうなものなのに。
命は妙に気になってしまい、あらためて1-Fランキング表に目を遣る。それがシルスターを頂点にした表であることには変わりなかったが、
「あっ」
一つ見落としていたことに、いや、一人抜け落ちていたことに気づく。ランキング表に載っている人数は、1-Fの生徒数より一人少なかった。
誰だ。
誰がいないのか。
喉まで出かかっているのに思い出せない。
美術の授業にでも使いそうな、カンバスを置く道具にも似た名前の女生徒だった覚えがあった。
勘の良い女生徒を中心に教室がざわめきだす。欠落した女生徒を探すように無数の瞳が動き回り、やがて視線は一つの空席に集中した。
「おい」
マグナは静かに声を落とした。
「イルゼはどうした」
(……そうそれ)
陽気が怒気に変わっていく。全身に怒気をみなぎらせたマグナは、問いただすように紅蓮の双眸をシルスターに向けた。
「ああ、イルゼか」
その視線すら心地よいと言わんばかりに、シルスターは笑いを噛み殺しながら応えた。
「そういえば、お腹が痛くなったと言っていたかのう」
――今日か来年か。なあに、いつか帰ってくるじゃろ。
轟音。
破砕。
表が黒で、裏がメープル。
砕けた木片が教室中に散らばる。
【羽衣】を着こむよりも早く、女生徒たちが悲鳴を上げた。
「あーあー、黒板壊れちまったよ」
裏拳を叩き込まれた黒板からは壁が見える。
マグナが"白手袋"をはめる仕草はなかった。それは講義が始まる前からはめていたもので、鼻から不良教師は臨戦態勢を整えていたのだ。
いついかなるときも。
暴れたバカを鎮圧できるように。
「今日の講義は体育に変更だ。興味がねえ奴はあああ――ッ!」
シルスターを除く1-Fの女生徒は揃って我が目を疑った。この世のどこに教卓を持ち上げて振りかぶる教師がいるのか、と。
「出なくてもいいぞ」
あっ、と誰かが間の抜けた声を出した。砲弾と化した教卓が、シルスター目掛けて空を飛んだ。
【銀の剣】
銀の刃が閃く。
立ち上がると同時に邪魔な机を倒して、シルスターは飛来する教卓を真っ二つに切り裂いた。
割れた教卓はなおも勢いを失わず、机の上を跳ねて進む。避けきれずにぶつかった女生徒もいたが、【羽衣】のおかげで事なきを得た。
しかし、一発やり過ごしただけで終わりそうな空気ではない。湿気っていた超弩級の爆弾に火がついてしまったのだ。
「早く外に出るネ――ッ!」
紅花の叫びを契機に、女生徒たちが悲鳴とともに逃げ惑う。机や椅子を蹴倒して、我先にと教室の扉に殺到した。
命も逃げ遅れまいと立ち上がるも、どうしてもマグナのことが気にかかり、足が止まってしまう。
(今なら……っ!)
無警戒なシルスターを【呪術弾】で撃ち抜ける。それが痛打にならずとも、あとは天下無敵の不良教師が何とかしてくれるはずだ。
そんな都合が良い展開が頭をよぎる。
命はシルスターの後頭部に照準を合わせ、
――そんなことをして、何になるのか?
引き金を引くことをためらった。
たとえ今回は上手く退けることができたとしても、シルスターが女学院を辞めるわけではない。これから先も顔を突き合わせるというのに、銀の女帝を敵に回すなんてリスクを取るわけにはいかなかった。
「なに突っ立ってるネ!」
「で、でもマグナ先生が!」
率先して女生徒を避難誘導していた紅花が詰め寄る。背中を押しても命が立ち止まろうとすると、紅花は間髪いれずに平手打ちを浴びせた。
「お前がいて、何になるヨ――ッ!」
それでも、私にもできることがある――そう信じる命の心を折るには、十二分の威力を秘めた発言だった。
「ほら! さっさと行くヨ」
命の足の踏ん張りが弱まる。チャンスと見るや紅花は命の背中を一気に押して、二人一緒に教室から飛び出した。
◆
後に残されたのは、おもちゃ箱をひっくり返したように荒れた教室と、当事者だけ。マグナとシルスターは足を止めて対峙する。
「いいのか? 余は、コートマッチは禁止ではなかったのか」
「安心しろよ。私闘はその限りじゃねえ」
「そうか」
シルスターが突進する。
「それは良かった――ッ!」
ごちゃ混ぜの机も椅子も蹴散らして、一直線に斬りかかった。
「チッ!」
転がるようにマグナが教壇から降りる。数瞬前までマグナが立っていた場所には縦一文字の斬線が走っていた。
黒板だけでなく壁にまで穴が空いている。
壁材がポロポロと崩れ落ち、隣の教室の女生徒までもが騒ぎ出す。無数の足音が床を乱れ打つなか、シルスターは動じることなく【銀の剣】を回す。
一回転、二回転。
∞の軌道をなぞる【銀の剣】がピタリと止まる。弧を描くように遠ざかるマグナを金眼が捉えた。
教壇を蹴り、倒れた机の角を蹴り。
シルスターが強襲をかける。
「どあらあああ――ッ!」
マグナが吠える。
両の手で一つずつ、ちゃぶ台返しの要領で二つの机をひっくり返した。天板が盾代わりになるとは期待していないが、一瞬でも小うるさい剣が止まればいい。
「――ッ!」
シルスターは上段に構えて――止まらなかった。
銀色の魔力の残滓が衝撃で流れる。
体当たりで机を粉砕したシルスターが、【銀の剣】を薙ぐ。クロスした手首とともに【銀の剣】を返す。
マグナは頭を滑らせ初太刀を回避。更に下へと落ちた二の太刀も、膝を落として辛くも掻い潜った。
「ほう」
シルスターは感嘆の声を漏らしたが、喜んではいられない。
恐らく次はないだろう。才気あふれる女帝であれば、すぐに剣筋を変えて対応してくることは目に見えていた。
仕切り直すか。攻めに転じるか。
一瞬の逡巡ののち、マグナはさらに一歩踏み出す。
剣と拳。
獲物の違いを踏まえても、前にしか活路はなかった。
が。
それを待っていた、と言わんばかりの横薙ぎがマグナを出迎える。踏み込みに合わせた絶妙なタイミングだった。
退くことも、避けることも叶わない。
シルスターの剣は、下から掻い潜れぬように一瞬で軌道を修正してきた――マグナの期待を裏切らぬ剣筋だった。
決して見えていたわけではない。
マグナはただ野生の勘に任せて左拳を振り上げた。
鮮血が舞う。
【銀の剣】の腹を、血染めの"白手袋"が打ち上げていた。
終始余裕を見せていたシルスターが目を見張る。神業、そう表現するほかない拳に驚きを禁じえなかった。
剣の間合いを突破し、マグナが拳の間合いに入る。
寄らせすぎた。
シルスターが反射的に距離をとろうとした足を、マグナが踏む。
"運動靴"も"白手袋"と一緒に作らせた試作品である。【羽衣】に深く干渉することはできないが、強く踏むことぐらいは可能だ。
マグナが右拳を構える。
「この、ボケナスがっ!」
狙うは心臓。乱れた【羽衣】の穴に吸い込まれるように拳が飛ぶ。
後手に回ったシルスターは、不格好な体勢のまま【銀の剣】を振り下ろす。女帝の魔力を吸った魔剣が走った。
剣と拳が互いの速度を競い合う。
先に到達した方が勝負を決定づける。
女の意地を乗せた一撃は――双方通らなかった。
「やめんかああああ――ッ!」
横合いから人影が飛び出す。
その第三者はマグナを突き飛ばし、シルスターと同質の剣をもって【銀の剣】を弾き飛ばした。
椅子や机を巻き込んで派手にマグナが転がる。一瞬前まで手のなかにあった獲物の行方を追って、シルスターが天を仰ぐ。
天井に刺さった【銀の剣】は衝撃でわずかに震えていた。
「……いい加減にしておけ」
怒りを滲ませて言う。
二人の喧嘩に割って入ったエリツキーは、静かに剣を下ろす。【銀の剣】は風にさらわれる砂のように消えていった。
――なんでお前が……そこに。
マグナは立ち上がることも忘れて、目を瞬かせた。いずれ邪魔が入ることは知っていたが、あまりに早すぎた。
シルスターは1号館で講義をしていたはずだ。
少なく見積もっても、白亜の城に到達するまでには後二、三分の猶予があった。それを見越した上で短期決戦に持ち込んだのに。
――なんでお前がそこにいる。
混乱するマグナをよそに、シルスターはしれっと言う。
「いい加減にしろと言われてもな。余は何も悪く無い。そこの野蛮人が急に教卓を投げつけてきたのじゃ」
「ふざけんじゃねえ! テメエがイルゼを――」
「イルゼ? イルゼがどうかしたのか」
エリツキーは不思議そうな顔で続ける。
「イルゼなら私を呼びに来てくれたが」
衝撃のあまり、直ぐには理解できなかった。
「そうじゃ。余はただ、イルゼは腹痛で遅刻するかもしれない、と伝えただけじゃというのに。早とちりも大概にせい」
この段になって、マグナは理解する。
イルゼはシルスターの共謀者だったのだ、と。
「……っけんな!」
騙された。嵌められた。罠にかけられた。一杯食わされた。芝居を打たれた。まんまと術中にはま――全身の血が燃えた。
「ざけんじゃねえぞ、テメエら――ッ!」
猛り立ち上がる。血を流す左手の痛みも、打ち付けた腰の痛みも吹き飛んでいた。痛覚を凌駕した怒りだけが、マグナを突き動していた。
一発、一発殴らないことには、この怒りは収まらなかった。
「ら? お前がふざけるな」
しかし、立ちはだかる同僚がマグナの短絡的な行動を阻んだ。
エリツキーの拳がマグナの左頬に突き刺さる。今来た道を戻るように転がり、マグナは横倒しの机にぶつかった。
喘ぎ、呼吸もままならない状態であったが、それでもマグナはこの胸を焼く怒りを吐き出さずにはいられなかった。
「"万年四位"が邪魔すんじゃねえ! エリツキー、そこを退けえ――ッ!」
「退くわけないだろ。正直私はこの状況を飲み込めていないが、子供に手を上げた時点でお前の負けだ」
喚き散らすマグナを、エリツキーは冷めた目で見下ろしていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
あの日、自分を蹴落としてその手に栄光を掴んだはずの女が、どうしてこんなに無様な姿を晒しているのだ。そう思わずにはいられなかった。
「大人になれよ、マグナ。お前はもう……魔法少女じゃないんだよ」
力尽くで物ごとを解決する時期はとうに過ぎたのだ。それだけのことを伝えるのに、エリツキーは血を吐く思いだった。
「頼むから、これ以上私を失望させないでくれ」
マグナの目から血の気が引いていく。マグナの怒りが一瞬の炎ならば、エリツキーのそれは、積年の貯めに貯めた大量の冷水だ。
そんなものをかけられて、火が消えないわけがなかった。
「……悪い」
力なく項垂れ、とうとうマグナは自らの否を認めた。
「お取り込みのところ悪いが」
静観していたシルスターが口を挟む。
「余も忙しい身でな。これ以上は付き合っておれぬ。後はその野蛮人に処分を下すなり好きにするがよい」
刺々しい長髪を指で梳く。シルスターは遊び飽きた玩具でも見るような目でマグナを見ていた。
「なあに。そう悲観することもない。運が良ければ『講義中に起きた不幸な事故』と取られるやもしれぬぞ」
そんな審判が下るとは欠片も信じていない様子で、シルスターは含み笑いを浮かべながら去っていった。
エリツキーは目を閉じたまま佇み、
「……っ!」
マグナは床に拳を叩き落とす。冷静さを取り戻すほどに、血の滲む手はじくじくと痛み出してきた。
だが、もはや何もかも手遅れだったのだろう。
マグナに一ヶ月の停職処分が言い渡されたのは、翌日のことだった。




