第76話 狼は地底で吠える
カーチェの迷宮、地下41階層。
索敵と壁役を担う命が先頭を歩き、支援を主とする根木が後ろを守る。体調に不安を残す那須は、自然と二人に挟まれる位置に落ち着いた。
「でも私が前にいないと【鬼灯】が付けられない系」
先まで灯り役を務めていた根木が不安げに問うも、命は微笑みを崩さない。確かに、1-Fの共通魔法実技ではまだ【鬼灯】を教えられていないが、さしたる問題ではなかった。
「大丈夫ですよ。もう覚えましたから」
黒髪の乙女は、手元で火の玉を躍らせる。
薄闇に包まれていた空間に、途端に暖色の光が灯った。
「それでは、ルール通りに行きましょうか」
地下42階層に飛ばされた直後は混乱していたこともあり、三人は場当たり的に逃げ惑うばかりだった。低階層であればその様な立ち回りでも問題ないだろうが、それではいずれ立ち行かなくなることは目に見えていた。
そこで、わずかでも生存率を上げるため、命は最低限のルールを設けた。
ルールその1、魔物との交戦は極力控えること。
(いました!)
小声で呼びかけると、前に習って二人も足を止める。
岩壁からのぞく広間には、二匹の魔物がうろついていた。スイギュウと見紛うほどの重量を誇る鹿だ。その風貌はヘラジカに近い。
二匹は仲むつまじく体を擦り合わせ、枝木のような角を動かす。
角に生い茂る緑と、鈴なりの果実が一緒に揺れている。やはり、一般的な動物と比べると、変わった生き物である。
「……木苺が生えています」
「じゃあ、名前はベリーシカちゃんに決定」
しばし様子見を続けたが、立ち去る気配はない。
命は後退の合図を出して、来た道を引き返すことにした。見た目こそ愛くるしいが、シカは有名な当たり屋である。
シカと衝突事故を起こしたが運の尽き。
バイクはおろか、車の乗客すら死に至ることがままある。ましてやベリーシカ(仮名)は優に1tはあろう我儘ボディに加えて、魔力も帯びている魔物だ。
「あれはダメです。トラックすら弾き返しそうです」
「ベリーシカちゃんったら、とっても頼もしい系。もしや、シカ神さまとして事故が多い道路で飼えば、交通安全に一役買うのでは?」
「ダメだよ……第二のキラー通りができちゃうよ」
軽口を叩き合えるのなら、まだ大丈夫だ。
命は合間を縫ってマッピングを進める。ダンジョンのおおよその構造は、ランダムに配置された部屋に通路が接続された形になっている。似通った地形も多いので、堂々巡りを避けるためにも必要な手間だった。
「命ちゃん、そのボードどうしたの?」
「ああ、これですか」
指先の魔力に反応する魔法具は、スピナからの借り物だ。
日帰り旅行として迷宮探索ツアーを選んだことを告げると、ダンジョン探検部の副部長はポニーテールをぴょんぴょこ揺らして喜んでくれた。
――ああ、後輩ちゃんがこんなに熱心だなんて、嬉しいなあ。ダンジョンに潜るならこれも……そうだ、あれも持たせなきゃ!
興奮するスピナは、初孫を愛でる祖母にも似ていた。
腰の愛刀すら貸し出そうとする先輩をなんとか宥めて、命は一番手軽そうな魔法具――手元のマジックボードを借りてきていた。
(こうなると、他の魔法具を拒んだのが惜しくなりますねえ)
こんな窮地に陥るとは夢にも思わなかったとはいえ、勿体無いことをした。命は惜しむような面持ちで足を進める。
「おっと」
引き返す道の途中で、足元に違和感を覚えた。
行くときにはなかった蹄の跡が、地面にくっきりと残っている。大方、魔物の移動があったのだろう。
命は足跡が伸びる方向を避けて、三叉路を左に折れた。
「新宿駅に比べれば、大したことありませんねえ」
即席マップを加筆、修正。
白魚のような指がマジックボードの上を滑る。
黒髪のマッパー乙女は、迷宮の地図の輪郭を整えていく。地道な作業をこなすうちに、やがて階層の全貌が浮かび上がってきた。
「真っ直ぐ行って、突き当りを左。恐らくこの辺りに石階段があるでしょう」
命の見立てに、思わず二人は驚嘆の声を出した。
だが、わずかに差す光明に気を良くしたのも束の間。
命は顔を曇らせ、曲がり角の前で立ち止まる。道の先には、足を畳む二匹のベリーシカの姿が見えた。
「命ちゃん、どうしよう」
「ルール通りに行きましょうか」
ルールその2、道を塞ぐ魔物は餌で釣ること。
命は足元に転がる石をひとつ拾い上げる。ここなら媒介には事欠かない。
「おいでませ、お犬さま」
軽く放った石は、白い毛玉に変貌する。
地面に落ちる直前で顕現した【犬】の式神は、華麗に四足で着地。気高き柴犬は、白い歯を見せてニヒルに笑ってみせた。
「ついに拙者の力が必要なときが来たか」
「ええ、これは貴方にしかできない重要な任務です。曲がり角を折れると二匹の牛がいるので、西側の通路に誘導して下さい」
「牛追いか。容易い御用だな」
余裕の顔つきで【犬】の式神は尻尾を振る。
曲がり角の向こうをのぞきこみ、そこで凍りついた。
「ご主人さま……あれは牛とかいう範疇ではござらん」
「違いますかねえ。角があるところとか、胃袋が四つあるところとか、あっ、四足歩行の哺乳類で目鼻の数も同じですよ。わあ、そっくり!」
「むしろ、びっくりでござる!」
武士めいた口調のわりに、敵前逃亡は士道不覚悟で切腹に当たらないらしい。思いのほかチキンな【犬】の式神に向けて、命は大仰にため息をついた。
「はあ。貴方が適任だと思って使役したのですが、やはり荷が重かったですかねえ。仕方ありません、今回も【烏】さまに頼ると――」
「うおおおおおおおおおおおおお、やってやるでござる!」
ちょろい。
猫より犬派の命は、笑顔でお犬さまを見送った。
イヌ科はご主人さまの言うことに忠実なので大好きである。死に物狂いの吠え声に釣られて、ベリーシカは思惑通りに誘導されていった。
「今です。急いで下さい!」
動物愛護団体に怒られかねない作戦だが、いいえ、あれは式神です。
角を曲がって猛ダッシュ。小部屋を抜けた先に石階段があることを視認すると、命たちは一目散に石段を駆け上がっていった。
「ごふぅ――ッ!」
カーチェの迷宮、地下41階層を突破。
式神が壊れた反動で黒髪の乙女が悶絶したことを除けば、再出発の出だしは好調だといえた。
そう、ここまでは。
◆
カーチェの迷宮、地下40階層。
底の知れない深度に辟易するも、地下の旅は終わらない。
――あの……石階段の途中で助けを待つのはどうですか。
那須の一案には心が揺らいだが、命は頭を振った。
縄張り意識の問題なのか、石階段で魔物に遭遇したことは、確かになかった。しかし、それが絶対の掟だとは誰にも断言できなかった。
石階段は狭く、傾斜がきつい。
縦2m半、幅2人分と、こう足場の悪い場所では逃走も交戦も困難である。挟み撃ちを受けて一巻の終わりでは、洒落にもなりやしない。
石階段に籠もるのは最終手段と決めて、一行は探索を再開したのだが。
「ここで、一休み入れましょうか」
……その時は、そう遠くないのかもしれない。
魔物がいないことを確かめると、命たちは手近な部屋で休憩をとった。一概に休憩向きとは言い難い造りだが、滲み出る疲労には抗えなかった。
見知らぬ地底に放り出されて、早2時間が経過したころ。
とりわけ命の消耗は激しかった。笑顔で繕っているものの、全身を伝う汗が引かない。道中で浪費した魔力も、相当量に登っていた。
(やはり、あそこで引いたのは間違いだったのでしょうか)
額に手を遣り、命は一つの決断を悔いる。
地下41階層をスピーディーに突破した運気に乗り、命たちは次の石階段も早々と発見したのだが、目前に見えるそれを諦めざるを得なかった。
奥まった部屋の中央。
そこには巨大なトカゲ――マイタケドラゴンが鎮座していた。
ちろちろと二股にわかれた舌先を遊ばせる。傘状の茸が全身を覆っている点を差し引けば、大トカゲはある生物と酷似していた。
「那須ちゃん、確かコモドドラゴンって」
「うん……下顎の歯に血が固まらなくなる毒がある」
噛まれれば、敗血症を引き起こすかもしれない。
最悪の想像に背筋を寒くした命たちは、目と鼻の先にあった石階段から背を向けた。各階層には必ず2つの石階段があるのだ。生命と天秤にかけるぐらいなら、考えるまでもない選択だった。
ずっしり構えた大トカゲは【犬】の式神にこそ釣られないが、とにかく足が遅い。撒くのには、それほど苦労はしなかった。
今は、交戦を避けて方向転換を図るべきだ。
その選択は……運の流れすら変えたようだった。
狭路に入るたびに起こる、ベリーシカとの遭遇。
不意の遭遇に驚き、魔物は茂る角を振るわせて興奮した。魔力を出し惜しみする余裕も無くして、命は何度も対処に追われる羽目となった。
(結果論とはいえ、道を間違えたのでしょうか)
悶々とする頭に、鋭い痛みが走った。
初めの内は放っておいても問題ない程度だったが、見て見ぬふりも限界だ。痛みと頻度は増していくばかりで、回復の兆しは一向に見られなかった。
命は、この症状には覚えがある。
フィロソフィアと繰り広げた箒レースの終盤。
魔法の行使回数が嵩んだときに起きた頭痛と同じだ。一晩眠れば症状は収まるが、化け物のねぐらで安眠できる筈もなかった。
「……っ!」
不意に、抑えていたものがこみ上げる。
奥歯を噛み締めるも、命は耐え切れなかった。
「五分ほど偵察に出かけてきます。そう遠くには行かないので、何かあれば大声で叫んで下さい」
口早に告げると、命はその場を離脱する。
心よりも早く身体が音を上げていた。こみ上げてくる衝動を押さえ切れず、通路を一つ挟んだ小間へと逃げ込んだ。
半端な苦しみに苛まれ続けるよりも、この方が早い。
喉の奥に指を突っ込むと、喉元まで迫り上がっていた嘔吐感は現実のものとなる。どうやら、積み重なった反動がかなり堪えていたようだ。
「う……っ!」
壁に向かってうずくまり、静かに吐き出す。
溶けた春の行楽弁当を砂で隠蔽した後、命はポーションで口を濯いだ。
「よしっ……少し元気出てきました」
気休め程度だが、ないよりはマシな自己暗示だ。
己を鼓舞して引き返す。素知らぬ顔で戻れば何の問題もあるまい。そう高を括る命を出迎えたのは、怪訝な顔をする少女たちだった。
「命ちゃん、どうしたの?」
「お恥ずかしい話ですが、尿意を催してしまいまして」
命は空惚けたが、根木は構わず問い詰めた。
「ねえ、命ちゃん」
「もしかして、聞こえていましたか? お恥ずかしい……遠くまでお花を摘みに行ったつもりでしたが、乙女として一生の不覚です」
ぐいっ、と根木は無言で詰め寄った。
上目遣いで睨みつけながら、すばやく命の首裏に手を回す。突然の接触に「ひゃあっ!」と命は可愛らしい悲鳴を上げた。
「嘘ばっかり。こんなに汗だくの人は、おしっこしたくならないもん」
ぐうの音も出ぬほどの正論だった。
場の沈黙がひどくなる前に、根木は一方的に告げる。
「休憩が明けたら、並び順を変えます。私、命ちゃん、那須ちゃんの順番だからね。いいよね?」
「ちょっと待って下さい!」
ただでさえ不安が残る面子なのだ。二人の少女に任せて休んでなどいられない。命はとっさに抗議の声を上げたが、根木が機先を制した。
「なら多数決で決めようか。私、命ちゃん、那須ちゃんの並び順に変えた方が良いと思う人、挙手! はい、2対1で茜ちゃん大勝利!」
「ちょっと、那須ちゃんまで!」
黒水晶の瞳が恨めしげに見詰めると、目は逸らすものの、那須は控えめに上げた手だけは下ろしてくれなかった。
「わ、私も……その方が良いと思います」
「全然良くありません! 後ろだって危険なのです。急にお尻をガブリと噛まれても知りませんよ。体調が悪い子が無理しちゃいけません!」
「じゃあ、命ちゃんも大人しくしなきゃだね」
痛いところを突かれ、命は返答に窮する。
那須の調子が優れないのも事実だが、今となっては魔力枯渇寸前の命の方が、余ほど具合が悪いといえた。
「私たちのことを心配してくれることは、とても嬉しいんだ」
柔らかな微笑から一転、根木は眉をしかめる。
「でもね、私たちに心配せさせてくれないことは……とても悔しい。だって、病めるときも健やかなるときも助け合うのが、友達だもん」
「富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の日の続く限りは友達なのでしょうか?」
「ううん! ちょっと違う系。なぜなら友情とは、命尽きても永久不滅なのです。むしろ墓まで持っていく所存だよ」
満面の笑みを咲かせる少女を見て思う。
これは、とんでもない子と友達になってしまったと。いくら北風を吹かせても、太陽さんには敵うまい。命はため息混じりに要求を飲んだ。
「……仕方ないですねえ。真ん中から指示を出すので従うこと、危ないと思ったら直ぐに退くこと、この2つだけは守って貰いますからね」
「やったあ。だから大好き、命ちゃん!」
飛びついてくる根木を軽くかわし、那須を見遣る。
「那須ちゃんも大丈夫なのですか」
「う、うん。頑張ってみるから……大丈夫だよ」
震える黒目が気になるが、命は信じることにした。どの道、命一人が死力を尽くしたところで、脱出には程遠い状況なのだ。
「わかりました。ご好意に甘えて、私は一旦休ませて貰います。正直に言うと、立ちくらみがする始末で……ご迷惑おかけします」
「かけてない、かけてない。友達同士で迷惑だなんだなんて、言いっこなしだよ。任せてよ、なんとかするから――優秀な那須ちゃんが」
「ええ、私ですか!」
振られた那須は、びくりと肩を震わせる。
一抹の不安を覚える命と違って、根木は悲観した様子を欠片も見せず「大丈夫、大丈夫」と、ばんばんと那須の背中を叩いていた。
「ふふふ……隠しても無駄だよ。那須ちゃんが凄い子だってこと、ルームメイトの私は知ってる系! ユーあれ出しちゃいなよ」
むむむ、と那須は口を一文字に結ぶ。
フリーズしてから数秒で立ち直り、臆病少女は深呼吸を繰り返した。心が揺れ動いたままでは、上手くいく魔法も失敗してしまう。
「大丈夫。那須ちゃんはデキる子だよ。自信を持って」
友達の一言に後押しされて、那須は目を見開く。
魔法の行使に合わせて、足元の小石が毛玉と化した。白い毛並みは命のお犬さまに似ていたが、一回り……いや、二回りは小さい。
那須の式神【兎】は、湿った地面に鼻をひくつかせていた。
「あら可愛い――じゃなくて!」
危うく可愛さに騙されかけたが、命は冷静になる。
「この子、戦力になるとは思えないのですが」
「うん。戦力にはならないけど……役に立つ子です」
頼りないお供だが、那須の瞳からは小さな自信が窺えた。
休憩が明けても命はまだ首を捻っていたが、後に思い知ることになる。へっぽこ式神使いと天性の式神使いの腕前には、雲泥の差があることを。
◆
【兎】を連れてからは、驚くほどに平和であった。
運悪く未だに40階層をさまよってはいるが、裏を返せば相当の距離の歩いたにもかかわらず、魔物との接触がなかった証明でもある。
「いい子だね……おいで」
那須は、呼び寄せた【兎】を優しく撫で付ける。
「あっちの様子を見てきてくれる?」
【兎】は、無言で主人の命令に従う。
ぴょこぴょことお邪魔しにいって……二度と帰ってくることはなかった。
「あのう……あっちはダメみたいです」
ケロリとした顔で、那須は十三匹目の【兎】を使役した。
身を切る思いで式神を使役していた命にとっては、信じ難い手法だ。那須の式神は、使い捨てを前提としたものだった。
「那須ちゃん、本当に反動は大丈夫なのですか」
「心配しないで。魔力は最低限に抑えているから、大して反動はないの……ちょっぴりチクっとするけど」
反動がチクっとするだけ。
命が知る、式神破壊の反動とはまるで別物だ。黒髪の乙女にとっての反動とは、直に内蔵を叩かれるような抗いがたい痛みである。
(そう言われてみれば、ほとんど魔力が感じられない)
那須が使役する【兎】には、特段優れた能力が見当たらない。抜群の跳躍力を誇るわけでもなければ、命の式神のように無駄口も叩かなかった。
練度の差はあれど、春祭りにのときに沸いて出た【式紙】に近い。無駄な機能を削ぐことで、術者への反動を抑える仕組みだ。
――磨けば一流の東洋魔術師になれる。
あのときのマグナの言葉が、ようやく命の腑に落ちた。
ストップ・アンド・ゴーの【呪術弾】に加えて、使い捨ての【兎】の式神。那須は、一介の外部入学生とは思えぬ技量を誇っていた。
繊細な魔力タッチ――その才能は一朝一夕で真似できるものではない。
(これは、希望が見えてきたかもしれません)
むしろ、格好を付けた挙句、醜態を晒していた自分が恥ずかしくすら思える。大きなお世話かもしれないが、命は忘れず那須を気遣った。
「それでも、痛いことは痛いのでしょう。少しでも辛いと思ったなら、直ぐに言って下さいよ。私がいつでも替わりますから」
「命ちゃん……ありがとう」
気恥ずかしそうに那須が微笑む。
そもそも女の子に身体を張らせるということが、命にとって好ましくない。何かあれば、胃液を吐いてでも式神を使役する覚悟だけはあった。
「もう。二人とも暗がりでラブ空間つくってないで、早く行くよ」
「違いますよ! というか前、前を向いて歩いて下さい!」
後ろ歩きしていた根木は、面白くなさそうに前を向く。
那須の強力サポートもあり、今のところ根木の仕事は、【鬼灯】を点けるぐらいだ。一行は40階層の隅から隅まで巡り、ようやく二つ目の階段を見つけた。
と、同時に、三人は未見の魔物を視界に収めていた。
「わあ、でっかいオオカミさんだ」
体高は優に2メートルを越える。黒毛に覆われた全身のなかで、首元だけがキラリと光る。黄水晶の宝石めいた魔法石の首輪をさげた獣の頭は、四つあった。
「ケルベロス、かな」
「……違います。あれは」
頭の数こそ事前の情報と違うが、間違いない。
命が、金になると聞いた魔物。
そして、翠の風見鶏の運命をねじ曲げた魔物。
根木の命名を待たず、命は四ツ首の凶狼の名を呼ぶ。
史上最大のオオカミをもじって付けられた、その名を。
「――ダイヤウルフ」
迷宮の番犬は地に臥せり、しっぽを丸めていた。
瞼を落とした巨大狼を、命たちは遠目に眺める。
容易には動けない。石階段から100mは離れた位置にいるが、魔物相手に安全を確保するには心もとない距離である。
「那須ちゃん」
「うん……任せて」
那須は、斥候として白兎を送り込む。
大部屋に入った【兎】は、ゆったりとした調子で石階段へと跳ねていく。ダイヤウルフを通りすぎる瞬間、命たちは息を呑む。
白兎は凶狼の横を――真っ直ぐ通り抜けた。
石階段を一段登った場所で、【兎】は真っ赤な瞳を向けていた。
「良かった……熟睡しているみたい」
「こっそりやり過ごしちゃおうよ、命ちゃん」
命は、形の良い顎に手を添えて考える。
ダイヤウルフも巨体を誇るが、マイタケドラゴンと比べれば一回りは小さい。何より最初に見つけた石階段からは、もう大分離れた場所まで来ていた。
「そうですねえ」
冷静にリスクを測ったのち、命は決断を下した。
「行きましょう」
二人は首肯し、口を閉ざした。
根木が先頭を切って、恐る恐る足を持ち上げる。地面の凹凸を見極めて、ゆっくりと左右の足を交互に出した。
「……」
息を殺して、命と那須が続く。
迷宮の空気は適温なのに、刺すように痛い。地面を擦る音すら心臓に悪い。那須は頻りにダイヤウルフの様子を窺っていた。
不意に、獣の尻尾が揺らめく炎のように動いた。
一行は息を詰まらせかけたが、依然としてダイヤウルフは瞼を落としていた。冷や汗まみれの顔を見合わせてから、三人は移動を再開する。
青い燐光が怪しげに瞬く。
照度を落とした【鬼灯】の赤灯が、亀の歩みで、前へ前へと進んでいく。焦れったいほどに緩慢な足取りで、命たちはようやく最難関地点に辿り着いた。
もっとも危険である、ダイヤウルフの直線上。
誰となく三人は唾を飲む。覚悟を決めた根木が忍び足で歩く。やることは、変わりはしない。ただ石階段を目指して進むだけだった。
パチリと、狡猾な狼が瞼を上げるまでは。
驚きの声を上げる間もなかった。
脚を溜めていたダイヤウルフが突進する。
みるみる間に距離を食い殺されるなか、三人に与えられたのは、わずかな身動ぎと顔色を変える自由だけだった。
根木の顔は驚愕を浮かべ、那須の顔は恐怖に染まる。
そのなかで一人、命は嗤っていた。
野生に当てられたように、乙女らしかぬ顔で。
(釣れた――ッ!)
カウンターショット。
右手に隠した橙の魔法弾が飛ぶ。
折り畳んだ紙を解くように壁が展開した。
【結界弾】
速度をつけた物体が直撃すればどうなるか。
その答えは、奇しくも春祭りのとき、箒で突っ込んできたフィロソフィアが証明してくれた。
(野犬が! 所詮は腐れお嬢さまと同レベ)
――ル?
透き通る橙色の壁が砕け散る。
大小様々な破片が、宙空を煌めいていた。
もしも命に誤算があったとするなら。
ダイヤウルフがいとも容易く【結界弾】をぶち抜いたこと。
そして、即座に二度目の突進を強行したことだった。
一瞬で全身の肌が粟立つ。
全細胞が逃げろと警鐘を鳴らしていた。
「逃げてくだ――ッ!」
言い切る間もない。三人は転がるように逃げた。
ガリガリと地面を掘削するブレーキ音が上がった。
凶狼の銃弾は空を切り、壁際で踏み留まっていた。
「散って! 散って下さい!」
振り返り、ダイヤウルフは命の叫びをかき消す。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!」
反響する。怒りの吠え声が開戦を告げた。
東洋魔術師3人娘と四ツ首の魔獣の死闘の幕が上がる。




