第63話 コーヒーの魔法
高等部での生活は、人目を忍ぶようなものだった。
事前に用意された第二女子寮の一室に同居人はいない。本来は二人一部屋のルームシェア形式であったが、無理を言って一人部屋にして貰った。
万が一に備えてルームシェアを勧められたが、誰かに病状を知られるのも同情を買うのも御免だった。こんな我儘が許されたのも、あたしが特待生だったかららだろう。
「無理言って、すいません」
「気にすんな。一人暮らししている奴は他にもいる。そういうのは、力ある人間の特権ってやつだからな。ガンガン使ってけ。あたしも在学中は5回ぐらい部屋を替えたしな」
「同居人が気に入らなかったのですか?」
「その回数分、部屋をお釈迦にしたってだけの話だ。大半は喧嘩とかだけど、闇鍋しててガス爆発したこともあったな。暗くて誰も気づかないでやんの」
物騒な思い出に浸り、「あっはっは」と不良教師は陽気に笑い声を立てた。
ガスを用いぬ火の魔法石が主流のこの国で、一体どうやってガス爆発を起こしたのか。気にはなったが、深くは言及しなかった。
「あと、敬語も外していいぞ。肌が粟立つぐらい気持ち悪い」
「んだとコラぁ、この不良教師!」
「そうそう。そっちの方が楽でいい」
軽口を叩くのも馬鹿話するのも、不良教師なりの気遣いに思えた。
彼女は悪態づきながらも、困ったときには必ず手助けしてくれた。ときたま早朝訓練に顔を出しては、朝飯代わりに弁当を要求してくる。本当に仕様もない教師だが、嫌いになれない大人だった。
太陽が緑の城壁から顔を出すより早く起床し、弁当を作ったり作らなかったり。第二女子寮から演舞場に通うのが、あたしの日常に成りつつあった。
冬休み明けから一週間ほどは中等部の動向も気になったが、一ヶ月もすると治療に専念していた。
高等部に移る前日の夜遅く。不安になってハラカンの自宅を訪れもしたが、彼女はあたしの尻を引っ叩いて「任せとけ」と心強い言葉を残してくれた。
ウィルと裏御三家の気の良い奴ら、何よりハラカンだっている。
リッカ派閥は頭首不在で崩れただろうが、安心して任せることができた。
医者の判断で情報を公開しなかったことで、"翠の風見鶏"は謎の失踪を遂げたと噂になったりもしたが、一時のものだ。あたしの噂は七十五日どころか、一ヶ月も持たなかったようだ。
ルバートだけは「リッカはどこだ」とギャースカ喚き立てていたようだが、知ったことか。あいつはあたしの恋人か何かなのか? 考えただけで吐き気を催す想像だった。
「うっし、今日も気合入れてくか」
頬を張ってから、あたしは演舞場に入った。
地下2階、地上5階。計7つの体育館を縦に重ねたような建物に最初は圧倒されたが、人は慣れる生き物である。もはや何の感慨もなく地下2階を目指した。
「予約していた、ウルシ=リッカです」
「……うん。おはよう」
会話になってるんだが、なってないんだか。
いつもウトウトしている窓口嬢に挨拶してから、階段を降りた。
窓のない地下は窮屈だと不評らしいが、あたしは窮屈さのなかに落ち着きを見出していた。早朝から地下を予約する物好きはあたしぐらいのもので、朝の地下2階はあたしの部屋になっていた。
入念な準備体操。壁を沿うランニング。適度な筋トレに柔軟。
不良教師の教えでルーティンと化した前準備を消化する。健全な精神は健全な肉体に宿るということで、生身で行うよう強く念を押されていた。
初めは面倒で仕方なかったが、慣れると悪いものではなかった。
ひと通り終えると、用具倉庫からカラーコーンを各所に配置した。
対人訓練をしたいと気持ちは逸るが、医者の教えを第一にする。あたし一人で無闇に突っ走るよりも、医者と二人三脚した方が早く目的地に着けそうなのは明らかだった。
【風衝弾】で狙い撃ち、【突風】でカラーコーンを薙ぎ倒す。全てのターゲットをクリアすると、【竜巻】で巻き上げた。
赤、青、黄色に緑色。
天井近くまで舞い上がったカラーコーンが降り注ぎ、床を叩いた。こんな真似ができるのも、地下2階を独占している者の特権だった。
「よしっ」
一ヶ月間で、対人は無理でも対物であれば全く問題がない程度には回復した。後はここからどうやって回復していくかが課題だった。
「あっ……お早うございます」
1限の鐘が鳴るころには、大抵地下2階にも人が流れてきた。名も知らない高等部生と入れ替わりで退出するのだが、無言も気不味いので頭だけは下げた。
その日すれ違ったのは、二人組の女生徒だった。
「あの娘、いつも朝からいるね」
「あれでしょ、中等部の"翠の風見鶏"ってやつ。何でも人を風見鶏みたいにクルクル回して吹き飛ばしちゃうんだって。才能あるから一足早く高等部に顔出してるみたいだけど、なんか近寄り難くない? 目付きも悪いっていうかさ……何て言うのかな」
聞こえてんだよ……先輩。
早朝の爽やかな気分を台無しにされた気がするが、無視を決め込んだ。
間借りしている身分の中等部生が、デカイ顔するのもおかしな話だからだ。午後からは第二女子寮での勉強が待っているのだ。こんなところで無駄に使う体力はなかった。
午前5時から午前9時までは訓練に励み、午前10時から午後5時までは勉学に打ち込むのが、あたしのライフスタイルとして確立されていた。
午後5時以降も特訓に入りたかったが、魔力だって無尽蔵ではないし、何よりも医者との約束があった。仕方なく、夜は本を読み耽りながら眠りに落ちた。
高等部に来てから早一ヶ月が経過した。
中等部の同級生が進学するまでの猶予は、あと三ヶ月。そこまでには心の病とも決着をつけて、堂々と高等部に進学したいと考えていた。
ふと襲いくる不安が悪戯に心臓を煽ることもあったが、改善の兆しはあるのだ。焦ることはない、と何度も自分に言い聞かせては落ち着かせた。
と、こんな生活を送りつつも、週に一度は約束通り実家に戻った。
嵐のような環境の変化のせいか、以前より母親は憔悴した。それでもあたしが帰ってくると、シワが増えた顔を綻ばせて、玄関から飛び出してくる。
家に帰ったからといって、何も特別なことはない。
母親が望むのは平凡な日常である。特別な予定も、豪勢な食事もいらない。
残り物で昼ごはんを済ませて、3時ごろにはおやつをつまむ。他愛のない話に興じ、夜になれば一緒に夕飯を食べて、ごちそうさま。居間でダラダラしてから、眠くなったらベッドに向かう。
それは――異常なまでに平坦な日常だった。
ロールプレイのようで気味が悪くなることもあった。
母親の会話もどことなくおかしい。
七華など初めから居なかったかのような振る舞い、共通の思い出のなかにも妹の影を見いだせなくなった。
ふと壁に目を移せば、そこにはおかしなカレンダーがある。
一週間に一日だけ、狂ったように何重も渦が巻いていた。ずらりと並ぶ赤いバツ印は、まるで空白の期間を殺すように力強い筆跡だった。
見てはいけないと、目を背けつつ続く奇妙な家族ごっこ。
次第にあたしは、家族の関係性を見失った。
家族のあり方がわからなくなり、あたしにとって家族とは演じるものになっていた。
一週間に一度。最初は純粋に楽しみだった習慣に怯えるようになった。義務感が付きまとい、家に帰るのに覚悟が必要となった。
違うのだ、違うのだ。
あたしは母親を嫌いになってなどいない。
重荷に思ったことなど一度もない――と、頭が耐え切れなくなる前に言い聞かせた。
自分を騙すように、鏡の前で催眠術をかけるように。
日に日に、自己暗示をかける回数が増えていった。
◆
実家帰りの翌日。
神経をすり減らしたこっちの気など知らず、先日見た二人組が地下2階にやって来た。
「あー、また筋者がいる」
ぴきりと、何かがひび割れるのがわかった。
ふとした拍子に八つ当たりしそうなほどに神経は過敏で、心がささくれ立っていた。悲劇のヒロインを気取るつもりはないが、人並み以上の不幸を背負ってる自覚があった。
いや……どんな言い訳をしても、こういう奴を悲劇のヒロインを気取っていると言うのだろう。
妬ましくて、羨ましかった。
能天気そうに生きている女生徒二人が。大して夢も持ち合わせないくせに、と勝手に断定して、夢のなかで溺れる自分を棚上げしていた。
「あれ、何だかこっちに近づいてくるよ」
「アイリが悪口言うからでしょ。早く謝りなよ」
一歩、二歩。彼女たちの元へ近寄る。
すれ違い様に挨拶をする代わりに、殴ってやろうかと思った。無防備な二人を【突風】で吹き飛ばしても良いとすら考えていた。
ここは魔法少女の訓練施設、演舞場。
事故や怪我が起きても何らおかしくない環境だ。
じりりと距離を詰めていくと、友人を諌めた女生徒は警戒を強めた。
正直、彼女はどうでも良かった。あたしが殴りたかったのは、隣の眉をハの字にして考えこむ間抜け面だ。
「むむむ」
何が腑に落ちたのか、間抜け面はポンと手のひらに拳を落とした。
「アイリ、危ないから早く退いて――ッ!」
魔力の匂いを嗅ぎとったお友達が甲高い声を上げたが、間抜け面はお構いなしだった。
ふらりと、無警戒であたしの懐に入る。あまりに自然な足取りだったので、反応すらできなかった。
彼女は二本指でピースサインを作ると、あたしの額に向けた。
一瞬、目潰しがくるかと思ったが違う。
目を狙うには緩慢で、まるで敵意を感じない動き。
あたしの眉間を押した二本指は、ぐっと左右に広がった。
「ずっと眉間にシワが寄ってるから怖いわけだ」
「……は?」
「そっか、そっか。スタイルも顔立ちも良いのに、なーんか怖いと思ったら、そういうカラクリだったわけだな」
うんうん、と一人で頷いて間抜け面は納得していた。
「ずっと思い詰めた顔するの疲れない? せっかくの美人が台無しだよ」
自分のことは自分がよくわかっている――なんていうのは幻想だと思い知った。そうか、夜早く寝るのに道理で疲れが抜けないわけだ。
彼女の何気ない一言で毒気が抜けると、自然と肩が震える。
ずっと隠していた物の片鱗が、我慢しきれずに顔を出した。
「のわあ! もしかして、肩を震わせるぐらい怒ってるのかな。筋者っていうのは、後ろの黒髪ロングが言ってた言葉だからね。私はなんも悪く無いんだからね!」
「……勝手に人に罪を着せないでよ、このクズ」
「ほら聞いた、今の言葉。あいつ大人しそうな外見の癖に、めっちゃ口悪いからね。私が券売機で小銭漁ってたとき、こいつ何て言ったと思う。こともあろうに、浅ましいって」
そこまで捲し立ててから、ようやく彼女はあたしの様子に不自然さに気づいた。
「……言ったんだけどさ」
尻すぼみの言葉で下らない話を畳むと、あたしの背中を軽く叩いた。
「いや……ごめん。お詫びに美味しいコーヒー奢るから、許してくんない?」
美味しいコーヒーに釣られたのではなく、単に抵抗する気力がなかった。
二人の高等部生に連れられた先は、学食棟だった。各国の料理を取り揃えた食堂と飲食店が並ぶ、5階建て建物。興味はあったものの、一人では入りにくかったので、足を踏み入れたことはなかった。
「ここ、私がアルバイトしてる場所なんだけどさ。時給安いし、場所はわかりにくい。オマケに店内はボロっちいという三重苦」
「アイリ……厨房から師匠めっちゃ見てるけど」
「――を持ちながらも、女学院内でも絶大な人気を誇る、隠れた名店。店内を流れる80'sの洋楽とか落ち着いた雰囲気が、くぅう……堪らないよね!」
アイリと呼ばれた先輩は媚びへつらいながら、チラチラ店内を覗いていた。
店頭に置かれた4脚イーゼルには今日のオススメメニューが書かれ、壁には無骨な鉄文字で『カフェ・ボワソン』と飾られていた。窓にかかる褪せた赤色のカフェカーテンから見える、落ち着いた店内。実にあたし好みの内装だった。
少しペンキが剥げた扉を潜ると、カランカランとベルが鳴る。
1限開始から入り浸る女生徒は少ないようで、店長が頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「悪かったな、ボロで」
「あっれー、店長いたの? 全然知らなかったなー、あはは。この隠れ家的な雰囲気をボロだなんて言う輩がいるんですか? たぶんそれ言ってたの、スピナですよ」
「……師匠、コーヒー下さい。こいつの背中にごちそうしてやります」
一歩距離を置いた場所にいると、店長があたしの存在に気づいた。
「あれ、その子は」
「さすが店長、お目が高い。ふふふ……何を隠そう、彼女こそが"翠の風見鶏"と名高い」
芝居がかった口調で始めたは良いが、紹介はそこで止まった。
「あれ? 貴方、お名前何てーの?」
「あのなあ、お前ら本当に知り合いなのか」
「友達だもん。というかマブだし!」
「名前も知らないなんて呆れた。どうせ、"翠の風見鶏"の友達になれば、自分の名前に箔が付くとでも思ったんでしょ」
「なぜバレた――ッ!」
「クズに箔をつけたところで、箔がついたクズだよ」
「私の親友の辛辣さが留まるところを知らない――ッ!」
「あと奢るとか言ってたけど、どうせ『家に財布置いてきてから、スピナよろしく』で済ます腹積もりでしょ。師匠、今日の会計はアイリに付けといて下さい」
「あいよ」
膝から崩れた親友に構うことなく、スピナと呼ばれた先輩はあたしの手を引いた。
「えっとさ。行こう、リッカ……さんかな?」
「知ってるんですか、あたしの名前」
「ももも、もちろん。有名人だからね」
目つきの悪い年下に目が泳ぎまくっていたが、スピナ先輩の歩み寄ってくれる姿勢が嬉しかった。高等部に来てから、同年代の女生徒と話をしなくなってから久しい。
甘いショートケーキをつつく横で、香り高いコーヒーが湯気をくねらせる。
女子三人でかしましい会話を重ねる――そんなありふれた幸せを噛み締めた。心の底から楽しいという感情を久々に思い出せた気がした。
カフェ・ボワソンのウェイトレス――アイリ先輩。
カフェのマスターを師匠と仰ぐ――スピナ先輩。
新しくできた二人の知り合いは、日々の生活に刺激を与えてくれた。
次第に、第二女子寮で行っていた勉強もカフェ・ボワソンに行う頻度が増した。一杯のコーヒーで粘るあたしを、マスターは邪険にすることなく、陽だまりのような温かさで見守ってくれた。
安息の地で啜るコーヒーに勝る味は、この学院中のどこを探したってありはしない。感情はときに乱高下して落ち着きを無くすこともあるが、大丈夫だ。あたしは大丈夫だ。
呪文は、魔法のコーヒーとともに喉の奥へと流れ落ちていった。
金髪碧眼のウェイトレス = アイリ先輩




