第82話 クォーラル・オブ・クラン
――いらっしゃいませー。
――ご注文はお決まりでしょうか。
――フィッシュワン、テリヤキワンプリーズ。
場所は、食堂棟4階ファストフードエリア。
学生アルバイトの溌剌とした声が響いては消えるなか。命とドドスは仲良く丸テーブルに臥していた。
二人の心情を一言で表すのであれば――しんどい。
これ以上に簡潔で、的確な言葉はなかった。
「いつまでこの状態が続くのですかねえ」
「わからねえ」
あれから、1-Fの険悪な雰囲気が和らぐことはなかった。講義などお構いなしに、シルスターは我が物顔で振る舞い続けた所為だ。
気まぐれに女生徒を捕まえては談笑することを強要し、ふらり教室を抜けたと思えば、今度はファルシオンと戯れる始末である。
バキリ、バキリと。
折れたチョークの音が積み重なる毎に、女生徒の背筋が凍りつく。これでは爆薬の側で勉強するようなものである。
大半の女生徒にとって気が気が出ない時間は、永遠にも思えた。
90分後。ようやく危険地帯から解放された女生徒たちは安堵の表情を浮かべるも、それも束の間のことだった。
「あっ、三限もクラス講義だ」
誰かが呟くと、教室内の空気がズウンと沈んだ。先のことを考えるだけで、大半の女生徒は胃が痛くなる思いであった。
せめて昼休みだけでも平穏な時間を。
二人は何もする気が起きず、机を枕にしていた。
「よう大将。ずいぶんと辛気臭い面だけど、どうした?」
降る声に向けて、命は顔を上げる。
声の主はクルト、ルバート一味の一人だった。不健康そうな痩せぎすの女生徒は、二人の間の椅子に腰を下ろした。
机に置いたトレーにあるのは、スティック状のアップルパイとコーヒーのみ。クルトの食生活が窺い知れるような昼食だった。
「こんにちは、クルトさん」
命は腑抜けた顔を引き締め、上体を起こす。
女装潜入している命にとっては、一瞬の隙が命とりになりかねない。いついかなるときでも見られていることは意識せねばと、黒髪の乙女は肝に銘じた。
「クラスの剣呑な雰囲気がだいぶ堪えたもので、つい。失礼、お見苦しいところを見せてしまいましたね」
「なんだそりゃ。寝そべっても絵になる大将に言われてもな。むしろ、もう少し崩してくれた方が、付き合いやすいぐらいだな」
クルトに釣られて、命も微笑をこぼした。
「ほら、コメリンも大将のことを見習って起きな」
慣れた手付きでドドスを起こした後、クルトはアップルパイの包みを外す。一口齧ると、林檎とシナモンの香ばしい匂いが辺りに漏れた。
「シルスターのことなら、昨日よかマシなんじゃねえか……っと、そういや昨日は休みだったのか」
「ええ、体調不良で。それにしてもよくご存知ですね」
不思議がる命に向けて、クルトは愉快そうに言う。
「そりゃあな。どうもウチのコメリンは、大将のことが大好きみたいでな。こうして顔合わせるたびに、しょっちゅう大将のことを話すからな」
「あらまあ」
「わあ、クルトのバカ! 何を話してんだあ!」
一瞬遅れて、ドドスはからかわれたことに気付く。
顔を真っ赤に染めながら、隣のクルトをポカポカと叩いていた。
気心知れた二人の遣り取りは、荒んだ心には良い清涼剤だった。あまりにも微笑ましい光景だったので、命はついつい悪戯心を出してしまった。
極上の微笑みを湛え、命は黒水晶の瞳を細めた。
「ありがとう、コメリン。私も貴方のこと大好きですよ」
「……っ!」
声を失うドドスに構わず、命は続ける。
「今日は、貴方が迎えに来てくれて本当に助かりましたし……何より嬉しかったです」
思い描いた高校生活とは180度違うけれど、こうして自分のことを案じてくれる友達ができた。そのことが純粋に嬉しくて、命は悦に浸っていた。
「良かったな、コメリン。相思相愛みたいだぞ」
「うわああ、クルはもう喋るな! そういうのじゃないからなあ」
……もっとも、命の好意が正しい形で伝わったのかは、ようとして知れないところだが。言葉というのは何とも難しいものである。
人心を惑わす黒髪の妖かし乙女は、しれっと付け加えた。
「もちろん、クルのことも大好きですよ」
「おっ、私のことも愛称で呼んでくれるのか」
「少し崩した方が付き合いやすいのでしょう。ですから、貴方も私のことを大将なんて呼ばずに愛称で……いや」
命たん。
頭を過った愛称が、愛称呼びさせることを躊躇させた。
と同時に、命は妙な違和感を覚えた。
「そういえば、貴方たちの大将がいないじゃないですか」
「ああ、ピリカのことか。それなら、大将がいつもの二人と一緒にいないのと同じ理由さ」
「同じ理由? 上手く時間が合わなかったとかですか」
「愛想を尽かされた」
「全然違いますよ――ッ!」
クツクツと喉を鳴らすクルトに、命は反射的に反論した。
根木がいないのは先の言葉通りの理由であり、那須がいないのは中華組と前もって約束を交わしていたからである。
(そうですよね……そうなのですよね)
しかし、漠然とした不安を覚えるのも確かだ。
命と二人の間には、退院してから妙な余所余所しさがある。
根木はともかく、那須に至っては一緒に誘ってくれても良かったのでは――そんな一抹の寂しさを感じてしまう。
黒髪の乙女の懊悩を知ってか知らずか、クルトは会話を進める。
「まあ、冗談はさておき。私の右斜めの後ろの席」
杞憂に終わる可能性の方が高いのだ、いつまで引きずっても仕方がない。命はそう自分に言い聞かせて、クルトに促されるままに視線を伸ばし。
「……ああ、あそこですね」
不審者の姿を捉えた。
目元を覆う涙の雫形のサングラスに、口元を覆う四角いマスク。
悪のカリスマが、ベタな変装を施していた。
「えっと、あれは何の真似なのですか」
「しっ! ちょっと黙って見ててくれ」
立てられた人差し指に従い、命は口を閉ざす。
クルトは演技がかった口調で、これ見よがしに大声で話した。昼食時の賑わいのなかにあっても、その声が隅っこのルバートに届くようにだ。
「あー、それにしても大将と一緒ってのも悪くないな。ピリカもいないことだし、これからはこの三人でツルムか」
ごっふ――ッ!
右斜め後ろのルバートが、コーラを噴き出した。
間から挿したストローが仇となり、マスクもカラメル色素に染まっている。盛大にむせ返る悪のカリスマの姿に辛抱たまらず、クルトは肩を震わせた。
「あのう、本当に何なのですかこれ」
「見ての通り喧嘩してるんだよ、私たち」
「はあ。とても愉快そうな喧嘩ですね」
「いいや。全くこれっぽっちも愉快なんかじゃない!」
がばっと体を起こして、クルトは不満気に顔を歪める。
四六時中やる気のない彼女にしては珍しい。謎の威圧感に押され、命はルバート一味が喧嘩に至るまでの経緯を聞かされた。
「ええっと、つまるところ」
命は一旦話を整理する。
「お二人が部活動に入るまで口を聞かないと、ピリカちゃんが二人と距離をとっているのですね」
「そういうこと。あのバカ、何を意地になってんだか」
クルトは、滲み出る怒りを長い吐息にのせる。
記憶を掘り返せば、命は一週間にも似たような話を聞かされていた。部活動巡りを始めた初日、タパスラウンジの洋装を呈した家庭科室でのことだった。
正規の魔法少女を目指す、そう猫目を輝かせてルバートが語った日。悪のカリスマを自称する少女は、ふとした瞬間に顔を曇らせていた。
――三年間を棒に振るかもしれない夢に、クルとコメリンは付き合わせられないからな。あいつらには、校内を回って部活にでも入ってこいと指令を下した。悪の組織は構成員にも非情なのだ。
悪のカリスマが聞いて呆れる。とどの詰まり、彼女は友達の少ない二人の親友のことが心配で仕方がないのだ。
(お二人に会ったら、親切にすると約束しましたしねえ)
ルバートの意には反するかもしれないが、少し世話を焼くぐらいならば許されるだろう。命は意を決して瞼を落とす。
ほんの数拍の時をおいて、澄んだ瞳が開かれたとき。
命が纏う空気の質は一変する。親しみやすさが抜け落ちた黒髪の乙女は、精緻な人形のようで、ともすれば神聖さすら漂わせていた。
「それで」
たった一言。
それだけで二人の意識を変える。
愚痴をこぼし続けたクルトは口をつぐみ、困ったように笑っていたドドスは真顔になる。二人はただ一心に、命の挙動に全神経を傾けていた。
「それでお二人は、いくつの部活動を見学したのですか」
わずかに空白のときが流れ、クルトが重い唇を持ち上げた。
「えっとだなあ……じゅ、十は回ったかな」
「それは嘘だあ。二つ、三つ回ったけど、知らない人に混ざるのは怖えから……それからは全然回ってねえんだあ」
「ばっ、バカコメリン! なに正直に答えてんだ!」
「だって、嘘つくのは良くねえ」
冷や汗まじりで文句を付けるも、言い争いは長くは続かなかった。ゴゴゴと、黒い霧にも似たプレッシャーが立ちこめ、クルトは背筋を震わせた。
命の顔には、どんな恐ろしい表情が張り付いているのか。
クルトはぎこちなく首を回す。崩れかけの笑みで伺いを立てて、覗いた黒髪の乙女の顔は――。
「それならそうと、言ってくれれば良いのに。ちょうど私も見学したい部活がありますし、良ければご一緒に回りませんか」
――拍子抜けするほどに朗らかだった。
思わず「あっ、うん」と頷いてから、クルトは脱力する。
「おお、八坂も一緒なら頼もしいなあ」
「大船に乗ったつもりで任せて下さい。こう見えても私、この一週間でたくさんの部活を巡りましたから。お二人にピッタリの部活を探して当ててみせましょう」
ドドスは気づいていないのか。
クルトは横目で親友の顔を盗み見るも、そこに怯えや恐れといった気色はない。元より、鈍感な彼女が見落としただけからもしれないが。
しかし、それは単なる見間違いや幻視などではなかった。
上品に手を合わせる黒髪の乙女。
その春のような麗らかさに潜む純黒。
「それでは、放課後から部活巡りに向かいましょう」
ほんの一瞬、一秒にも満たぬときのなか。
クルトは、黒髪の乙女の深淵を垣間見た気がした。
寒気が背筋を駆け抜けた後、体に残されたのは火照るような熱だった。生涯どんな美酒を呷ろうが、得られることがない酩酊感に心を支配されていた。
彼女の生涯が決まったのは、このときだったのだろう。
いや、これだけは断言しても違えない。
クルト=クルリカは、この日この瞬間に道を決した。
しかしだ。
これ以上、端役を掘り下げて、誰が特をするというのか。
だから、今すぐにでも忘れてくれて構わない。これは、運命に翻弄される男の女装譚とは何ら関係のない話なのだ。




