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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―禁じられた遊び編―
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第67話 制約と契約

 料理部を去ってから、命はどこか上の空だった。

 胃のあたりにずっしりと重い物がある。倹約のためにスペイン料理を食べ過ぎたというのもあるが、恐らく消化しきれぬ物は違う。乙女は基礎代謝が良いのだ。


 正規の魔法少女にこだわる理由。

 ルバートの語った壮大な野望は、とても同い年の学生のものとは思えなかった。大人から見れば子供の絵空事には違いないだろうが、青いからこそ言える理想だとも言えた。


(貴方を推した私の考えが、間違いだったとは思いませんが)


 借金400万円なんて目じゃない程に――重い。

 黒髪の乙女が考える以上に、正規の魔法少女が与える影響は大きい。下手をすれば、小さな島国の行く末に関わるといっても過言ではなかった。

 カフェ・ボワソンの女神に捧げた誓いを反故にする気はないが、彼女を推す以上は責務があることを重々感じていた。


 あの覚悟の前では、命は真剣はまだ(なまく)らの域を抜けない。

 もっと鋭く、白銀(しろがね)に、心を研ぎ澄ます。

 そうでなければ、狭き門を往く者の夢を凌げないのだと、命は意識を改めた。


(――のは、良いのですがねえ)


 懸案事項は、これだけに収まらない。

 問題は、頭一つ下の位置をチラついていた。


「あの……二人は弓道部どうですか」


 弓道部の体験会の帰り道、那須が怖ず怖ずと尋ねた。


「私はいいや。全然真っ直ぐ飛ばないんだもん。こうやってさ……的を目がけて」


 数分前の感覚を思い出すように、根木が見えない弓を構えて弦を引いた。


「ズドン――ッ! って、当てたかったのにぃ」


 空想の矢も見当違いの方角に飛んだのか、彼女は唇を尖らせてアヒルをつくる。

 部員付き添いの下とはいえ、素人が弓を使うのは一苦労で、安土(あづち)にでも刺されば御の字という有り様だった。


「でしたら、当て易い洋弓(アーチェリー)を選ぶべきでしたかね」

「むう。武道をとるか、遊びをとるか。大和撫子系遊び人としては、とても悩ましい」

「……遊び人と大和撫子は両立するのですかねえ」


 命が控えめに指摘を入れると、根木は雷にでも打たれたかのように驚いた。


「はっ! もしかして私は……新天地フロンティアを開拓したのでは。やったよ、命ちゃん。とうとう私も一角の乙女に成れた系! この土地を元手に一旗揚げるぜよ!」

「改易――領地没収です」

「ああ! 私の新天地が!」

「乙女は一日にして成らずです。そんなことでは、会長の座が泣きますよ」


 八坂幕府の容赦無い申し渡しに根木が沈んでいると、那須が横からお伺いを立てた。


「命ちゃんはどうかな……弓道部」

「残念。私もそこまで興味を惹かれませんでしたね」

「……そっか」


 頭を落とすと、那須の150cmにも満たない身体はさらに小柄に映る。

 沈む彼女と立ち代わりに復活した根木が、会話に混ざった。


「もしかして、那須ちゃんは入るの? 与一を目指しちゃう系?」

「ち、ちがうよ……入る気はないの!」


 ワイパーみたいに両手が揺れる向こうで、根木が小首を傾げていた。


「ほへ? だって那須ちゃん、仮入部届け書いてたでしょ」

「書いたけど……すごく入部したかったわけじゃなくて」

「だったら、書かなければいいんじゃないの?」

「そう……なのですが」


 二人は、鏡一枚隔てたように対照的だった。

 命は、目も口も糸のように細い。果たして、口を出していいものなのか。黒髪の乙女は薄い笑みを張り付けて、事の成り行きを見守っていた。


 那須に足りぬは野にあらず、ノーが足りないのだ。

 たとえ後藤が『おい、あの扇射抜けよ』と無茶ぶりしても、一回は断るのが那須野与一。しどろもどろで引き受けてしまうのが、那須照子だった。


(さすがに義経の命令を断れとまでは言いませんが)


 もう少し意志を強く持って欲しいというのが、命の隠さざる本音だった。

 仲良し三人組の部活巡りといえば聞こえは良いが、その実態は半ば那須のための部活巡りと化していた。


 命には最初からお目当ての部活があり、根木に至っては、


 ――じゃじゃーん。同好会を作っちゃう系!


 と、申請書をひらひらさせる逞しさ。

 命が「いつの間に」と尋ねれば、春祭りのときには既に構想があったことが明らかになった。売り子戦争中に意気投合した女生徒A・Bの名前までもが、ちゃっかり連名でサインされていた。


 同好会の名前は"黒百合会(くろゆりかい)"。

 活動内容欄には、淑女を目指すために乙女を磨く会と書かれていたが、詳細は全く読み解けない。わかることといえば、会員同士の挨拶が『ごきげんよう』ということだけだった。


(正直、乙女と呼ぶにはまだ危なかっしい点も多々ありますが)


 太陽に向かい背筋を伸ばす、その意気や良し。

 前向きに女学院生活を楽しもうという姿勢は、見ている者にも元気を振りまいてくれる。いつか綺麗な擬宝珠(ぎぼし)が咲き誇る日がくるのではと、期待してしまう何かが彼女にはあった。

 だからだろうか。隣に咲く日陰の華を、命は無性に応援したくなる。


「ひゃっ!」


 背中を叩かれて、那須の背筋が跳ねた。

 柔らかな衝撃にではなく、唐突な接触に驚いた風だった。


「な、なに。どうかしたの命ちゃん」

「いえ、別に。あると良いですね、那須ちゃんの気に入る部活」


 恥じ入るように、那須は俯き気味に「うん」と答えた。

 彼女もわかっているのだ。二人が自分に付き合って、部活巡りをしていることを。

 

 部活勧誘解禁――1日目。

 三人は日が暮れるまで構内を歩き回ったが、求める成果は得られず。

 結局、那須が気に入る部活は見つからなかった。




     ◆




 部活勧誘解禁から――2日目。

 風光るうららかな日和。朝方はまだ冬の寒さを引きずるものの、女学院には初日にも負けぬ賑いがそこかしこに溢れていた。


 眼下に広がる光景を眺めながら、黒髪の乙女は一服。

 女神の奢りで飲むコーヒーはすうっと身体に染みこむ。心にも財布にも優しい味がした。


 命の対面に座るリッカは、右手で顎を支えていた。

 明後日の方向を向くかんばせは、腫れも引いてツヤが増している。

 だが、時計の短針が二回りするほどの時間を置いても気恥ずかしさは消えないのか。彼女は言葉少なで、命と上手く視線を合わせられずにいた。


 二言三言で会話が終わるが、決して居心地を悪くない。

 カフェ・ボワソンの穏やかな空気に、二人の朝は溶けていく。

 それはいつまでも浸れそうな優しい時間だったが、命には約束があった。ちらちらと、アンティークの置き時計に目が行くと、リッカが重い唇を持ち上げた。


「行けよ。別にあたしに構わないでいいから」


 少し不機嫌そうな声色は、涙声よりも余ほど彼女らしかった。


「リッカもどうですか。二限目からなら、一緒に回れますが」

「いいよ。どの道、今日はこれは替えにいかないとけないからな」


 長いため息を吐きながら、リッカは右腕を持ち上げてみせた。

 包帯ぐるぐる巻きのそれは、お世辞にも綺麗とは言い難い見栄えだ。


「ギプス替える前にふらふら外を出歩いたもんだから、医者がカンカンでさ。お小言と交換に、ちょっと新調してくる」

「良いじゃないですか。保健室の応急処置より、治りが早くなりますよ」

「けっ、簡単に言ってくれる。手前はあの医者を知らないから、そう言えるんだよ。怪我と病気を治すためなら手段を選ばない、氷みたいな女なんだぞ」


 毒づいてコーヒーを飲み干すも、リッカの機嫌は直らなかった。

 命は苦笑いを浮かべてから、小粋なジョークなどを一つ差し込んでみた。


「なら、私が治癒魔法でパパっと直しちゃいましょうか」


 この何気ない一言が引き金となり、静寂な空間に亀裂が走った。

 誰かがコーヒーでむせ返る。手から滑り落ちたシルバーが高い音を立てる。混乱に乗じて、ウェイトレスが割れた皿を【小袋(ポケット)】に隠ぺいする。


「ばっ、馬鹿。手前、何口走ってんだ」


 リッカは慌てて命の口を塞ぐと、冗談めかすように大笑いした。

 二人の席に視線が集中したが、一分も保たずに散っていった。おしぼりでコーヒーを拭く者、シルバーの交換を申し出る者、店長に指で呼ばれるウェイトレス。

 カフェ・ボワソンに平穏が戻ると、女神は命に小声で文句を零した。


「勘弁してくれ。あたしに下手な芝居打たせるなよ」

「あ、あれえ? ちょっと待って下さい。治癒魔法って、ないんですか」


 動揺しつつも小声で問うと、命は鼻で笑われた。


「あるわけないだろ。幻想世界(ファンタジー)じゃあるまいし」

「……仮にも魔法少女と呼ばれる者が、それを言いますか」

「いや、正確にはないわけじゃないんだが」


 厳密には、セントフィリア王国では治癒魔法は禁呪扱いだった。

 人体構造に熟知していなければ会得できないという縛りが、予想外の弊害をもたらすからだ。王国民は畏怖と畏敬をこめて、かような言葉を残した。


治癒術者(ヒーラー)を見たら、殺人鬼だと思え」

「何ですか、その物騒な格言は」

「セントフィリアに昔からある格言だ。空で解体新書(ターヘル・アナトミア)書けるぐらい人間を(ほぐ)さないと、治癒術者は完成しねえんだよ」


「でなけりゃ、あたしは素直に骨折してねえよ」と、リッカ皮肉を言う。

 危ない場面には幾つか遭遇したものの、思い返せば命も治癒魔法を目撃したことはなかった。予想以上に血なまぐさい話に、「うっ」と息を呑み込んだのち反論した。


「でも、医者と魔法少女を両立しようと思えば可能なのでは」


 呆れたように嘆息すると、リッカは問い返した。

 

「なら手前は、フォークしか持てない時分からメスが使えるのか」


「あっ」と、小さく零し、そこで命も気付かされた。

 医者の寿命が耄碌(もうろく)するまでなら、魔法少女の寿命は毒が回るまでと、もっと短い。期限内に正攻法で人体の隅々まで網羅するというのは、無理がある話だった。


 故に――治癒術者を見たら、殺人鬼だと思え。

 命は、ようやくその格言の正しい意味を理解した。


「そういうこった。よく覚えとけよ、三大禁呪なんて初歩の初歩だぞ。魔法少女の心構えだのなんだので、入学式でも言ってただろ」

「入学式の記憶は、まどろみのなかに置いてきたのもので」

「黒髪の眠り姫さまは、さすがだな。まさかとは思うが手前、治癒魔法を履修しようと思ってたなんて言わないよな」


 返す言葉がなかったので、黒髪の乙女は花のように微笑んだ。

 生存率を上げるために、治癒術者(ヒーラー)プレイを目論んでいたなど、口が裂けても言えなかった。誰からも憎悪(ヘイト)を買わないスタイルだと思っていたら、大間違いである。


「まさかまさかとは思うが……転移と記憶操作も履修しようなんて、考えてなかったよな」


 その通りでございます、と大真面目に返答するのも憚られた。

 女装バレを回避する二大魔法の封鎖の前には、黒髪の乙女の微笑も凍りついた。


「あの、転移は入学する際に体験したのですが」

「そりゃ、外部入学するときの話だろ。転移は円卓会議と女王の許可がないと、まず行使できねえし、あれは馬鹿みたいに魔力を食うから、個人での行使はまず無理だ」

「……記憶操作に類すると思われる認識阻害の魔法も見ましたが」

「それも、外の住人に向けてのものだろ。魔法耐性があるセントフィリアの住人に記憶操作かけようとすると、まるで勝手が違う。脳みその構造にも理解が……あとはわかるよな」


 羊の脳みそのムニエルを、フォークでくちゅくちゅする絵が脳裏を掠めた。

 黒髪の乙女は、その時点でギブアップである。たとえ女装で身を包もうと、猟奇的殺人犯になるほど、人の道は外れられない。


(せっかく前向きに魔法の勉強をしよう思っていたのに)

 

 死に物狂いだった先週を思えば、命も考えを変えざるをえなかった。

 女装バレは愚か、箒からの転落死未遂、火魔法による焼死未遂。

 そのどれもが脳みそのシワにまで刻まれた、忘れがたい思い出である。


 先の春祭りでも、事前に【羽衣(ローブ)】と【結界弾】を習っていなければと思うと、ゾッとする場面が何度もあった。

 これは、魔法抜きでの生存率は極めて低いと判断したまでは、賢明だったのだが。


(……なんですか、その私をピンポイントで殺しに来る縛りは)


 頭に浮かぶ魔法すべてが三大禁呪に引っかかるあたり、黒髪の乙女は罪深い。

 女装という大罪の上から更に罪を重ね着する、春のモテカワファッション。

 これには、お洒落下手のリッカも辛口だった。


「手前、伝説の犯罪者でも目指して生きてるのか」

「むしろ、日々平穏に生きたいだけなのですがねえ」


 それが難しいというのが、女装を宿命付けられし者の運命だった。

 思わぬ話題で花を咲かせてしまった命は、もう一度置き時計を確認する。時計の針は、一限の講義に向かうには厳しい時刻を指し示していた。


 ――嘘ついたら……先曲げとじ針千本だよ。


 唐突に背筋を登った悪寒に突き動かされて、命は立ち上がった。


「すいません。そろそろ私、行かせて貰います。ちゃんと腕を固定して、安静にしてて下さいね」


 会釈して席を外すと、リッカの左腕が縋るように伸びた。


「あ、手前ちょっと待て」

「どうしました。何か伝え忘れたことでもありますか」


 えっほえっほと足踏みでもしたい気分だが、命は踏み留まる。

 何時たりとも乙女の所作は気品に溢れ、優雅でなければいけないのだ。

 教会に佇む聖母像のように、命は心静かに言葉を待った。

 

 リッカはくせっ毛を掻いたり、空のカップを口元に運んだりとどこか落ち着きが無かったが、やがて鷹の目を背けながら口を開いた。


「その……ありがとな」


 意地っ張りの子供みたいな感謝に、命は相好を崩した。

 普段取り繕っている乙女の微笑ではない、彼本人の笑顔をわずかに覗かせた。


「それはどういたしまして。カフェ・ボワソンの女神さまのお役に立てたのなら、私も光栄ですよ」

「茶化すな……バカ」


 気恥ずかしい空気から逃げるように、命が入り口に歩を進める。

 慌てて頬を桜色に染めた少女が、それを阻止しにかかった。


「待った、待て、待ちやがれ。話まだ、話まだだから!」

「今度は何でしょうか」


 もはや一限は遅刻覚悟で、命はリッカに付き合うことにした。

「あー、うー」と唸り声を上げながら、彼女は何の用も足さないパントマイムを披露する。何度か咳払いをすると覚悟を決めたのか、本題を片言で切り出した。


「アタシ、テマエにカンシャしてる。アタシ、テマエにオレイしたい」

「そんなロボット口調で言わなくても。感謝しているのはお互いさまじゃないですか」


 返しきれない恩義があるのは自分の方だと、命は主張を曲げない。

 ここが憩いの場でなく自室だったら、リッカはもどかしさから文庫本を壁に投げつけていただろう。一頻りベッドで悶絶していることも間違いない。


 そうなのだが、そうではないのだ。

 やけに乙女が板に付いてる癖に、繊細微妙な女心は読み取らない。黒髪の朴念仁乙女に、彼女の怒りは静かに募っていく。


 無性に胃のあたりがムカムカするのだ。コーヒーを自棄飲みしたというのもあるが、恐らく消化しきれぬ物は違う。カフェ・ボワソンの女神は基礎代謝が良いのだ。


 空のカップを叩きつけると、リッカの感情は決河した。


「日曜日! 手前、来週の日曜日空いてるよな!」

「ええ、まあ……空いてますが」


 勢いに飲まれて命が頷くと、リッカは早口で畳み掛けた。


「前に言ってただろ、王都をゆっくり歩きたいって。だったら、礼代わりに王都を案内してやるよ。日曜朝9時、第二女子寮202号室前に集合。はい、復唱!」


 パンと手を叩かれて促されたものだから、命は律儀に復唱した。


「日曜朝9時、第二女子寮202号室前に集合」

「そうだ。言っとくが、あたしがお礼したい相手は手前だけだ。デコ娘にも、座敷わらしにも返す恩はないから、連れてくるんじゃねえぞ!」


 一呼吸で全て言い切ると、すらりと長身が立ち上がる。

 長い足を優雅に交差しながら、カフェ・ボワソンの女神は退店していった。

 一人取り残された命は、しばしポカンと口を開けていた。立ったままカップを口元まで運んでから、とうに空であることを思い出す。静かに白磁器のソーサーに戻した。


(相手の好意を無碍にするわけにも……いきませんしねえ)


 1限の鐘の音が、天井に備え付けられた魔法石から響く。

 どうあがいても間に合わない状況なので、命は優雅に遅刻する道を選んだ。ゆったりとした足取りで入り口に向かうと、トントンと肩を叩かれた。


「お代いただいてませんよー」


 レジ前であった。

 見知った金髪蒼眼ウェイトレスの右手が、金を出せと要求していた。

 迷惑をかけた礼に奢ってくれるとの話だったのだが、女神は会計も忘れて一目散に退店したようだった。


 胸ポケットからピン札を取り出すのは、黒髪の乙女にとってまさしく身を切るに等しい。知らぬ間に懊悩は渋面をつくり、ウェイトレスにまで心配される始末であった。


「……随分とお金に困ってそうだね」

「お恥ずかしながら。先週も王都までアルバイトを探しに行ったのですが、なかなか条件の良いアルバイトが見つからなかったもので」


 命が王都に足を向けた理由は春祭りではなく、金策がメインだった。

 酒の席ではディルティだけでなく、7区の職人にもお酌しつつ情報収集に余念がなかった。職人連中には大層気に入られたのだが、職探しの方は惨敗だった。


「日雇いのバイトは幾つかあったのですが、学生ですからねえ。王都に通う移動コストも考えると、正直あまり割が良いとは言い難くて」


 愚痴を零して気が晴れた命だったが、この雑談は思わぬ形で実を結んだ。


「なら、ここで働かない? 卒業生が抜けたから、最近シフトかつかつなんだよね」


 命が黒水晶の瞳を丸くしている間にも、話はトントン拍子で進んでいく。

 ウェイトレスが大声で呼ぶと、一服していた店長がのっそりと現れた。


「この娘、雇わない? リッカちゃんの友達。一部の女生徒からも人気高いし、いい客寄せになると思うんだ。女神さまとの二枚看板でウッハウハも夢じゃないかも」

「人聞き悪いこと言うな。別にマハラジャに成りたいわけじゃない。けど、バイトが足りないのも確かだな」


 店長は腕を組む。しばし思案したのち、命に尋ねた。


「君は、働く気はあるのか?」


 キュピーンと、乙女の眼光が光る。

 この機を逃してなるものかと、黒髪の営業乙女はセールストークをかけた。


「もちろん、人一倍働ける自信があります。オレンジ色に染まったシンクの皿も洗いますし、地面を走る排水口のドブさらいも喜んで」

「やけに生々しくて嫌なところ突くな……もしかして、経験者か」

「はい。親戚の飲食店で、仕事を手伝わせていただいたことがあります。調理(イン)接客(アウト)両面(リャンメン)でいけます。シフト表も引けますし、在庫管理・食材発注もお手のものです」


 真相は、背負投げで玖馬(きゅうま)を投げ飛ばし、ヴァストの窓硝子をクラッシュ。損害賠償のため働いていたのだが、嘘も方便である。


「よし、採用。履修を組んだら、後日シフトの相談をしようか」


 怪我の功名で、命は栄光の一発採用を手にした。


「ありがとうございます」


 給仕服を着ることに躊躇いはなく、そこにはただ深々と頭を下げる黒髪の乙女の姿があった。


「やったね、リッカちゃんの友達……じゃ、格好付かないな」

「これは失礼しました。挨拶が遅れましたが、私、八坂命と申します。ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします、先輩」

「かしこまらない、固くならない。話聞く限りじゃ、私よりよっぽど仕事できそうだしね。有能な後輩ちゃんができると、楽ができて助かるよ」


 本音が漏れ聞こえた気がしたが、意外にも命はこれをスルー。

 恩に報いるためにも、多少骨が折れる仕事ぐらいなら率先していただく心構えだ。ただし、極度に骨が折れる仕事は笑顔で平等に分配する。これが黒髪の乙女の処世術である。


「よろしくねー、命ちゃん。私はアイリ=エルッコラ、気軽にアイリって呼んでいいからね」

「こちらこそ、アイリ先輩」


 この日、黒髪の乙女は一人のクズ乙女と出会い、固い握手を交わした。

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