第74話 ラビュリントスの旅
優しい風がそよいでいく。
草原の絨毯に脚をくすぐられながら、根木は大きく伸びをした。
「う~ん。今日は絶好のダンジョン日和だね!」
「そうだね……天候にも恵まれた、素敵な探索になりそうです」
(なんだか運動会に置き換えても、成立しそうな会話ですねえ)
穴ぐらに潜るのに天候が関係するのかはさておき。
東洋魔術師三人娘(女装含む)は、女学院から北東に進むこと約35km地点にある岩屋の前にいた。
4月2週の金曜日――日帰り旅行の日が訪れた。
ここ数日は、日帰り旅行の抽選で女生徒たちが一喜一憂していたが、命たちはその様なイベントとはまるで無縁だった。
というのも、きつい、汚い、危険の3Kで知られる迷宮探索ツアーを選ぶ女生徒は希少だったからだ。
「それにしても、遅いですねえ」
命の呟きに合わせて、三人は顔を見合わせる。
集合場所である『カーチェの迷宮』に着いたはいいものの、肝心の引率者の姿が見えぬまま。かれこれ集合時間から二十分が経過していた。
「あっ、なら私が通話してみようか」
元気よく挙手すると、根木は魔法石を取り出した。
おニューのガラパゴス携帯を嬉しそうに握りしめて、しおりに記載された引率者の番号へと繋げる。数コール待たされた後、通話はあっさりと終わった。
「眠たげな声で、あと10分待ってだって」
「それは頭に『マ』が付く教職員じゃありませんでした?」
「ううん。マグナ先生じゃなかった系」
「となると……誰なのでしょうか」
命がじっと見つめるも、紙面の空欄は何も語らない。
しおりには『引率者は着いてからのお楽しみ』という素敵文句が踊っていたので、三人は大人しく待つことにした。
空をゆっくりと綿雲が流れていく。西から吹く風はまだ肌寒さを残すも、柔らかな陽光が寒さを和らげてくれた。
「たまには待ちぼうけするのも、悪くないですねえ」
全身で春を味わいつつ、命は静かに瞼を落とす。
春風が黒髪を撫でるたびに心が澄んでいく。女装潜入していることも、生活費が底を尽きかけていることも、何もかも忘れてしまいそうだった。
(ああ、この陽気で借金が溶ければいいのに)
だが現実逃避も虚しく、現実は直ぐに追い付いてきた。
宣言通りきっかり10分。トーストを咥えた魔法少女が青空をかけてくる。艶やかな濡れ髪を流す引率者は、瞬く間に命たちの元に着陸した。
「ふぉへん、ふぉへん。おふれちゃって」
トーストを咀嚼しつつ、引率者は頭を下げる。
頭に被った鍔なしの帽子と、胸元の大きな襟が目立つ。白い布地に藍色のラインが走る水兵服姿は、命たちも予想だにしないものだった。
「えっと、貴方が迷宮探索ツアーの引率者でしょうか」
口だけで器用に最後の一欠片を食むと、彼女は答えた。
「そうです。私がガイドのおばちゃんです」
そう言うと、彼女はにっと口元を和らげる。
おばちゃんと呼ぶのは憚られる、妙齢の女性だ。タイを外した逆三角形の胸元は深いクレバスを形成していて、やけに扇情的に映る。
「ねえねえ、この先生見たことある?」
根木が小声で問うと、那須は頭を振る。
知らないのは命も同じだったが、一先ずは恭しく頭を下げた。
「お待ちしていましたよ、先生。今日はご引率お願いします」
「やだね。そうかしこまりなさんな。おばちゃん、堅苦しいのは苦手だから。それに何か勘違いしてるみたいだけど、おばちゃんは先生じゃないよ」
「ほえ? ノット先生系なのかな」
「イエース。それじゃあ自己紹介がてら、クイズといこうか」
じゃじゃん、と口ずさむ効果音からクイズは始まる。
「おばちゃんの職業は何でしょう? ヒントはこの服装かな」
彼女はでんと胸を張ったが、衣服よりもこぼれ落ちそうな二つの果実が強調されていた。これには思わず、命も頬を染めて目を逸らした。
「はい! 茜ちゃん一番乗り!」
勢い良く挙手すると、根木は自信満々に答える。
「間違いなくエッチなお姉さんです!」
「間違いなく間違いですよ! もっと衣服に着目して」
初対面の相手を痴女扱いするのはあまりに失礼だったので、命は慌てて遠足テンションの友人をなだめた。
「ううっ……失礼だよ、茜ちゃん」
那須は、破廉恥な回答に頬を紅潮させる。うら若き乙女が卑猥なことを言うべきではないという点で、彼女と命の見解は一致していた。
「たとえ、どんな服装で働いていても」
真っ赤に実った那須は、伏し目がちにそっと呟く。
「……職業に貴賎の差はないんだよ」
「セーラー服を脱がさないで!」
予想以上に那須の脳内がピンク色だったので、命は待ったをかける。乙女たる者、服装でイマジネーションを膨らませるような真似はご法度である。
「二人ともちゃんと考えて下さい。この服装の職業なんて一つしかないじゃないですか。もはや服装そのものが答えと言っても過言ではありません」
「と、言うと?」
根木が真面目な顔で聞くので、ふと命も冷静になる。
まともに考えると答えは一つだが、そのような職業が果たしてセントフィリア王国に存在するのか。半信半疑といった様子で答える。
「えっとですねえ……水兵さん?」
ピンポンピンポーンと、正解の音が口ずさまれた。
魔法少女の四大組織の一つ。セントフィリアの海軍――しらはの隊員であるヴァネッサ=バレンシアは、敬礼を決めてみせた。
◆
海の底にも似た青玉色が視界いっぱいに広がる。
大地から吸い上げた魔力に当てられて、岩壁に郡上する青光り苔はあちらこちらから儚げな光を漏らしていた。
幻想的な光景に見惚れて、命たちはしばし口を噤む。
何か言葉を発してしまえば、この美しい静謐が揺らいでしまう――と、思うのは異郷から来た者だけだったようだ。
「とまあ、見ての通り薄暗いので【鬼灯】をつけましょう」
「ああ、せっかくの美しい光景が」
おどろおどろしい火の玉が洞窟を明々と照らすものだから、観光気分だった命たちはげんなりとした。
「ええー、薄暗い方がロマンチックだったのに」
「だーめ。足元が悪いんだから、光源の確保が最優先なの。急に足の小指を無くしたり、曲がり角で右腕を落としたりしても困るでしょ」
「……その落とし物って、返ってきませんよね?」
「もちろん。ダンジョンは狡猾な生き物だから、気をつけた方が良いよ。帰れなかった人の幽霊が彷徨っている、なんて噂もあるぐらいだから」
ヴァネッサは【鬼灯】で下から顔を照らすと、だらりと手の甲を見せる。柳の下の幽霊を思わせる仕草に、ひいっと那須が小さく悲鳴を上げた。
「怖いよう……命ちゃん」
「おおお、落ち着いて下さい、那須ちゃん」
そう促す命も、かなり動揺していた。
幽霊の類は大して信じていないが、急に抱きついてくる那須が恐ろしい。何かの拍子に手の位置がずれたらと思うと、身の毛もよだつ。那須こわい状態だった。
「きゃあ! 私も怖いよ、命ちゃん!」
「ひゃあ――ッ!」
楽しげに飛び込む根木には、戦慄すら覚える。
心の距離が縮まった影響なのか、ここ最近はボディタッチの回数が増え気味だ。箒の二人乗りですら冷や汗ものなのに、気が休まる暇もなかった。
「ちょっと! 茜ちゃんは、全然怖がってないじゃないですか」
「ううん、怖いよ。幽霊よりも、貴方との距離が離れることが怖い系」
「そんな甘い台詞を囁いてもダメです。引っ付かれたら歩けませんから、二人とも離れて下さい」
「命ちゃんのいけず。相変わらずガードが固いなあ」
なんとか引き剥がすも、二人の顔は不満たらたらだ。
楽しい日帰り旅行に水を差すのも無粋である。命は一つため息を落とすと、二人に手を差し伸べた。
「ほら、これでいいのでしょう」
命が折れると、二人は喜びをあらわにして手をとる。そんな和気あいあいとする女子高生の遣り取りを、ヴァネッサは遠目で眺めていた。
「なんか良いなあ、女子高生って」
「そうですか。私としては、早く自由になりたいですけど」
「あはは。やっているうちは、そんなもんか。悪いことは言わないから、今のうちに目一杯楽しんでおきな。思い出ってのは、後から宝物になるもんだから」
「その通り! 私なんて女子高生として遊ぶことに、命賭けてるからね!」
「茜ちゃんは、もう少し勉強にも情熱を傾けて下さい」
和やかな談笑を反響させつつ、一行はいざ出発した。
かしましい集団に驚いたコウモリが羽ばたき、ネズミが岩陰に潜り込む。次は暗所から何が出てくるのか、胸おどらせながら歩いて行く。
「おっと」
曲がり角に差し掛ると、ヴァネッサが腕を伸ばして命たちを止めた。
「どうやらスライムのお出ましみたいだね」
「えー! スライムとか、ぶちテンション上がる系」
「スライム……興味あります」
表にこそ出さないが、RPGを嗜む命も興味津々だった。
三人の期待を煽るように、スライムは緩慢な動きで壁から姿を見せた。焼けたプラスチックのような粘体。中央には剥き出しの目玉が一つ浮いていた。
「嫌あああああああ――ッ!」
グロテスクな生き物に耐えかねて、那須が逃走を図る。
しかし、逃げられない。命は那須の右手を固く握っていた。
「こらこら。どこに逃げるのですか」
「だって……スライムはこれじゃないもん!」
「気持ちは良くわかりますが……ほら、茜ちゃんを見て下さい」
「うっひょう! DHAが豊富そうな目だ。あれ食べたら頭良くなるかな」
「まあ、あそこまで馴染めとは良いませんが」
黒髪の乙女パーティは足を止める。
例のグロテスクな粘体が、道の中央を占拠していたからだ。スライムはただ、ごぽごぽと気泡を上げていた。
「あのう、ヴァネッサさん。これどうしましょうか」
「スライムなんかは大して足が速いわけでもないし、走ってやり過ごしちゃってもいいんだけど……よし、良い機会だから追い払ってみようか」
ヴァネッサが勉強の一環として戦う道を示すと、さっそく命が動いた。魔物が体内に金目の物を隠し持っていることは下調べ済みである。
「それでは、さくっと」
「ちょっと待った」
意気揚々と【羽衣】を着込んだ命の肩を、ヴァネッサが掴んだ。
「近づいてどうする気かな、そこの魔女子さん」
「サッカーボールキックを浴びせて、壁に叩きつけるのが良いかと思ったのですが。いけなかったでしょうか」
「天使みたいな顔して、悪魔みたいな発言する子ね。おばちゃん……少し貴方の将来が心配になるわ」
命の試みは間違いではなかったが、ヴァネッサの希望に沿うものではなかった。いきり立つ黒髪の乙女は、えいさと連れ戻された。
「そういう自由な発想は好きだけど、一応おばちゃんも雇われの身だから。女学院の意向に沿って、魔法で切り抜けてね。ごめんねえ、水菜ちゃん」
「いえ。どちらかと言えば、名前を間違われたことが悲しいです」
「あれれ、3人とも野菜の名前じゃなかったっけ?」
先に自己紹介を済ませていたが、大して意味はなかったようだ。
「一人だけ野菜と縁がなくてすみません……八坂命と申します」
「ごめんねえ。おばちゃん、歳だから物忘れが激しくて。今度は覚えたからもう大丈夫! それじゃあ、ウドちゃんとトマトちゃんも頑張ってみようか!」
「野菜の分類しか合ってない!」
茎菜類と果菜類の少女は改めて名乗ってから、通せんぼするスライムと向き合う。二人が魔力を込めると、途端に掌から黒い靄が吹き上がった。
「えいっ!」
先に成形を終えた那須が【呪術弾】を放つも、スライムはぴょんと跳ねてかわした。べちゃりと粘体が地面に潰れる。
「きゅぴーん。そこを貰った!」
続けざまに根木が歪な【呪術弾】を放ったが、こちらは方向が外れていた。二人は二発、三発と数を重ねたが、かすりもしなかった。
「うがあ。全っ然、当たらなーい!」
「あはは。そう頬を膨らまさない。三人とも、まだまともに対人訓練もしたことないでしょ。動く的に魔法を当てるっていうのは――」
びちゃりと、粘体が弾ける音が響く。
的中させた命は、罰が悪そうな顔を浮かべていた。
「すみません。当てちゃいました」
ひゅう、とヴァネッサは口笛を送る。
本来であれば、動く的に魔法を当てる難しさを説明するつもりでだったのだが、思わぬイレギュラーが紛れ込んでいた。
「ひどいなあ、おばちゃんの面目丸つぶれじゃん。あー、さてはさっき名前を間違えたことを根に持っているなあ、八坂ちゃん」
「わざとじゃないのです。だから許して下さい」
「もーう。悪い子はおしおきだぞ。うりうり」
首に腕を回されて、命は狼狽える。
ヴァネッサから柑橘系の香りが漂うのもだが、肩で潰れる柔らかな感触がもどかしい。黒髪の乙女は、急いで腕から脱出した。
「あの……なんだか変な匂いがしません」
二人がじゃれ合う間に、刺激臭を嗅ぎとった那須が顔をしかめた。
「本当だ、なんか臭い!」
遅れて異臭に気づいた根木が叫ぶ。一度気にし始めると、鼻を摘まずにはいられない刺激臭が辺りに満ちていく。
ねこ柄とうさぎ柄。
命は二枚のハンカチで根木と那須の口を塞ぐ。女子トイレでハンカチがなかったときの経験を活かし、二枚常備していたものが思わぬ形で役に立った。
「ヴァネッサさん!」
「安心して。有毒ガスの類じゃないから大丈夫だけど」
刺激臭の正体はすでに割れている。スライムの薄膜に包まれた液体、この液体が独特な刺激臭を放っているのだが。
「ごめんねえ、おばちゃん……忘れてた」
後方から、匂いに釣られた魔物が大挙してくる。
同胞の恨みを晴らすべく迫るスライム、巨大な青虫ブルーワームに、刺々しいサボテンラビットの御一行様だった。
「ダンジョンの鉄則その一。大量の魔物と出くわしたときは、慌てず騒がず落ち着いて【羽衣】を着込んで……走って逃げる――ッ!」
「やっぱり大丈夫じゃない!」
「うひゃあ! 逃げるよ、那須ちゃん」
言うが早いか。逃げ出すヴァネッサに命たちが続く。土煙を立てる魔物の群れとの距離は広がったが、何も匂いとは一方向だけに広がるものではない。
前方。狭い通路の正面から道幅いっぱいの群れが迫り来る。思わず命たちが足を止めかけるも、ヴァネッサが声を張り上げた。
「止まらないで。真っ直ぐ突き抜けるから――ッ!」
黒い靄がヴァネッサから溢れだす。一気に魔力を吸い上げた彼女が成形したのは円球の【呪術弾】ではなく、膨れ上がる黒鉄の砲弾。
「ダンジョンの鉄則その二。無益な殺生は避けるべきだけど」
やがて道幅いっぱいにまで膨れた砲弾が、手元から飛び立った。
「やるときはやる!」
逃げ場のない砲撃に魔物が削れていく。
砲弾の通り道には小石ほどの魔法石がいくつも転がっていたが、一行は目もくれる暇もなかった。
これもまた時が経てば良い思い出になるのだろうか。黒髪をなびかせる乙女は、半信半疑で駆けていった。
◆
早々に酷い目に遭ったものの、その後の道行きは安定したものだった。
少し抜けているが、正規の魔法少女なだけあって、ヴァネッサの魔法の腕前は折り紙つきだ。彼女が付き添っていれば、まず危ない目に遭うこともなかった。
魔物の生態を物陰からこっそり覗いたり、岩壁のつくる自然の造形に見惚れたり。命たちは迷宮を満喫しながら、地下7階を探索していた。
「隊長、階段を発見しました!」
「うむ。よくやった根木ちゃん。褒美にそろそろ昼食にしようか」
地図本をくるくる回して歩くこと二十分。根木が地下8階へと続く石階段を見つけたところで、一行は昼休憩を挟むことにした。
「ここで昼食を採るのですか?」
「ううん。この部屋も悪くないけど……確か、こっちだったかな」
ヴァネッサが悩みながらも先導していく。行き止まりに着いては戻り、そうして三度目の行き止まりに入ったときだった。
命たちは、待ち受けていた部屋の主に目を奪われる。暗き地の底で生まれた偶然は、青玉の薄光に包まれていた。
「うわあ、桜の木だあ!」
大樹の根本まで走ると、根木は落ちる花弁とともに踊る。
異郷の、まさか地下世界で桜を拝めるとは夢にも思っていなかった命と那須は、瞬きすることも忘れて、ただ明媚な景色に酔いしれた。
「こんな場所にも咲き誇るのですね」
「永年桜って言ってね。誰が植えたかわからないけど、育っちゃったんだってね。魔性の木だから枯れることなく一年中、こうやって人を魅了しているの」
「それは……とっても素敵な魔法です」
ヴァネッサはレジャーシートを敷くと、続けて【小袋】から籐の弁当箱を並べていった。
「はいはーい。好きなの自由にとっていいからねー」
割り箸が行き渡ったことを確認し、四人は揃って手を合わせる。このころには、命たちもヴァネッサと打ち解けていた。
昼食を採る間、命たちが話す学校生活をヴァネッサは懐かしそうに聞いていた。次第に話題は教員へと移り、命も担任の名前を聞かれた。
「私たちの担任はマグナ先生なのですが、ご存知ですか」
「ぶはっ! あの人、本当に教師やってるんだ」
「恐らくは。本当に教師なのか危ういところですが」
マグナが担任だと聞くと、ヴァネッサは涙を浮かべるほど笑った。
「いやー、おばちゃんは、あの人のこと大好きだよ。いいじゃんいいじゃん、マグナ先生のクラス。面白そうだし」
「あの……やっぱり有名な人なのですか」
「そりゃあね。良くも悪くも、黄金世代の魔法少女だったからね。"三人の戦姫"しかり、"永遠の四位"しかり。あの世代は凄かったなあ」
一つ上の世代だからこそ、ヴァネッサの記憶にも強く残っている。
女学院のシンボルである白亜の城を半壊させて、一年間も青空教室が続いたことなど、忘れたくても忘れられない思い出だった。
「そういえば、あの人も日帰り旅行でここに潜ったことがあってさ」
"三人の戦姫"がまだ女子高生だったときの話である。
マグナたちは、引率の魔法少女を振りきって、ひたすら迷宮の下を目指すという事件を起こしたことがあった。
「それで地下40階まで潜っちゃうんだから呆れるよ」
「うわあ。私たちと同い年でも、そんな深くまで潜れるんだね」
「それがさ。潜るまではいいけど、この話には落ちがあってね」
迷宮とは深く潜るほどに牙を剥く生き物だ。
幼かった女生徒たちは、迷宮の怖さを知らなかった。
一人、また一人と友達は倒れていく。撤退を決めるころには食料も水も尽き、地獄の行軍をする羽目に陥ったのである。
「最後は、あの人が友達二人を抱えて、死に物狂いで帰って来たって落ち。三人とも大事に至らなかったから、笑い話で済むんだけどね」
「それはまた、マグナ先生らしい逸話ですねえ」
「でしょ。あの人は昔から――っと」
微弱な揺れを感じとり、ヴァネッサは会話を中断する。降り注ぐ天井の破片から守るように、弁当の蓋を閉めた。
「地震か……ダンジョンさんはご機嫌ななめかな」
「へえ、地震ってセントフィリアにもあるのですね」
「あー、まあそうだね。異世界なんて言うけど、岩盤の造りは同じだから。プレートが沈み込めば、反発して地震も起きるよ」
人によっては、セントフィリアで初めて地震を経験してパニックを起こすこともある。そんな話を挟んでから、ヴァネッサは立ち上がった。
「ごめんねえ。おばちゃん、ちょいと鷹を撃ちに行ってくる」
「なにゆえ男性版の隠語なのでしょうか」
「いやあ。真上に綺麗なのが咲いているからさ。ここでしろって言われると、おばちゃん困っちゃうもの。でも……どうしても見たいって言うなら」
「いってらっしゃい。お土産の鷹は期待していませんよ」
命は、しなをつくる海兵を出兵させた。
昼休憩の終わりも間もなくだ。綺麗に平らげた春の彩り弁当を片付けて、レジャーシートを畳む。三人は出発の準備を先に済ませておいた。
「ヴァネッサさんって……面白い人ですね」
「うん。あの性格はまさにラテン系!」
「ラテン系なのに東洋魔術師ということは、ハーフですかねえ」
東洋魔術師と西洋魔術師の境界線はどこなのか。
他愛のない話に花を咲かせていたときに――それは起きた。
風が通らない地下の桜が、大量の花弁を撒き散らす。短い初期微動が済んだ後、訪れたのは迷宮全体を震わす大きな縦揺れだった。
「きゃあ――ッ!」
根木と那須の悲鳴が重なり合う。
立っていることすら難しい状況下でも、天井からは容赦なく大小様々な礫が降り注ぐ。大地震の脅威に晒されるさなか、命は大声をあげた。
「無理して立たないで。落石にも注意して下さい!」
運を天に任せて、揺れが収まるまでやり過ごすしかない。これが普通の地震であったのであれば、それで終わりだったのだが。
「――ッ!」
ドクン、と心臓が大きく跳ね上がる。
重さという概念が消失したかのようだ。身体は宙を舞う羽毛のように軽くて、不確かな存在になる。寒気が背筋を登り詰めたころには、すべてが終わっていた。
「二人とも、大丈夫ですか」
揺れが収まってから数秒後。命は瞼を持ち上げる。
呼びかけを受けて、丸まっていた二人も立ち上がった。塵と砂に塗れて多少汚れていたが、幸い怪我をした様子もなかった。
「うん。急にでかいのが来てびっくりしたけど、大丈夫」
制服を叩きながら根木が答えるも、声は続かない。
那須は声を出すことも忘れて、瞳を震わせていた。目前の光景はにわかに信じがたく、夢であって欲しいとすら願っていた。
「ない……どこにもない」
「那須ちゃん、何か落としましたか?」
「桜の木が……どこにもありません」
弾かれたように二人は頭を回したが、桜木はおろか、ひとひらの花びらすら見当たらなかった。
「ねえねえ、この小部屋……さっきと構造が違うよ」
共通点は四角い部屋であることだけ。
広くなった岩造りの空間には、二つの通路が接続されていた。似て非なる場所はいくつも通過したが、まさか見間違える筈がなかった。
「あの、ヴァネッサさん……いませんか」
あれだけの大地震があった後にもかかわらず、ヴァネッサが戻ってくる気配も全くと言っていいほど無い。影や形どころか声すらも聞こえない。
永年桜とヴァネッサが消えたのではない。
そう考える方が自然で、何よりも妥当であった。
「……どこなのですか、ここは」
カーチェの迷宮、地下42階層。
大規模質量転移魔法――【階層工事】で飛ばされた哀れな子羊たちは、呆然と立ち尽くすしかなかった。




