第75話 光の射す方へ
カーチェの迷宮で【階層工事】が発生した。その凶報が魔法少女の学び舎に舞い込んできたのは、事故発覚から一時間後のことだった。
「はあ? 何のためにお前を付けたのか、よく考えろよ!」
電話口にがなるマグナは、ひび割れんばかりに携帯を握りしめる。
ダンジョンが【階層工事】を起こすなど、百年に一度あるかないかの出来事である。
限度量以上に蓄えた魔力を放出するための魔法、或いは、探索者を惑わすための定期的な階層の入れ替え。【階層工事】が発生する理由は諸説あるが、今はそんなことはどうだって良い。
(あの馬鹿……ッ! 死兆星の下に生まれたのか)
マグナにとって一番の問題は、百年周期の災害にご丁寧に巻き込まれている黒髪の乙女の存在であった。
薄々感づいてはいたが、神社生まれの女装っ子が呼びこむ不幸の量は異常である。悪霊、怨霊を吸い込む霊媒体質だと打ち明けられても、何ら不思議でないくらいだ。
「あー、何でこう、もう……あああああ――ッ!」
ままならぬ状況に、橙色の髪を掻き毟る右手が止まらない。マグナの苛立ちの声が途切れた瞬間を狙い澄ましたかのように、相手は会話を再開した。
『落ち着きなって。あんまりやると、禿げるよ?』
「問題ねえ。そのときは若い女の遺体から、かつらを作るだけだ」
『若い女って、おばちゃんのこと? いやん、殺されちゃう』
きゃいきゃい、と話し相手のヴァネッサが黄色い悲鳴を上げる。年下の女性がおばさんを自称することも輪をかけて、いっそうマグナは苛立ちを募らせた。
「……次、おばちゃんって言ってみろ。リル姉に告げ口すんぞ」
『あっ、はい。すいません。まだ死にたくないので、それだけは勘弁して下さい』
ヴァネッサは即座に態度を改めた。ガチンコ婚活中のアラサー女子を前にしては、しらはの女海兵も気安く『おばちゃん』を自称することは躊躇われたようだ。
ふー、とマグナは長い吐息にのせて熱を逃がす。
ふざけた後輩ではあるが、これもヴァネッサなりの気遣いなのだろう。一見してお気楽という印象を受けがちだが、これでも彼女はやり手の魔法少女だ。
【階層工事】発生してからの、ヴァネッサの動き出しは早かった。
事態を把握すると、彼女は単身地上に駆けた。魔力濃度が高い迷宮内では魔法石の通話が【妨害】されるというのも理由の一つだが、自分の立ち位置をリセットする意味合いが大きかった。
ダンジョンの各階層には、必ず2つの階段が存在する。
初め一階層だったB1Fは、B2Fになると二階層、B3Fになると四階層――と、2のべき乗の法則に従って樹形図を広げていく。
たとえ同じ深度の階層でも、横の階層には移動する手段がない。そのため、女生徒の救出に向かうには一度外に出るのが早いと、ヴァネッサは即断したのだ。
と、説明するのは簡単だが、いざ行動に移すのは難しい。
なにより飛ばされた階層が比較的浅かったとはいえ、13階層から脱出まで一時間というのは驚異的な早駆けだ。
道中立ち塞がった魔物の数も一匹や二匹では済まなかった筈なのに、電話向こうの相手は息一つ切らしていなかった。
「確かにお前の判断は悪くねえよ……けどな」
『けど?』
「なんで、重要なときに外してんだよ!」
『えへへ、すいません。ちょっくら鷹を撃ちに行ってたもので』
情けない答えに、マグナは腰から砕けそうだった。
転移は周囲一帯を巻き込む性質を持つ魔法である。つまり、ヴァネッサが命たちの側にいるときに【階層工事】が発生していたら、何ら問題はなかったのだ。
顔なじみである、しらはの隊長が「私の跡継ぎ、頼りがいがあるのに……頼りない」と酒の席で零していたことを、マグナはふと思い出した。
「そこで外すから、お前は始末書ヴァネッサなんだよ」
『えっ、この一件って始末書ものですか?』
「……あたしが今まで書き溜めた始末書で、頭かち割ってやろうか」
始末書上等の不良教師が脅しをかけるも、ヴァネッサが軽妙な語りを崩すことはなかった。「冗談ですって」と軽く怒気を流すだけだ。
『まあ、そろそろ本題に入りますか』
五分ほどの通話は、両者にとって良いアイスブレイクになった。久方ぶりの会話ではあったが、肩の力を抜いて本音を語れる状態になれた。
『おば……私は女生徒の救出に向けて、これから再アタックをかけますんで、マグナ先輩は一つ頼まれてくれませんか』
「……すげえ嫌な予感がするんだが」
『追加でしらはの派兵と、開門の用意を上に掛け合ってくれますか』
気軽に言ってくれる、とマグナはせめて悪態を吐く。
大規模質量転移魔法――【戦乙女の門】の申請を国に掛け合うのかと思うと、不良教師は目眩を起こしそうな気分だった。
しかし悪い手ではない、とマグナは思考を巡らせる。
ヴァネッサの計画はおおよそ掴める。ダンジョン内から命たちの居場所を割り出して、しらはの隊員を【戦乙女の門】で送り込むつもりなのだ。
「位置情報は掴めるんだよな?」
『しらはに乗った気分で、どーんと任せて下さいよ。この始末書ヴァネッサ、【探索波】撃ちだけは得意ですから』
女学院側がヴァネッサを同行させた最大の理由がここにある。
ヴァネッサは【探索波】の数少ない使い手だ。魔力の波と反射を利用して、魔力反応のある生物の位置を割り出す技術に秀でていた。
『試し撃ちした感じだと、地下35階層~地下45階層の間かな。もう少し深く潜って調整すれば、理論上は場所を割り出せるんですけど』
「理論上は、って……魔力と時間は大丈夫なのかよ」
『その辺りが運任せになるのは、勘弁して欲しいです』
人並み外れた魔法少女といえども、万能ではない。魔法の限界を知る元魔法少女であるからこそ、マグナは苦言を呈さなかった。
「女生徒たちの生存確率は?」
『……極めて絶望的かと。最速のシナリオでも後3時間弱は生き延びて貰わないといけないんですが……正直あの子たちにそれだけの力があるとは』
「あたしは帰ってきたぞ」
『凄まれたって、嘘は言えませんよ。マグナ先輩と、ウチの隊長、極めつけにはカーチェさんの三人組だったからこその脱出劇でしょう』
“血染めの橙色”、”軍服を着た悪魔”、”生ける伝説”の3人組と、東洋魔術師3人娘を比べるのは酷といったものだ。
『ともかく、位置情報掴んだら【探索波】で伝達するので、1階層にしらはのメンバーを配置しておいて下さいね』
冗談だろうと取り合わず、ヴァネッサは通話を終わらせにかかる。通話を切る間際、彼女は期待と希望をこめて言い残した。
――あとは、八幡ちゃんの頑張りに期待しましょう。
不通音が続いているのに、マグナは携帯を耳元から離せずにいた。
一流の東洋魔術師がわざわざ名前を挙げるからには、どこか琴線に触れるところがあったのだろう。それが嬉しくもあり、怖くもあった。
「……なんで八幡になってんだよ」
八坂だよ、馬鹿野郎――と、届かない文句とともに携帯をしまう。豪奢なソファーに沈むように座り込み、マグナは理事長室の天井を仰ぎ見た。
「それで三人は大丈夫なの? 随分と青い顔をしているけど」
「全然大丈夫じゃねえよ、ばっちゃん。なんであいつ、地下40階層付近なんかにいるんだよ。わけわかんねえよ」
「うふふ。その言葉、そっくりそのまま貴方に返すわよ」
事故ではなく、故意に地下40階層まで下ったことがある反面教師としては、何一つ言い返すことができなかった。
まさか大人になってから反対の立場を味合わされるとは。これが因果の廻りだというのなら罰が悪すぎると、マグナは渋面をつくった。
「冗談よ。今は先にやることがあるでしょう?」
「言われなくても、わあーってるよ」
事態が一刻一秒を争うのは百も承知だ。
それでも、マグナは踏ん切りがつかない。悩む頭と裏腹に逸る気持ちがもどかしい。自然と貧乏揺すりしそうになる足を押さえつけていた。
「隘路は、八坂さんかしら」
マーサの指摘は、心を見透かしたかのようだった。
足の震えも忘れて、マグナは笑い皺を浮かべる老女の顔を見詰める。聖母のように慈愛に満ちて、物の怪の類に思えるほどに聡い理事長を。
「私としては、もう少しヴァネッサさんの不祥事を責めて欲しかったところですが、仕方ありませんよね。貴方はダンジョンが生きていると考えているのでしょう」
一度、心臓が高く跳ねた。
目に見えない手が脳をすり抜けて、マグナの思考に近づいてくる。
「もしも、ダンジョンに意思があるのなら」
その言葉の先は。
「意図的に八坂さんが狙われた、と云えるかもしれないわね」
マグナが考え得る最悪の想像だった。
黒髪の乙女は、災厄に巻き込まれた純粋な被害者ではない。
間接的な加害者であり、災厄のトリガーなのではないか。マーサは、マグナが目を背けていた可能性を突きつけた。
「もちろん、貴方の気持ちもわかるわ。下手に大事に発展したら、八坂さんの正体が割れる可能性も高まるでしょう」
「でもね」沈黙するマグナの答えを待たず、マーサは続ける。
「貴方の考えは間違っているわ」
「だったら、あいつを見捨てろって言うのかよ――ッ!」
マグナは反射的に吠えたが、その勢いは数秒と保たなかった。
視界が回る。腰掛けていたソファーが後ろに90度、コントのセットのように倒れる。理事長室はマーサの意のままに動く、魔術トラップの宝庫だった。
「いい加減になさい」
後頭部を押さえて倒れるマグナに向けて、怒りの滲む声が刺さる。マーサが許せないのは、彼女が命のために慎重になることではなかった。
「私が怒っているのは、貴方が他二人の女生徒を軽んじていることよ。あの子を特別扱いする気持ちはわかりますが、他の二人だって愛すべき娘でしょう」
マグナが躊躇する時間は、そのまま三人の生存率の低下に繋がる。とりわけ命に劣る那須と根木は尚のことだった。
叱りつけにへそを曲げ、マグナは垂直のソファーに腰掛けたまま毒づいた。
「けっ。どの道、生存は絶望的な状況なんだ。だったら、一番生存率の高そうな奴を助けようと考えて何が悪いんだよ」
「馬鹿ね。あの子が一番危ないに決まっているでしょう」
「どうして、そう言い切れるんだか」
「あの子が、貴方とよく似ているからよ」
筋繊維がずたぼろに引き千切れようと。
骨が軋もうが折れようが。
二人の親友を抱えて帰ってきた問題児がいた。一等手間がかかるその女生徒のことをよく見知っているからこそ、理事長は断言できた。
「誰も見捨てられないのよ。自分の荷で手一杯でも、誰かの荷を背負ってしまうような、強くて優しい子」
「そんなのは、ただの馬鹿野郎だろ。重い荷物を背負って壊れたら……自分の足で立てなくなったら、何の意味もねえじゃねえか」
自嘲する声は虚しく、天井に吸い込まれていく。
理事長席から顔は見えないが、声音からは強い悔恨が伺えた。あの押しの強い娘が不意に覗かせた弱さが愛おしい。今すぐにでも駆け寄って抱きしめてあげたい。
しかし、マーサは心を鬼にして愛の鞭をふるった。
「立ちなさい。私の愛する娘はそんなにやわじゃないわ」
だんっ、と両手で床を突く音が響いた。
バク転気味に一回転を決めると、マグナは傾いだ世界から戻ってきた。鍛えた身体を駆使すれば、魔法に頼らずともこの程度はお手の物である。
「……あー」
妙な態勢でいたせいで、身体は凝り固まっている。
マグナは首を鳴らしてから、大きく息を吸い込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」
獣じみた咆哮を上げると、マグナは両手で頬を張った。
大恩ある理事長にここまで言わせてしまう自分が、情けなくて仕方ない。怒りが、熱が、靴底から燃え上がってくるかのようだった。
「三人だ」
獰猛な笑みをたたえ、理事長にスリーピースを突きつける。
「どんな手段を使ってでも連れ戻すから、フォローだけ頼む」
「もちろん。無事に帰ってきてくれるのならば、神の子でも悪魔の子でも温かく迎え入れましょう。貴方たちはみんな、私の可愛い娘ですから」
ずんずん、とマグナは大股開きで理事長室を後にした。
電話で交渉するのに場所など関係ないが、この部屋にいると甘えてしまいそうな自分にむかっ腹が立ちそうだった。
渡り廊下を歩きながら、乱暴にポケットに手を突っ込む。
世界シェアNo1の平べったい携帯を手元で一回転させた。
「あいつだけは頼りたくなかったけど、仕方ねえ」
選り好みしていられる状況ではない。
いちいち手順を踏んで国に申請を上げていては、間に合う筈もないのだ。ショートカットを図るには、女王の近辺の人物を捕まえるほかあるまい。
女王陛下直属の騎士――クトロワ=トルル。
6日前の着信履歴に残る相手に、マグナはリダイヤルをかけた。
◆
深い海の底に囚われたかのようだ。
青玉の光源は淡くて、頼りない。
暗い深階をあと何マイル歩けば、日の差す地上に戻れるのか。
カーチェの迷宮、地下42階層。
場所は、三方を岩壁に囲まれた狭い小部屋。ヴァネッサの教えに従って、命たちは石階段を目前にした位置で休息をとっていた。
地べたにハンカチを敷いて座り込む。
そこに楽しい日帰り旅行気分など欠片も見当たらない。少しでも気が緩めば、自然と背中が丸まり、頭を垂れてしまいそうだった。
――立ち止まっていても、仕方ありません。上の階層を目指しましょう。
命が打ち出した方針は、決して間違いではなかった。
深い階層で遭難した場合、救援が来る可能性は天文学的数字に等しい。
第一に自力での脱出を考えるために、また第二に救援の可能性を高めるために。上へ上へと進むのが、ダンジョン遭難時の鉄則である。
ただ、正攻法をとれば成功を導けるかは別問題だ。
この短時間で命たちが味わったのは、ひたすらに先の見えない恐怖だった。
最初の内は、どこか事態を甘く見ていた。
日帰り旅行のときは大変だったね――なんて話題をカフェ・ボワソンで話し合う日常を思い描いていたのに、今は明日を迎えられるのかも信じ難かった。
思い出すだけでも身の毛がよだつ。
ニアミスした爬虫類は尋常ならざる大きさで、思わず上がりそうになる悲鳴を飲み込み、岩陰に隠れるだけで精一杯だった。
鱗の代わりに生え揃った傘状の茸が目に焼きついて離れない。魔物が地面に巨大なスタンプを刻みながら遠ざかっていくまでは、まるで生きた心地がしなかった。
先ほどの恐怖を反芻し、根木がぽつりと呟いた。
「あれは怖かったね……マイタケドラゴン」
「マイタケドラゴン!?」
「やっぱり、学名には苗字も入れた方がカッコイイかな? ネギ=マイタケドラゴンにしたら、いっそう味があるよね!」
「なんですか、そのお鍋の時期に重宝しそうなドラゴンは」
ふられた話題のあまりの下らなさに、自然と頬が緩む。
得体の知れない地下世界にいても、根木は相変わらずころころ笑う。一条の光すら差さない地下でも、小さな太陽が輝いている。それが何よりの救いだった。
(女の子が笑っているのに、私ときたら)
命の思慮深い性格は、必ずしもプラスに働くものでもない。ここが過酷な環境であればこそ、思考の迷路で延々と悪循環を起こしていた。
(笑わなくちゃ。二人が安心するように)
忘れていた微笑を浮かべて、心を引き締める。
ジェンダー論など語る気はないが、この場で一番頼りになる存在でなくてはいけないという自負心がある。どれだけ女性的な容姿を持っていても、身体がそうできている。
女装してても心は錦。可憐なだけでは黒髪の乙女は務まらないのだ。
「二人とも疲れ気味ですから、甘いものでも食べて元気出して下さい」
「やった! おやつタイムだ」
命は、魔法のポケットからあめ玉を振る舞った。
日帰りの準備しか整えていないのだから当然食料も少ないが、敢えて二人の食料事情を探るような真似はしなかった。
(どう頑張ったって、この面子じゃ一日も保たない)
入学から二週間が経過したとはいえ、未だに講義は基礎の基礎。行使可能な魔法が倍増したわけでもなければ、飛躍的に魔法の腕前が上がったわけでもない。
命は無根拠な奇跡を信じるより、短期決戦だと潔く割り切った。そう考えれば多少の食料は惜しくはない。むしろ問題なのはモチベーションである。
上へ上へと進む。
最初の方針からの変更はない。たとえ出口まで届かなくとも、上層に近づくにつれて救援の可能性は高まる。なにより魔物の脅威度が下がるのは大きい。
今は英気を養い、多少無茶でも速度重視での行軍を決行する必要がある。命はか細い糸を求めて算段をつけ始めたのだが。
「那須ちゃん、どうしたの? 食べないの?」
どうしても不安は拭えない。
根木が気遣って背中をさするも、那須は青褪めたままだ。
――転移酔い。
転移魔法につきものの特有の浮遊感が、引き起こす症状だ。海上列車が【戦乙女の門】を通過したとき、那須が倒れたのもこれが原因だった。
あのときほどではないが、明らかに那須の体調は優れない。
もっとも、那須の不調が転移酔いだけに起因するものでないことは、命も薄々察していた。
悲しいかな。那須は、命や根木ほど精神的に強くない。常に恐怖に晒されるストレスが、小さな身体に暗い影を落としていた。
「あめ玉がだめなら、喉は渇いていませんか」
命は、首にかけたアルマイト製の水筒をとる。
「実はこの水筒、とっておきの飲み物が入っているのです」
付属のアルマイトカップに、とぷとぷと青い宝石を注いでいく。それは飲み物代を節約しようと、命がハロルから譲り受けた失敗作だった。
「……ポーション」
「これを飲むば、たちまち元気百倍! ……なんて謳ったら捕まっちゃうので、嘘は言えませんけど。でも、味はお墨付きですよ」
オレンジの爽やかな香りが鼻を抜ける。
干からびた喉を潤すアクアマリンは、那須にとって魔法の味であった。優しさが全身に染みわたると、心なし気分が上向いた気がした。
「ありがとう……少し元気でたかも」
「それは僥倖。本物が混じっていたのかもしれませんね。運が良いですよ、那須ちゃん。帰ったらハロル先輩に教えてあげましょう」
「ええー、いいなあ。私も飲みたかった系!」
偽薬効果なのは疑う余地がなかったが、根木が瞳を輝かせると、偽物が本物に見えてくるから不思議だ。貴重な偽物に口をつけた那須は、クスリと笑う。
「大丈夫だよ。私が二人にいつか本物のポーションを……ううん、本物のエリクサーを飲ませてあげるから」
「やった! 永久に遊び尽くせる系!」
「いいましたね、那須ちゃん? エリクサーをごちそうしてくれる日、楽しみに待っていますからね」
夢幻のような話ではあるが、苦すぎる現実の前ではちょうど良い甘さだ。湿った空気も地下の暗さも変わりはしない。それでも未来の景色は澄んでいく。
「それじゃあ、那須ちゃんは生きて帰って研究に精を出さないといけませんねえ。茜ちゃんも帰ったら、やらないといけないことがあるのでは?」
「うん! 今日の夕食はハンバーグだもん。それにまだまだ遊び足りない系! 花の女子校ライフも、まだ二週間しか味わってないんだよ!」
一人は好奇心を満たすため、一人は遊び心を満たすため。
なんともらしい答えに微笑を浮かべていると、根木が問い返してきた。
「命ちゃんだって、やらないといけないことがあるでしょ?」
それは、魔法少女を辞めて長生きすることか。
もしくは元気な姿で帰って両親を安心させることか。
はたまた宮司になって八坂神社の伝統を守ることか。
本人も驚くべきことに、それら事前に用意していた答えと不意に頭を掠めた情景は異なるものだった。
「ええ」
黒髪の乙女は、短く答えるに留める。
形にできない曖昧模糊とした感情が、溶けて消えていくのを静かに見送った。
(……まさかね)
頭を掠めたのは遠い理想などではなくて、足元の現実。
白亜の城が聳える広大なキャンパスで、黒髪をなびかせて歩いているだけの絵だ。この小さな心境の変化に、命は少なからず困惑を覚えていた。
「さてと、帰りもよいよい行くとしますか」
桜色に染まる頬を誤魔化すように、命は休憩の終わりを告げる。
ほんの少し、ほんの少しだが、学校生活が楽しみになっているなどと、恥ずかしくて言えやしなかった。
命が腰を上げると、根木と那須が続く。
光を求めて、三人は石階段を上がっていた。




