第89話 雨の日の憂鬱
くせっ毛を湿らせる細かな雨粒。
鉛色の雲が垂れ込める空を見上げる。
泣き止んだと思った空はまたぐずり出し、霧雨を降らせていた。
「……はあ」
ため息を落とす。
彼女は雨が嫌いだった。
ただでさえ癖の強い髪が、より手に負えなくなるのだ。水気を増した髪はウェーブなどという生易しいものではなく、大津波。翠の海の至るところで波が巻き起きていた。
死にたい……起き抜けに彼女が抱いた感情が、それだった。
今朝は最悪だった。
髪は天敵である湿気にやられて言わずもがな。
しかも、調べ物に熱中するあまり、本を枕にして寝てしまう有様だ。
額は真っ赤。目元にはうっすらと青ずみまで入っていた。
うわっ……と鏡の前で思わず呻くほどひどい。
あたしの女子力、低すぎ……?
窓の外を見ると、同意するように空が泣いていた。
だから雨は嫌いなのだ、と彼女はいつもより念入りに空を睨んだ。
化粧とブラッシングで、どこまで誤魔化せるやら。
前までの彼女なら適当なところで妥協していただろうが、最近はそうもいかない。わたわたと鏡の前で奮闘した。
――負けるなあたし、敵は己のなかにあり。
――あたしはやればできる子、もっと可愛くなれる……のかなあ。
時おり不安に襲われるも、魔法の言葉を唱え続けて完遂。
ベストとまではいかずともベターまでは持ち直した。女の子としてのプライドを取り戻した彼女は少し誇らし気に登校し、学校では終始そわそわしていた。
そして全ての講義を終えた今、彼女は正門前に立っていた。
黒いロートアイアンの門扉の前で一人傘をさす。
人通りは殆どない。五限目が終わってから、それなりに時間が過ぎていた。帰る者はとうに帰り、残る者は喫茶店に居座るなり、部活動に励むなりしていた。
……未だに待ち人来たらず。
約束の時間から五分は経っていた。
あたしを待たせるなんて、良い度胸をしてやがる……罰金ものだな。コーヒーの一杯や二杯では済まさないぞ。どんな苦言を呈してやろうか。
――などと考えながらも、彼女は楽しそうに傘を回していた。
本来であれば傘なんて要らない。
傘は不便だ。魔法少女にとって傘は重荷に他ならない。
雨粒を弾く【羽衣】を纏えば済む話である。全身を隙間なく覆うそれであれば、こうして風のなかを揺れる霧雨に濡らされることもなかった。
それでも、彼女は傘をさし続ける。
雨のなかポールのように突っ立っている女でも、傘をさしていれば幾分見栄えが良くなるのではないか。そんな淡い期待を抱いてのことだった。
「あっ」
黒いこうもり傘が走り来る。
実用性を重視した味気ない傘が、なんとも彼らしい。
原因不明の不調で【羽衣】を纏えぬ待ち人は、息せき切って走ってきたようだ。うっすらと顔に浮かぶ汗には雨が混じっていた。
「すみません! 掃除を押し付けられてしまって……待ちましたよね?」
上目遣いで顔色を窺う彼がいじらしくて、
「気にすんな。あたしもさっき来たところだ」
皮肉を言うのも忘れて、つい彼女は微笑んでしまった。立場は逆な気がしてならないが、憧れのシチュエーションである。
(これがデートだったら、言うことなしだったんだが)
先週のデートが流れてしまったのは記憶に新しい。
もしかしたら、今週は彼の方から誘いに来てくれるのではないか。そんな期待に胸躍らせながら、彼女は部屋で一人ファッションショーを開催していたのだが、その期待はものの見事に空振った。
どうやら彼は、他の女に土日とも独占されていたらしい。
薄情者め……という言葉が先立つあたり、彼女は自分が面倒な女だと自覚していた。
どうして素直に羨ましいと言えないのだろうか。
心のなかには、こんなにも好きが溢れているのに。
どうして羨ましいの一言すら言えないのか。
言葉でなくとも構わない。服の裾を引っ張ってみたり、手を繋いでみたり、そうやって彼の気を引く真似ひとつできない自分が、もどかしくて仕方がない。
わかっている。
彼女はわかっているのだ。
自分がそういう人間ではないのだ、と。
どこかで心と体がバランスを取りたがっている。十六年培ってできたウルシ=リッカという人格が、彼女のワガママを許してくれなかった。
"リッカさん"という理想に相応しくない行為だとか、こんな背の高い女が恋をするなんておかしいとか、彼女を止める理由だけは泉のように湧いて出た。
(いや、それすらも)
――意気地のない自分を正当化しているだけなのかもしれない。
悶々とした思考を抱えたまま、彼女は歩く。
だからこそ反応が遅れたのだろう。
「わっ!」
隣を歩く彼の声で、我に返る。
迫り来る水しぶき。
横切ったバスが窪地にたまった水を飛ばしていた。
完全に油断していた。彼女は間に合わない。
平時であれば風を操り、難なく切り抜けられるところなのに。
「――ッ!」
こうなれば、水も滴るいい女になるまでである。覚悟を決めた彼女は目を閉じて待つも、一向に水しぶきはかからなかった。
ボタボタ、と布を打つ音が聞こえる。
そっと瞳を開くと、大きなこうもり傘を盾にした彼が前に立っていた。
「セーフ」
長い黒髪を濡らした彼は、いたずらっぽく笑う。
引っかけ水は防げたが、いつの間にか勢いの増した雨は避けようがなかったようだ。ずっと考え込んでいた彼女は、雨量の変化になど全く気づいていなかった。
(あれ、それどころか)
どうやって歩いてきたんだっけ、とすら思ってしまう。
ぼうっとしていたのに、何不自由なく歩いて来れた理由は直ぐにわかった。
横は歩く彼が、絶えず気を遣って誘導してくれていたのだ。
「あまり考えごとしていると、危ないですよ」
車道側に立つ彼の微笑みが、直視できない。
彼女が自分を女らしくないなんて悩むより前に、彼は彼女を一人の女の子として扱ってくれていた。そんな些細なことが嬉しくて堪らなかった。
「うん……ありがとう」
「おや、どうしたのですか? 今日はやけに素直ですね」
「一言多いんだよ、手前は」
彼女は、すかした彼の頬をつねってやった。
いちいちムカつく。好きだ。キュンと来たじゃねーか、バカ野郎。
彼女なりの罵詈雑言(全然これぽっちも罵詈雑言じゃない)を心中でぶちまけながら、みょんみょんと彼の頬を伸ばす。
みょんみょん……みょんみょん。
伸びる伸びる、彼の頬は餅のように伸びた。
(おおっ、なんだこれ。どうやって肌の手入れしてるのか聞きたい)
「ふええ、そろそろ離して下さい」
「あっ、悪い」
危うく魔性のもち肌に魅了され、ずっと引っ張っているところだった。彼女は慌てて、彼の頬から手を離した。
「えっと……先に行きましょうか」
「……だな」
妙な沈黙を引きずりながら、二人はバス停まで歩いた。
到着して直ぐに運行表を調べるも、間が悪い。先ほど水をはねたバスが出たばかりだ。屋根の下で傘を畳むと、二人は備え付けのベンチに腰を下ろした。
隣に座っているのに埋まらない、わずかな距離。
止めどない雨音だけが、二人の世界を満たしていた。
悪い沈黙ではない。
ただ優しい時の流れに、二人は身を任せた。
(一生バスが来なければいいのに)
奇しくもその彼女の祈りを裏切るように、数分後にはバスが到着した。幸か不幸か運行ダイヤが乱れていた関係で、思いのほか早く乗れてしまった。
悔しい……けれど、そんなことを口に出しては言えなかった。
彼もあたしと同じことを考えているのだろうか。彼女はそのことだけが妙に気になった。
◆
隣の彼こと命は、思いがけずバスが早く来た幸運に感謝していた。
(調子悪そうですけど、大丈夫ですかねえ)
昨日からどうもリッカの様子がおかしい。
共通魔法実技を抜け出す前あたりから怪しんでいたが、どうやら勘違いではなさそうだった。
上手く隠してはいるが、目の下のクマもお見通しである。
黒髪の乙女は、化粧にはうるさいのだ。
一過性のクマの場合、不摂生な生活による血行不良が原因であることが多い。化粧をする前に蒸しタオルで顔をしっかり温めるのがポイントなのですよ、とつい口をつきそうになる。
(と、いけない、いけない)
お節介が過ぎるのも考えものだ。
カフェ・ボワソンの女神と呼ばれるリッカも、意外と気難しい女生徒である。干渉しすぎるのも逆効果だろう、と命は思い直す。
本来の目的からは外れるが、ついでにリッカの健康状態を調べて貰ってもいいかもしれない。命たちが目指す場所は、それが叶う場所だった。
「診療所までお願いします」
命は運転手に行き先を告げる。
色褪せた旧式のバスであるが、精算方法はもっと時代がかっていた。機械的な運賃箱は取っ払われ、代わりに木箱が付いている。運賃箱ならぬ賽銭箱である。
(うわあ……不正乗車されそうな造り)
無論、命はそんな真似はしない。一目惚れして購入したこうもり傘が、いいお値段だったので懐に響いていたが……そんな真似はしない。
決して、運転手が目を皿のようにして運賃を確認しているからではないことを、ここに断っておこう。黒髪の乙女は裏表のない素敵な人です。
キセル?
慶長年間に欧羅巴から伝来した喫煙具のことでしょう。
私は嗜みませんよ。美味しい空気が吸えれば十分ですから。
無人駅? すり抜け? 期限切れ定期?
なんですかそれ、聞いたこともありません。
――と答えるのが、黒髪の乙女の模範解答である。
「……くっ」
命は身を切る思いで、賽銭箱に小銭を投下した。
次いでリッカがカードをかざすと、ピロリンと決済音が鳴り響く。ローテクなのかハイテクなのか、いまいち反応に困る造りだった。
「気にすんな。この国は、こういうとこ病的なんだよ」
窓側席に座った命に続き、リッカが通路側席に座る。脚の長いリッカが窮屈しないようにと配慮した結果、自然とこの席位置に落ち着いた。
「病的ですか」
「そっ。この国には外の国と決別したっていう歴史があるから、外のものに頼るのに忌避感があるんだよ」
「……カード決済はいいのですかねえ」
「と思うじゃん。これが嘘か本当か、カード決済のシステムをいち早く打ち出したのは魔法少女らしいからな」
命は目を丸くする。
歴史がひっくり返りそうな仰天発言だった。
「それは……さすがに嘘でしょう。元ネタはユートピア小説の未来予測だったと存じていますが」
「事実は小説よりも奇なり、ってな」
リッカは、中指と人差し指に挟んだ金色のカードを見せる。魔法少女のお財布カードだ。
「建国期――だいたい六〇〇年前のセントフィリアには、王国きっての変態がいたんだよ」
「えっと……セレナ=セントフィリアか、リッシュ=ウィーンのことですか」
セントフィリア王国初代女王、セレナ。
女王の右腕にして最悪の背徳者、リッシュ。
セントフィリア史の講義で、命もこの二人の名前はよく耳にしていたが、違ったらしい。リッカは小さく頭を振った。
「惜しい。建国期には、その二人も含めた十二英傑って呼ばれる魔法少女がいて、その内の一人だな。ナタリーやアウロイなんかも十二英傑に数えられる」
「ああ、ナタリー城壁とアウロイ山脈の人ですか」
セントフィリア王国には、功績を残した魔法少女をたたえるため、その者の名前を土地や建物に冠する伝統がある。命もそのことは理解していた。
「そういう偉大な魔法少女の一人だってことだ。お財布カードの生みの親の名前はアルフ、一言で言うなら発明家だな」
「へえ。ならこのカードの名称が、アルフってところですか」
うーん、とリッカが悩ましげな声を上げる。
ぶろろんと排気筒を鳴らしたバスが走りだした。
「アルフは完成品には執着しなかったからな、自分の名前を付けたものはないんだが……強いて言うなら、別の発明品の俗称というか」
「別の発明品?」
「言語変換フィールド――アルフ。正式名称じゃないけど、畏敬の念をこめて、そう呼ぶ人も少なくない」
「……あれもですか」
もはや変態と呼ぶしかない。
言語を問わず自動変換するシステムなど、狂気の沙汰である。こんな技術が流出したら、駅前留学どころか外国語スクールをも滅ぼしかねない代物だ。
「あれどころか、魔力摘出手術を生み出したのもアルフだぞ。魔法石に通話機能を載せたのもそうだし、演舞場の対魔力レンガもアルフか」
これもアルフ、あれもアルフ。
私たちの身の回りにはアルフの技術が溢れていることを知る、命であった。
「……まあ、難解すぎて魔法構築式が解読できない物とか、用途不明な開発品もゴロゴロしてるのがアルフなんだ――ふぁ」
言い終える手前で、リッカは口を押さえる。あくびを噛み殺す彼女の目元には、大粒の涙が浮かんでいた。
「寝ていてもいいですよ。着いたら起こしますから」
「悪い、それじゃあ甘えさせて貰うかな。眠くて眠くて仕方ないんだ」
語り足りなそうではあったが眠気には勝てず。トロンとした瞼を落とすと、リッカは静かに寝息を立て始めた。余ほど眠かったのだろう。
穏やかな寝顔を盗み見て、命はクスリと笑う。
普段は大人びたリッカであるが、好きなこととなると妙に饒舌になる側面がある。まるで遠足前夜にはしゃいでいる子供のようで、微笑ましかった。
(……魔法の上に成り立つ国か)
命は【呪術弾】を胸の高さに浮かべる。
球体にはほど遠い歪な魔法弾が宙を漂い、やがて空気に溶けた。
コンディションは悪くない。むしろ好調であるとすらいえるのに、未だに魔法の不調からは脱せずにいた。
なぜこうも上手くいかないのか、当の本人も皆目見当が付かない。昨日まで乗れた自転車に、急に乗れなくなったようなものなのだ。
「どうしてですかねえ」
隠していた不安が、知らず口から落ちた。
魔法の喪失。
別段大したことではないと思ったことが、命の胸をつかえていた。
命が住む世界――リッカたちが外の国と呼ぶ場所――では、魔法が使えないことを不安に思うことなどなかったが、ここは違う。
セントフィリア王国は、生粋の魔法の国である。
この年ごろの魔法少女であれば、魔法が使えるのがごく当たり前のこと。みんなができて当たり前のことが、今の命にはできなかった。
命は魔法弾をつくる。やはり歪な形をしていた。
「上手くいかないなあ」
できて当たり前のことができない者を、世間は落ちこぼれと呼ぶ。
それは異郷の島国であろうと同じことだ。
陰で誰かが笑っていて、自分のことを落ちこぼれだと蔑んでいる。そんな気配をはっきりと感じ取れてしまう。
そこまで注意が行き届く自分に嫌気が差す。己の器の小ささを思い知らされるようで、命はため息を落とした。
――魔法が使えないことは悪なのか。
ルバートにそう問われたことがある。
――魔法少女じゃない子は、この国で生きていけない。
そういった理由で、リッカの妹が国を去ったとも聞いていた。
いや、話半分にしか聞けてなかったのかもしれない。
受け止めていた言葉の数々が、途端に重みを増した気がする。命が考える以上に、この国は魔法という奇跡を崇めていた。
できる者には賞賛を、できぬ者には嘲笑を。
方やこの国の根幹を成すような魔法少女がいるかと思えば、方や魔法の基礎である魔法弾すらロクに生成できない魔法少女だっている。
(何なのでしょうね、魔法って)
寝ていると知っていても、怖くて声には出せなかった。
ずっとその問いに対する答えを探し続け、今もなお暗闇のなかでもがき苦しんでいる彼女にだけは聞けない問いだ。
才媛と持て囃されながらも、満足に魔法が使えぬリッカ。天国と地獄を知る女神さまは、なにを想うのか。
「ううん」
可愛らしい寝言を漏らし、リッカがしなだれかかる。
命は、彼女の頭を器用に肩に乗せた。身長差があるので肩枕を維持するのは難しいが、それでも踏ん張る。
真っ直ぐ背筋を伸ばし、無理な姿勢を保つ。
今はただ、彼女をゆっくり眠らせてあげたかった。
(……止みませんねえ)
必死にしがみつく雨粒が、車窓から高速で流れて落ちていく。雨の勢いは増すばかりで、外に広がる街並みも雨のなかに消えていく。
(あれだけの――)
あれだけのことをしでかしたシルスターが、何のお咎めもなしに許されたのも、やはり彼女が優秀な魔法少女だからなのだろうか。
診療所で眠る女生徒のことを思うと、やるせなかった。雨雲みたいな想いが胸を埋め尽くす。
雨も、命の憂鬱もまだ止まない。




