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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―禁じられた遊び編―
78/113

第77話 深階のネオンテトラ

 野生の咆哮が、乙女の柔肌をびりびりと震わせる。

 命たちは動揺しつつ、弧を描くように三方へと別れた。


 ――ルールその3、緊急時は魔力度外視で守りを固めること。


 魔力を編み込んだ黒衣を着込み、【結界弾】の装填に移る。

 数秒の充填の時間すら命取りになりかねない。

 命たちは睨みを利かせ、ジリジリと距離を離しにかかった。


(……追撃が来ない?)


 いち早く異変を察したのは、命だった。

 猛る三頭の勢いに飲まれがちだが、一頭だけ様子がおかしい。輝板(タペータム)の瞳は虚ろで、まるで焦点が合っていなかった。


「一頭だけ目を回しています!」


 多頭の化け物の脳みその構造など知らないが、一つの頭だけで身体の統制を図っていないことだけは明らかだった。

 完全な無駄弾ではない。カウンターの【結界弾】に一定の効果があったことを認めると、命は手短に方針を伝達する。


「チャンスです。隙を見つけた人から、石階段に突入して下さい」


 ダイヤウルフの巨躯であれば狭い石階段には入り込めないと、命は踏んだ。何も戦闘に勝つことが勝利条件ではない。三人無事に逃げ切ることが、勝利条件だ。


 ローファーが湿った土を掻き上げる。

 那須が左から大きく迂回したが、すかさずダイヤウルフが牽制を入れた。粗雑に振るった前足が、砂石を盛大に飛ばした。


 殺傷力のある攻撃ではないが、気勢が削がれる。

 怯えた那須の足が止まり、再び硬直状態が生まれた。


「くっ、この」


 根木が逆方向から仕掛けるも、結果は同じ。

 狡猾な狼は、獲物を一匹たりとも逃がすつもりがないようだった。


(後ろは……ダメですよね)


 撤退するという選択肢も厳しい。

 一本道の通路に逃げ込めば、敵の思う壺だ。

 命たちには、前進するより他に活路はなかった。


 せめてもの救いは、ダイヤウルフが【結界弾】を警戒していることだった。牽制こそ入れてくるが、本格的な突撃は躊躇している風だ。


(なら、こっちですね)


 手元の【結界弾】を解除し、【呪術弾】にスイッチ。

 ダイヤウルフが牽制した隙を縫い、命は手のひらから黒い靄を放つ。二頭目の頭に向けて、吸い込まれるように黒い銃弾が飛んだ。


「ウオン!」


 魔力球の接近を気取り、凶狼は地に伏せる。

 軌道は斜め上。【呪術弾】は天井に刺さる角度で走る。


(曲がれ――ッ!)


 変化球。

 斜め下にカーブする呪術弾が、二頭目を上から叩く。

 直撃の瞬間、命はわずかに白い歯をのぞかせたが。


 ――ぱんっ。


 瞬時に、黒髪の乙女の微笑みは凍りついた。

 風船に針を刺したような、なんとも情けない破裂音。

 鳴ったのは、我が耳を疑うほどに軽い音だった。


(なっ! 硬すぎる。反則レヴェルです)


 魔物との戦闘経験が浅い一行は、知らなかった。魔法少女を天敵とする魔物は、【羽衣(ローブ)】に類する防御術式【皮衣(ファー)】を常に纏っていることを。


 そして、知るには一歩遅かった。

 ダイヤウルフが命に迫る。凶狼は小賢しい黒髪の乙女の優先度を上げて、一時の間、他の女生徒の存在を捨て置いた。


 灰色の前両足が、容赦なく命を踏み付けにかかる。

 オオカミに組み敷かれたら終わりである。

 いや、それ以前に凶狼の重量は数百キロに上るのだ。

 押し倒されたら、あっという間に肩の骨が壊れる。


(あっ)


 無意味な独白が頭を流れる。

 命は、反射的に【羽衣】の出力を上げるだけで精一杯だった。


 無慈悲な獣が躍りかかる寸前。


「てりゃああああ――ッ!」


 間の抜けた叫び声とともに、根木の攻撃が飛ぶ。

 こめかみを撃たれ、凶狼は半強制的に動きを止められる。

 キャンキャン喚きながら、四つの頭を振り乱した。


 命の【呪術弾】の威力の比ではない。

 想定外の飛び道具に、命は目を丸くした。


(投石ぃ!?)


 恐ろしく原始的な攻撃に驚愕する。

 魔法少女としてあるまじき暴挙だ。魔法を使わずに投石に走る。果たしてその様な存在を魔法少女と呼んでいいのか。命は一秒にも満たない時間、混乱していた。


「やった! なんか結構効いてる系!」

「ありがとうございます。助かりました!」


 悶えるダイヤウルフから、命は咄嗟に距離をとる。


(偶然? 魔法よりも威力が劣るのに)


 ――物理防御から防寒防熱、魔法の威力軽減まで何でもござれの防御魔法。これ無しで魔法合戦とか、阿呆な真似せえへんようにな!


 ――残念だが【羽衣】をまとえば、鉛球も通らねえからな。


 体育教師の白石とリッカの言葉が蘇る。

 この二人が嘘を言うとは思えない。

 後がないという状況が、命の思考を加速させた。窮地に追い詰められた頭を掠めたのは、一振りの黒漆塗りの太刀だった。


(そうか……だからか)


 だから、スピナは帯刀していたのだ。

 魔物の防御術式【皮衣】は、魔法少女の【羽衣】と似て非なるものである。魔法攻撃を得意とする反面、物理面の耐久性能に欠いていた。


 一つの仮説に辿り着くと、命はすかさず武器調達にかかる。

「みんな石を持ったか」などと、わざわざ指示を飛ばすまでもない。第二の投石がダイヤウルフに追い打ちをかけていた。


 苦痛を訴えるような短い唸り声。

 ダイヤウルフは、血走る眼を投手に向ける。


「ひぃ……ごめんなさい」


 反射的に謝る那須ではあるが、手のなかにはこんもりと凶器を所持している。実に恐ろしいおかっぱ少女だった。


 間髪入れず、今度は反対方向から丸石が飛んだ。

 ダイヤウルフは野生の反射神経でいなすも、不規則に飛来する投石全てを捌くのは不可能だった。


 作戦など伝えなくとも、三人の気持ちは一つだった。

 左手に【結界弾】を確保した状態で、右手で石を投げ続ける。生命(いのち)がかかる場において、魔法少女の挟持など知ったものかといった具合だ。


「えい!」


 かよわい声と反比例するえげつなさ。

 正面に陣取る黒髪の乙女の投石は、正確無比で厭らしい。女装特権を活かした重い球に加えて、妨害のタイミングが的確だった。


 ダイヤウルフが攻めに転じる場面。

 ここぞという瞬間をすかさず狙い撃つ。

 玉入れが偶然入った乙女のように微笑んでいるが、野生の獣は騙せない。あの黒髪の人間は甘いマスクの裏で、悪魔のごとく哄笑していた。


 突撃を拒むクリアオレンジの壁。

 那須が放った【結界弾】が絶妙な位置で展開する。凶狼が壁を殴り壊す間に、するりと命は逃げていった。


 苛立ち混じりの低い唸り声が、地を舐める。

 根木の投石が耳を掠めて、迷宮の闇に消えて行った。

 当たりどころが悪くなければ致命傷にならないとはいえ、忌々しい。調子に乗る弱者どもにダイヤウルフが腹を立てたころ。


「えい!」


 放物線を描く岩石が、凶狼に迫る。

 命が両手で放り投げたその凶器は、今までの小石とは一線を画す。直撃すればタダでは済まない代物だったが、ダイヤウルフは簡単に避けてみせた。


 あんな鈍間な大砲が当たるわけがないのだ。


 ――普通であれば。


 二頭目の瞼の裏で火花が散る。

 後頭部に直撃した岩石の威力に、凶狼は白目を剥いた。

 軽い【呪術弾】とは対照的な重い衝撃音。

 割れた岩石の破片が、ガラガラと地面に落ちた。


 あり得ないことに、命が投げた岩石はダイヤウルフを通過したのち、引き返すような軌道を描いてきた。

 まるで見えざる手に導かれるように。

 物体を動かす東洋魔術【神撫手】が炸裂した。


「走って――ッ!」


 巡ってきた千載一遇の好機。

 命は、力の限り叫びを上げる。

 銃声代わりのスタート合図に、二人の女生徒が地を蹴った。

 距離は100mにも満たない。

 【羽衣】で強化した肉体ならば、10秒もあれば十分だ。


 息せき切って二人が上がる。

 左手には那須。右手の根木が先行する形で駆けた。


 命一人だけが取り残された形だが、それは当人も承知の上だ。ダイヤウルフを食い止めるためには、必要な役割だと割り切っていた。


 命は、険しい顔つきで正面の凶狼と睨み合う。

 怒り狂う獣が大口を開けるのに合わせて【結界弾】を展開する。

 数秒と保たぬだろうが、時間稼ぎには十分だ。


 防壁が張られると同時。

 ダイヤウルフは――くるりと踵を返した。


「ちょ」


 平然と命に背を向けて、深く沈み、足を溜める。


「待って下さい――ッ!」


 追い縋る声を置き去りにして、凶狼が跳ぶ。

 爆発的な脚力で狙う先は、右手のおでこを出した女生徒だった。


 苦し紛れに投石するも、届くわけもない。

 命がどう足掻いても間に合うべくもなかった。


 一刻の猶予もないままに惨劇が起こる。

 張り裂けんばかりの心臓の高鳴りが止まらない。

 黒髪の乙女にできたのは、ただ叫ぶことだけだった。


「那須ちゃん――ッ!」


 背中に突き刺さる声に、那須は応える。

 逃走を諦めて、一発の魔法弾を射出した。


 ダイヤウルフの進路上に壁を射し入る。

 値千金の【結界弾】に、思わず命は拳を握る。

 すんでのところで那須がやってのけたのだ。


 こうなれば、爆発的な推進力が仇となる。

 命が出会い頭に放ったカウンターショットと同じ要領だ。

 ダイヤウルフは数分前の光景をなぞるように壁へと突き進む。


 前と同じだった――のは、そこまでだった。


「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!」


 ダイヤウルフは、力尽くで進路方向を曲げる。

 ジグザクの軌道で【結界弾】をやり過ごした。速度こそ瞬間的に落ちたが、人間の脚力と比べれば誤差のようなものだった。


 呆然と見守る二人の血の気が引く。

 喚くように、命と那須は根木の名前を呼んだ。


 一心不乱に前だけ向いていた根木は、そこで初めて振り返った。

 肩口からのぞく狭い世界。

 視界の一端にダイヤウルフを捉える。目と目が合う。瞳孔が開いていることがわかった。凶狼が視界を占める割合が増す。


 近づく。大きくなる。

 もう。

 どうしようもない位置にいた。


 チクリと、ごわごわとした黒毛が触れる。

 何か重いものに押されて身体が丸まっていく。

 遅れて時速80km超、1tクラスの衝撃が走った。


 現実だと思えない。

 現実だと認めたくないような光景が展開されていた。

 ゴム毬みたいに人が弾け飛ぶ。

 二転三転。関節が壊れた人形めいたものが跳ねる。

 壁に衝突したそれは、ゴトリとうつ伏せに地面に落ちた。身動ぎ一つしない根木の上に、天井から降る砂礫が積もっていく。


 暗い迷宮を照らし続けていた太陽が沈んだ。




    ◆




 惨劇を目の当たりにしても、二人が恐慌をきたすことはなかった。頭を真っ白にした命は立ち尽くし、那須は地面にへたり込んでいた。


(えっ……何ですか、今の)


 CG、ワイヤー、3D?

 有りもしない妄想に逃げ込む余地すらない。

 これは紛れもない現実で、絶望だった。


 ――【羽衣】が頑丈だなんて言ったのは誰ですか?

 命は誰でもない漠然とした何かにケチを付けていた。


(ああ、そうか)


 皮肉にも頭だけは冴え渡っていた。

 命たちが投石で対抗したように、魔物にも魔法少女の【羽衣】に対抗する術があるのだ。知らず真っ白な頭には、答えが書きこまれていた。


 理屈も理由も知らない。

 ただ事実なのは、魔物の一撃は【羽衣】を緩和するということだけだ。そうでなければ、到底ああはならないだろう。


 ぼやけた視界の隅には、一人の女生徒が倒れている。

 現実を受け止められぬ者たちを残して、無情にも時は流れていく。獲物に何ら特別な感情を抱かぬダイヤウルフだけが、足を止めなかった。


 昏睡していた二頭が目を覚ます。

 四つの頭はめいめいに自己主張してから、意思を統一する。

 やがて、ダイヤウルフは未だに残る獲物へと足を向けた。


 舌なめずりする先には、地面にへたり込む那須がいた。

 青い燐光で八つの鋭い瞳が照る。凶狼の恐怖に押され、那須の足腰は立ち上がろうにもまるで言うことを聞いてくれなかった。


「あ……ああ」


 カチリ、と。

 鳴り始めると止まらない。

 ひとりでに上下の歯が合唱を奏でる。

 溢れそうな涙が頬にのり、目の前が歪んだ。


 潤む視界のなかで、巨大な獣が伏せていた。

 来る。根木を弾き飛ばした、突撃が。

 わかっているのに……動けない。

 那須の頭のなかは、ぐちゃぐちゃだった。


「ちゃんと」


 腰を落とし、命は小石を拾い上げる。

 そのまま流れるような動きで下手投げに移行した。


「働いて下さいよ!」


 稲妻のような頭痛が走るが構わない。

 那須めがけて飛んだ小石が、薄闇を切っていく。

 地面に擦れる瞬間、それは地を蹴りつけて加速した。


「御意に!」


 白い柴犬が颯爽と駆ける。

 那須を中点に、二匹の獣が十字の軌跡を描き交差した。


「グウゥルルル!」


 ダイヤウルフが地を踏み砕き、轟音を立てた。

 肌を打つ衝撃を感じながら、命は瞠目したまま固まる。

 もうもうと立ち込める砂煙を凝視していた。


「ごっほごほ」


 咳き込む声に安堵を覚えるも、予断を許さぬ状況が続いた。

 必死に【犬】の式神にしがみつく那須を、ダイヤウルフが追撃する。

 重りを背負った状態では逃走も叶わず、白い柴犬は半ば投げ捨てる形で那須を下ろす。土塗れの女生徒がごろごろと転がった。


「すまぬ。もう無理でござる。つーか、マジ無理!」


 四足の状態から辛うじて二足へ。

 危うくつんのめるも、那須は必死に逃げ惑う。

 後方では【犬】の式神が盾となり時間を稼ぐが、てんで勝負にならない。10秒ほどの攻防の末に、あっさりと鋭い牙の餌食となった。


「痛てえええええええええええええええ!」


 武士の心をまるで見いだせぬ断末魔が上がった。

 それはこっちの台詞であると、命は奥歯を食いしばり反動に耐える。歯列からは荒い息が漏れ、首の筋肉に引きずられて唇がへの字に沈む。


 人前で晒したくない類の顔だが、ここで途切れさせるわけにはいかない。お犬さまが稼いだ時間分、せっかく魔力をつぎ込んだのだ。


「い――ッ!」


 真っ直ぐ駆け上がりながら、命は大きく振りかぶる。

 大玉級の【呪術弾】をダイヤウルフに向けてぶっ放した。


「っけええええええええぇぇぇ――ッ!」


 甲高い破裂音に次いで、弾けた魔弾が霧散する。

 黒い霧が周囲を覆う。今にも泣きそうな那須と合流できたのは喜ばしいことだったが、胸をなでおろすには早かった。


 一つ……二つ。

 狼の頭が黒霧から顔を出すたびに、二人の顔が青ざめていく。

 あり得ない。畏怖の念などとうに通り過ぎている。


「勘弁して下さいよ」


 四ツ首の化け物が、小さき者たちを睥睨する。

 命の渾身の一撃も、傷ひとつ付けるにも至らなかった。一体何をすれば勝てるのか、抗うほどに希望の芽が摘まれていくかのようだった。


 魔弾の充填もなければ、再充填も間に合わない。

 逃げ場のない至近距離。

 ダイヤウルフが、涎で光る牙を剥いた。


 ――危ない。


 気づけば、命は那須の背中を押していた。

 我先にと。迫り来る4つの頭が喰らいに来る。

 魔性の牙は、まず黒衣の守りを貫いて。


 ぷすり、と柔らかい肉に突き刺さる。


 絶叫がダンジョンの薄闇を切り裂いた。

 尻もちをついた那須は、惨状を目の当たりにするまで信じられなかった。声の先には――激痛に喘ぐ命がいた。


 凶狼の咥える餌は、だらりと両手足を下ろす。

 濃紺のボレロに黒い染みが広がっていく。布地から溢れた生命(いのち)の一滴が、ぽたりと地面を打った。


「うあああああああああああああああああああああああああ」


 半狂乱のままに那須は泣き喚く。

 地面に座り込んだ状態で、両手をワイパーのように動かす。手当たり次第に掴んだ石塊をダイヤウルフに投げつけた。


「食べないでよ……命ちゃんを食べないでよ!」


 滅茶苦茶に投げる石に狙いなどない。

 ときに瀕死の命に当たるも、那須は手を止めなかった。


「返してよ……私の友達を返してよ!」


 ダイヤウルフが不快から眉間に皺を寄せる。

 肉にありつけなかったうちの一頭が首を伸ばす。

 力のない投石など無視して大口を開いた直後。


「グルウゥアアアア――ッ!」


 手痛い反撃を喰らい、凶狼は狼狽える。

 石から化けた【犬】の式神が、一頭の喉笛に喰らいついた。必死に暴れ狂うも、黒犬は顎を緩めない。それどころか、身を捩らせて噛み千切りにかかってきた。


「食べちゃえ……そんなやつ食べちゃえ!」


 もだえ苦しみ、ダイヤウルフが巨躯を揺らす。

 口から落ちた命が受け身もとらずに固い地面へと落ちた。


(……ああ、那須ちゃんが戦ってる)


 鈍い衝撃で微かに意識が戻る。

 那須と【犬】の式神がダイヤウルフと戦っている光景を、命は薄ぼんやりとした視界のなかに捉えていた。


 石が飛び、防壁が張られ、黒犬が飛びかかる。

 重症の命から意識を逸らすため、那須は徐々にダイヤウルフを引っ張っていく。加勢に入りたいものの、命の身体は石のように固かった。


 ていを成さない黒い魔力が、ぷすぷすと黒煙と成り果てる。

 どれだけ念じようとも、黒い靄がうまく成形できない。不思議と頭痛は収まり、魔力は溢れてくるが、垂れ流れるばかりでは意味がなかった。


 全身から熱が失われていく。

 極寒の地にいるかのような寒さにその身は震え、静かに瞼が落ちる。だんだんと狭まる視界を食い止めようと、命は舌を噛んだ。


 黒犬の式神が壊れ、那須が苦悶の声を上げていた。

 時期に、反動の隙に乗じてダイヤウルフが襲来するのは、目に見えていた。立たなければ、ただその一念だけが命を突き動かしていた。


(また……なのですか)


 朦朧とする意識のなかで、誰かが泣いていた。

 柔らかくウェーブする翠髪(すいはつ)。美しい脚線美から伸びる高い背丈。少し皮肉屋でとても優しい少女が頬を濡らしていた。


(何をやっているのですか、私は)


 あのときも、何も出来なかった。

 無様に石畳に転げるしかできなかったあの屈辱を、また繰り返すのか。心の奥底でバチリと火花が散る音がした。


 ――魔力枯渇の二段底。

 魔力を喰らい尽くしたとき、魔法少女は反射的に魔力を生成し続ける性質がある。毒であると同時に身体の支えでもある魔力を全て失うことに対して、身体が拒絶反応を起こすのだ。


 魔力を、もっと魔力を。

 自然と花粉に反応して抗体を出すように。

 脳の命令に従って、過剰な魔力生成が行われる。


 急激に膨れる魔力をいち早く気取ったのは、ダイヤウルフだった。研ぎ澄まされた野生の勘が危険を告げている。直ぐさま那須から目を切り、倒れ伏す命に向かった。


「あっ、あっ」


 標的を数歩圏内におさめ、凶狼は足を止める。

 ナニカが立っていた。魔法少女の研究の結晶ともいえる【羽衣】ではない。それは、分厚い魔力で身を包むキグルミのようだった。


「あっ、あっ」


 黒いキグルミが鳴いている。

 しゃっくりを繰り返すように。


 溢れた魔力がドライアイスのように地を舐める。

 地面の感覚を確かめるように、黒いキグルミが歩いた。

 一歩、二歩。黒い足は支障なく地面を掴んでいった。


「あっ、あっ」


 発作的な声は、唐突に止んだ。

 顔にあるべき凹凸はどこにもなかったが、真っ黒な双眸は間違いなくダイヤウルフを睨めつけていた。


「命……ちゃん?」


 那須の問いに返答はない。

 昂ぶる心のままに、黒い獣が雄叫びを上げていた。

 びりびりと空気を震わせる威嚇に押されるも、ダイヤウルフは肉薄して、四つの牙口で同時に噛み付いた。


 無数の魔性の牙が黒いキグルミを襲う。

 幾重に重なる魔力を食い破り、食い破り、食い破り……。

 驚愕のあまり、八つの瞳は例外なく見開かれていた。


 どこまでもいっても終わりがない。

 食い破る端から黒い魔力が溢れ出て、まるで肉の感触に届かない。目の前に立ちはだかるものの特異さにダイヤウルフが面食らう間に、反撃は飛んだ。


 一頭の顎が上に跳ねる。


 黒い左腕から繰り出すアッパーカット。

 凶狼の顎は砕け、白い牙の破片が宙に飛び散った。

 勢いのままに、黒いキグルミは腰をひねる。

 バネのごとき右腕が飛ぶと、ダイヤウルフは後ろに跳ねる。終始優位に立っていた強者が初めてみせた後退だった。


 しかし、黒いキグルミは逃さない。

 後退するダイヤウルフの顔、一頭の鼻頭を黒い靄が打ちつけた。

 同一人物が放ったとは思えぬ【呪術弾】だが、先の豪腕に比べれば余ほど軽い。距離をとるを良しとした凶狼はさらに下がるが、それは読み違いだった。


 迷宮の薄闇よりも昏く深い。

 黒いキグルミから溢れだした魔力が、大気を黒く塗り潰す。

 津波にも見紛うそれは、【呪術弾】を連ね重ねた黒い絨毯だった。


 逃げる間も与えはしない。

 程なくダイヤウルフの元に黒い暴威が押し寄せた。

 鳴り止まぬガトリングメロディ。砕けた黄色い首輪の欠片が青い光を反射するが、それも一瞬。すべては黒い暴威に飲まれた。


 猛る狼の声も、次第に負け犬の鳴き声に変わる。

 全身を打ち据えられたダイヤウルフは、息絶える寸前だった。

 どう足掻いても勝てやしない。野生の掟に従い、ダイヤウルフは逃走を図る。ふらつきながらも命を避けて、通路へと逃げていった。


 背中を撃つ【呪術弾】にキャンと吠えるも、ダイヤウルフは得体の知れない化け物からの逃走に成功したようだった。


「助かった……の?」


 他人ごとのように那須が漏らす。

 四ツ首の魔獣が逃走した今、石階段を登るにあたっての障害は無くなった。一刻も早く根木を救出して、石階段に篭もるべきだと判断する。


「茜ちゃん!」


 走り出そうとした彼女は、大切なことを見落としていた。


「ああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」


 そこに、那須の知る命の姿はなかった。

 暴走する魔力の奔流に飲まれ、黒い悪魔はただただ暴れ狂う。無軌道に曲がる無数の【呪術弾】が地を抉り、壁を削り、天井を砕いた。


 痛みを訴えるように、ダンジョンが震えている。

 もはや敵味方の区別すらない。最後に立ちはだかったのは、ダイヤウルフよりも凶暴な獣と化した友人だった。


 黒い玉が縦横無尽に踊るたびに、破壊の傷跡は広がる。

 落石は絶えず降り注ぎ、岩壁に空いた洞からはコウモリがキイキイと金切り声を重ねて羽ばたいていった。


 ポツリと。

 一人とり残された那須だけが、立ち竦んでいた。

 無数の羽音が後ろに逃げていくが、逃げるわけにはいかない。友達を見捨てて逃げてはいけないと、良心が足を地面に縫い付ける。


 ――でも、私に何ができるのだろうか?

 優しく手を引いてくれる友達も、背中を押してくれる友達もいない。前にも後ろにも進めない臆病者の真上で、がらがらと天井が崩れた。


「え」


 巨岩の影が、小柄な女生徒を覆い尽くす。

 見上げたときには遅い。那須は流れる時に身を任せて、終わりを待った。夢なら早く醒めて、ベッドから跳ね起きたいと……そう切に願いながら。


 恐怖に耐え切れず、自然と瞼は現実を閉ざした。



 ――やれやれ。



 誰かの声が聞こえた気がした。

 一向に訪れぬ終わりを不思議に思い、那須は恐る恐る目を開く。


 まず目に入ったのは二つの手だった。

 一つはゴツゴツした岩肌の手。大樹のように天に伸びる腕の先には、傘のように落石を守る巨大な掌が垂れている。まるで巨石兵の手のようだった。


 もう一つの手は、さらに奇怪だ。

 雪のように白い手は、見惚れるほどに綺麗なのだが、肘から後ろがない。右腕と思しきものは、何もない場所から突き出ていた。


 いや、目を凝らせば切断面に穴が見える。

 油膜に落ちた虹のように忙しなく揺れ動く。パキリパキリと迷宮の暗闇が剥がれ落ち、やがてガラスが割れるような音が響き渡った。


 そして、唐突に【魔法少女の狭き門】は開いた。


 弾けた魔力が七色に煌めくなか、右腕の主は平然と空間の裂け目から歩いてくる。擦り切れた黒いローブをまとった女性は、嫣然と那須に微笑みかけた。


「間一髪ってところかな」


 青く淡い。

 日も差さぬ深階を、人知れず泳ぐネオンテトラがいた。

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