第78話 巣食う悪魔
空間の裂け目から現れた者は言う。
「かよわい子を保護して欲しいと聞いて、来たんだけど」
身長は辛うじて150cmを超える程度だろうか。
目線の高さは那須とほぼ変わらない筈なのに、受ける印象は大きく違う。物怖じするところのない彼女の背丈は、見た目より大きく見えた。
「あれは"かよわい"と言うのかな?」
黒ローブの女は、一人おかしそうに笑う。
予期せぬ闖入者に那須はキョトンとしていたが、気にも留めない。彼女は視線一つ寄越さず、標的に照準を合わせていた。
むせ返りそうなほどに濃厚な魔力が漂う先。
そこに、黒い悪魔が立っていた。毒沼にも似た足元の魔力溜まりは、絶えずボコボコと音を立て。増殖し続ける【呪術弾】すべてが、二人に向けられていた。
「まあ、かよわい方かな」
先に抜いたのは、黒ローブの女だった。
悪魔の撃鉄が落ちるよりも早い。
地面を突き破り、巨石兵の手が飛び出る。
岩肌の拳が真芯をとらえ、黒い悪魔を殴り飛ばした。
「――悪魔にしてはね」
連鎖するように黒い風船が割れた。
やかましい破裂音が鳴り響くなか、黒い悪魔は瞬く間に点になる。地面を抉り続けてもなお勢いは衰えず、ぶつけた岩壁に衝撃を散らす。
遅れて、岩壁には蜘蛛の巣状のひびが描かれた。
「よーし。ちゃっちゃと回収しちゃおうか」
那須は、ようやく我に返る。
あの理性のない化け物と結びつけるのは難しいが、今しがた吹き飛ばされたのは命である。気づくと、矢も盾もたまらず黒ローブの女に縋りついていた。
「乱暴なことしないで! あの子、私の友達なの!」
「そうだろうね。じゃないと数が合わないもの」
二人の間には埋めようのない温度差があった。必死に訴える那須と、淡々と答える女の会話は、まるで噛み合っていなかった。
「ふーん」
彼女の瞳に、那須は映らない。
けぶる砂埃に未だ残る、膨大な魔力の塊を注視していた。
「思ったよりも硬いな。半殺しにするぐらいの勢いでヤったのに」
「半――ッ!? 止めてよ! 命ちゃん、死にそうなんだよ。大きなオオカミに噛まれて、血をドバドバ流してるんだよ!」
爪を食い込ませる勢いで肩を掴み、那須は懸命に揺らす。
「なるほどね。あの分厚い魔力で、無理やり止血もしているわけか」
全然わかっていない。
「面白い魔法論理だ」と呟く女は、那須の気持ちをひと掬いすら汲みとれていなかった。わざとじゃないかと疑いたくなるほどだ。
「ところで君さ」
躍起になる那須と、黒ローブの女の目が合う。
「汚いんだけど」
黒と灰色の中間。
赤鉄鉱の瞳は、怒りに渦巻いていた。
土にまみれた少女が無造作にベタベタ触れてくることが、大事な外套を汚されたことが、黒ローブの女の神経を逆なでした。
「寝てろ」
彼女が手をかざすと、那須がふらりと落ちる。
強制的に意識を飛ばされた少女は、固い地面をベッドにする。黒い悪魔の咆哮も聞こえぬほどに、深い深い眠りへと落ちていった。
「全く。君が邪魔するから」
横殴りの【呪術弾】の雨が降り注いでくる。
即席で【石壁】を張るも、即興の盾の出来はあまり良くない。【石壁】は端からボロボロと崩れ落ち、決壊した。
受け損なった魔法弾。
数にして32発の【呪術弾】が、女を黒ローブの上から叩いた。
「痛……ったいなあ、もう」
忌々しげに吐き、彼女は虫を払うように手を振るう。
バチン、と最後の【呪術弾】を明後日の方向に弾き飛ばした。
ふうとため息を漏らし、彼女は見た。
千切れたローブの端が、ひらりと舞う瞬間を。
ほんの切れ端。数ミリ四方にも及ばぬ黒い布地を失ったことが。
「悪い子だ」
――彼女の逆鱗に触れた。
【石の聖槍】
地を破る石槍が、分厚い黒を刺し貫いた。
狂った獣が叫びを上げようが、槍撃は止まない。
「悪い子だ」
【石の聖槍】
二槍。
斜め十字を描いて、石槍は交差する。
「悪い子だ」
【石の聖槍】
三槍。
串刺しの獲物は沈黙する。
命を黒い悪魔たらしめていた黒衣が、ほつれていく。解けた魔力は黒い糸となり、さらさらと薄闇に流れていった。
「まあ、僕も心が広い方だからね。これぐらいで勘弁してあげるよ」
気が晴れたのか、黒ローブの女は一人頷く。
三本の槍を支えに浮かぶ命には、さして興味がなさそうだ。
「それじゃあ、然るべき処置をしようか」
嫣然と微笑み、黒ローブの女は【石棺】を用意した。
「よし、出発」
十分ほどで準備を終えると、彼女は散歩に出かける。
ペットの代わりに引き連れるのは、車輪のついた石棺だ。車輪は地面に引いた溝にぴたりと嵌まり、音も立てずに彼女の後を追う。
見る者が見れば、RPGの一場面のようだと評するだろう。
まるで、全滅したパーティーを引きずるような光景だった。
◆
カーチェの迷宮、地下13階層。
疾空するカラスペンギンに飛び蹴りを見舞い、女海兵は華麗に着地する。ぶるんと大きな胸を揺らしてから、ついでにポーズなんぞも決めていた。
女海兵勝利のポーズ(胸を強調)。
「やってて良かった、軍隊式訓練」
しんどさをひた隠し、ヴァネッサは陽気に笑う。
【探索波】を撃っては命たちのおおよその位置を探る。位置情報を元に二つの石階段を吟味しては下る――これを延々と繰り返していた。
四方八方に【探索波】を乱れ撃ちしたこともあって、さすがのラテン系お姉さんも魔力が不足気味だ。魔力温存のためにも、戦闘は軍隊仕込みの肉体で代用する。
「ふっ!」
漏れる吐息。
突き出した右拳が、魔物の鼻頭に刺さる。バネじみた足でコミカルに跳ねながら、スプリングネズミが退散していった。
――魔物と言っても動物みたいもんだ。だいたい鼻頭を殴っときゃ、いける。
隊長の言う通りだった。
本当かよ、この人テキトーなこと言ってんじゃね?
と、話半分に聞いていたが与太話ではなかったようだ。
――いいか? アウロイタイガーが相手なら、まず鼻頭に打ち込む。相手の突撃に合わせてカウンターを叩き込むのが理想だが、まあこれは難易度が高い。わざとがら空きの腕をチラつかせる。噛み付いた瞬間に【羽衣】で腕を一点強化で守って、即反撃だ。
――ダイヤウルフが相手なら、相手を軸にして円を描け。あいつらは四ツ首だが、体は一つだ。アウトボクサーさながらの動きで撹乱したら、足をへし折れ。奴らは重量級の割に足が細い。欲を言うのなら、足の爪を割る方が綺麗だけどな。
あの人は、一体なにを目指しているのだろうか。
ヴァネッサは不思議でならない。
熱血一直線な後輩などは「うおお! 隊長、タケイソウみたいでカックイイ!」と興奮していたが、肝心の"タケイソウ"が何なのかわからなかった。
きっと、日本神話か何かに登場する英雄なのだろう。
等と考えながら、ヴァネッサは先を急いでいたのだが。
「そんなに急ぐ必要もないか」
ふと思い直して歩速を緩めた。
命たちの無事を確信した今、ヴァネッサは先を急ぐ理由を無くしていた。でなければ、無駄にセクシーポーズを決めたりなどしていない。
「おっ、また来た」
定期的に届く【探索波】が、女海兵を安心させてくれる。命たちを救出してくれた魔法少女は余ほど律儀なのか、或いは神経質なのか。一定時間置きに、こうして信号を送ってきた。
我任務ニ成功セリ。
ヴァネッサは薄く微笑む。最短目標の3時間から幾分か足は出たものの、この結果なら及第点である。
「さてさて、救世主ちゃんは誰かな」
波長から判断するに、地属性の魔法少女。
残念ながら、しらはの一員でないことだけは明らかだ。
本音をいえば、ヴァネッサも身内ですべて片付けたかったが、この短時間で交渉を終えたマグナの努力を思えば、多少の不満は飲み込めた。
(本命がローズ、対抗がワルウ、大穴でヘイトレッド隊長って言ったところかな)
前二人が"王宮騎士団"の所属。
後一人が"鐘鳴りの乙女"の所属。
ヴァネッサとしては、ヘイトレッド隊長が好ましいが、当たらないからこその大穴である。そう簡単に隊長格が動くとは考えにくかった。
「……やっぱ、ローズだよね」
肩と一緒に、思わずため息が落ちる。
先輩に当たるワルウには申し訳ないが、こうも迅速かつ的確な動きができる魔法少女となれば、ローズと判断するのが妥当だった。
「おばちゃん、あの子苦手なんだよなあ」
小等部卒業と同時に"王宮騎士団"入りを確約された傑物。
高貴な家柄。掟破りの四大元素を宿す才能。
セントフィリア王国の初代女王、セレナ=セントフィリアの再来と呼ばれるのも頷ける人物なのだが、ともかく性格が悪い。
玉に瑕どころの話ではない。
「ねえねえ。どうしたら、そこまでの宝玉を傷だらけにできるの? ミキサーなの? ミキサーにかけたの?」と、ヴァネッサが真顔で訊いたほどの逸材である。
「はい、ローズで確定」
水属性の波長が、ヴァネッサを透過する。
地と水の混合属性ともなれば、もう疑う余地はない。
忙しない【探索波】は、もたもた歩く女海兵を急かすようだ。どうやら階下の彼女は、また一つ石階段を上ったらしい。
「うへえ。ゆっくり歩いて行こう」
お得意の職務怠慢が、ひょこりと顔を出す。
早く落ち合ったところで、共にする帰り道が長くなるだけである。ヴァネッサは悠長に歩く。迷宮はやけに大人しいのに、洞穴生物がざわついていた。
◆
棺桶といっしょ。
黒ローブの女は無言で先を急ぐ。
久々の運動で鈍った体が解れたのは良いが、今は一刻も早く自室に籠りたい気持ちで一杯だった。
今が良いところである。
これまでの努力が実を結ぶ瞬間は、そう遠くない。
なのに、無粋な連絡であった。
演劇のラストに魅入る観客の肩を、よくもまあ気軽に叩けるものだ。彼女は酷く憤慨したが、受けねばならぬ仕事であったのも事実だ。
放置すれば、困るのは他でもない彼女だ。
二年、いや三年前だろうか。
興味がないことには、彼女の海馬はとことん働かない。何年前の出来事かはよく覚えていないのだが、カーチェの迷宮で事件が起きた。
一人の女生徒が、ダンジョンに喰われたのだ。
人喰いが人間を食ったとて、何を騒ぎ立てる必要があるのか。
黒ローブの女は黙々と研究に打ち込んでいたのだが、事は彼女が考えるよりも面倒な方へと転がっていった。
被害者は外部入学生だった。
極東に浮かぶ島国(彼女はこの国を毛嫌いしているため、名前も呼びたくない)の出身者であったことが、世論を呼び起こした。
やれ国際問題だ、やれ賠償責任だ。
貴国の対応には誠意ガガガガガ――。
思い出すのもうんざりする言葉の数々である。しかも、調べてみれば、どうだろう。どうにも事故ではない線が浮上してきた。
真の死因は、イジメによる線が濃厚だった。
我が子のやったこととはいえ、面倒なことをしてくれた。彼女は事実を隠蔽するために手を尽くし、多大な労力を払う羽目になった。
もうあれは御免である。
袂を分かった世界に干渉されるのも、邪魔されるのも、もう沢山だ。黒ローブの女は要らぬ苦労を負わぬためにも、渋々と要請を呑んだ。
仕事の内容は、【階層工事】に巻き込まれたかよわい子ども三名を救出すること。そう聞き及んでいたのだが。
「参ったな」
カーチェの迷宮、地下20階層。
目前で繰り広げられる縄張り争いを眺めつつ、彼女はひとりごちる。
魔物同士の勝負は一瞬だった。
轟音に潰されたダイヤウルフの姿が見えた。地下20階層では無敵を誇る三つ首の魔獣も、相手があれではかたなしである。
延し棒で真ん中から叩き潰した粘土のようだ。
地面と半ば同化した凶狼は、息絶えていた。時間を置かず、その巨体は魔力へと変貌を遂げ、母なるダンジョンの一部と化した。
「こんな仕事まで、請け負った覚えはないぞ」
捻れた二本角を持つ、馬面の巨人は臭い息を吐く。
低階層の天井に迫るほどに背は高く、肌の色は浅黒い。傷んだ長い毛並みを揺らし、巨人は原始的な棍棒で大地を震わせた。
本来それは地下20階層などにはいない魔物。
地下90階層に巣食う馬の巨人――ギガバース。【階層工事】の脅威は探検者を惑わすだけに留まらず、招かれざる悪魔をも呼び寄せていた。
◆
血相を変えて、ヴァネッサは迷宮を駆ける。
順調に進んでいた階下の彼女が、地下20階層でいきなり足を止めた。不思議に思い放った【探索波】が捉えたのは、尋常ならざる魔力反応だった。
「――ッ! 忘れてた!」
【階層工事】が起こす二次災害として魔物の転移が起こることを、ヴァネッサはすっかり失念していた。つまり、いつものウッカリである。
だから、始末書ヴァネッサと呼ばれるのだ。
そう心中で毒づきながらも、女海兵は加速する。
出力アップ、出力アップ。
魔力の残量も気にせず、身体能力を底上げする。
途中、何度も魔物が飛びかかってきたが、低階層の魔物であれば問題はない。強化した【羽衣】の前では、触れた端から弾き飛んでいった。
問題なのは、地下20階層に潜む魔物である。
一級品の魔法少女が後れをとるとは信じたくないが、ここは油断一つが死を招く地下世界である。
翔ぶが如く。
ヴァネッサは地を蹴り飛ばしては、石階段を下る。
この石階段を下れば、地下20階層は直ぐ――。
「ひゃん!」
盛大に足を滑らせた女海兵が、変な声を上げる。
ヴァネッサは、強引にバク転を決めてみせた。たとえ肉体的に不可能な動きであろうと、魔法を使えばこの程度はお手のものである。
「何なのよ、もう」
誰かがバナナの皮でも落としたのか。
ぷりぷり怒るヴァネッサが目撃したのは、鏡のように磨かれた地面だった。
「……氷?」
下から吹き上げる冷気で、石階段からその周辺までもが凍っている。防寒も兼ねる【羽衣】が災いし、ヴァネッサの反応は遅れていた。
「魔法の余波だよね」
経験則から鑑みるに、そう判断するのが妥当だった。
上階まで影響が及ぶとは、余ほど凄まじい戦闘が繰り広げられているのだろう。ヴァネッサは呆けた頭を振るって、気を急かす。
「早く下りなくちゃ」
全身を覆う黒衣の一番下。
ヴァネッサは靴底に相当する部分に魔力を注ぎ込み、黒い棘を生やす。どんなアイスバーンであろうと、ドジっ子発動を食い止めるスパイク靴である。
ザクザク足跡を刻み、石階段へと突入する。
【鬼灯】の赤灯が照らすと、眩しいほどの照り返しに襲われた。上下左右、狭い内部は見事なまでに凍りついていた。
(……なんだろう)
氷の階段を下る間。
スパイクが氷を削る音だけが、狭い通路に響く。
一段下るごとに、嫌な予感は膨れていくばかりだ。
妙な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
(何かが違う。何かがおかしい)
階段を下りたとき、胸騒ぎは確信に変わった。
「……っ!」
地下20階層は凍る。
時が経つのも忘れて、静かに眠っていた。
分厚い氷の下で、チカチカと淡い青灯が光る。
地面が、岩壁が、目に付くものすべてが、なだらかな氷に覆われていた。静謐が横たわる神秘的な光景を前に、思わずヴァネッサは息を呑む。
氷河洞窟だと言われれば、信じてしまいそうな風景だ。
「なんなの、これ」
やっとのことで、声を絞り出した。
急に見知らぬ土地に放り出された気分だ。不思議の国に迷い込んだ少女のように、覚束ない足取りで彼女は進む。
洞穴から顔を出す、コウモリ。
のそのそと歩く、セピア色のパンダ。
今にも飛びかかりそうな迫力を見せる、三つ首の狼。
熱を閉じ込めた氷像を通り過ぎるたびに、妙な気分を味わわされる。何度か部屋を通過するうちに、ヴァネッサは大広間へと辿り着いた。
大広間の中央に立つのは、天井に頭がつきそうなほどに高い氷像だった。興奮した馬面の巨人は何も知らずにいきり立ち、そして凍りついていた。
ヴァネッサは、ひと目で理解した。
一流の魔法少女が嗅ぎとった膨大な魔力の正体は、深階から転移してきた魔物などではない。巨人に寄り添うように立つ――黒ローブの女の魔法だったのだと。
【氷砕】
女が鳴らす指の音が、静謐を破る。
崩れる巨人の氷像。巻き上がる白い煙。
ヴァネッサの時すら凍るなか、黒ローブは平然と歩む。凍りついた地面を滑るように、三つの石棺を引き連れて来た。
違う。
ハイルフォン=ローズではない。
あの生意気娘の方が、数百倍マシだった。
「やあ」
ローブからのぞく顔は、想像以上に幼い。
顔には、少女特有のあどけなさが残っている。澄んだ空色の髪に混ざる、桃色のポイントカラーが特徴的だった。
「ずいぶんと遅かったじゃないか。君といい女王さまといい、僕を顎で使おうなんて良い度胸をしているよ」
(女王? メルディア女王陛下のこと?)
静かに臨戦態勢に移り、ヴァネッサは頭を回す。
"しらは"でもなければ、"鐘鳴りの乙女"でも"法の薔薇園"の一員でもない。一番疑わしいのは"王宮騎士団"であるが、女王に忠誠を尽くす騎士があの様な物言いをするものなのか。
「おっと、待った」
見透かしたように、黒ローブの女は掌を突き出す。
「変な真似したら、急に石棺が砕けちゃうかもよ」
三つの石棺。
行方不明の三人の魔法少女。
極度の混乱状態で忘れていた、大事なものを思い出す。
中身が何かなど、今さら問うまでもなかった。
「な――ッ! あんた、あの子たちに何をしたの!」
心外とばかりに、黒ローブの女は肩を竦める。
「やれやれ。失礼しちゃうぜ。僕が通りすがったから、助かったようなものなのに。あの子たちは、僕がいなきゃ間違いなく死んでいたよ」
「……ねえ、生きているんでしょうね?」
黒い魔力を噴かせる。
ヴァネッサは顔を強張らせるが、女はどこ吹く風だ。
「大丈夫だよ。僕が治しておいてあげたから」
ゾワリ、と背筋を悪寒が駈けぬける。
子供のときから親に口酸っぱく言われていた。ヴァネッサに限らず、この国に住む者のなら誰しも聞いたことがある。何代にも渡って伝わる物騒な格言。
――治癒術者を見たら、殺人鬼だと思え。
空で解体新書を書けるぐらい人間を解さないと完成しない。と、まことしやかに噂される存在が目の前にいた。
「あっ、誤解のないように言っておくと、おでこを出した子はその範疇じゃないよ。僕は無駄なことには魔力はかけない、節約主義の魔法少女なんだ」
「ここまで派手にやっておいて、よく言うわね」
「ははは。そりゃ一本とられたな」
黒ローブの女は、痛くも痒くもなさそうな顔だ。
「たまに魔法を使ったら、これだ。これじゃあ、片道分の魔力を節約した意味がまるでない。素直に門を開けるべきだったよ」
「片道? 門を……開く? あんた【戦乙女の門】を通って来たんじゃ」
はて、と黒ローブの女は可愛らしく小首を傾げた。
「君は何か勘違いしているようだね。僕は、自前の門で来たんだよ」
ヴァネッサは、頭がどうかしてしまいそうだった。王国が貸与する魔法石を使わずに大規模転移を実現するとしたら、手段は一つしかない。
三大禁呪のひとつ【魔法少女の狭き門】の開門。
莫大な魔力を必要とするそれを個人で成功させたと言われるのは、セントフィリアの歴史のなかでも二人だけである。
初代女王、セレナ=セントフィリア。
最悪の背信者、リッシュ=ウィーン。
錠を落とす鍵を与えられるのは、歴代でも最高峰に位置するハイエンドだけである。現代において、門を開けられる魔法少女はいない――筈だった。
「あんた……何者なの」
「本当に覚えていないのかい。僕は君のことをよく知っているのに、君は酷いやつだな。ねえ――ヴァネッサ=バレンシア」
フルネームを呼ばれた瞬間、脳内で何かが弾けた。
脳細胞に電流が走る。忘れていたすべてが炙り出される。
「……思い出した」
蘇る記憶から浮かび上がる名を、ヴァネッサは力なく呟いた。
「ネオンライト=テトラ」
「おはよう」
黒ローブの女――ネオンライト=テトラの唇が、三日月に歪む。
実に呆気無い幕切れだった。隙を突かれたヴァネッサは、テトラに手をかざされる。ただそれだけで決着はついた。
「そして、おやすみなさい」
全ては忘却の彼方。
人の脳を解剖し続けた魔法少女のみが立ち入れる、禁忌の領域。魔法少女の抵抗値を上回る記憶操作――【虚偽新製】により、すべては塗り替えられた。
『命たちは、怪我などしていない』
『ダイヤウルフとの戦闘で窮地に陥るも、颯爽と現れた"しらは"所属の魔法少女ヴァネッサ=バレンシアの活躍で事なきを得た』
その偽物のシナリオは、すでに共通認識である。
この場にいる者すべての記憶改ざんは、これで終わりだ。
「じゃあね、僕の大切な魔法少女たち」
三禁破りの悪魔は、人知れず闇へと消えた。
だが、テトラもまた知らないことがあった。幸か不幸か、この四人のなかには【虚偽新製】が効かない稀有な魔法少女がいたことを。
暗い石棺のなかで、根木はただ震える体を抱いていた。




