第85話 姉妹のポシェ
扇形の大教室――7号棟ホール。
教師は、滔々とセントフィリア王国の歴史について語っていた。
「国を追われたセレナ=セントフィリアと、リッシュ=ウィーンは外の世界――セントフィリア王国から見た異世界の諸国に亡命を求めます」
いかにして魔法国家は建国に至ったのか。その過程はなかなかに命の興味を惹くものであったが、今は教師の声も耳に入らなかった。
「あの、もの凄く気になるのですが」
命の隣には、頬杖をつく宮古がいた。
彼女は講義そっちのけで、飽きもせずに妹の横顔をずっと眺めていた。
「気にしない気にしない。ほら、学生の本分は勉強よ。お姉ちゃんに構わず、しっかり勉強なさい」
「お姉ちゃんこそ、学生の本分を全うして下さい」
「却下よ。妹と比べて、歴史なんてカビ臭いものにナンボの価値があるの? あんな年増から学ぶことは何一つないわ」
「人類の叡智を年増扱い!」
つい熱の入った突っ込みを入れてしまった。姉妹漫才はホール内の笑いを誘い、命は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「ふふっ、命ちゃんって案外お茶目な子よね」
この人には勝てそうもない。あきらめた命は、片手間に宮古の相手をしながら残りの時間を過ごした。
宮古は三年生である。
全学年共通の講義でなければ、そうそう講義が被ることもあるまい。そう考えていた命が甘かった。
◆
「先生、机が一つ足りません」
「そうか、なら帰れ」
マグナの対応は、もっともであった。
平然とクラス講義に混じる三年生など、厄介以外のなにものでもない。困惑する1-F女生徒を尻目に、宮古は膝に那須を乗せていた。
――ヤスの妹は、私の妹。
訳の分からない姉イズムに押され、那須はなすがままだった。抱きしめられ、頬ずりされ、舐め回され……今は、テディベアのように沈黙していた。
「お前なあ、いくら何でも自由すぎるだろ」
「連れないな、せっかく頼みごと聞いてあげたのに」
「それは代価をあげたから、チャラだろ。ほれ帰った、帰った。年下好きも大概にしとけよ、この妹狂い」
「ちぇー。マグナ先生のいけず」
宮古は渋々と席を立つ。
部屋いっぱいの後輩を視姦し尽くしてから、妹殺しの脅威は去った。
(あれ……今)
命は、姉の不自然な足取りを怪訝に思う。
宮古は、わざわざ遠くにある教壇側の扉を通り抜けていった。それだけならば、偶然で片付けても良かったのだが。
(何か話しかけていた?)
教室中央。
シルスターの席を通り過ぎる際、宮古の歩足はわずかに緩んだ。命には、その一連の動作が、白銀の女帝に話しかけるためのものに見えた。
その後、依然としてシルスターは傍若無人に振る舞っていたが、心なしかその日のクラス講義はいつもより平和だった。
◆
これきり宮古が1-Fのクラス講義に顔を出すことはなかったが、それ以外の講義はほぼ100%の同席率を誇った。
外語、歴史A、東洋魔術基礎A……命がどの講義に顔を出しても、そこには宮古の姿があった。これはちょっとした恐怖である。
「命ちゃん、喉乾かない? お姉ちゃん、特製ドリンクを作ってみたんだけど、飲んでみない。 えっ……何モ変ナ物ナンテ入っテナイヨ」
「さあ、お昼の時間よ。命ちゃんってば菜食主義者だから、新しいベジタリアンレストラン開拓しちゃった」
「命ちゃん、再契約会なんて不埒なイベントに興味を示しちゃダメよ。つーか、あんたどういう了見でチラシ渡してんのよ。私と命ちゃん、どう見てもラブラブ姉妹でしょう、ああん?」
「命ちゃん、そこ間違ってるよ。リロードの詠唱短縮は、同一魔法じゃなくて、同系統の魔法に適用されるから要注意だよ。お姉ちゃん、ペケ入れちゃう」
「命ちゃん……ふふ、呼んでみただけ」
ここ数日の間は、ずっとこの調子である。
命の黒髪もどこか艶をなくし、パサつき始めていた。手入れは万全なのだが、ストレスが髪にまで影響を及ぼしているようだった。
(やっぱり……今日もいますよねえ)
登校する命は、朝からすっかり憂い顔だ。
命にしてみれば、シルスターよりも余ほど宮古が怖い。黒髪の乙女は、半ば姉ノイローゼになっていた。
学内だけならまだしも、宮古の付きまといは学外にも及んでいた。
妹の影あるところに、姉あり。
命のアルバイト中を狙って、カフェ・ボワソンに来るのは序の口で、女子寮住まいなのに、宿屋アミューゼに泊まり込むこともあった。
愛情行為もここまで来ると、犯罪行為に近い。女装を解くわけにもいかず、命は四六時中息苦しい生活を強いられていた。
「はあ、またですか」
とぼとぼ歩いていた命は、足を止める。
セレナ像前の通りには、女生徒が壁を成していた。その人だかりを目の当たりにしただけで、何が起きているのかは容易に想像できた。
「ノロマが空飛んでんじゃないわよ!」
「そっちが先に割り込んできたんじゃない!」
金切り声とともに繰り広げられる、小競り合いというには派手な喧嘩。箒乗りと杖乗りが衝突しては離れ、空中戦を演じていた。
「箒乗り風情が、舐めてんじゃないわよ!」
猛る赤髪の魔法少女の杖先から【紅蓮弾】が飛ぶ。火球が結界を突き破ると、箒乗りの魔法少女が悲鳴を上げた。
「きゃああ――ッ!」
箒の穂先が燃え、飛行魔法の制御を失う。黒髪を宙に逆立てながら、悲鳴を上げる魔法少女が落ちた。
(さすがにそれは不味いでしょ!)
どこぞの流星姫とは違うのだ。
落下するさなか、冷静に【羽衣】を着込み、無傷で着地――などという神業をやってのける魔法少女には、到底見えなかった。
命は、気怠げな思考を瞬時に飛ばす。
救出を試みようと走り出すが、厚い人壁が立ちはだかる。人を押しのけて前に進もうにも限界があった。
「ちょっと、何を呑気に眺めているのですか!」
命の必死の叫びも、喧騒に飲まれる。
助けを叫ぶ者もいれば、悲鳴を上げる者も、祈る者もいる。しかし、そこには箒乗りの魔法少女を助けようとする意志を持つ者が欠如していた。
吸い込まれるように。
翼を焼かれた魔法少女が、硬い石畳へと落ちていく。
白い地面に赤い染みが広がる。
数瞬先の未来に怯え、大勢の女生徒が目を閉じるなか。
生徒会長が、勢い良く踏み切り、地を蹴った。
大跳躍。
スカートをはためかせながら、オルテナは人垣を飛び越える。【羽衣】をまとった生徒会長は、危なげなく女生徒を空中で抱きとめた。
「おっと」
飛びかける耳当て付き帽子を押さえる。支える手が片方になろうと、彼女は全く体勢を崩さすことなく、華麗に着地を決めてみせた。
「やあ、大丈夫かい」
白い歯を輝かせる極上の笑み。
助けられた箒乗りは、しどろもどろになる。顔を真っ赤にしながら、感謝を告げるので精一杯のようだ。こうして今日も、生徒会長はファンを獲得する。
「きゃああああ、生徒会長カッコ良い!」
「白……白だったね」
「ギギギ、羨ましい。早くそこ退きなさいよ、箒乗り!」
「私も抱いて! むしろ滅茶苦茶にして」
大声援を受けるオルテナは、さながら正義の味方のようだ。次々送られる賛辞にも萎縮することなく、堂々と立っていた。
(うわあ……この差)
宮古がオルテナを邪険にするわけである。
命の記憶が定かなら、宮古も数日前に同じ様なことをしていた。していた筈なのに、明らかに反応が違っていた。
(まあ、わからなくもないですが)
片や不気味な【黒蚯蚓】をけしかける妹殺し、片や颯爽と女生徒を助ける生徒会長である。どちらが良いかと尋ねられたら、命だって少し迷ったフリをしてから後者を選ぶ。
「……私も、こんなお姉ちゃんが欲しかったな」
ぼそりと落とした声は、誰にも聞こえない。
命は大歓声に背を向けて、教育棟へと向かった。
◆
「おっはよう、命ちゃん!」
「……おはようございます」
教室に入ると、手を振る宮古が待っていた。
日々やつれる妹と同じく、姉の体調も芳しくなさそうだ。目の下には濃いクマができ、命にも劣らぬ綺麗な黒髪には寝癖がついていた。
それでも尚、黒曜石の瞳だけは異様に輝いていた。愛しの妹を見つけた宮古は、ご機嫌な様子で手遊びを続けた。
「また、それをやっているのですね」
聞きたくて聞いたというより、つい口をついて出た言葉だった。ちょっとした空き時間ができると、宮古はルービックキューブを弄る癖があった。
「うん、頭を整理するときはこれが一番だからね。それにしても、さすがは私の妹。お姉ちゃんのこと、よく見てる!」
「これだけ顔を突き合わせていれば、嫌でも目につきますよ」
「もう、恥ずかしがる命ちゃんも、かあいいなあ」
この程度のトゲは、宮古に刺さらないようである。命が深いため息をついている間に、式神Aの講義が始まった。
「一概に式神といっても、術者によって差が生まれます。たとえば同じ【犬】の式神を呼び寄せても、嗅覚に長けたものもいれば、足の速いものもいます」
術者による式神の個体差。
命にとっても無関係な話ではなかったが、イマイチ講義にのめり込めない。横に座る宮子が、度々話しかけてきたためだ。
「そういえば、命ちゃんも式神を使うんでしょ? なになに、どんな式神を使役できるの?」
「【犬】と【烏】」
「へえ。オーソドックスだけど、便利だよね。命ちゃんの式神ならとってもキュートなのは疑う余地はないけど、どんな子たちなの?」
いくら素っ気ない返答をしても無駄だ。宮古はめげるどころか、質問を重ねてきた。
これも最近ではしょっちゅうの遣り取りだ。
妹愛が高じてか、宮古は些細なことでも命の情報を知りたがった。
片手間の会話とはいえ、どうしても気は散る。
講義に集中できないことも辛いが、これが何時までも続くのかと考えると気が滅入る。
命は無意識に、何度も爪先で机をノックしていた。
次はクラス単位の講義だと、自分に言い聞かせる。
シルスターが幅を利かせていることで、1-Fの雰囲気はピリピリしているが、宮古と距離をとれる有り難い時間でもある。
命は定期的に深呼吸をして、鬱憤を逃す。
やがて鐘が鳴り響くと、すかさず黒髪の乙女は姉から逃亡を図ろうとしたが、敢え無く呼び止められてしまった。
「あっ、命ちゃんさあ、この講義だけど」
「式神Aの講義がどうかしました? 私、急いでいるのですが」
「取るの止めた方が良いよ」
宮古が次に発したのは、耳を疑うような言葉だった。
「だって命ちゃん、式神を操る才能ないもん」
――才能がない。
身を斬りつけるような、容赦ない評価だった。褒めるばかりの姉が初めて呈した苦言に驚きを覚えつつ、命はその場で固まった。
「あっ、それでねそれでね」
命の動揺に気づかぬまま、宮古は浮かれた調子でバッグを漁る。早くあれを妹に見せたい気持ちで、姉の頭は一杯だった。
「じゃじゃーん。メイドインお姉ちゃんの履修表! 命ちゃんのことを想って、お姉ちゃんが夜なべして作っちゃいました!」
半ば強制的に受け取らされた履修表に、命は目を落とす。どんな反応を返してくれるのか、宮古は期待に満ちた顔をしていたが、
「……何ですか、これは」
命の反応は、姉が求めるものではなかった。
あり得ない。
宮古の履修表は、一目見ておかしいと断言できる類のものだ。式神Aの講義が削られているどころの話ではなかった。
「こんな履修表を飲ませて、どうする気ですか……空いた時間に私と遊ぶ気でもいるのですか?」
歯を噛みしめ、命は肩を震わせる。
命と宮古は、昨日今日顔を合わせた他人である。
それでも、信じていたかった。
まだ短い付き合いではあるが、何度も言葉を交わした仲である。前向きに東洋魔術を学ぼうとする妹の意思ぐらいは、尊重してくれるのだと。
今にも切れそうな細い糸であったとしても。
そこには姉妹の絆があるのだと、命は信じていた。
「お姉ちゃんのバカっ!」
その全てを裏切られた気分だった。荒々しくバッグを拾い上げ、命は遮二無二に走りだす。
「あっ、待って」
宮古は慌てて手を伸ばしたが、直ぐに手首から先が折れた。妄りに触るような真似はできない、それが妹の嫌がることだと知っていた。
「……っ!」
呼びかけにこそ応じなかったが、命は振り向いてしまった。
今にも泣き出しそうな宮古の顔に後ろ髪を引かれるも、もう止まれない。湧き上がる罪悪感すら振り切るように、黒髪の乙女は教室から飛び出した。
この日、生まれて初めて、命は姉弟喧嘩をした。
◆
カフェ・ボワソンの一角には幽霊がいた。
雨雲を背負ったように、どんよりとした女生徒。負のオーラを漂わせる黒髪の乙女には、こんなに幽霊じみた怖さがあるのか。
リッカは、なぜ柳女が怖いのかを知った。もっとも彼女は、あの幽霊が仮初めの美少女であることも知っているのだが。
「どうしたんだよ、手前。恐ろしく辛気臭いぞ」
「……リッカァ」
声も情けなければ、上げた顔すら情けない。
あたしは、なんでこんな奴に惚れてしまったのか。半ば本気で後悔しつつも、リッカは久しぶりに命の対面に座った。
この一週間、リッカは命に近づけずにいた。常に命の側にいる宮古が恐ろしかったというのもあるが、理由は一つだけではない。
恥ずかしかったのだ。
ふと診療所での振る舞いを思い出すたび、羞恥に肌を焼かれる。ベッドの上で悶絶する夜を幾日か越えて、リッカはようやく復調した。
だというのにだ。
「リッカァ……やってしまいました」
今日に限って、この男はどうしてこうも女々しいのだ。情けないやら悲しいやら、様々な情動が乙女の心をせめぎ合う。
だが何よりも情けないのは、自分自身だった。意中の彼とこうして一緒にいられる喜びが、何よりも優っているのが悔しかった。
――あたし、恋しすぎだろ。
悩める女神は、甘いため息を落とす。
甘々な自分に嫌気が差して、リッカはブラックのコーヒーで口を湿らせた。
「それで、何したんだよ。どうせこの後は講義がないから、話くらいなら幾らでも聴いてやるよ」
嘘である。
みっちり講義が詰まっていたが、恋する彼と話せる時間と比べて、学校の講義なんてナンボの価値があるのか、と恋する乙女は開き直っていた。
「本当ですか! ありがとうございます」
命が浮かべる屈託のない笑顔。
こんな何気ない表情が、リッカの胸をときめかせるのだと知らない黒髪の乙女は、やはり罪深い生き物であった。
「実は、ずっとリッカのことを待っていて。甘えてはいけないとわかってはいるのですが……貴方が一番頼りになりますから」
――殺してえ。
真っ赤な顔を伏せるリッカは、プルプル肩を震わせていた。怒気か、歓喜か、何が肩を震わせるのかは、本人にすらわからない。
ずっと待っていた。
甘える。
貴方が一番頼りになる。
一息の間に、一体何度リッカを悶え死にさせる気なのか。これを無意識でやっているというなら、質が悪いどころの話ではない。
姉が妹殺しであるなら、命は女神殺しである。
散弾銃のごとく殺し文句をばら撒く、恐ろしい殺戮兵器であった。
殺される前に、一層のこと殺すべきか。
そして、その後を追って飛び降りるべきか。頭が沸騰しすぎて、カフェ・ボワソンの女神は妙なことを考えていた。
「どうしました、体調が悪いのですか?」
さり気ない気遣いを受けるだけでも、身体の奥底から快感が滲みでてしまう。一体自分は、どうしてしまったというのか。
胸の高鳴りが止まらないリッカは、
「うがあああああああああ――ッ!」
気合一発、机に頭突きをかました。
カフェ・ボワソンの女神が奇行に走ると、しんと場が静まったが、彼女はお構いなしに口を開いた。
「何でもねえ」
どう考えても、何かあるだろ。
カフェ・ボワソンにいる客、ウェイトレス、マスターを含めた誰もが脳内で突っ込みを入れたが、それを口に出す勇者はいなかった。
「あの、大丈夫なら良いのですが……もしも悩みがあるのでしたら、私で良ければいつでも相談に乗りますからね」
――言えるかよ、恋の悩みだよ!
リッカ過激派が、脳内で暴れまわった。
大多数の理性あるリッカが、過激派を押さえつけ【竜巻】で吹き飛ばす。そうして、やっと女神は心の均衡を取り戻した。
「悩みなんてねえよ。それに、それじゃあ本末転倒だろ。手前が相談したいことがあるって話じゃねえか」
「あっ、本当ですね。ついリッカの心配をしていたら、忘れそうになっていました」
「……さっさと要件を言え」
鷹の目には、睨み殺さんばかりの目力が込められていた。その恐ろしさに飲まれる形で、命は口早に宮古との喧嘩について話した。
「確かに私も悪かったと思いますが、見て下さいよ、この履修表。酷くありませんか? さすがに仏の命も怒りますよ」
「業が深すぎる手前が、仏を名乗るな」
軽い冗談のつもりが、本気で怒られた。
しゅんとする命から引ったくるように、リッカは履修表を手に取った。
不謹慎ではあるが、酷すぎるという履修表とやらには興味があった。どれほどのものかと思われた履修表は、
「なんだよ……これ」
女神すらも絶句させる代物だった。
「でしょう。酷すぎますよね、これ」
「ちげえよ、馬鹿」
リッカは、同意を求める声を切り捨てる。
リアクションこそ似たり寄ったりであったが、二人が覚えた衝撃の質はまさしく正反対といえた。
ガツン、と頭に良いのを一発貰った気分である。
完璧だった。それは良い意味で――完璧に酷かった。製作者の意図を読み取れる者も、この女学院には片手で数えるほどしかいないだろう。
「これを作ったのは、姉ヶ崎先輩だよな」
「そうですけど、それが何か」
ならば間違いないだろうと、リッカは確信する。
恐ろしい……いや、おぞましい。
どこまでのものを命に要求しているというのか。この履修表は上手く嵌まれば、ウルトラC級の裏ワザにも成り得る。
ズシリと。
途端に、手に持つ履修表が重くなった。
これは宮古の重すぎる妹愛、もはや怨念とも言えるものが成し遂げた、一つの愛の形であった。
「返す。これは、あたしなんかが易易と触れて良いもんじゃなさそうだ」
「ちょっと、リッカ! 貴方はこれを認めるのですか。このふざけた履修表を」
憤る命に押されることなく、リッカは言い返す。
たとえ価値を知らないとはいえ、それを軽々しく手で叩く彼の行いには、心底我慢がならなかった。
「なら手前には、何でそれがふざけた物だと断言できるんだ?」
「そ……それは」
「手前にその履修の意図がわかるのか?」
鋭い切り返しに怯み、命は二の句が継げなかった。
「一方的にあの人の肩を持つ気はねえが、それは100%手前の要望に応えた履修表だよ」
「……それこそ、断言できないじゃないですか」
命が不満気に零した意見を、リッカは頭ごなしに否定しなかった。コーヒーを一口啜ると、あっさりと答えた。
「それもそうだな」
悪気もなく前言をひっくり返した。
命はリッカの考えが掴めず、目を白黒させる。
「えっと……それを言ったら、台無しでは?」
「かもな。これが姉ヶ崎先輩が手前のために作ったものだというのはわかるが、それが手前の要望通りかまでは、あたしにはわからねえ」
「やっぱり、ダメじゃないですか」
「阿呆、ダメなのは手前だよ!」
身を乗り出して、リッカは命の頭にチョップを入れる――寸前で手を止めた。
本当は入れるつもりだったのだが、つくづく心的外傷というのは鬱陶しい。魔法どころか、手で叩くことすら躊躇するほどだ。
「手前、一人っ子だろ」
「あれ? 私、リッカに家族構成を話したことありましたっけ」
「聞かなくてもわかるよ。だって手前、ワガママだからな」
「んな――っ!」
才能がないに次ぐ、衝撃的な言葉だった。
命は今日まで、優等生の皮をかぶって生きてきた。
八坂さんを見習え、といった類の褒め言葉は腐るほど聞いてきたが、ワガママというのは一度足りとも言われたことがなかった。
「オマケに姉妹に夢見すぎ。話聞いてりゃ、黙っていてもわかって欲しいみたいなこと抜かしやがって」
ウォーハンマーめいた追撃が、命を叩き潰す。彼が長年をかけて培ってきた優等生のイメージが、一瞬で粉砕された気分であった。
「でも……それが理想じゃないですか。姉妹って、阿吽の呼吸でお互いのことがわかる関係でしょう」
「はっ、何を言ってんだ手前は?」
鼻で笑われた。かつてここまでボロクソに言われたことがあるだろうか、いや無い。耐え難い羞恥にまみれて、黒髪の乙女は溶けそうだった。
「残念ながら、姉妹なんてのはそんな高尚なもんじゃねえ。思い遣るどころか、時には本気で怒りすら湧く相手だぞ。勝手に人のプリン食ったりするからな」
「プリン、お好きなのですね」
「……そこは今、関係ねえだろ」
カチャカチャと、リッカはティースプーンでコーヒーをかき混ぜる。その仕草が妙に愛らしくて、命は毒気を抜かれた。
「ともかくだ、血の繋がった姉妹だってそうなんだ。血の繋がらない姉妹だったら、尚のこと言葉にしなきゃ伝わらねえよ。伝えたいことがあるなら、顔を突き合わせて怒鳴り合うしかないんだよ……姉妹なんて」
リッカは、苦いコーヒーを飲み干した。
彼女の顔はあまりにも寂し気で、対面に座る命までもが胸を締め付けれるような痛みを覚えた。
「……良いじゃねえか。顔を突き合わせて怒鳴り合えるだけ」
遅まきながら、命はリッカの心情を汲み取った。
同時に、自分の馬鹿さ加減を呪わずにはいられなかった。叩けない彼女の代わりに、命は机に頭突きをかました。
「すみません。私が悪かったです」
姉妹喧嘩なんて、贅沢すぎる悩みだった。
すれ違って別れてしまった姉妹は、顔を突き合わせて怒鳴り合うことすら叶わないのだ。リッカが怒るのも無理ない話だった。
「きちんと顔を合わせて、話し合ってきます」
「そうだな、それが良いんじゃないか」
プライベートな部分を晒したことを恥じたのか、リッカは素っ気なく話をまとめた。このまま謝り倒して、辛い過去を掘り起こすのも悪手である。命は重い空気を換気しようと、少しだけ話題をずらした。
「そういえば、リッカも姉がいるのですか?」
「……いや、あたしは要らねえって言ったんだけどな。学院側がきちんと姉を持てってうるさくて」
顔を背けて、リッカは言い訳染みた言葉を重ねる。ここまで聞かされたら、気になるというのが人の性である。
「もう、勿体ぶっちゃって。一体誰なのですか?」
「……あれ」
恥ずかしそうに、リッカは親指で後ろをさした。
「……あれですか」
命としては、同情せずにはいられない。
リッカの姉ことアイリは、そわそわ顔でタイミングを見計らっていた。命のご機嫌を伺うように、注文すらしていないプリンを運んできた。
「あはは、この前はごめんね。先輩も、ちょっぴり悪ふざけが過ぎたかなって、思ったり思わなかったり。アイリ反省☆」
「すみません、リッカ。私が全面的に間違っていました。あんなに妹想いの姉がいるというのに……私はなんて贅沢なことを」
「わかってくれれば、良いんだよ」
「ちょっと! 今、絶対に私のことバカにしてたでしょ! わかるからね、先輩バカだけど、そういうのには敏感だからね!」
憤慨するアイリを見遣り、リッカはげんなりする。
「早く仕事に戻れよ、駄メイトレス」
「ウェイトレスと似て非なる存在!? 何よ、リッカちゃんにもプリン持ってきたあげたのに。ほら、早くいつものニヤけ面で食べなさいよ!」
「なっ、ニヤけ面なんてするか。嘘つくな、クズ!」
バンと机を叩いて、リッカが猛反発する。
カフェ・ボワソンでは優雅に振る舞う女神が、ここまで体裁を気にせず怒鳴るのも珍しい。それだけ仲が良い証拠なのだろう。
「嘘じゃありませーん。それにクズじゃありませーん。貴方の姉でーす。ほうら、愛らしくお姉ちゃんって呼んでみなさい」
「はあ? 言うわけねえだろうが!」
命は銀盆から、こっそりプリンを手元に寄せる。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、姉妹喧嘩も大差ないようだ。
「あっ、プリン美味しい」
姉妹の低次元な口喧嘩を観戦しつつ、命はプリンを食む。ほろ苦いカラメルソースと濃厚な卵の甘みが絡まり、口内で絶妙なハーモニーを奏でた。
(お姉ちゃんも、プリン好きですかねえ)
宮古の好きな食べ物すら知ろうとしなかったことを、命は深く恥じ入った。これでツーカーの仲を期待するなど、虫の良い話であった。
もっとたくさん話をしよう。一方的に話しかけられるのではなくて、こちらからも相手のことを知る努力をするべきだと、命は考えを改める。
(その前に、早く謝らなくちゃ)
黒髪の乙女は逸る気持ちを抑えて、黙々とプリンを掬った。少なくとも退店するのは、目の前の姉妹喧嘩に決着がついてからだ。
■残念なフランス語講座
ポシェ【pocher】 (西洋料理で)茹でること
ボワッソン【boisson】 飲み物
アミュゼ【amuser】 楽しませること




