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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
88/113

第87話 手と手をつないで

 命はゴクリと息を呑む。

 高度六千メートル――ここは雲と空が交じり合う世界。スカートを気遣う必要がない代わりに、震え上がるような怖さが足元に広がっている。


(こんな高い場所は、さすがに初めてです)


 これも【羽衣(ローブ)】を習得したからこそ可能な芸当である。上空の身も凍えるような冷気も、今は露ほども感じられなかった。


 藍や茜に濡れる雲海。その先の景色は霧がかっている。あれだけ広大なセントフィリア女学院がミニチュア模型のようだった。


(こ、これ、落ちたらどうなるのでしょう)


 魔法理論上は上空何万メートルから落ちようと、しっかり【羽衣】を着込んでいれば無傷での着地が可能である。だが、実際にそのような真似ができる者は女学院にも一握りだ。


 魔法は精神と密接に絡んでいる。

 心が乱れれば、鉄の衣も一本また一本と紐解けて、やがては効力を失うまでである。


「早く探さないと、私の身が持ちそうにありません」


 命は忙しなく頭を振る。

 高虎の話によれば、宮古は上空六千メートル付近を好む生き物だそうだ。嘘か真か、肌感覚で高度を掴めるというのが彼女の談である。


 ――あいつは、その程度の高度なら、地上に何があるか手に取るようにわかるらしい。


 鳥人間もびっくりの鳥人間ぶりだ。

 あまりのトンデモぶりに、本当の人間なのかと問えば、魔法少女だよと高虎は真顔で返してきた。


 文字通り住む世界が違う。

 命は驚愕しつつも、胸ポケットに差した温度計を確認する。高度など測れぬ命のために、高虎がその辺の教室からかっぱらった品だ。


 ――高度二百メートルにつき、大体0.6度下がるぞ。


 高虎の理屈は正しい。

 だが、根本的に何かが間違っていた。

 命はここぞとばかりに妹ぶりを発揮して、上空まで先導して欲しいアピールを試みたのだが、


 ――いや、あたしは妹のことは温かく見守ることにしたから。


 超ドライな対応の前に敢え無く撃沈した。

 かくして命は泣く泣く下層雲を越えて、中層雲と高層雲の間をふわふわ彷徨っていた。


 本当に逢えるのだろうか。

 雲を掴むような途方もない話に思えたが、高虎の言を信じるならば可能性はある。


 宮古は、白亜の城の上空付近を漂っている。

 そう断言する高虎の自信は、経験に裏打ちされたものだろう。苦笑する彼女の顔からは、過去の苦労が滲み出ていた。


(まあどの道、他に手がかりもありませんしねえ)


 今は高虎の言葉を信じ、命は先を急ぐ。


「うわっぷ」


 不意にひときわ強い風が上空を駆け抜ける。

 強風に煽られ、命はでんぐり返った。


「これは気が抜けませんねえ」


 体勢を立て直し……そこで、命は目を見開いた。

 ぶわりと舞い上がる黒髪が夕日を帯びる。箒に横座りする魔法少女は、どんな強風が吹こうが動じることなくユラユラ揺れていた。


 ……いた。


 ついに宮古を視認した。

 考えるよりも早く唇が動く。お姉ちゃん、と命はあらん限りの声で叫ぶも、


「…………っ!」


 ごうごうと吹き荒ぶ風が邪魔をする。

 しかし、まるで念が通じたかのようだった。

 声を聞き取ったかのように、宮古が振り返っていた。驚愕で彩られる瞳の色すらわかるほどに、命は一心に姉を見つめていた。


 雲間を縫い、空を駆ける。

 軽快に箒を飛ばす命だったが、彼を待っていたのは予想だにしない姉の反応だった。



 逃げた。



 謝罪する暇すらなかった。

 宮古は跳ねるように箒に座り直すと、猛然と背を向け魔力を吹かせた。


 それが怯えによる逃走(もの)であることは、命にも直感的にわかった。

 宮古は姉妹の縁を切られることを過剰に恐れていた。もう二度と繰り返したくない現実から、彼女は全力で飛び去ったのだ。


 一時でも長く姉でいるために。

 逃げて逃げて逃げて、空の果てまでも駆けるつもりなのだろう。


「…………っ!」


 懸命に叫ぶも、命の声は厚い風に阻まれた。

 どれだけ心を振り絞っても、感情の一欠片とて伝わらなかった。


 それが悔しくて悔しくて、堪らない。

 遠く離れた姉との距離に歯噛みして、声を張り上げたが、それも逆効果だった。


 必死になればなるほど、命の顔を強張る。

 振り返り、妹の必死な形相をみるたびに、宮古の疑心暗鬼は加速した。


 あの風よりも()く、あの雲より遠く。

 空に線を引いて、黒髪の流星姫は走る。

 尾を引くようにキラリと水滴が瞬いては消える。宮古の頬を横に流れた涙は、高速で空に溶けていった。


 ――あれ、なんで?


 振り返ると、まだ命が叫んでいた。


 どうして命が見えるのか。

 宮古は、黒髪の流星姫と呼ばれるほどの箒乗りである。全力加速(フルブースト)した彼女の背中を拝める女生徒など、そうはいない。


 なのに何故、命は宮古に食らいつけるのか。

 運命の赤い糸が結びついているのか――阿呆らしいと、宮古は戯けた思考をダストシュートした。


 あるいは、命の飛行速度が宮古に勝るのか。

 それも有り得ない、と断言できた。

 この数日で、命の魔法の腕は把握している。どんなに高く見積もっても、当社比二分の一倍速である。


 なら、答えは一つしかなかった。


 ――ああ、私が遅いんだ。


 どこまでも逃げたいと願う反面、どこかで追い付いて欲しいと願っていた。

 去年のあの日から、妹のことを待ちわびていたのだ。

 心の奥底に眠っていた願望に気づくと、宮古の心は途端にぐらついた。


 捕まえられたいのに、私はどうして逃げているのか。

 わからない。宮古にはもう何もわからない。千々に乱れた心が、紙吹雪にように空に散らばっていく。


 どこだ。私はどこに向かっているのか。

 自問するも答えは見いだせない。

 もはや前も後ろもわからない。指針どころか果てすらない雲の海に溺れ、宮古はとうに迷子になっていた。


 延々と責め立てる風は肌を切るほどに寒く、宮古は思わず振り向いた。


 そこには、必死に後を追う命がいた。

 沈む夕日よりも心を温めてくれる存在が必死に、ともすれば鬼のような形相で叫んでいた。


 そんな顔すらも愛おしい――宮子がそう思った瞬間だった。


「――ッ!」


 猛風が宮古を飲み込む。

 大口を開ける命は、警鐘をかき鳴らしていたのだ。その真意に気付かされたときには遅く、宮古はとうに空にさらわれていた。


 瞬く間に、箒は空に流れた。

 あれだけ一緒に空を駆けた仲なのに、薄情なものだ。宮古は冗談めかして相棒を見送った。


 さて、無事に落下できるだろうか。

 宮古が自問するも、高速回転する頭は無慈悲な答えを返してきた。知らぬ間に【羽衣】も千切れている。道理で寒かったわけだ、と彼女は一人納得した。


 箒乗り(ライダー)としては、悪くない散り様かもしれない。

 宮古は歯を食いしばりながらも、精一杯この終わり方を肯定してみせた。でなければ、あまりにも惨めでやり切れなかった。


 ――せめて現実が追い付くよりも早く。


 このまま事切れれば、永遠に姉として終われた。


 空の果てに届くこともなく、魔法少女は落ちていく。


 死因、妹せつな死。

 格好悪いにもほどがあろう。

 あまりに恥ずかしすぎて、他所さまに顔向けができない。棺桶を開けられた瞬間、思わず赤面するかもしれない。せめて「あいつは妹に生きて、妹に死んだ」と語り継いで欲しいものである。


 などと、宮古は死の恐怖を紛らわせていたが、


「お姉ちゃん――ッ!」


 そんな葬式に参列するのは御免こうむる、と命が頭から突っ込んだ。あの姉のニヤケ面を見れば、良からぬ妄想に耽っていたのはお見通しである。


 やっとの思いで捕まえた姉である。

 ここで逃してなるものか、と命は姉を抱き止めた。


「ぬぎぎぎ――ッ!」


 【羽衣】のおかげで受け止めた際の衝撃こそなかったが、落下の勢いはまるで衰えを知らない。


 落下型ヒロインが重い。超重い。

 命の想像を優に超える重力が働いていた。


 ぐんぐんと高度が落ちていく。

 中層雲から下層雲に。真っ逆さまに落ちているにもかかわらず、天国に向かって羽ばたいているようだ。


 髪が自前で良かった、と命は心底思う。

 でなければ、逆立つ黒髪はとうに飛び立っていただろう。恐怖から滲み出る汗も涙も何もかも、全ては上空に吸い込まれていった。


(魔法弾を爆発させて……いや、この状況下でこれだけの勢いを止めるものを作るとなると)


 胸の鼓動も天井知らず(スカイハイ)

 命の胸は張り裂けるどころか、今にも家出しそうな勢いだ。胸パッドが危ない、そんなことは百も承知だが、今は女装の神に祈るしかなかった。宮古が重石になり、スカートがめくれ上がるのを食い止めていることだけが唯一の救いである。


「良いから! 無理しないで降ろして!」


 見かねて、宮古が喚くように懇願した。


 先ほどから、命の箒はガタガタと震え続けている。

 飛行魔法が乱れている証拠だ。宮古であれば支えられたが、逆の場合はそうもいかない。命が背負うには、宮古という荷は重すぎた。


「嫌……ですっ!」


 しかし、命は頑として聞き入れなかった。

 どんな言葉で誤魔化そうと、それは捨てろということだ。我が身可愛さで宮古を捨てるぐらいなら、潔く心中を選ぶ覚悟が命にはある。


「絶対に離しませんからね」


 そして――黒髪の乙女は微笑んでみせた。

 大丈夫だと、百の言葉を尽くすよりも説得力のある顔で。この窮地にいながら、どうしてそのような顔ができるのか、宮古は我が目を疑った。


(出なさい、こういうときの魔法でしょう!)


 命は箒の真下に、意識を集中させる。

 独自の加速方法が叶わぬというならば、正攻法をとるまでだ。フィロソフィアや宮古がみせたように、飛行魔法には【加速(ブースト)】という魔力の上乗せがある。


 空中レースのときは、最後の最後まで真似できなかったが、今回ばかりはできないでは済まない。不発に終われば、一巻の終わりである。


(お願いだから、今この瞬間だけでも……っ!)


 神の気まぐれを、奇跡の御業を、乙女は祈る。


 命は火力を必要とする魔法を不得手としていた。

 フィロソフィアとの空中レースで速度が劣ったのも、実力上位の魔法少女や魔物との戦いで歯が立たなかったのも、火力不足によるところが大きい。


 火力を、もっと火力を。

 命が頭に浮かべるのは、赤黒い爆発。

 ルバートが演舞場で炸裂させた、【マグマスライム】のごとき紅蓮の炎。周囲の空気を喰らい尽くし、灰と熱気を撒き散らすほどの爆発力を欲した。


 しかし、現実は非情である。

 本来であれば、その程度の思念は手助けにはならなかった。命は為す術もなく赤い染みになる運命であったが、


「やった! 魔力が噴出し――」


 魔法使いの枷は、とうに壊れかけていた。

 カーチェの迷宮での魔力暴走は、命の魔力供給器官に大きな爪痕を残していた。


 命の魔力ハンドルは馬鹿になっていたのだ。

 ゆるゆるのハンドルは、命のちっぽけな思念にも歯止めをかけられなかった。


 結果。


「たああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!?」


 命の想像を遙かに越える魔力が噴出した。


 落下から一転。

 暴走した命の箒は、天を衝く勢いで急浮上した。

 悲鳴とともに姉妹は昇る。箒に乗っているというより、もはやスペースシャトルの外壁に張り付いているといった方が近い。


 おぼろ雲を突き抜け、下層雲から中層雲へ。今度は文字通り天にも昇る心地だった。


 勢いがどこまで続くか定かではないが、高層雲まで昇ってしまうと取り返しのつかないことになる。

 そこは、地上と比にならない暴風が吹き荒れる世界だ。宮古とておいそれと足を踏み入れぬ領域である。


「命ちゃん、抑えて……っ! 激しすぎる!」

「抑えてと言われましても、無理です!」


 お姉ちゃんは必死に呼びかけるも、残念ながら妹のきかん()が収まる気配はなかった。あとは天に運を任せ、必死に身を寄せ合うだけだった。


「……止まった」


 そうして、ガス切れを起こしたのが高度七千メートル手前のことだ。もう千メートル空を昇っていたら、恐らく空の藻屑と化すところだった。


「ぷっ……ハハハハハッ!」


 その危機的状況に神経をやられてしまったのか、箒の後ろによじ登った宮古は大笑いした。


「あの、お姉ちゃん」


 命はこわれものに触るように慎重に接したが、宮古は至って正常である。むしろ彼女の頭はこれ以上ないくらいに澄み切っていた。


 空は広く高い。

 果てを拝むどころか、高度八千メートルにも至れない。

 そう思うと、実にちっぽけなものだった。


 この空から見れば、ちっぽけな人間の、ちっぽけな悩みだ。この数日間、一体自分は何を悩んでいたのだろう。そう今なら笑い飛ばしてしまえるほどに。


 笑い止むと、宮子は命の背中に話しかけた。


「夕日が綺麗だね、命ちゃん」

「ええ。近くで見ると格別ですね、お姉ちゃん」


 こんな自分をまだお姉ちゃんと呼んでくれる命を、宮古は精一杯の愛情をこめて後ろから抱きしめた。


 頬を背に付け、腰に回した手に力を入れる。

 やっぱりあの日と同じ抱き心地だ、と宮古は顔を甘くとろけさせた。


「ねえ……命ちゃん」

「何ですか」

「お姉ちゃん、今から凄いわがままなこと言うけど、聞いてくれる?」


(うーん……凄いわがままですか)


 それは背中に密着するわがままなボディぐらい困りものであったが、命は少し考えた後、どうぞと返した。


「あのね、その」


 宮古は、もごもごと口を動かしている。

 妹にわがままを言われるのは大好きだが、妹にわがままを言うのがこんな恥ずかしいなんて、彼女は知らなかった。


「ゆっくりね……うんとゆっくり下りて欲しいの」

「お安いご用です」


 黒髪の姉妹を乗せた箒は、夕日とともにゆっくりと沈んだ。地上に降り立つまで、宮古はずっと命を抱きしめたままだった。


 恥ずかしくて、宮古の胸は高鳴りっぱなしだ。

 父親を除けば命は、彼女が初めて抱きついた男性だった。




     ◆




「ほら、大丈夫? しっかりして」


 宮古が夜空から流れ落ちたあの日。

 意識が朦朧とする命に肩を貸したときから、彼女は気づいていた。何十、何百の妹に抱きついてきた彼女だからこそわかる、その腰回りの違和感。


 命の骨格は、宮古の抱き着き目録(データベース)のどれにも類似しない。限りなく女性に似通っているが、何かが決定的に違った。


 強いていえば、命の抱き心地は久しく会っていない父親を想起させた。スペシャルな妹かと思いきや、弟なのか……宮古は激しく動揺した。


 それから。

 悶々とする内に夜が明ける日々が続いた。

 布団に入っても目が冴えて眠れない。女子寮を抜けだしてはルービックキューブを弄り、月を眺めてばかりいた。


 どうして魔法使いが魔法少女の園にいるのか。宮古の煩悶は日に日に増していった。六面体を何回揃えようと、肝心なパズルは解けやしなかった。


 ただ、一つだけ心に決めていたことがあった。

 もしも命がこの国の妹に害を成すのなら、宮古は彼を処刑台に送り込むつもりだった。


 あの魔法使いは、何を企んでいるのか。

 いつ尻尾を出すのかわからない命を、宮古はひどく警戒していた。それこそ命がストーキングと称すほどに厳しく監視するほどに。


 疚しいところがあるか確認するため、ときに大胆な行動もとってみた。口付けをせがんでみたり、ベッドに潜り込んでみたりもした。もし手を出したならば、骨という骨を圧し折り、憲兵に身柄を引き渡すつもりでいた。


 だが幸か不幸か、物騒な事態には発展しなかった。

 命にはおよそ悪性と呼べるところがなかった。

 どころか、宮古を驚かせるほどに純な少年であった。その容姿も合わされば、大和撫子という形容が似つかわしいほどだ。


「いや、男でしょうが」


 その楚々とした容姿。

 奥ゆかしいが、芯の通った性格。

 宮古が理想とする妹像にもっとも近いのが命だというのは、何とも皮肉が利いていた。


「……何やってるんだろう、私」


 ベッドの上で膝を抱え、宮古は反省する。

 そもそも、ハーレム目当てでセントフィリア王国に潜入する馬鹿がどこにいるというのだ。命知らずにもほどがある。


「命ちゃんだけに、命知らず」


 小さく吹き出してから、大きく呆れた。

 無論、命にではなく自分にである。

 コテン、と宮古は横になる。この懸案はどうしたものかと考える。


 王国の教えに従うならば、魔法使いは即処刑である。何なら出合い頭に【帝釈天砲(たいしゃくてんほう)】でもぶっ放して、消し炭にしても良かった。


 世のため(くに)のためを思えば、即射殺するべきなのかもしれない。


 でも、宮古は命のことを知ってしまった。

 この数日で知りすぎてしまった。

 触れれば触れるほどに、どうしても彼が災厄の象徴とは思えなくなる。宮古の天秤は命の側に傾きつつあった。


「たぶん放っておいたら」


 ――遅かれ早かれ、あの子は死ぬ。


「助けなきゃ……助けなきゃなんだけど」


 本当にそれで良いのだろうか?

 宮古はギュッと布団を抱きしめる。何か取り返しのつかないことに加担しているのではないかという不安が、心につきまとって離れない。


 裏に何者かの思惑を感じる。

 まるで舞台の上に組み込まれたかのような違和感を覚える。命に加担しようというのは宮古の意志なのか、はたまた誰かの筋書きなのか。


「止めてよ。シェークスピアじゃあるまいし」


 冗談めかして、宮古は独りごちる。

 そうでもしなければ、頭がパンクしそうだった。


 こんがらがる思考を切り離し、宮古は目を瞑る。

 ルームメイトの高虎が部活から帰ってくるまで昼寝するつもりだったが、今日も眠れそうになかった。


 いっそ眠れないのなら、命の履修表を仕上げにかかろうか、と彼女は考える。


「ああ、ダメだ……かなり絆されてるなあ、私」


 とうに答えは出ているというのに腹が決まらない。

 優柔不断な姉は何とか寝ようと、昼寝を敢行した。


 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ……。


「おい。時間だぞ、宮古」


 誰かの声に脳を揺さぶられた。

 聞き慣れたハスキーボイスである。起こしに来た相手が高虎であることは間違いなかった。


(そうか……あれから一日経ったのか)


 パチパチと油がはねる音がする。

 ソーセージと卵の焼ける匂いが、寝起きの脳を刺激した。


「おはよう、ヤス」

「おはよう。昨日はずいぶんと寝付きが良かったみたいだな。布団抱きしめたままニヤついてたけど、いい夢でも見てたのか?」


 宮古は寝ぼけ眼をこする。

 夢……言われてみれば、とても心地のよい夢に浸っていた気がした。眠気とともに曖昧に溶けていく夢の欠片を、宮古は何とか拾い集めた。


 箒に二人乗りしながら夕焼けを眺める……とても美しい夢。


「ああ――ッ!」

「何だよ急に」

「命ちゃんに抱きついてる夢見てたのに、ひどいよヤス! 返して私の夢を返して! 慰謝料もんだよ!」

「知るか。つーか、宮古が起こせって言ったんだろ」


 適当にあしらいながらも、高虎は安堵する。

 ここ数日間思い悩んでいたようだが、ようやく高虎の知る宮古が帰ってきた気がしたのだ。


 第二女子寮四〇四号室は、数日ぶりに騒がしかった。




     ◆




 宮古との和解を果たした翌日。

 命は味気ない宿屋の一室で唸っていた。


「むう~。何度見返してもさっぱりですねえ」


 黒髪の乙女は、一枚の紙と睨めっこしていた。唇を尖らせたり、眉をハの字にしてみたりするも、相手はなかなか手ごわい。

 ミステリー小説に出てくるダイイング・メッセージを解いている気分だ。宮古が組んだ履修表は実に難解だった。


(何かしらの意図があるとは思うのですが)


 一夜経っても未だに読み解けない。

 刻一刻とタイムリミットは迫っていたが、命は未だにこの履修表に隠された謎をつかめずにいた。


「……なんで西洋魔術ばかりが」


 宮古の怨念(あい)がこもった禍々しい履修表。

 その紙面の大半を埋めるのは、西洋魔術の講義である。肝心の東洋魔術はといえば、必修の講義が申し訳ばかりに入っているだけだった。


 命とて、ただ一人で考えていた訳ではない。

 今回の件で、姉妹間のコミュニケーション不足は痛感していた。どういう意図があってこの履修表を作ったのか、直接宮古に尋ねたのだが。


 ――教えてあーげない、っと。


 と、イタズラっぽい口調ではぐらかされてしまった。

 決して意地悪をしているわけでなく、命を思ってのことだった。


 ――命ちゃんには考える力があるからね。自分で答えを導き出して欲しいの。あと、命ちゃんって本当に綺麗にナイフとフォークを使うよね。本当にその指づかい……いい。先っちょ、先っちょだけで良いから左手の薬指ペロペロしてもいい?


 と、宮古は仲直りの夕食の席で赤裸々に語ってくれた。


(……最後のは、さすがに引きましたけど)


 変態極まりないが、あれでも面倒見の良い姉である。

 宮古の信頼に応えるためにも、一生懸命に課題に取り組む命であったが、タイムアップだ。


 壁掛け時計が、午前九時を指し示す。

 その時を待っていたかのように上品に扉がノックされた。待機していたとしか思えないタイミングだが、正にその通りなのだろう。


「はーい。どなたですか」


 白々しいと思いつつも、命は扉の隙間から愛想よく顔を出す。五分前から、外からは妖気めいたオーラが漏れていた。客人が誰かなど知れていた。


「お待たせ。愛しのお姉ちゃんだぞ☆」

「ええ。一日千秋の思いでお待ちしておりました」


 腰に手を当て指差しポーズ。

 バチコーンとウィンクを決める宮古を、命は笑顔で見流した。姉とどういう距離感で付き合えば良いのか、命は何となく掴めてきた。


(んっ、ジャージ姿?)


 立ち話も何である。紅茶の一杯でも振る舞おうした命だが、宮古の服装を見て足が止まる。休日にもかかわらず、姉は女学院指定のジャージを着ていた。


「あのう、その格好は?」

「ああこれね。命ちゃんにも後で着替えて貰うけど、まずはこれ」


 意表を突かれている間に、命は一枚の紙を握らされていた。


「ごめん。あの履修表は不備があったから作り直したんだ。これが最新版ということでよろしく」

「はあ、それはそれで構わないのですが」


 命は間延びした声を出す。

 新しい履修表に目を落とし……そして、一瞬で硬直した。


「なななな……っ!」


 ひと目でわかるこのひどさ。

 履修表は、改善どころか姉好みに改悪されていた。


「縦列が……二列ほど増えているのですが」

「本当にごめんねえ。お姉ちゃんってば、土日を書くの忘れちゃって。これじゃあ、命ちゃんが怒るのも無理ないよね」


 土曜日

 1限目:東洋魔術(姉)

 2限目:東洋魔術(姉)

 3限目:東洋魔術(姉)

 4限目:東洋魔術(姉)

 5限目:東洋魔術(姉)


 日曜日

 1限目:東洋魔術(姉)

 2限目:東洋魔術(姉)

 3限目:東洋魔術(姉)

 4限目:東洋魔術(姉)

 5限目:東洋魔術(姉)


 東洋魔術(姉)がゲシュタルト崩壊していた。

 月月火水木金金……そんな軍歌が脳内を流れ、命は放心状態になっていたが、宮古は黒曜石の瞳を爛々と輝かせていた。


「でも大丈夫! 不肖の姉ではあるけれど、東洋魔術は私が手取り足取りわきわき教えるから!」

「わきわきって何っ!?」


 命はとっさに腕をクロスして胸元を隠す。

 宮古の手つきに、言い知れぬ恐怖を覚えての反射だった。


「命ちゃん……お姉ちゃんは間違ってたよ!」


 力強く拳を握る宮古は、ここではないどこかを見ている。

 警戒する命の姿も目に入っていない様子である。


「誰よりも優秀な魔法少女になりたい! あんなに情熱的に訴える妹の声が聞こえてなかったなんて、お姉ちゃんが愚かだったよ!」

「そこそこ! そこそこで十分ですから!」


 命はフラメンコにも負けない情熱をもって訴えたが、無駄である。

 宮古は己の為すべきを悟ったのだ。姉に生まれ、運命に挑み、そして宮古は今、使命に燃えている。


「安心して! 命ちゃんは、私が責任を持って育てるから。この島でいちばんの魔法少女……ううん、世界でいちばん強い妹にしてあげる!」


 声高らかに宣誓すると、宮古は命の手を掴みかかり、


「あっ」


 急に夢から醒めたかのように手を引っ込めた。

 勢いのまま差し出した手は、命との約束の前に止まった。


「……ごめん」


 約束を破ってしまえば、触れてしまえば……この関係は壊れてしまうのではないか。そんな恐怖が頭をチラつく度に、宮古は躊躇してしまう。


「謝るのはそこなのですか」


 図々しいのか、しおらしいのか。

 ときに乙女の顔をのぞかせる宮古に、命は振り回されっぱなしだ。


「昨日は、ヌイグルミみたいに抱きしめた癖に」

「き、昨日のは、その……特例」


 しどろもどろになって、宮古は耳まで真っ赤にした顔を背ける。いつも主導権を握って振り回すお姉ちゃんに、命はささやかながら仕返しができた。


(……私も人のことを言えませんね)


 姉を可愛がることが楽しいなんて、趣味が悪い。清廉潔白を旨とする命は、変な癖が付く前に可愛がりを止め、宮古の右手を掴んだ。


「そんなに腫れ物に触るように扱わないで下さい。私たちは姉妹でしょう。嫌なときは……ちゃんと嫌だって言いますから」

「……命ちゃん」


 濡れそぼった瞳が眩しくて、命は目を逸らす。


 言い訳がましい言葉が頭に浮かんでは消える。

 どうせお姉ちゃんは一度言い出したら聞きやしないのだとか、平穏な暮らしを求めるにはどの道ある程度の強さが必要なのだとか。


「でも、私用とバイトがあるときは勘弁して下さいよ?」


 黒髪の乙女はへそ曲がりである。

 善人でありたい一方、底抜けのお人好しであることはバカみたいで受け容れられない。憎まれ口を叩いて、言い訳を並べて、やっと心を調整できる。


 これでいいのだ、そう自分に言い聞かせられた。


「ほら、もう一限始まってますよ先生」

「うん……わかってる……わかってるから。お願い、もう少しだけ待って」


 命は、宮古の目元をハンカチで拭う。

 泣き虫のお姉ちゃんが落ち着くまで、妹はずっと寄り添ってあげた。


 雨が止み、空が晴れ。

 それが一時の晴れ間だと知らずとも、黒髪をなびかせて。

 命は細い(みち)を歩いて行く。手と手をつないで、姉妹一緒に。

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