第81話 白銀の女帝
四月も後半の差し掛かるころ。
微かに残る冬の匂いが薄れゆく季節だ。
澄み渡る空を渡る野鳥の群れ。輝く若葉から顔を出す色とりどりの花。
目を凝らせば、そこかしこに春が落ちている。黒髪の乙女は春を見つけては顔をほころばせ、白い石畳に足音を沈ませた。
(ああ……幸せすぎて春の陽気のなかに溶けてしまいそう)
異世界、平和、万歳。
命は、帰ってきた穏やかな日常に酔いしれていた。
あゝ学生生活の何たる気楽たることや。
湿った洞窟の奥底に強制転移された挙句、その辺を闊歩する化け物と踊り狂っていた数日前の環境とは比べるべくもない。
ここは高天原か。
チョロすぎて、逆に不安を覚えるレベルだ。帰還兵が過敏な反応をとるように、命も初めは平和な環境に馴染めずにいた。
事あるごとにビクリと背筋を震わせていたが、それも一限が終わるまでのことだ。大教室の隅っこに座っているだけ。
ただそれだけで、何事もなく講義は終了した。
そのとき、命は気がついたのだ。
――これが普通なのだ、と。
声なき鐘の音が、日常の訪れを告げていた。それは見も触れもできやしないのに、何て尊いものなのだろうか。知らず歓喜で打ち震えるほどだ。
日常・イズ・ビューティフル。
今、日常の価値は頂点に達した。
(そうです。今までがおかし過ぎただけなのです)
ひょんなことから入手した魔法石が、一ヶ月相当の生活費になったこと。思わぬ幸福に恵まれたこともあり、命は過剰に怯えていた節があった。
しかし、幸福と不幸が撚り合わせた縄のごとしなど、誰が決めたのだ。ここまで不幸の流星群が直撃しまくったのだ。よもやまた不幸が来ることなどあるまい。
命は、意気揚々と二限の教室を目指す。
いつ見ても色褪せることない白亜の城に入城し、意匠を凝らした階段を上がる。久々に足を踏み入れる1-Fの教室に興奮し、柄にもなく声を張った。
「お早うございます」
返事は皆無だった。
しんと静まり返る1-F教室。
命の渾身の挨拶は、もぬけの教室に虚しく響いた。
休講になったのだろうか。
命は大事をとって月曜日まで入院していたため、その可能性も大いにあり得る。まずは1階事務室前に戻り、掲示板で講義の情報を確認しよう。
――と、平時であれば思考を展開するところだが。
(何なのですか……これ)
異常だった。
一見しただけでわかるほどに。
外側の城壁が抉れている。
壊れた白煉瓦の大穴からのぞく一面の青空。
風通しが良すぎる。日当りが良好すぎる。何より開放感に溢れすぎている。いくらリフォームの匠とて、ここまで派手に改装しないだろう。
教室内の異変は、それだけに留まらない。
亀裂の走る黒板、裾の千切れたカーテン、床に刻まれた無数の剣線。椅子や机にも、例外なく破壊の跡が色濃く残っていた。
一体、私のいない月曜日に何が起きたのか。
愕然と目を瞠る命は、背中に這い寄る気配に気付かなかった。
「命ちゃん」
衝撃のあまり、思わず飛び退きかけた。心中の動揺を押し殺すと、命は静かに振り返る。そこにいたのは見知った二人の級友だった。
「……那須ちゃん、とドドスさん」
小柄な女生徒と、ふくよかな女生徒。
受ける印象は大きく違う筈なのに、命には二人が似通って見えた。アンバランスな二人は、示し合わせたのように顔を曇らせていた。
「どうしたのですか、二人とも」
「あのね……昨日、命ちゃん休んでたでしょ。だから……伝えに来たの」
那須は、傷だらけの床に視線を落とした。
もじもじ体を揺すり、両手の指を絡ませる。言い淀む彼女の言葉を次いで、代わりにドドスが口を開いた。
「あのなあ。大変なんだあ、八坂」
ゆっくりと。
昨日、何があったかを端的に示す答えを。
「シルスターが帰ってきたあ」
ぽつん、と窓際に置かれた空き席の主。
ヴァイオリッヒ=シルスターが、魔法少女の選抜合宿から帰還した。その言葉の深刻さを、命はいまいち理解できていなかった。
◆
面識こそないが、命も噂程度にはその存在を知っていた。情報収集する気がなくても噂が耳に入ってくるあたり、シルスターは有名人といえた。
名家のご令嬢であること。
錬金術という魔法の使い手であること。
そして、女生徒に恐れられていること。シルスターを知る1-Fの女生徒は、例外なく彼女に畏怖の念を抱いていた。
「教室があの有り様だからなあ。当分の間、クラス単位の講義は空き教室を使うことになったんだあ」
先導するドドスが、振り返らずに告げる。
まだ昨日の騒動が尾を引いているのか、彼女の足取りは重い。教室に向かうのが嫌だという気持ちが、ひしひしと感じられた。
「気をつけてね……命ちゃん」
そう言う那須の表情も不安げだ。
恐怖を和らげるためか、ぴたりと命に寄り添っている。背丈と不釣り合いの大きな膨らみが、黒髪の乙女の脇でムニュリとひしゃげた。
(羯諦 羯諦 波羅羯諦)
命が黙唱する般若心経も、はや終わりに到達しかけていた。この程度で色めき立つようでは、とてもこの先やっていけない。
熱を帯びる小顔を伏せて、命は色即是空の理に習う。全ては無なのである。何度となく弾性変形する柔らかな双丘も、全て無なのである。
「ひひん」
しかし、無の境地など安々と到れる領域ではない。
謎の嘶きに誘われるように面を上げると、命は怪訝そうに尋ねた。
「何なのですか、あれ」
「白馬のファルシオンだあ」
「ここ厩舎じゃなくて、校舎ですよね?」
「うん……後者だよ」
なぜか廊下には、それはそれは美しい毛並みを持つ白馬がいた。先週まではなかった馬留めに繋がれ、ご丁寧に飼葉桶と水飲み場まで設置されていた。
もはや馬主が誰なのか問うまでもない。
なかなかにハイレヴェルな問題児である。盗んだバイクで校庭にマックスターンを決めた玖馬よりも酷い。命は開いた口が塞がらなかった。
三人は白馬に一礼し、開き戸の前に立つ。
扉一枚隔てた向こうからは、一人の女生徒の哄笑が漏れ聞こえていた。
尻込みする二人の前に出て、命は意を決した。
扉を開くと、再び驚愕が黒髪の乙女を襲う。教室中央には、宮廷家具と思しきロココ調の椅子にふんぞり返る女生徒――シルスターがいた。
「おや」
取り巻きとのバカ騒ぎに一区切りつけると、シルスターは仰け反る。顎を突き上げた状態で命たちへと視線を遣った。
「主は見ぬ顔じゃな。どれ近う寄れ」
時代錯誤の口調には、有無を言わせぬ強制力があった。シルスターが笑えば取り巻きも笑い、シルスターが黙ればやはりそれに倣う。
クラス全域にこそ及ばぬが、確固たる影響力を持ち合わせる支配者。教室内の空気は、彼女の言動に遅れて形成されていた。
シルスターと命の邂逅。
片や古参、片や新参の問題児。
二人の接触が何をもたらすのか。教室内の女生徒は、固唾を呑んで見守る。散らした火花が業火となれば、1-Fの趨勢は大きく変わるのだ。
背中を焼くような視線が集中するなか。
ご指名を受けた黒髪の乙女は、シルスターの元に参じた。
シルスターは、全身を白銀で彩った女生徒だった。
茨のごとく刺々しい銀の長髪、ボレロ制服の上から着た薄手の銀鎧。下半身のプリーツスカートさえ見えなければ、まるで女学生とは思えぬ姿だ。
――白銀の騎士。
命のありのままの感想がそれだった。
だが、一兵卒には見えない。
シルスターの全身から溢れだす気高さが、その品位を疑うことない黄玉の瞳が、彼女を一兵卒から成り上がらせる。
「…………」
互いに見つめ合うこと数秒。
命は柔和な微笑みを湛え、桜色の唇を開いた。
「お初にお目にかかります、ヴァイオリッヒさん。お噂はかねがねクラスメイトからお聞きしております。私は――」
「よいよい、そう畏まるな。余のことは、親しみをこめてシルスターと呼ぶがいい。主が八坂命だろう。ほう……これはなかなか良い面構えをしておる」
前評判通りだ、と命を褒めて遣わす。
高等部に進学してまだ二日と経っていないが、シルスターもまた黒髪の乙女の噂を聞き及んでいた。
「御三家の面汚しを負かしたと聞いておる。主があの落ちこぼれに競り勝ったと聞いたときは、実に胸が空く思いであったぞ」
「それは光栄です。ですが、お褒めいただくのは少し気後れしますね」
気恥ずかしそうに頬を掻く命に、女帝は問う。
「ほう。それはなぜじゃ?」
「御三家のご令嬢に勝ったといえば、自慢にもなるでしょうが、相手があれではとてもとても。あれは、シルスターさんとは比べ物になりませんから」
命は、ニッと唇の端を持ち上げる。初めこそ金眼を丸くしていたシルスターだったが、呵呵と大笑し膝を打った。
「気に入った! 主の出方次第では手打ちも仕方なしと思っておったが、なかなかの識者ではないか」
(……手打ちって、うどんじゃないのですから)
返答一つで斬首刑とは、久々に頭のおかしい女と遭遇した――などという本音はおくびにも出さず、命は愛想の良い微笑を浮かべていた。
「黒髪は好かぬが、能力のある者は別じゃ。余に恭順を誓う限りは、学内で自由に振る舞う権利をやろう」
どうじゃ嬉しかろう、と今にでも言い出しかねない得意顔だ。御三家って碌でなしの巣窟ですねえと、命が心中で嘆息したときだった。
「ちょっと待て。話が違うぞ、シルスター!」
慌てて取り巻きの一人が、シルスターに意見した。
空色の髪を後ろに豪快に流した女生徒だ。よく見ると、シルスターを囲んでいるのは、1-Fで一番幅を利かせていたグループだった。
リーダー格の女生徒は、画材に似た名前だった気がするが……。うろ覚えの記憶を漁りながら、命はぼんやりと二人の遣り取りを眺めた。
(イーゼルさんでしたっけ?)
「イルゼ」
(そうそれ!)
命の胸のつかえが下りる。
マグナに調子づいて楯突いた女生徒である。未だに1-Fのトップグループに属しているようだが、女帝との力関係は一目瞭然だった。
「主は、余の決定に異論を挟むつもりか」
たったひと睨み。
それだけでイルゼの反骨心が折れた。
「……いや、あんたの考えを否定する気じゃない」
「なら良いのじゃ。下がっておれ」
この遣り取りは、命に少なからず衝撃を与えた。
あの怖いもの知らずが、こうも容易く引き下がるのか。命が知るイルゼは、天下無敵の不良教師にすら喧嘩を売る人物だというのに。
「さてと」
シルスターが居直ろうとした瞬間。
壊す勢いで開き戸が開けられた。爆音めいた開扉音に女生徒たちが竦むなか、赤ジャージの鬼が敷居を跨いだ。
「おい……テメエら、いつまでお喋りしてるつもりだ」
怖気を誘うほどに血走る眼。肩で竹刀を担いだマグナは、全身から止めどなく怒気を垂れ流していた。
(やばい。ダイヤウルフと同じ目をしている……っ!)
乙女危うきに近寄らず。
本能的に危険を察知した命は、直ぐさま自席へと引き返す。女生徒たちが一斉に教科書を開けば、それが講義開始の合図となった。
背中から怒気を立ち昇らせる教師は、無言でチョークをガリガリ削る。八つ当たりするように白棒を叩きつけては、黒板に悲鳴を上げさせた。
マグナの態度が悪いのは今に始まった話ではないが、いつにもまして酷い。ホームグラウンドとは思えぬ剣呑な空気が、教室には満ちていた。
だが、誰もが縮こまりながら講義を受けるなか、彼女だけは違った。
豪奢な椅子に背を預け、欠伸をひとつ。
開いた口を閉じず、シルスターは苦言まで吐いてみせた。
「つまらぬ。なんと退屈な講義なのじゃ」
バキリ、とチョークがへし折れる音が教室に響いた。
あわや均衡が崩れるか。身構える女生徒たちの不安は的中せず、マグナは牙を収めたままだった。
(あれが……ヴァイオリッヒ=シルスター)
マグナに楯突き、勝利してみせた女生徒。
フィロソフィアなどという紛い物とは違う、本物の御三家が教室中央にいた。
命はシルスターへの評価を改めたが、それでも尚、白銀の女帝の危険度を測り違えていた。
嵐の予兆は直ぐそこに。
音も立てず、命の側まで忍び寄っていた。




