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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―禁じられた遊び編―
81/113

第80話 ただその一言で

 息の詰まりそうな時間が終わると、女医が尋ねた。


「貴方、この後はどうする気なの?」

「せっかく見舞いに来たんだ。もう少し顔見てから帰るかな」

「食事は?」

「弁当があるから大丈夫。なんなら手前も食べるか? 一つ余ってたところだ」

「……止めておくわ。胸焼けしそうだから」


 ――そんな油っぽいものは入ってないのに。

 見当違いなことを考えるリッカを置いて、女医は業務へと戻る。余りのお弁当は、彼女のご好意で氷冷蔵庫に保管して貰える運びとなった。


 病室内での食事は禁じられていたため、リッカは診療所の奥にある食堂に入った。食堂は診療所の規模に比例して小さく、十人掛けの机が一つあるだけだ。

 昼食どきの患者ともかち合わず、食堂内は閑散としていた。


 最奥の席に座ると、リッカは徐ろにお弁当を開けた。

 木で作った円筒形の弁当箱――曲げわっぱの上段には、丸いおにぎりが詰められていた。三角に上手く握れなかった失敗作だ。


「これはあたし用だな」


 蓋を外したリッカは、思わず苦笑する。

 下段に詰められたおかずには、隠し切れない見栄えの悪さがあった。それは焼き魚の焦げであったり、玉子焼きの崩れであったりした。


「いただきます」


 手を合わせ、リッカは一人寂しく箸をつかむ。情緒のない早食いをする彼女にしては珍しく、その日の昼食は時間をかけて食べた。


 帰りがけ、待合室から本を三冊ばかし拝借する。

 紙コップ一杯のコーヒーも購入し、リッカは病室に戻る。

 病室は、出る前と何も変わりはしなかった。さやさやと衣擦れの音を立てる白いカーテンだけが、時の流れを感じさせた。


「……ばか」


 つい溢れてしまった想いも届かない。

 寝返り一つせずに眠る命は、ただ周期的に寝息を立てていた。


「はあ。何やってんだ、あたしは」


 もう呆れるのにも、怒るのにも疲れてしまった。

 リッカは再びベッド脇の椅子に腰を下ろした。長い足を組みかけて、ワンピース姿であることを思い出して戻す。

 右手一本で文庫本を開いて、本の世界へと旅行(トリップ)した。


 静寂は女神を受け入れ、彼女もまた静寂を愛した。

 刻々と、静かな時間が流れていく。

 やがて、リッカは一冊目の本を読み終えた。すぐ側に人がいるから気が散るのでは、そんな懸念も忘れるほどに集中していた。


「なんでだろうな」


 窓から差し込む柔らかな日差しが、リッカの横顔を濡らした。


「手前の横は、やけに落ち着く」


 窓辺に積んだ本から二冊目を取り出そうとしたとき、彼女はハタと気づく。安らかだった命の寝顔が、苦しそうだ。頬は薄紅色に染まり、呼吸も先ほどより荒くなっていた。


「もしかして、体調が悪くなったのか」


 おろおろ狼狽えつつも、命の小さな額に手をかざす。

 手当ての結果は、正直よくわからなかった。命の肌に触れることに抵抗があったせいで、リッカの手も、手汗を掻くほどに熱を持っていた。


「お、おでこなら」


 同じおでこなら、温度差がわかりやすいのではないか。

 そうかも。そうだ。そうに違いない――心から沸き上がる謎の声に後押しされて、リッカは前髪をそっと掻き上げた。


「し……失礼します」


 意味深長な断りを入れてから、おでこを近づける。

 距離が縮まるにつれ、リッカが初めに知覚したのは匂いだった。フワリと漂う香りは甘いのに甘すぎず。仄かに混ざる男性の匂いにとろけそうになる。


 意思を強く持ち、リッカは顔の角度を調整する。

 綺麗に通った鼻梁にぶつからないように避けると、長い睫毛が目についた。神の悪戯としか思えない女装子(じょそこ)の額に、秒速5ミリセンチメートルで接近し。


 そして……ピタリと、二人の乙女の額が重なり合う。


 カッと顔が熱くなる。

 案の定、体温など測れぬ状況だ。

 知っていた。本当は、リッカも心の奥底では知っていた。だが、乙女とはときに甘い罠に誘われて、花畑のランドマインを踏み抜く生き物なのだ。


「た、体温を」


 ――測るには、もう少し時間がかかりそうだ。

 時間さえかければ体温が計れると、まるで自分が旧式の電子体温計であるかのような言い訳が、蕩けた頭を満たしていた。


 仕方がないのだ。

 脳内会議では、圧倒的多数のリッカの賛同を得て、おでこ維持派が勝ってしまったのだ。裁判長リッカも、満更でもない顔で小槌(ガベル)をガンガン打ち鳴らしているのだ。


 だが、勝利で沸き立つ会議の場にも、


『違う! 手前ら今すぐにおでこを離せ。こんなのあたしのキャラじゃねえ!』


 声を荒らげる反対派もいた(過去形)。

 今は空を舞っている。賛成派の【竜巻(トーネード)】が炸裂していた。


(ああ……これ、なんかヤバイかもしれない)


 命が目を覚まさないという安心感も背中を押して、リッカはズブズブと深みに嵌っていく。踏み抜いた先は地雷どころか、甘い底なし沼だった。


 あと一分……あと五分……いや、あと十分。

 甘いひとときは、いつまでも膨張する。鼻先にかかる熱っぽい呼気がくすぐったいのに、離れられない。小ぶりな桜色の唇に目を奪われてしまう。


(……あれ? これって)


 もし。

 もしも。

 更に頭を深く沈められたのなら。


 もはや脳内会議すら開かれなかった。

 惹かれるままに落ちていく。真っ赤な林檎は、重力に逆らえない。ぼうっと熱に浮かされたまま、女神の唇は黒髪の乙女の元に落ちていき。


 そして、唇が触れ合う手前。


『何やってんだ、手前は――ッ!』


 わずかに残った理性が、桃色の濃霧を【竜巻】で吹き飛ばす。


「――っぶねえ!」


 ダンっ、とベッドに思い切り両手を突き、踏み止まった。

 今、自分は何をしようとしてたのか。リッカは考えただけで恐ろしくなる。


「ななな、あたしは病人相手に何してんだ」


 大きく後ろに仰け反り、命から目を切った。

 全身から放出する熱量は、無尽蔵にすら思える。今日だけで幾度と無く赤面しているというのに、火照りが収まらない。火を吹きそうなほどだ。


「女医だ。女医のところだ。熱がありそうなんだから、女医に伝えないと」


 その言葉は、誰でもない自分に言い聞かせるものだ。

 リッカは足早で病室から退散する。扉を閉めるとき、命が視界に入ると得も言えぬ罪悪感に襲われたが、どうにか堪えた。


 忙しなく働く女医を捕まえねば。

 目先の仕事に打ち込むことで先の出来事を忘れようとしたが、ここは歩き回るまでもない狭い診療所だ。探すまでもなく、診察室から出た女医と遭遇した。


「あら。どうしたの」


 早すぎる。クールダウンする間もなかった。

 リッカは、テンパり気味の頭でなんとか要件を伝える。


「あっ、と、だな。その……熱がある!」

「言われてみれば。貴方、顔真っ赤じゃないの」


 女医のひんやりした手が、額にかざされる。

 リッカは俯き「あたし、じゃねえよ」と零すだけで精一杯だった。




     ◆




「魔力が欠乏しているから、免疫力が低いのよ。私、今手が離せないから、貴方が看病してあげてくれない。体を拭いてあげたら、氷嚢(ひょうのう)をのせといてね」


 清拭用のタオルがあっちで、氷嚢がこっち。

 それだけ告げて背を向ける女医を、リッカは慌てて捕まえた。


「ちょっと待て、手前!」

「ああ、ごめんね。着替えの場所教えてなかったわ」

「ちげえよ、スカポンタン!」


 リッカは、認識の齟齬を正しにかかる。


「そう気安く拭けるか。体を拭くってことは、ふ……服を脱がすってことだろ!」

「良いじゃないの。仲良いんだから」

「そういう仲じゃねえよ!」


 食ってかかるリッカに臆せず、女医は言い返す。


「なら貴方、私の代わりに患者の相手してくれるの?」

「……うっ」


 診療所が慌ただしいのは、一目瞭然だ。看護婦の会話から察するに、両足を骨折した患者も運び込まれてきたようだった。


「な、ならせめて。他の看護婦に」

「はあ? 貴方、バカなの?」


 何も知らない看護婦に任せれば、汗を拭き取るだけでは済まない。それがわかっているからこそ、リッカも強く出られなかった。


「この女……人の風上にも置けねえ」

「ただでさえ人手不足なんだから、患者に優先順位を付けるなんて当たり前でしょ。八坂さんの発熱は、そこまで深刻なものかしら」

「そ、それは」


 言い淀むリッカに、女医は止めとばかりに言い放つ。


「それに貴方は、大きな勘違いをしてるわ」

「勘違い?」

「私は一人でも多くの患者が救えるのなら、悪魔にでも魂を売る女よ」


 人の風上など知ったものか。

 肩で風を切る女医は、そう言わんばかりの大股で去って入った。


「手前が、すでに悪魔だろうが」


 手をこまねいてばかりもいられず。

 覚悟を決めたリッカは病室に戻るも、やはりというべきか、彼女の覚悟はいとも簡単に溶け落ちた。


 透き通る淡雪のような肌。

 華奢に見えて、引き締まった体つき。

 柔らかさと同居する筋量はあまりに絶妙な塩梅で、身体を撫でたときにはクラリと来て、腹筋にさしかかったときには危うく理性が飛びかけた。


 一仕事終えたときには、これでもかと精神を削られ。グロッキー状態のリッカは椅子の背にもたれていた。


「……何なんだよ、この生き物は」


 天井のさらに先。

 こんなふざけた生き物を造った神がおわす天に向かい、リッカは唾する。当然ながら神の謝罪が下ることはなかったが、代わりに喧しい声が届いた。


「ええー! なんで面会謝絶中なの!」


 奴だ。奴が来たのだ。

 リッカは、誰が来訪したのか瞬時にわかった。

 この有り余る元気を飛ばすかのような溌剌さ。声を聞いただけで、おでこ丸出しの少女の姿が想起された。


「友達パスポート発動だよ。私たちは、是が非でも推して参る系!」


 たち、と言うからにはお連れさまがいるのだろう。

 リッカの脳内にもう一人、座敷わらしの姿が増えた。


「ちょ、ちょっと。戻って下さい!」


 看護婦が叫ぶも、強制力は伴わなかった。

 廊下を走る音が迫ったかと思えば、病室のドアノブが空回りした。

 ガチャガチャ、ドンドン。扉一枚隔てた向こう側では、看護婦が悪あがきする女生徒を取り押さえていた。


「ちょっとくらい良いじゃん、ケチぃ!」


 ここは助けるべきか、見捨てるべきか。

 わずかに逡巡してから、リッカは億劫そうに腰を上げる。内鍵を開けると、あまり歓迎しない見舞い客を迎え入れた。


「いいよ、入れてやってくれ」

「リっちゃん!」

「あ、ありがとうございます……リっちゃん」

「誰がリっちゃんだ」


 組み敷かれていた根木と那須が、顔を上げる。

 まばゆい笑顔を向けられては、リッカも怒るに怒れなかった。

 過ぎた親切心だったのかもしれない。悔恨を滲ませた背中を向けながら、リッカは二人を招き入れた。




     ◆




 望まぬ客とはいえ、無下にもできない。

 リッカは、勝手知ったる病室から新たに二人分の椅子を引っ張りだす。先客としての心ばかりの気遣いだ。


「やっぱり、リっちゃんは優しいね!」

「だから、誰がリっちゃんだ」

「えへへ。私のことは『あっちゃん』でいいよ」

「誰が呼ぶか、デコ娘」


 根木が頬を膨らませたが、無視する。

 リッカが二人を招いたのは、友誼あってのことでもなければ、ましてや世間話をするためでもない。


「勘違いするなよ。あたしが手前らを迎え入れたのは」

「あっ、そうだ。フルーツ持ってきたよ、リっちゃん」

「人の話を聞けや、手前!」


 所在なげにオドオドする座敷わらしも癇に障るが、天真爛漫なデコ娘の比ではなかった。


 なぜだろうか。初対面のときからそうだった。リッカにとって根木の存在はとても印象深く、何より敵愾心を煽るものだった。


(このデコ娘……なーんか見覚えあるんだよな)


 薄目で注視し続けるも閃かない。

 そうして靄がかる思考を広げている間に、根木は水玉柄のミニトートから見舞い品のフルーツを取り出していた。


「ははあ。お納めくだされ」

「桃缶――ッ!」


 あまりに無機質な円筒に、リッカは思わず突っ込んだ。


「これね、とっても美味しいんだよ!」

「美味しいからって、手前。桃缶ってのはどうなんだ?」


 手のひらで缶詰を転がしていると、壁際からボソボソとした声が聞こえてくる。どうやら座敷わらしが、トリビアの匂いに釣られたようだ。


「あの……生ものは日持ちしないから、お見舞い品として不適切だよ。だから桜桃の缶詰というのは、最先端の見舞い品と言えるかも」

「だからって、教師が人さまの持ち込んだ見舞い品を食うなよ」

「んっ? リっちゃん、何の話をしてるの?」

「何でもねえ。こっちの話だ」


 どうも向こうのペースに流されている。

 仕切り直しとばかりに、リッカは翠髪に手櫛を入れた。


「それで、手前らに聞きたいことがある」

「どったの? 急に改まって。大切なお話系?」

「一昨日、何があったのか詳しく聞かせて欲しい」


 ビクリと根木の背筋が跳ね、椅子が軋みを上げる。大きく開いた瞳孔には、ありありと恐怖の色が浮かんでいた。


「わ、わりぃ。あたしが無神経だった」

「ううん。リっちゃんが悪いんじゃないの。ただちょっと……驚いただけ」


 迷宮の恐怖を知るリッカだからこそ、取り違えていた。

 根木の胸を巣食う不安。

 その正体は、ダイヤウルフなどではなかった。


「話すのは全然かまわないけど……でも、私バカだから上手く説明できないかも。那須ちゃん、代わりにお願いしてもいい?」

「うん……任せて」


 見落とした違和感は、音もなく透けていく。了承した那須が話し始めると、リッカも彼女の小声を拾うのに集中していた。


「あれは……麗らかな春の日の出来事でした」

「おい。なんで若干ホラー風味なんだよ。真面目にやれ」


 ぽつんと、根木は置物のように孤独に佇む。誰も知らない秘密を抱えたまま、少女はひたすら微笑んでいた。



 那須の語り口は、無駄に情緒あふれていた。

 外見こそヤンキーガール寄りだが、リッカの根っこは文学少女である。力弱き三人の冒険譚に惹きこまれ、いつ間にか手に汗握らせていた。


「黒い魔力に呑まれた友人に為す術もなく、立ち尽くす二人の女生徒。そこに大きな影が落ちます。見上げた瞳に映るのは、天井から崩れ落ちた大岩! もうここまでかと二人が諦めたとき……救世主が舞い降りたのです」


『やれやれ、間一髪ってところかな』


「純白の水兵服……大きな背中が、私たちを守っていました」


(しらはのブレストミサイル来た! これで勝てる――じゃねえよ!)


 リッカは、純白のベッドに両手を叩き落とす。

 話に引き込まれていた自分が、堪らなく恥ずかしい。

 座敷わらしの語りで注目すべき点は、ヒーロー然とした魔法少女ではない。黒い魔力に呑まれた魔法使いの方だった。


(魔力に呑まれるって、一体どれだけ)


 ――どれだけ魔力が沸き上がれば、陥る現象なのか。


 高い魔力総量を認められ、ゴールドカードを贈呈された才媛にも想像がつかない領域だ。にわかに信じがたい話なのに、納得できてしまうから不思議だった。


 渦中の人物は、魔法少女ではない。

 災厄の象徴とすら謂われる魔法使いなのだ。


「もういい。大体のことはわかった」

「あ、あの……この先の話は」

「こんな不愉快な話、これ以上聞けるかよ」


 鷹の目を光らせ、那須を黙らせる。

 多少の心苦しさはあるが、命のために女神は鬼となった。


「いつもそうだ。手前らが足を引っ張るから、命が危険な目に遭う」

「こ、今回は……自然現象みたいなもので」

「なら手前、魔力が空になるまで頑張ったのか?」


 相手が押し黙ろうが、リッカは容赦なく睨めつけた。


「誰のおかげで傷ひとつなく帰って来られたのか。手前らは、その辺が今ひとつわかってねえ。『今回は』なんて言っている時点で、本当は迷惑をかけている自覚があるのにだ」


 知らず、怒気を孕んだ風がリッカを円心に広がる。怒れる女神に恐れをなしたかのように、部屋の調度品が震えていた。


「弱さを振りかざして生きてりゃあ、さぞかし楽だろうがな。……ふざけんじゃねえ。あいつの優しさに寄りかかるな、あいつの優しさに漬け込むんじゃねえよ!」


 厳しい叱責を受けて、那須は言葉を失う。

 あとひと押しすれば、潤む瞳から涙が溢れるのは明らかだった。それでも、ときに女神は無慈悲に言い渡す。


「罪悪感を誤魔化すのが理由なら、もう来ないでくれ。手前らの顔を見ていると、ムシャクシャして吹き飛ばしちまいそうだ」

「そんな……そこまで、そこまで言わなくても」

「言うさ。敵の敵が味方じゃねえように、友達の友達ってのは必ずしも友達とは限らねえ。あたしと手前は、命を介した赤の他人だからな」


 何も言い返せず、那須は頬を伝う涙を拭うばかりだ。

 罪悪感に苛まれつつも、リッカは身構える。今は沈黙しているが、根木が大音量の罵声を飛ばすと見越しての備えだ。


「帰ろう」


 だが、根木の反応は予想に反したものだった。怒気はおろか覇気もない。感情の波を感じさせないほどに冷めていた。


「この人の言っていることが正しいよ、那須ちゃん」


 ふらりと立ち上がる。

 手早く帰り支度を済ませ、根木は那須の元へと向かった。

 泣き止まない同居人の目元を、ハンカチで拭う。落ち着いてきたところで手を取り、帰ろうと促した。


 互いに挨拶することなく通りすぎる。そのまま外に出て行くものかと思われたが、根木が背中越しに声をかけた。


「ねえ、一つ聞いても良い」

「何だよ」

「ネオン……ううん、何でもない」


 結局、根木はあの日の出来事を胸に秘めた。話すことも、巻き込むことも、決して出来やしない。彼女とリッカの関係は、単なる友達の友達だった。


「じゃあね、リっちゃん」


 行きと打って変わり、静かな退出だった。

 背中越しだというのに、リッカは彼女の表情が窺えた気がした。今にも泣き出しそうな子供が無理やり取り繕っている、そんな寂し気な顔が脳裏に浮かんだ。


「だから……誰がリっちゃんだ」


 天から声が降りてくるわけでもない。

 わかっていても、天井にぼやかずにはいられなかった。


 しばらくの間、リッカは放心状態で天を仰いでいた。鍵を閉め忘れたことを思い出したのは、女医が戻って来たからのことだった。


「悪役を演じるのも大変ね」

「盗み聞きしてたのかよ……趣味の悪い女医だな」

「あら。趣味の悪さと医者の腕は、関係なくてよ」


 リッカは、差し出された紙コップを受け取る。

 淹れたてのコーヒーの湯気が、やけに目に染みた。

 カフェ・ボワソンの味にはほど遠いが、カフェインが入るだけで及第点だ。千々に乱れた心が寄り添い、落ち着いてきたのがわかった。


「まあ、悪い判断じゃなかったんじゃないの。この子にとって、親しい人が無遠慮に迫ってくることが、今は一番危ないわけだから」

「……別に同意して欲しいわけじゃねえよ」

「よっ、名女優」

「褒めて欲しいわけでもねえよ」


 いまいち精彩を欠いた突っ込みだった。

 リッカの精神状態を考えればいくらか不安は残るが、女医もいつまでも油を売っていられるほど暇ではない。魔法信仰の文化もあって、この国は年がら年中医者ひでりなのだ。


「暗くなる前に帰りなさいよ」

「ああ」


 リッカは、上の空で相槌を打っただけだった。




     ◆




 午前の静けさが嵐の前触れだったかのように、午後の診療所は慌ただしかった。本日のお勤めを終えた女医は、首を鳴らしながら見回りをしていた。


「呆れた。やっぱり、まだいるじゃない」


 例の病室は、最後に訪れたときと変わらない構図だ。延々と眠り続ける患者と、延々と読書を続ける見舞い客がいた。


「言っとくけど、夕食は出ないわよ」

「いいよ。もう一つ弁当あるから」

「……遠回しに帰れって言ってるんだけど」


 ページを繰る音が止み、パタンと本が閉じられる。文字の世界に没頭し切れていなかったので、リッカの切り替えは早かった。


 ずっと考えていた。

 読書の姿勢をとる裏で、彼女は思案に暮れていた。

 本当に命の優しさに甘えているのは、自分なのではないか。先の言葉が頭からこびりついて離れなくなっていた。


 秘密を守るという大義名分を振りかざし、彼の独占を図り、あまつさえも彼の友達を勝手に遠ざけようとする。

 何の権限があって? 単なるワガママである。

 向き合うほどに、自分が醜い生き物に思えてならなかった。

 二人を叱り飛ばしたのだって、半分は演技ではない。命の側に立つ二人が羨ましくて、知らず当たり散らしていたのかもしれない。


 一向に改善する兆しがない心の病。

 その不安や焦りを、命で穴埋めしようとしていた。

 実のところ、誰よりも彼の優しさに寄りかかり、漬け込んでいたのは、他ならぬリッカ自身であった。


 女神なんて大それたあだ名が、滑稽に映る。

 憧れを抱かれるほど、立派な人物ではないのだ。

 大人びた容姿もふてぶてしい態度も張りぼての鎧で、キャンパスを歩く誰よりも繊細で脆い女学生なのかもしれない。


 先の見えない未来にいつだって怯えている。

 些細なことで心がささくれ立ってしまう。

 この肉袋のなかには、カフェインとヘドロしか詰まっていないのではないか。そう思えてしまうほどの嫉妬深さに嫌気が差す。


「帰るか」


 今だって、彼の側にいることに安心を覚えている自分がいる。これでは、どちらが患者なのかわかりやしない。リッカは自嘲気味に微笑った。


「また明日も来るよ」


 明日も明後日も明々後日も。彼が起きるまで待とう。

 どれだけ自分が醜くても、それでも彼が好きだ。神話時代の女神のように、恋に焦がれ、恋に溺れ、堕ちてしまっても構わない。

 たった一つ、彼と交わした約束が守れるのであれば。


 最後にひと目その姿を焼き付けようとしたとき。

 ぴくり、と彼の手が動いたように見えた。

 手を振ってくれているのかと好意的に解釈したが、違った。彼の手は、腕は、天井に向かって大きく伸びていた。


「ん――。よく眠りましたねえ」


 まるで映画のワンシーンのようだった。

 天蓋付きのベッドから起きるお嬢さまのような典雅な仕草だ。洗練された黒髪の乙女ともなると、寝起きであっても一分の隙すらなかった。


「あれ? 知らない天井。ここ病院ですかね」


 キョロキョロと辺りを見回す。

 呆気にとられる二人が口を開くよりも早く、命がリッカを認めた。


「あっ、リッカ。どうしたのですか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔していますよ」

「……今まさに、特大の豆鉄砲を食ったんだよ」


 反射衛星豆鉄砲と呼んでも差し支えない衝撃だった。おかしなことが続きすぎて頭は回らないが、リッカは尋ねる。


「その、何だ。頭が痛かったり、気分が悪かったりしないか?」

「うーん。強いて言うなら腰が痛いですね。寝過ぎで」

「ちょいと失礼」

「ひゃっ! 急に何をするのですか」


 唐突に額を触れられ、命は頬を桜色に染めた。

 リッカは邪な感情を抱く余地もないほど、一心に命の熱を測っていた。驚くべきことに、数時間前の熱はすでに引いていた。


(まさか、もう免疫力が戻ってるのか?)


 尋常ならざる魔力の回復速度だった。

 しかし、思い返してみれば思い当たる節がないわけでもない。

 この黒髪の乙女は、幾度と無く災難に襲われてきたが、一度足りとも翌日に学校を休んだことがなかった(ただし、自主休校を除く)。


(そういや……こいつ、ローズと遣り合った翌日も平気そうだったな)


「どうしたのですか、まじまじと私の顔をみつめて。……もしかして、お肌が荒れていますか。落とし忘れたメイクで酷いことになっているとか?」

「……寝起き早々に心配するのが、そこかよ」


 どうして、こんな奴を好きになってしまったのだろう。

 深いため息を落とすリッカの前に、ずいと女医が出る。患者向けのスマイルを浮かべて、自己紹介を始めた。


「こんにちは、八坂さん。私は貴方の主治医の――」


 まず、女医は命の秘密を知っていることを告げた。

 続いて体調について二、三の質問を投げ、ここに至るまでの経緯を掻い摘んで話した。早すぎず遅すぎず、女医の説明は手慣れたものだった。


「――と、ここまでは大丈夫かしら」

「ええ。大体のところはわかりました」

「後はそうね……今日が何曜日かわかる?」

「えっと、日曜日では」


 命は、困惑しつつも答える。

 初めこそ首を傾げていたが、改めてリッカを見遣り思い出す。日曜日、リッカ……連鎖する記憶が、最後に導き出した単語は――観光案内。


 地元住民のリッカに、王都を案内してもらう。

 その約束の日が、まさに今日この日だった。


 命は慌てて上体を捻り、窓の外を確認するも遅かった。黒髪の乙女がくっきり映るほどに、街は深い暗闇に包まれていた。


「あ……ああ」


 大事な用事をすっぽかしてしまった。

 自責の念にかられた命は、小刻みに震えていた。


 観光案内などと誤魔化しているが、命も薄々は勘付いていた。

 恐らく日曜日の約束は、俗に言うデートという類のものであろうと。ただ、意識し過ぎるのも気恥ずかしいので、積極的に目を逸らす所存であっただけだ。


 ――いいこと、命ちゃん。女の子に恥をかかせたのなら、潔く切腹なさい。


 満点の夜空に、母さまの姿を幻視した気がした。

 鍛冶師ディルティから譲り受けた匕首(あいくち)"黒姫"があれば、危うく切腹に乗り出しかねないほどの迫力を秘めた幻だった。


「たたた、大変申し訳ございません。この度は多大なご迷惑をおかけいたしまして、猛省しております!」

「落ち着け! というか今すぐ土下座やめろ!」

「切腹だけは何卒ご容赦下さい!」

「させるか! そこの女医も真っ赤になって震えてんじゃねえ! つーか手前、さっきの質問は完全に確信犯だろ」


 需要に対して、突っ込みの供給が間に合わない。息を荒らげるリッカの横で、女医は笑い涙を拭っていた。


「いやあ。久々に笑わせてもらったわ」

「もう二度と……手前のところにはかからねえ」

「冗談はさておき。幾ら体調が良いと言っても、明日までは安静にしていきなさい」

「はっ、入院費用! 保険証もない!」


 自由の国と同レヴェルで毟り取られたら、本格的に借金が膨らんでしまう。今でさえ社会人の平均年収と大差ない借金があるのだ。命は戦々恐々とする。


「貴方、本当に面白い子ね。入院費用なら、マグナに払わせるわよ」


「ただ」と女医は断りを入れる。


「悪いけど、八坂さんの夕食はないのよね。まさか今日起きるとは思わなかったものだから。見ての通り、うちは小さな診療所だから、人数分しか用意してないのよ」


 そっと、女医はリッカに目配せする。


「だから、夕食はこの娘に食べさせて貰うといいわ」


 うふふ、と口元を押さえて彼女は上品に微笑う。

 一歩距離を詰めて、リッカに耳打ちした。


「お膳立てはしてあげたから、上手くやるのよ」

「……余計なことしやがって」


 リッカが恨みがましく言うも、聞く耳を持たない。

 女医は飄々と扉に向かう。後は若い二人でごゆっくり、という典型的な場面を演出するため、立ち去ろうとしていた。


「あっ、そうそう。念のために言っておくけど、ここのベッドは、そういう用途で使うものじゃないからね」

「死ね――ッ!」


 リッカは枕を全力投球したが、獲物を逃した。

 間一髪。ぴゅーっと、女医は風のように病室から飛び出し、開き戸が盾となる。扉に直撃した枕は、どさりと床に落ちた。


「…………」


 女医の置き土産の効果は、絶大だった。

 室内には気まずい雰囲気が満ち満ちて、二人は目を合わせられずにいた。沈黙に耐えかねて、先に口を開いたのはリッカだった。


「……弁当」

「お弁当が、どうかしました?」

「その……弁当作ってきたんだけど、食べるか? 作ってから時間経っちゃったし、そんなに大したものじゃないけど。飯抜きよりマシだろ」

「ええ、喜んで。お相伴に預からせていただきます」


 それから二人は、誰もいない食堂で一つの弁当をつつき合った。

 命が弁当に箸を運ぶたび、リッカは気が気でなかった。

 彼は、決してお弁当の味に文句を付けなかった。むしろ事あるごとに褒めるものだから、へそ曲がりの女神さまは、ついつい言い返してしまう。


「そんなことはない」「大したことはない」「手前は、本当に口がうまいな」などと、弛緩する頬を引き締めて、言い返すので精一杯だった。


「……あのう、今日は本当に済みませんでした」


 食事中、命は再度謝ってきた。

 上目遣いで顔色を窺う彼は、外見のせいかあざとく映る。けれど、打算抜きでえらくバカ真面目な男であることは、リッカもよく知っていた。


 わざわざ蒸し返さなければいいのに。

 謝罪が半端な形で終わったことが気にかかる気持ちはわかるが、リッカから見てそれは得策だとは到底思えなかった。


 もし、あたしが憤慨したらどうする気なのか。

 本気で怒ったら、本人とて何を言い出すかわかったものではなかった。


 ――そうだぞ。あたしが今日をどれだけ楽しみにしていたのかわかるのか?

 手前がどんな食べ物が好きなのか、一生懸命リサーチしたんだぞ。

 健康食が好きそうだから、野菜と魚を中心にして。日本食の勉強をするために、食堂棟の日本食エリアにも通い詰めて。それで早朝からお弁当を作って。

 服装だって、ファッション誌片手に慣れないブティックを回って。普段パンツコーデなのに、頑張ってワンピースに手を出したんだぞ。どうだ、可愛いと褒めてみろ。けど、あんま見んな、恥ずかしくなるから。

 大体いつも手前は、人のことを喜ばせたと思ったら、どっか行っちゃって。釣った魚に餌をあげないとは、どういう了見なんだ、ええこら。

 お人好しも大概にしとけ。いつも他の女の問題ごとに首突っ込んで、助けられた女が熱っぽい顔で手前のこと見ているだろうが。ふざけんな、嫉妬するぞ。

 しかも、平穏無事に卒業したいと宣うわりには、無茶ばっかりしやがって。心配する身にもなってみろよ、このHENTAI女装露出狂!


 そう、不満や不服は山ほどある筈なのに。


「いいよ」


 ただその一言で許せてしまう。

 惚れた弱みというのは、なんとも厄介なものだ。


 初デートの予定はご破算だし、不安な気持ちにもさせられたし、今日一日で片手で数えられないほどの辱めにも遭った。


 でも、今日はなかなかに悪くない一日だった。カフェ・ボワソンの女神はコーヒーを啜り、花のように笑った。

魔法少女の狭き門SSにて「登場人物紹介(第80話時点)」を更新(http://book1.adouzi.eu.org/n1267ce/19/)

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