第92話 東風の返し
少し慣れたとはいえ、しんどい。
土日の宮古のマンツーマントレーニング『東洋魔術(姉)』は、相変わらずハードだった。
しかしこの疲労感も『身体に異常なし』という診断を得たから味わえるものだと思うと、心地よいものである。
重い体を引きずりながら、命は雨の匂いがするキャンパスを歩いていた。花壇に咲く色鮮やかな牡丹の花が、時のうつろいを教えてくれる。濃厚な四月を経て、彼の女装生活は五月に突入した。
四月の終わりから降り続く雨。今日からは五月雨と呼んでも差し支え無いそれは、乾く暇のない石畳を黒く染め抜いている。
連日の雨はいつ止むのだろうか?
きっと誰もが思っていたであろうが口には出さなかった。
いつかは止むだろう、そう考え、気づけば誰もが空を見上げることを忘れて傘をさすようになっていた。
雨の音にまぎれて、今日も魔法少女の喧騒が聞こえる。
共通魔法実技が本格化してから、一年生同士の小競り合いはしょっちゅうだ。周囲の女生徒たちは気にも留めていなかった。
いつものことである。
命もまた、耳を閉ざして先を急いだ。
ただでさえ自分のことだけで手一杯なのだ。名も顔も知らぬ他人の厄介ごとになど構っていられなかった。
「またまた再契約会やりまーす! 今の姉に不満はないですか? 今の妹は生意気じゃありませんか? そんな貴方に朗報です。好評を博して、第二回の開催が決定しました。まだまだ席も空いてまーす!」
思わず苦笑してしまう。
それももう御免である。もう雨降って地固まった後なのだ。声を張り上げるビラ配りをやり過ごし、命は3号棟を目指した。
◆
一般教室より一回りほど広い講義教室には、銀髪の女生徒が疎らに座っていた。右を見ても左を見ても銀髪。石を投げれば97%銀髪に命中することだろう。
なぜ3%足りないかといえば。
そこに黒髪の乙女が足を踏み入れたからであって。
(ああ……この場違い感。何度味わっても慣れませんね)
貴方、何でここにいらしたの?
そう言いたげな視線が各所から刺さる。居た堪れない気持ちになりながらも、命は適当な空き席を探し始めた。
不思議なことに、女学生とは単独行動することを禁じられた生き物である。食事のときも、お花を摘みにいくときも、必ず友達を伴わなければいけない。
この禁を破った者には、可哀想な子、陰キャ、コミュ症、などなどのレッテルが張られる――どころか、つーかあの根暗ウザくね? 仲間外れにしてやろうぜ、という仕打ちを受けるまである。
げに恐ろしき女学生ルール。
ただでさえ悪目立ちしている命は、隠れ蓑にできる知り合いがいないか探す。周囲を見回しながら歩いていると、ふと一人の女生徒が目に止まった。
(むむむっ!)
居並ぶ女生徒のなかでも一際目立つ。髪の手入れには一家言ある命すら唸らせる見事なプラチナブロンド。
ビスク・ドールのように整った顔も相まって、どこか近づき難い印象を覚えさせる美少女だが、命は迷うことなく歩み寄った。
最後列の窓際、顔見知り、条件はパーフェクトだった。
「隣、空いていますか」
「……別に構いませんけど」
いつも無愛想な彼女にしては珍しく驚いている。不承不承という風に、金髪お嬢さまの従者――エメロットは頷いた。
「講義を始めるぞ。以後は私語を慎むように」
噂の黒髪の乙女が現れたことで一時は騒がしかった教室も、教師が現れたことで落ち着きを取り戻した。
錬金術基礎Aの担当――エリツキー=シフォンは、厳格な態度で講義に臨もうとするも、命を見つけてギョッとする。
見間違いではなかろうか。
二度見、三度見していると、何を勘違いしたのか命が手を振ってきたので、エリツキーは大きくため息を落としてから眉間を揉んだ。
「あー、なんだ……この講義は今日で二回目になるわけだが、なかには間違って出席してしまった者もいるだろう。そういった者は今なら退出してもいいぞ」
「あっ!」命は小さく声を漏らす「先週は入院していたので、後でノートを見せて貰わないと」
出て行かないのかよ――ッ!
銀髪ガールズは気持ちを一つに心中で総ツッコミをかまし、銀髪ティーチャーは頭を抱えたまま仕方なしに講義を始めた。こうも堂々と居座られては、誰も「出ていけ」とは言えなかった。
銀髪の魔法少女だけで席が埋まるはずの講義には、なぜか黒髪の乙女が一人紛れ込んでいた。
「相変わらずいい根性していますね」
「あらどうも。でも、天然染料一つと私の財布を等価交換してしまう錬金術士さんには負けますよ」
「……オマケにねちっこい」
「絶対許しませんから」
そう言って、怪訝な顔をつくるエメロットに微笑みかける。今日は開講一番罵倒されないだけマシな講義といえた。
また講義自体が興味深いのも地味に嬉しい。
エリツキーの説明は堅いが、耳を澄ませば面白い類の講義だ。また回数が浅いこともあって、とっつきやすい。錬金術とは何ぞやといった内容を、命が真剣に聞き入っていたときだった。
「どうしてこの講義を履修したのですか」
心底不可解だと、エメロットが潜め声で問いかける。
命はどう説明したものか悩んだが、口で説明するよりも早い方法があることに気づくと、バッグから一枚の用紙を取り出した。
「これを見ていただくのが、一番早いかと」
「何ですかこれ?」
エメロットは綺麗に渋面をつくった。まともな感性を持った学生なら、一目しただけでおかしいと判ずる履修表だ。
まず東洋系の魔法少女である命が、主要な西洋魔術の講義を軒並みコンプリートしていることが頭おかしい。
ゴレンジャーを一人で兼任するようなものである。
「ひとりで戦隊モノの後釜でも狙っているのですか? お言葉ですが、貴方がどんなに頑張ってもクロレンジャイにしかなれませんよ」
「……ですよねえ」
命は典型的な東洋系の魔法少女である。
東洋魔術のみの一属性持ち。
厳密には東洋系で二属性持ちの魔法少女は、セントフィリア史上、誰一人として確認されていないといった方が正しい。
これは東洋と西洋の魔法体系が異なるためだ。だからこそ、東洋魔術師と西洋魔術師は明確に分かれているともいえるのだが。
必然、多属性持ちは西洋魔術師だけに限られ、二属性持ちの魔法少女ですら希少とされている。命の身近な人物でいえば、該当するのは、火属性と召喚属性を無駄に併せ持つルバートぐらいだ。
二属性持ちから三属性持ちになると、その数は更に激減し、四属性持ちともなると、セントフィリア六〇〇余年の歴史のなかでも、初代女王セレナと小卒天才魔法少女ローズの二人だけになる。
突き詰めれば、多属性持ちとは、膨大な遺伝子配列の組み合わせの末に奇跡的に生まれた個体でしかない。いくら命が努力しようと、後天的に身につくものではなかった。
「参考までに、こういう履修を組んでいる人を知りませんか?」
「いるわけないでしょう。こんなふざけた履修を自信満々で組もうとするのは、ウチのお嬢さまぐらいですよ」
「無駄飯食いのキレンジャイ――ッ!」
衝動的に声を荒げた命を、エリツキーが鋭い目つきで牽制する。
命は愛想笑いを浮かべて、ことさら鉛筆を走らせた。監視が外れたことを確認すると、ひそめ声で会話を再開する。
「とまあ、東洋系の魔法少女なのに西洋魔術の講義ばかり参加しているものですから、風当たりが強くて強くて」
「そりゃそうでしょう」
エメロットは当たり前のように返したが、命は当然そんなことは知らなかった。気にせず講義に参加したら大勢の前で教師に面罵されるわ、受講者からは消しゴムのカスをぶつけられるわ、と散々な目に遭っていた。
臆面もなく人のことを『東洋の猿』と嘲る女生徒がいるぐらいだ。元よりその風潮はあったのだろうが、まさかここまでとは。
個人差こそあれ王国育ちの者には特にその嫌いがあるようで。命は魔法少女の楽園に潜む闇に手を触れた気分だった。
「初めこそ錬金術誕生の地として研究が進んでいたエジプトだが、異教徒弾圧が始まると衰退の一途を辿ることとなる。だが錬金術の研究そのものが潰えたわけではない。ビザンチン、コンスタンティノープル、アラビア、ヨーロッパ……と中心地を移しながら発展していくわけだが」
板書をしていたエリツキーが振り返る。
「聞いているか、八坂。エジプトで異教徒弾圧を行ったのは誰か答えてみろ」
「ええっと」命はテキストを斜め読みしようにもページすらわからず「エジプト人ですね」といい笑顔で返した。
なまじ真面目な講義だったこともあり、噴き出す女生徒が続出した。大阪城を建てたのは大工レヴェルの酷い回答だった。
命は伏し目がちにエリツキーの顔色をうかがう。エリツキーは顔を真っ赤にし、怒りに打ち震えていた。
「そうだな……私の聞き方も悪かった。知りたいのは、異教徒弾圧を行った為政者の名前だ。シャルロット、代わりに答えろ」
「テオフィロスです」
「そうだ。ちゃんと聞いているならいい」
テキストに一瞥もくれずに即答されては怒れない。釈然としない面持ちで、エリツキーは講義を再開した。
「才色兼備のギンレンジャイ」
エメロットは澄まし顔でそうつぶやくと、命にだけ見える位置でピースサインを見せた。
(不味い。ただでさえ浮いているのにアホの子だと思われる)
命は、それっきり口を閉ざして講義に集中した。
◆
「よっす。今日は調子良さそうだな、エジプト人」
「……人種差別は良くないと思いますよ?」
今もっともエジプトを侮辱しているのは誰かということはさておき。先の珍回答は、午後の講義が始まるころには広く知れ渡っていた。
お昼ごはんを一緒に食べる約束をしていた根木に会えば「命ちゃん、カレーに詳しいんだって? 今度美味しいカレー屋さん教えてよ」と言われ「それはインド人です」という遣り取りがあり。
体育着を取りに教室に寄れば「あのう……肌は脱色したのですか」と深刻そうな顔をした那須に会い「大変デリケートな問題なので深くは言及しませんが、エジプト人の肌の色は千差万別ですよ。あと私は日本人です」と真面目に返し。
そうして女子トイレでコソコソ着替えを済ませたのち、共通魔法実技のある演舞場に来てみれば、今度はリッカに弄られる始末である。
「まさか、友達が少なそうなリッカまで聞き及んでいるとは」
「……手前らはやっぱり似た者同士だな」
「似た者同士?」
「うんにゃ、何でもねえ」
宮古との間で密談があったことは当然ナイショである。リッカが適当に誤魔化していると、丁度いいタイミングで命に声がかかった。
「そろそろお前の番だ。準備しとけよ」
本来なら大人気なく、いの一番にエジプト人をおちょくりに来たであろう担任、マグナは淡々と言った。
竹刀を振り回すこともなければ、大声をあげることもない。見た目だけがパンクな教師は、絶えず真っ赤な双眸を光らせていた。
様子が違うのはマグナだけではない。
横に立つ同僚、白石もまた普段の愛想がよいキツネ顔を崩し、三白眼で警戒にあたっていた。
どつき漫才コンビならぬヤクザ顔負けの体育教師コンビ。二人の熱い視線の先にいるのは、やはりシルスターだ。
先週、シルスターが栄子を病院送りにした件が『講義中に起きた不幸な事故』として片付けられたことに、二人は並々ならぬ怒りを覚えていた。
同日の職員会議は荒れに荒れ、マグナが古株の教員にドロップキックをかましたとか、出どころ不明な情報が女性徒にも流れていた。
しかし、しょせん噂は噂である。大人たちがどのような議論を経て判断を下したのかは、残念ながら子供たちの知るところではなかった。
ただ女生徒たちが知っているのは事の顛末のみ。シルスターが無罪判決を勝ち得たことだけだ。
この事件は皮肉にも、御三家のご令嬢ヴァイオリッヒ=シルスターが特権階級の人間であることを学内に広く知らしめてしまった。
そして肝心の当人はといえば、今日も取り巻きに囲まれ王さま気分を満喫している。反省した様子など微塵も見られなかった。
「なんじゃ随分とチンタラしておるのう。ろくに試合進行もできぬのか。後がつかえておるのじゃ、早うせい脳筋教師ども」
ブチブチ……っ!
と、二人の体育教師からは血管が切れる音すら聞こえてきそうだ。白石はまだ取り繕えているが、マグナに至っては顔に『まっすぐいってぶっとばす。右ストレートでぶっとばす』と書いてある。
(ひいいいい! 目に見える地雷が目の前に)
そうして怯えていると、不意にマグナが人差し指を揺らした。嫌な予感しかしなかったが、命は黙って耳をそばだてた。
「反対側にいるのが誰だかわかるな」
「そりゃ、クラスメイトだからわかりますが」
コートを挟んだ向こう側には、命と同じく試合に備える女生徒がいる。1-Fの女生徒であり、シルスターの取り巻きの一人でもある。
「骨までなら許す。やってこい」
「たぶん許されない――ッ!」
日に日に取り巻きも増長しているのはわかるが、さすがにそれはやりすぎである。命は頭を振ってお断りした。
「落ち着いて下さい、マグナ先生。悪いことをした当人が痛い目に遭うならまだしも、相手は数いる取り巻きの一人ですよ!」
「ほう。なら八坂をシルスターと対戦させりゃいいんだな」
「……そ、それは言葉の綾と言いますか」
煮え切らない返事をしている内に、前の試合の決着が着いたようだった。これ幸いと、命はそそくさとコートに逃げ込んだ。
「ほら、後ろもつかえていますし、早く始めましょう」
「チッ! 次の金曜日も楽しみにしてろよ」
背中越しに恐ろしい言葉が聞こえた気がしたが、聞こえないフリをした。まさかとは思うが……次回の講義でマッチングさせる気では。
命はぶるりと背中を震わせる。
VSシルスターの結果なんて火を見るより明らかだ。一匹の蟻が巨像と戦うようなものである。
(ううっ、マグナ先生の気が変わることを祈るのみです)
命は気持ちを切り替え、開始線に着いた。相手がシルスターでないとはいえ、油断は禁物である。気を引き締めて立礼する。
「よろしくお願いします」
「あー、よろしく」
お世辞にも態度がいいとは言えない女生徒だ。
その軽薄そうな笑みからして、軽んじられていることは直ぐに理解できた。カチンと来て、思わず命の笑みは強張りかけた。
礼に始まり礼に終わるのが武道だと教えられてきた身としては、対戦相手の振る舞いは許しがたいものがあった。
今日もコートの外では那須と小喬が応援している。無関心を装っているが、リッカだって不安そうに見守っているのだ。
(……こんな人に負けるわけにはいきません)
はじめ――ッ! の合図と同時に試合が動き出す。
命は【呪術弾】を成形しつつ、バックステップで距離をとった。
初回に女生徒B(名前はまだない)に惨敗してから一週間あまり、命とて漫然と日々を過ごしてきたわけではない。
土日はもちろんカフェ・ボワソンのアルバイトがない日は放課後も、宮古の師事を受けてきたのだ。
燃焼音とともに飛来する【紅蓮弾】をかわし、お返しとばかりに【呪術弾】を撃ち返す。軽くかわされたが、相手の目の色がわずかに変わる。後ろに流れる【呪術弾】の出来栄えに明らかに驚いていた。
(よしっ! 魔法弾の制御も問題ありません)
挨拶代わりの遊び弾は終わりだ。
ここからが勝負である。
命は奮起する。姉の教えを守り、復活した【呪術弾】を軸に戦い……結果、呆気無く試合に敗れた。
決まり手はテクニカル・ノックアウト。要は一方的にボコされたので、見るに見かねた審判が止めに入った決着だった。
しょせん命の実力なんてこの程度である。
憤ったところで強くなるわけでもなし。たかだか一週間の努力で内部進学組に敵うはずもなかった。
「お前なあ。使える魔法が少ないなりにも、足を使うとか色々あるだろ。真正面から撃ち合ってどうすんだよ」
あのマグナにすら呆れられる有り様だ。
「足を――」
黙ってコートを去るつもりだったが、命はつい口を滑らせてしまう。言い訳がましくなるので、自分の胸にだけ秘めていようとした縛りを。
「足を使うな、と姉が」
「姉ヶ崎が?」
言われてみればそうだ。試合開始直後に距離をとって以降、命は不自然なまでに棒立ちだった。
「もしかして【結界弾】も禁止か」
「……よくわかりますね」
向けた背中が小さく震えている。
命が己を恥じていることは一目で見て取れた。
外見こそ乙女にしか見えないが、命はれっきとした男である。同年代の女の子に何度もいいようにされて、悔しくないはずがなかった。
「なんでこんな理不尽なことを……と思うときもあるだろ。でもな疑っちゃいけねえ。姉ヶ崎はお前のためになることしかしねえよ」
まだ試合を控えている生徒も大勢いる。残されたわずかな時間。マグナにできることは、頑張る男の子の背中を押すことだけだった。
「今は負けとけ。いつかそれが糧になる」
男の子はつんのめったが、直ぐに体勢を立て直す。
「……ありがとうございます」
そう小さくこぼす背中はもう震えていなかった。しゃんと背筋を伸ばした彼は、誰が見ても黒髪の乙女としか思えないほど可憐な立ち姿をしていた。
「よーし、次いくぞ次」
それから、しばらくの間は静かに試合が進行した。
前回怪我人が出たことも良い方向に作用したようだ。一部緊張感が欠如した生徒もいたが、大多数の生徒は真剣に取り組んでいた。
いい傾向である。
マグナと白石は厳しい顔つきのなかにも、時おり笑みをのぞかせた。
コートマッチは実戦形式を謳っているが、その実スポーツライクな競技である。生徒の力量に合わせて、教師側でしっかり対戦相手も選んでいる。生徒側が真面目にやってさえいれば、そうそう怪我人が出ることはないのだ。
そう、無双の才媛でも暴れぬ限りは。
「遅い。いつまで余を待たせるつもりじゃ」
コートマッチも二巡目にさしかかろうとしたころ、ついに痺れを切らしたシルスターが苛立ちの声を飛ばした。
場は一瞬にして静まり返る。
波が引くように、怖気づいた女生徒たちが距離をとる。とばっちりが来ることを恐れてか、コート内の女生徒までもが自主的に試合を中断した。
集団という大きな生き物が後じさりする気配を、命も感じていた。この状況においても尻込みしない者は、大まかに三つのタイプに分けられた。
一つは、女帝のお膝元に入ることで難を逃れた――イルゼを初めとした――シルスターの取り巻き。
二つは、シルスターの脅しに屈しない――リッカや紅花といった――確かな実力に裏打ちされた魔法少女。
そして最後は、
「待つ? サンタが来るのを待ってるガキかテメエは。いくら待ってもテメエの番なんて来やしねえぞ」
舐められたら終いの教師たちだ。
凄むマグナに対して、シルスターは眉をぴくりと動かしただけだった。
「余の番がない……なぜじゃ? 納得の行く理由を聞かせて貰おうか」
「理由の一つも思い浮かばねーからだよ。反省の色が見られるまで、テメエはコートマッチ禁止だ」
「ふん。取って付けたような理由じゃな。反省する必要もないと判断されたから、余はここにいるのじゃぞ。急にたわけたことを抜かすな」
マグナが歯ぎしりを噛む音がした。
暴言が重なるたび、女生徒たちは気が気でなかった。マグナとシルスターは顔を合わせた初日にも問題を起こしているのだ。いつまた二人の怒りが爆発するのか、女生徒たちは不安げに場を見守り続ける。
「急じゃねえよ。三日前には職員会議で決まってた話だ。あたしがたわけだから、言い忘れてただけさ」
見え透いた嘘であるが、シルスターはそれ以上追及しなかった。
「それでは、いつになったら余の番は回ってくる」
「さあな。今日もかもしれねーし、来年かもしれねーな。まあ、いい子にしてたら、ちゃんと来るさ。サンタと一緒だ」
「……そうか」
シルスターが声を落とした瞬間、女生徒たちは一斉に警戒心を強めた。
来る……っ!
誰もがそう思って身構えたが、
「なら、ゆるりと待つのも一興か」
シルスターはあっさりと口論を切り上げた。問題が起こることを期待していたわけではないが、これには多くの女生徒たちが肩すかしを食らった。
張り詰めた空気が緩んでいく。コート内の魔法少女たちは思い出したように試合を再開し、安堵した女生徒たちもおしゃべりをし始めた。
共通魔法実技の終わりも間もなくである。あと一試合もすれば、鐘の音が聞こえてくるだろう。
(本当に……これで終わり?)
命にはとてもそうは思えなかった。現にリッカや紅花といった魔法少女も、依然として警戒を緩めていなかった。
この用心深い者たちの不安は、直ぐに的中することとなった。
試合が終わると、一人の女生徒が前に出た。教師の指示を待つ必要もない。なぜなら彼女が、一巡目の最後に当たる女生徒だからだ。
「さんざん待たされたんだ。時間もないんだしさっさとやってくれよ。ねえ……マグナ先生?」
シルスターの一番の太鼓持ちである女生徒――イルゼ=ヴェローゼは含みのある声音でマグナを挑発した。
(不味い……っ! 最後のもう一人って)
弾かれたように首を振る。命が、その女生徒がまだ試合をしていないことに気づかないわけがなかった。視線を遣った先。そこには、仔ウサギのように震える那須がいた。
「まさか私まで試合するな、なんて言わないよな」
下卑た笑みを浮かべるイルゼ。
シルスターはこれを見越していたのだと知ったときには遅かった。
何もシルスターが直々に手を下す必要もない。手下を働かせることもまた、女帝の実力の一端である。
これは決まる、と命の頭を嫌な予感が貫いた。
両者万全の状態であれば、イルゼの優勢こそ揺らがないが、那須も酷い怪我を負うまでには至らないだろう。
しかし、さんざんシルスターが脅しをかけた後のことだ。
小心者の那須の顔はどんどん青ざめていっている。こんな調子で【羽衣】が乱れでもすれば、目を覆いたくなるような惨事にもなりかねない。
(こうなったら……私が)
「悪いな那須。お前の番は今度だ」
命が覚悟を固めるより半歩早かった。魔法具"白手袋"をはめた手が、那須のおかっぱ頭を撫でていた。
「よしっ、やろうか」
開始線まで歩いたマグナは、ガチンと両拳をぶつけ合う。
「はっ? 何言ってんだよ先生。私の相手はそこのおかっぱ頭だろ」
「ああん? 何でテメエが選ぶんだよ。対戦相手を選ぶのは、教師の仕事に決まってんだろ」
挑発し返すように、マグナは犬歯をのぞかせた。
「もっとも、前みたいにみっともない姿を晒したくないってんなら話は別だがな。かえーそうだから許してやろうか?」
「……誰が逃げるって? まぐれ勝ちした程度で調子にのるなよ」
「そうこなくっちゃ。どれ、あれからどんだけ成長したか見てやるよ」
全てはマグナの思惑通りに事が運んでいるのではないか。傍から見ていた命にもそう思えた。不安な気持ちは氷のように溶けていく。
(そうですね。マグナ先生がいれば……)
命の出る幕はない。もう舞台の上には、押しも押されもせぬ千両役者がいるのだ。端役がでしゃばる場面ではなかった。
マグナとイルゼの再戦(日帰り旅行前の騒動を含めれば三戦目)は、一進一退の攻防となった。
"白手袋"があるのでマグナが圧勝するという見方が強かったが、それほど意外な展開でもなかった。"白手袋"はあくまで【羽衣】の上から触れられるようになる道具だ。拳装飾品としての有用性はないに等しい。
マグナは拳を散らして、イルゼを【羽衣】の上から叩く。【羽衣】が乱れた隙を狙い、拳で穴を穿とうするもそう簡単にはいかない。
前回の反省をきっちりと活かし、イルゼは慎重に距離を空ける。目くらましから【氷の槍】まで、イルゼの変幻自在の魔法弾には命も舌を巻いた。
(……系統は違えど、同じ魔法弾だというのに)
まるで別物。
気体、液体、固体の三態変化を扱う水系統の魔法少女は成形が得意だと講義で習ったが、命とイルゼではモノが違った。
内部進学生と外部入学生。両者の間にある実力差を、まざまざと見せつけられているような気分だった。
イルゼは攻めの姿勢を崩さない。
逃げ水のように遠ざかったかと思えば、一転して距離を詰めて接近戦を試みる。前回は遠距離戦に固執したあまり、苦戦したことを忘れていなかった。
【水の散弾】
虚を突かれたマグナの反応がわずかに鈍る。
近距離から斉射される水滴の礫を全てはかわせない。拳を振るって、数滴の水を散らした。
「しめた――ッ! これで終わりよ、不良教師」
魔法少女の要たる【羽衣】を持たぬマグナには、数滴の水滴すら命取りだ。イルゼが【氷化】を重なると、"白手袋"は見る見る間に凍っていく。
「うわああああ! あたしの拳が!」
「はははっ。ざまあねえな。そのまま氷の彫像にして」
「――なんて言うか、ボケぇ!」
「ごふぅ――ッ!」
【氷化】を付与した拳が、気を緩めたイルゼの腹を襲う。一発入れると同時にマグナは"白手袋"を捨てて、スペアを装着した。
備えあれば嬉しいな。喧嘩百段の不良教師に隙はない。
ああ……やっぱりこうなったか。ハラハラしていた1-Eの女生徒たちと違って、1-Fの女生徒たちは白けていた。
雨が降る日は天気が悪いのと同じぐらい、イルゼが調子に乗ったら痛い目に遭うのは常識だった。
しかし、今日のイルゼはへこたれなかった。コートを割りそうになるも、掌から水を噴出して踏みとどまった。
「……はあっ」荒げた息を整えて吠える「汚いぞお前! それが教師のやることかよ――ッ!」
「へへーん。勝負の世界に綺麗も汚いもあるか。文句があるなら、そのヘッポコな魔法を一発でもまともに当ててから言いな」
マグナは顔を突き出して頬を膨らます。白い人差し指で、膨らんだ頬をつんつん突いていた。
「ほら、ここだよここ。それとも、んー? 当てられないのかな」
「上等だああああああ――ッ! 調子に乗るなよ不良教師――ッ!」
激高したイルゼは怒涛の攻めを展開したが、その攻めが精彩を欠いているのは誰の目にも明らかで。かくして因縁の勝負は時間切れとなった。
結果はイルゼの判定勝ち。
マグナは有効打を一発入れたが、終始優勢だったイルゼに軍配が上がることになった。妥当な線だが、どちらが真の勝者かは両者の顔が物語っていた。
(マグナ先生の温情込みといった結果ですかね)
心中お察しする。
顔を真っ赤にしたイルゼは、退場する間もマグナに突っかかっていた。
「海藻みたいにゆらゆら逃げやがって。真っ向からやり合えば、お前なんて敵じゃないんだからな! 聞いてるのか不良教師!」
「真っ向からやり合わないのはお互いさまだろ。お前だってさんざん距離とって、魔法弾ばっか撃ってきたじゃねえか」
「……ぐっ!」
ぐうの音も出なかった。イルゼが歯を食いしばり俯いていると、不意に空色の髪を撫でる手が現れた。
「まっ、まだまだだが強くなったと褒めてやろう。ちゃんと先生の言うこと聞いてたんだな。偉いぞイルゼ」
「な……っ!」
それは【氷化】を付与した拳よりも不意打ちだった。
怒りとはまた別種の赤みが頬をさす。心の底から湧き上がる感情を否定するように、イルゼはマグナの手を振り払った。
「ちょ、調子に乗るな!」
「おっ! なんだ照れてるのか? 案外可愛いとこあるじゃねえか」
「そんなわけあるかっ! 手汗がつくのが嫌なだけだ」
「手袋の上から手汗はつかねえんじゃねえのか」
「うっ、うるさい! お前のはつくんだよ。特別臭いから」
言い訳にもならぬ言い訳を叫ぶも無駄だ。マグナは顔を赤くするイルゼを見るのが楽しいのか、しつこく絡み返していた。
(あれ……二人は意外と仲良しさん?)
思えば、イルゼがケチを付けた翌日からマグナの講義は少し真面目になった。付いてこられる奴だけ付いてくればいいという方針をあらため、全体に配慮した丁寧な講義をするようになっていた。
マグナは鷹派なところがある。
良くも悪くも自分が正しいと信じて、ぐいぐいと生徒を引っ張っていくタイプの教師だ。もしかすると、物怖じせず文句を言うイルゼの存在は、行き過ぎたマグナを諌める役割を買って出ている――
(可能性が2%ぐらいなきにしもあらず)
互いに良い影響を及ぼしているかはともかく。二人の相性は良さそうだ。二人を迎え入れる女生徒たちも、微笑ましいものを見る顔をしていた。
――ただ一部を除いては。
パンッ、と乾いた音が温かい空気を切り裂いた。
「ヘラヘラして、何を馴れ合っておる」
取り巻きの輪に戻ってきたイルゼを、シルスターは許さなかった。強烈な平手打ちを浴びたイルゼが、体勢を崩して倒れ込む。
瞬時にして場が凍りつくなか。真っ先に動いたのはやはり、先ほどまで敵対していたマグナだった。
「おいテメエ、何してやがる!」
一度ならず二度までも。
教師の目の前で生徒に手を上げるとはいい度胸である。
今度はマグナが顔を真っ赤にする番だった。大股開きでズカズカとシルスターに詰め寄り、胸ぐらを掴む勢いだったが、
「……いいって。ただの遊びだよ遊び」
イルゼが手を伸ばして拒絶した。生徒同士の仲は難しい。遊びだと言い張られては、マグナも踏み込なかった。
「だ、そうだが。主は女生徒同士の仲にも口を出すような野暮な教師なのか」
言いよどむ間に鐘の音が鳴り、シルスターを中心とした一派は我が物顔で勝手に帰っていく。
立ち上がり、後を追いかけるイルゼの背中を、マグナは黙って見つめていた。
「あー、なんや。今日の講義は終了~! ほな、また金曜日にお会いしまひょ――って、1-Eの生徒は次の講義でご対面やないか!」
白石のノリ突っ込みはごっつ不評だった。
女生徒たちは苦笑い一つ浮かべずに、演舞場から出て行く。これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは御免だという様子がありありと見えた。
(……マグナ先生)
薄情者と言われるかもしれないが、掛ける言葉が見つからなかった。命もまた人の波に飲まれて演舞場をあとにした。
女生徒が立ち去り、ぽっかりと穴が空いた演舞場。マグナは白石が肩を叩くまで呆然と立ち尽くしていた。
「白石」
「なんや」
「お前のノリ突っ込み、めっちゃ寒いな」
「アホ。ウチは生粋のボケやねん。自分がツッコミサボったせいやろ」
スパンッ、と白石は程よく引き締まったマグナの尻を叩いた。いつまでも落ち込んでいる暇はない。次の講義はもう直ぐそこまで迫っていた。




