第64話 滑稽な風見鶏
高等部に滞在してから、二ヶ月の月日が経つころ。
カラーコーン相手の特訓もようやく効果を現してきた。
医者の許可を得て治療も一段階先へと進み、式神や召喚といった擬似的な生き物を相手にすることが多くなった。
術者を招くことには抵抗があったが、そこは不良教師が何とかしてくれた。
魔力を流し込めば顕現する、使い捨ての魔法道具を大量に用意してくれたのだ。決して安い出費ではないだろうに、お礼の一つも言わせてくれなかった。
「いいんだよ、ガキが細かいこと気にすんじゃねえ」
終始この様な調子で、取り合ってすらくれない。
強情な相手に何を言っても無駄なので、あたしは彼女を不良教師と呼び続けた。変わらぬ態度で接して、一層熱を入れて早朝の訓練に打ち込んだ。
「おっすおっす。今日も元気でやってるかね、リッカちゃん」
両手をぶんぶん振って、アイリ先輩が地下2階に降りてきた。
「なんだ。今日はウェイトレスだけか」
「店にいないときは、ウェイトレスじゃないし! というかさ、最近私とスピナに対する態度が露骨に違わない? あんまり舐めた口叩いてると、上下関係ってやつを叩きこむからね!」
「じゃあさ、一汗流していくアイリ先輩?」
「きょ、今日のところは勘弁してあげる」
アイリ先輩は、実に寛大な先輩である。
何度許してくれたのか数えるのも阿呆らしくなる。仕合えばPTSDの影響で100%勝てるのに、彼女は"翠の風見鶏"という張りぼてに怯えていた。
本当にどうしようもない先輩で、スピナ先輩の気持ちが痛くわかった。
ウェイトレスの仕事ぶりはポンコツという言葉以上に相応しい表現がなく、オーダーミスも直ぐにちょろまかす。後輩相手に会計を誤魔化すのは、さすがにどうかと思った。
あたしが風邪を引いたと聞けば、頼んでもいないの看病に現れるし、何の用もないのに早朝から演舞場の地下2階に遊びにだって来る。
ほとほと呆れる反面――側にいて欲しい先輩だった。
アイリ先輩は、今日も何も言わずにあたしの特訓を眺めていた。1限開始の鐘の音が鳴るまでは、彼女はお淑やかに座っているだけ。
親譲りの金髪碧眼が、このときばかりは美しい。本当に勿体ない先輩である。
「うっしゃあ。今日もカフェ・ボワソンで朝食に洒落込もうぜーい」
これである。鐘の音とともに、アイリ姫の幻想は砕ける。
「アイリ先輩、金曜の1限って講義なかったか」
「安心しろ、あれはチョロい講義だということが判明した。スピナも出席しているし、万が一にも私の単位が落ちるということは無くなった」
アイリ先輩は両手を後頭部に回して、天井にぼやいた。
「あーあー、あんな講義に二ヶ月も真面目に出席してたなんて、馬鹿見たよ」
「奇遇だな。今、あたしも救いようのない馬鹿を見た」
「リッカちゃんが、スピナみたいなこと言い出した!」
安定のクズ先輩に先導されて、ホームグラウンドに辿り着いた。
ティータイムには女生徒が溢れるカフェ・ボワソンも、1限開始ごろには閑古鳥が鳴いている。朝食目当ての客を捌いた店長も、一休みしていた。
「アイリ、あんまりサボるなよ。未来の後輩が真似する」
「あはは、そりゃ勘違いですよ、店長。今日は休講でして」
「そうか。なら、マレット先生が朝食Aセット食べてたのも見間違いだな」
「あー、持病の癪でヴァレリアの診療所に運ばれたらしいですよ」
「ふうん。なら朝食Bセット食べてから、講義に向かったスピナは?」
「それ従姉妹ですね。あいつ朝食Aセットしか食わないんで、間違いないです」
のらりくらりとかわすアイリ先輩に、店長はため息を返した。
「いいな、リッカ君。ああは成るなよ」
「安心して下さい。あれは天性のものなので、真似できません」
どうぞご自由にと。文句もどこ吹く風で、アイリ先輩は鼻歌交じりで店内を歩いていた。がら空きの店内は、よりどりみどり。どこの席にしようか見渡そうとして――たちまち彼女の視線は奪われていた。
一輪の花が咲いていた。
中央席で新聞片手にコーヒーを啜る女生徒は、人目を惹く容姿を持ち合わせていた。真っ直ぐに伸びた背筋。凛とした空気をまとう彼女は、絵画の住人のようだった。
「……オルテナ会長」
オルテナ=シルフィード。
二年生にして生徒会長を務める才女が、そこにはいた。
「どうやら噂は本当だったようだな」
ぱさりと、机に置かれた新聞紙が柔らかい音を立てる。
オルテナ会長は脇目もふらずにこちらに歩いてきた。
「んっ? リッカちゃんって生徒会長ともお知り合いなの?」
「まあ、顔見知り程度だけど」
「マジか。その人脈すげえな。後で私も紹介しといてくれ」
残念だが、互いを懐かしむ再会にはなりそうもなかった。
オルテナ会長の透き通る瞳は一心にあたしを捉え、道の途中に熱気を落としていく。彼女が何かしらの行動を起こす予感はあったが。
「――ッ!」
ただ、無言で頬を張られたのは予想外だった。
頬の熱い感触を引きずりながら、たたらを踏む。
数秒の混乱の後に、理不尽な暴力に怒りの火が揺らめいた。
「て、手前! 急に会うなり」
「恥を知れ、この放蕩者――ッ!」
あたしの怒りは、真っ赤な炎に飲み込まれた。
鼓膜に響く澄んだ声は、強制力すら覚えさせる。空気を震わす声の砲台に、堪らず店内の誰もが耳を押さえていた。あーうるせえ、キンキンと耳鳴りが続く。
「私は五人の才媛という奴らが、大っ嫌いだ――ッ!」
「あん? んなこと中等部にいたころから知ってらあ」
「だがなリッカ君、私は君のことだけは少し買っていた。戦うことにしか興味のない馬鹿、己の力を誇示するにしか興味のない馬鹿、親譲りの地位に振り回される馬鹿。その他馬鹿、馬鹿、馬鹿! あの馬鹿の掃き溜めのなかで、君だけは少し違うと思っていた――ッ!」
「なんだそりゃ。生徒会長ってのは、好感持った相手に手ぇ上げんのか!」
肌を焦がすような怒りが迫ってくる。
あたしは火に怯える獣のように吠えた。
吠えなければ、燃やされそうな気がして怖かった。
ギリッと歯噛みすると、オルテナ会長の火勢が緩んだ。
「……ハラカン=モフスキーという女生徒を知っているか?」
「知ってるも何も」
――あたしの親友である。
互いに無条件で信頼を預けられるし、損得を超えたところで結び合える。
アイリ先輩やスピナ先輩は信頼できる友人ではあるが、まだ付き合いが浅かった。そういう意味でいえば、ハラカンはあたしにとって唯一無二の親友だ。
「一昨日、緊急搬送されたことも知っているんだな」
瞬間、心臓が止まった気がした。
「その顔を見るに、やはり知らなかったようだな」
「冗談……だよな?」
「この期に及んで何を言うかと思えば。こんな冗談言うものか、私の正義に賭けて良い」
生徒会長の正義なんぞ心底どうでも良かった。
一転して、今度はあたしがオルテナ会長に詰め寄った。
「どうなってんだよ、おい! ハラカンの容態は」
「一時は危なかったが、容態は安定しているとのことだ」
ほっと胸を撫で下ろしたのも、束の間のことだった。
「ただ――魔法少女としての生命は絶たれかもしれん」
どうしてまた、あたしの大切な人ばかりが。
機能停止したかのように身体は沈黙し、声すら出せなかった。
被害者を気取る態度が尚のこと気に入らなかったのか、オルテナ会長がさらに一歩詰める。額がぶつかる距離で、表情を険しくした。
「君は楽でいいな。責任を放って、高等部で遊んでいればいいだけだからな」
責任という言葉が妙に引っかかり、がりがりと心を引っ掻いた。
一度考え出すと止まらない。嫌な予感が見えない糸を手繰ってやって来る。
「もしかして……ハラカンに危害を加えたのは、特待生なのか」
はあ、と生温いため息が、あたしの肌にまとわりついた。
「今度は、シルスター嬢が特待生に復帰したことも知らないときたか」
「……何だよそれ、あいつはあたしが」
追い出した筈だった。
方方に迷惑と暴力をまき散らした彼女を、あたしは特待生として不適格だと判断した。だからこそ策を弄して、ウィルに彼女の椅子を与えたのだ。
「詳しく知りたければ、そこの新聞をくれてやるから勝手に読むといい」
愚か者に説明する義理はないと言外に語り、説明は打ち切られた。
これは後で知ったことだが、鉱石と魔法石の採掘量が例年に比べて好調であることが、新聞には書かれていた。
鉱石と魔法石の加工を生業とし、第7区を統括するシルスター家は、笑いが止まらなかったことだろう。御三家と呼ばれながらもハイルフォン家の後塵を拝してきた名家は、今一番の発言力と勢いを持ち合わせていた。娘を特待生に復帰させることなど、造作もなかったのだ。
「もっとも、それに書かれているよりも大きな原因があると、私は思っているがな」
目を細め、オルテナ会長は一層睨みを利かした。
「君が無責任に席を空けた。それが何よりの原因だ」
無責任に? だってハラカンが任せろって。
「自分が正規の魔法少女に成れるのなら、他はどうだって良いのか。見下げ果てた志だな」
瞳が映していたのは、義憤の炎。
熱視線にたじろぎ下がるも、オルテナ会長は許さなかった。
下がると同時に踏み込み、視界を焼いていく。
「面倒になったら投げ捨てて、良い環境を求める……か。女子寮の一室を一人で借り上げているというのも、大方本当なのだろう? 実に良いご身分だな」
そっと。
瑞々しい唇が耳元に寄った。
「良かったな。君には、身勝手をしても許される才能があって」
耳から流れ込んだ炎が、あたしの身体を焼いていく。
もう、真っ黒な消し炭になって崩れ落ちてしまいたかった。
「ちょいと、前失礼」
固まっていた身体が、強制的に後退させられた。
アイリ先輩が、あたしたちの間を両腕でこじ開けていた。
「む、何だ君は。今私たちは大切な話を」
間髪入れず、アイリ先輩の鉄拳がオルテナ会長の頬に刺さった。
テーブルをいくつか巻き込んで、天下の生徒会長が転がっていく。
無言で盗み見ていた客が、小さく悲鳴を重ねた。
「へえ。生徒会長さまのなかでは、一方的に相手を傷つけることを大切な話って言うんだ」
「なら許してよ」と、アイリ先輩はへらへらと軽薄そうに続けた。
「これも、大切な話なんだ。口よりも先に手が出ちゃうぐらいにさあ」
横倒しの机にもたれていたオルテナ会長は、ゆっくりと立ち上がった。
口のなかを切ったのか、桜色の唇から一筋の赤色が垂れていた。
「……一発は貰ってやる。私も少しばかし口が過ぎた。すまなかったな」
トレードマークの耳付き帽子を直すと、アイリ先輩に視線を遣った。
「だが、これ以上は話が別だ。立場上、校内で暴力を働く輩は鎮圧する義務がある。それでも良いと言うなら買ってやるが。どうする……やるか?」
びっし、とアイリ先輩が中指を天井に突き上げた。
「人に謝るときは帽子とりなよ、先輩」
「そうか……残念だよ」
宣戦布告と同時。
オルテナ会長は一気に魔力を噴かせて、一呼吸の間に散らせた。
いがみ合う二人の間を、銀の軌跡が走る。
銀色の物体としか認識できなかったフォークが、壁に刺さっていた。
反動でフォークの持ち手が震える。嘘みたいな光景に全員が息を呑んだ。
「悪いが、喧嘩するなら外でやってくれ」
右にはフォークを4本、左にはナイフを4本。
店長の指の間に挟まったシルバーは鉤爪のようだった。
カフェ・ボワソンを支配していたのは、アイリ先輩でもなければ天下の生徒会長でもなかった。エプロンをつけた、少し不機嫌そうな店長だった。
「止めておこうか」
オルテナ会長が観念して手を引っ込めると、
「私もパス。店長怒らせると怖いし、なんか気を削がれちゃった」
アイリ先輩はひらひらと手を振って、手近な席に座った。
まるで何事も無かったかのようにメニューを開く彼女の姿を確認すると、オルテナ会長は会計へと向かい、遅れて凶器を引っ込めた店長が対応した。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。お詫びと言っては何ですが、店の補修費用も払わせていただきたい。遠慮無く引き落として下さい」
差し出された金色のカードを受け取ると、店長はコーヒーのお代だけを受け取ったようだった。「払う」「結構」の押し問答が続いたが、最後はオルテナ会長が折れて帰っていった。
店長は客の着いたテーブルをひとつひとつ丁寧に回ると、お詫びのコーヒーを一杯サービスしていく。最後にあたしとアイリ先輩のテーブルに来るころには、カフェ・ボワソンは普段通りの落ち着いた雰囲気を取り戻していた。
「仲裁に入るの遅いよ、店長! あと少しで大切なアルバイトが怪我するところだったじゃん。労災だよ、危うく労災もんだったよ!」
全身をガクガク震わせながら、アイリ先輩が非難めいた言葉を投げた。
「言っとくが、業務時間外だからどのみち労災は降りんぞ。まあ、新しくアルバイト募集をする手間が省けたのは助かったが」
「it's so cool! クール過ぎやしませんか店長!」
「机が一脚ダメになったのは、来月の給料からで良いよな」
「血も涙もない! それ私の血と汗の結晶ですよ店長。っていうか、生徒会長さまに支払わせて下さいよ。あの人、金持ってるんだから。私なんて鉄屑カードですよ」
「それは駄目だろ。壊したのアイリなんだから。それに、お前に一発殴らせてから仲裁に入ってやったんだ。それぐらいの損害には目を瞑れ」
「何ですか、その気遣い! 殴り損じゃないですか!」
「神さま、仏さま、店長さま。お願いします。何なら私を一発……いや二発まで殴っても良いので、チャラにして下さい」と、アイリ先輩は卑屈さ全開で拝み倒していたが、敢え無く却下されていた。
「ううっ。こうなったら、せめてサービスの一杯は、高いの頼んじゃいますからね!」
ローグ・ダルグと、悲鳴のような注文が飛んだ。
それはコピ・ルアクを凌ぐ、セントフィリア限定の高級コーヒーの名だ。メニュー表で唯一時価と表記された幻の逸品。自棄酒ならぬ自棄コーヒーである。
「良いのか……、一万イェンはくだらないぞ」
「えっ、お金取るんですか!」
「当たり前だろ。なんで喧嘩の当事者にサービスするんだよ」
「ご注文は」と、改めて店長が確認すると、アイリ先輩はうなだれたまま「カフェラテ……とびっきり甘いやつで」と告げた。
「リッカ君はどうする」
「……同じので」
この一ヶ月、あたしはカフェ・ボワソンに通い詰めていた。
店長はあたしが甘いのが苦手だというのは知っていただろうが、何を言うこともなく注文は受理された。抜け殻に何を言っても無駄だと知っていたのだろう。
「ふええ、リッカちゃんお金貸してよ」
あざとい泣き真似をしてから、芸達者なアイリ先輩は顔をしかめた。
「いや、待てよ……お金を借り倒すよりも、身を守って貰うべきか。いくら聖人君子面した生徒会長といえども、人の子だからなあ。復讐してくるかも」
顎に手をやり、アイリ先輩はぶつぶつと呟いた。
お金と身の危険を天秤にかけてから、改めて泣き真似を再開した。
「ふええ、私めっちゃ頑張ったから、いざというときは守ってよ」
彼女は"翠の風見鶏"と呼ばれた才女を頼ったのだろうが、そんな人物はカフェ・ボワソンはおろか、この国のどこを見渡してもいなかった。
「……無理ですよ」
ここにいるのは、独りよがりでくるくる回る、滑稽な風見鶏だ。
妹だって親友だって、期待されても何一つ守ることなどできやしない、ちっぽけな存在なのだ。




